4.
言葉は適当()なので、さらっと流してやってください。
どう考えても時代錯誤な服装に、聞いた事もない言葉。日本ではないどこかどころか、過去にでもタイムスリップしてしまったのかもしれない。
そんな疑問で溢れかえってしまいそうになったけれど、私は持ち前の火事場の冷静さでなんとか思考を立ち直した。
今はそんなことに悩んでいる暇はないのである。とにかくコミュニケーションを成り立たせなければならない。
「◆△、×■◎%?」
口を閉ざし続ける私に対して、音の響きが違うような気がするから、別の質問に変えたのだと思う。
たぶん、出会いの流れからして大丈夫かどうかとか、名前とか。とにかく後ろ上がりの声からしてもおそらく質問をされているのだとは察せられるのに、どこが区切りなのかすらわからない。完全にお手上げだった。
せめてもの救いが、言語の特徴かもしれないけれど、男の声色が優し気なものであった事だ。これが激しい発音の物であったなら、早々に私はビビり散らかしていただろう。
「……◆△、×■◎%?」
必殺、曖昧に誤魔化してどうにかお茶を濁す。を発動してしまいそうになったが、そうは言っていられないことくらい、おっとりとしていると祖母に評価された私でもさすがに察せられた。
声が出ない。というのはどうやって伝えようか。
ジェスチャーも地域などによって変わると聞くし、下手に気分を害する事はしたくない。でも、黙ったままでいるのが一番駄目なことはわかっていた。
こちらを気遣ってくれているのだろう。黙って見守ってくれているのが有難く、思考をフル回転させて私が取った行動は、自身の口元を指差し、ぱくぱくと、音の出ない口を動かすことだった。
これで伝わっただろうか。念押しとばかりに困ったように眉を下げてみれば、はっとしたように男が目を見開き、そのまま立ち上がったものだから私は驚いた。
まさか、怒らせてしまうような動作だったのだろうか。男の動きに驚いたのか、寝そべっていた狼も警戒したように立ち上がった。
それを気にする事なく、というか、気にする余裕がないのかもしれない。先程とは違って狼の動きには目もくれず、男が私の方へと手を伸ばしてきたことに、一瞬迷ってから、受け入れた。
何故かと言うと、彼の表情が、まるで医者が診察をしているかのように真剣なものだったからだ。
「△×、■◎%?」
そっと頬に手を宛がわれたかと思えば、喉元をじっくりと眺められる。もちろん、傷跡一つない。
足に巻かれた包帯の手慣れた感じからして、お医者さんなのだろうか。と当たりをつけた。
「……●%&」
何か一人納得したように呟いた彼が、ほっとした様子を見せた事から、森の中で確認した通り何もなかったのであろう事を私は察した。とは言っても、それだと何もなかったのに声が出ないということになってしまうから、素直に喜んで良いものかと若干悩んでしまったけれど。
なんて事を私が呑気に考えていれば、ガウッっと、俺の存在を忘れていないか! と主張するように狼が控えめに吠えたのをきっかけに、ぱっと男が身を離した。
慌てて一歩二歩下がって両手を上げている男の姿から察するに、さっきも肩をビクつかせていたくらいだから、やっぱり狼の存在が怖いのだと思った。
何せ、この大きさだ。人懐っこいからか、それとも規格外の大きさに現実味が薄いのか。もしかしたら、慣れて感覚が麻痺したのかもしれない。不思議と私はこの狼を怖いとは思わなかったけれど、普通ならば、同じ部屋にいるのも恐ろしく感じるであろう大きさだった。
構って、と言わんばかりに私の隣に座り直した狼の頭を撫でてやっていれば、
「×■&&、◎%?」
これならどうかとばかりに、机についていた引き出しの中から彼が紙と羽ペンを持ち出してきた。それを手渡されて、何の疑問も持たず受け取ってしまった私は自分のうっかり具合に頭を抱えたくなった。
声が出ないのが伝わったのは良いけれど、言葉すら伝わっていないことまで伝わっていなかった。というか、人生で羽ペンなんて使ったことがなかったから、渡されてもどう書けば良いかわからない。
とりあえず受け取ってしまってから、どうぞと言わんばかりに差し出されたインク壺を前に首を傾げてみれば、書き出さない私を不思議そうに見つめていた彼がああ、という顔をした。
どうやら羽ペンが使えないのが伝わってくれたらしい。そう思ったのだけど、私から受け取った紙を机の方に持って行ったかと思えば、男がすらすらと何か書き始めた。
「◇%●〇?」
そうして手渡されたのは、規則正しく並んでいるから、あいうえお表のようなものなのだろう。
文字と思わしき記号を、と私が表現していることから察せられた通り、日本語でもなければ英語でもなく、漢字はおろか、話せなくとも何となくこの言葉だろうな~と察することができるような言葉ですらなかった事から、私の中の驚きが本格的なものに変わってしまっていた。
専門家でもない現代人が、到底お目にかからない古代語的なアレなのかもしれない。
やっぱり過去に来てしまったのだ。私の中に在った疑問が段々答えを模っていく中、男も私の手の中にある紙を覗き込んできた。
「◇%●〇?」
ゆっくりと同じ言葉を繰り返しながら、おそらくその音を担っている文字を一つ一つ指差してくれているのだとは理解できるのだけど、未知の言語がわかる筈もなく、私は眉を下げて首を傾げる事しかできなかった。
幸いなのはある程度の身振り手振りが通じたことなのだけど、男の視点に立ってみると、窓から見た景色から推測するに、人里離れた食料の少ない場所で、見ず知らずの言葉の通じない人間を拾ったことになる。
私と同じく考えを巡らせているのであろう彼を前に、そこから考えられたのは、このまま放り出されてしまったらどうしよう、という事だった。
行く当てもない。ここが何処かもはっきりわからない。男の慣れた動きからしてこの文字が定着していることが伺えたから、本当に全くわからない場所に私はいるのだ。
でも言葉が通じない今未知の場所で自分が何をできるかもわからないから、無償で保護をしてほしい。というのも無理な話であろうことも理解していた。
そんな私の不安を感じ取ったのか、大人しくお座りしていた狼が、自分が付いているとばかりに私の太腿に鼻先を押し付けてきたことに、少し癒された。
本当に何故こんなにも懐いてくれているのかわからないけれど、ついてきてくれるのかもしれない。一人で放り出されてしまったら、一日も持たないだろう。人でなくとも誰か一緒にいる方が心強いし、そうだったら良いな。と私は思った。
そんなことを考えながら男の方へと視線を向けてみれば、あ、というように彼が先程入ってきた扉の方を見てから、ほっとしたような空気を纏った。
それに裏がない事を祈りたいのだけれど、手を差し伸べられて戸惑った。手を差し伸べられたということは立ち上がるという事で、すなわちどこかに案内しようとしているのだと察せられる。
こんなことを思ってしまうのはいけないとはわかっているのだけれど、やっと手に入れた安息の地を失いたくないと思う。そんな気持ちが咄嗟に出てしまった所為で、差し出された手を掴むのが遅れてしまった。
それをなんと、彼は私が足に痛みを感じているからだと勘違いしてしまったらしい。
はっとしたように床についていた私の足を見た彼が、しまった。と言わんばかりの表情を浮かべたから、一体何が起こったのかと私は首を傾げたのだけれど、止める間もなく彼が私の足元に膝をつき、足の方に目を向けた事によって察せられた。
そのまま私の足を手に取ろうとしてから、声のために私の首元を見た時とは違って今度は思い止まったらしい。良い? とばかりにこちらを見上げてくるから、手当てしてもらった以上、頷きを返した。
まるで壊れ物を扱うような手付きで、包帯が外されていく。
痛みは感じないのだけれど、包帯が巻かれているくらいなのだ。私の足はどうなっているのだろうかと興味津々で眺めていれば、殆どが小さな擦り傷で、あったとしてもちょっとした血が出ているかもしれない。といったくらいのものだったから拍子抜けした。
大人になってしまうと早々怪我を負うことが無くなってしまうけれど、遊び盛りの頃に頻繁につくっていた程度のものだった。強いて言うならば、子どもの頃とは違って再生能力が衰えているだろうから、痕が残るだろうな。と思う程度なのだけど、彼にとっては違うらしい。
隣にあったサイドチェストから何やら取り出したかと思えば、塗り薬のようだ。すっとした香りのそれを、一度悪いものではないとでも言うように自身の甲に塗って見せてくれた後で、私の傷に塗ってまた両足とも丁寧に包帯を巻き直してくれたものだから、至れり尽くせりに有難さを越えて申し訳なさすら感じてしまった。
足の治療が終わって男が立ち上がった。
塗り薬を元の場所に戻し、どこかへ行くのだろうか。そのまま背を向けた彼の後ろに続こうと私が立ち上がれば、良いから! と言わんばかりに慌ててベッドへと逆戻りさせられてしまった。
「&%●〇」
大人しくベッドに戻った私を見た男が満足気に頷き、ここにいて。と言っていたのかもしれない。この部屋を指差した状態で手を動かした。
文句を言える立場ではない。こくりと頷けば、ほっとしたように男は部屋を出て行った。
かくいう私は手持ち無沙汰になってしまって、ぱた、ぱた、とゆっくり左右に振る狼の尻尾の音をBGMにして、ずっと手に持っていた紙に目を落とした。
……やっぱりわからない。
文字を解読できるかな~、なんて調子に乗った事を考えてみたけれど、さっぱりわからない。カクカクしているかと思えば、ぐにゃりと曲がったり、丸があったり、三角だったり。一つ一つの文字が分離してはいるけれど、法則性が全く感じられないものだった。
たぶんこれは、一つ一つ覚えていくしかないのだろう。
文字が読めると読めないには、これから先の未来に雲泥の差がある。意味がわからなくとも、形だけ覚えているだけでも良いに違いなかった。
手元にこれがある間に覚えなければならない。そう私は決意して、紙との睨めっこを始めた。