2.
………ここはどこ? が私の心の中での第一声だった。
見知らぬ景色に囲まれていることに頭の中が混乱しているのが自分でもわかる。
ぽかん、と。あまりに予想外な出来事に直面してしまったからか、ぼうっと暫くの間周囲を眺めてしまった後、はっと私は意識を取り戻した。
覚えているのは玄関を一歩出たところまでで、それ以降の記憶が一切なかった。都会の住宅街とはとてもじゃないが思えない緑あふれた光景は、地元の既視感すら感じられない程に豊かなものだった。
木を背に座り込んでいることによってお尻の下に感じる柔らかな葉の感触。澄んだ空気に、あたたかな木漏れ日の中で朝露を溢す草木。人の気配を一切感じさせないここは、祖母と暮らしていた場所よりも広大な、まるで物語の中の世界のようだった。
そんな中で私をより一層混乱させる要因となっているのが、夜に外へと出た筈が、世界が真昼のように明るいことだった。光を求めて手を伸ばし合っている木々の所為で太陽は目に見えなかったけれど、差し込む光の存在によって昼間であることが容易に想像できていた。
咄嗟に思い浮かんだのは『誘拐』という二文字。でも社畜であれど恨みを買った覚えはなかったし、縛られもせずに森の中に放置されるという状況と結び付けられなかった。
なら夢遊病とでもいうものなのだろうか。と首を捻ろうにも、不用心なことに私は財布も持たずに散歩に出かけたのだ。都会の中から一晩歩いて深い森とも言える場所に移動できるとは思えない。
ならやっぱり誘拐されたのではないだろうか……。と深みに嵌りかけた思考を遮るために私は頭を振った。
自覚のある癖の一つで、下手に考え事をしてしまうとそれに没頭してしまうという欠点があった。良く言えば集中力があるということになるのだけど、幸い自覚できていたおかげで、こうやって途中で切り抜けることができていた。
今考えなければならないのはどうしてここにいるのか。ではなくて、どうやって家に帰るか。という事だろう。
とりあえず、少しの間の散歩なのだからと思って携帯端末をベッドの上に置いて外に出た事はしっかりと覚えていた。
だから文明の機器を使って助けを求められないし、ここがどこかもわからない以上誰かが探しに来てくれるとは思えない。そもそも観光地やキャンプ場のような森である事を祈るばかりだが、そうでなければ人と出会う事は難しくなるだろう。
でもまぁ、日付が変わってしまった今日もいつも通り仕事が入っているから、私が出社していないことに気が付いた同僚が通報してくれ、くれ……いや、あまりにも過酷な労働環境の所為で誰かが突然ぱったりと来なくなったり、体調を崩して休む人が普通にいたから、数日は気が付いてもらえないかもしれない。
そう考えると、やっぱり助けを待ち続けるのは悪手に思えた。
とにかく座り込んでいては何も始まらないと立ち上がろうとして、足の裏に感じ取った生々しい草木の感触にバッと足元へと私は視線を向けた。
「……、⁉」
当たり前の事なのだけど、家を出る前に靴を履いた筈なのに。目に見えたのは素足だった。
こんな、道路でも危ないというに、森の中で素足だなんて。履いていた筈の靴は何処にいったのだろうか。辺りを見渡しても見つからず、途方に暮れるしかない。
それだけならどれだけ良かった事か。
「……、!」
驚いた時に思わず声を上げてしまったと思ったのに、口から漏れたのは音を伴わないただの空気だったのだ。
これまでは森の中にいるのだから、獣か何かを呼び寄せてしまっては駄目だと声を出さないようにしていたのだけど、そうは言っていられない状況になってしまった。
深く息を吸って、叫ぶくらいの勢いで腹から声を出そうとしてみたけれど変わらず。何度も声を出そうと試したけれど、ぱくぱくと無意味に動かすだけに終わってしまって私は口元を手で押さえた。
どうしてこんなことに。自分の身に起きた現象がわからなくて、不安になった。
見ず知らずの場所一人。声も出せなくなった心当たりもない。首元に手をやったけれど傷跡なんてものはないし、ストレスとか精神的な理由で声が出なくなるという話を聞いたことがあったけれど、なんだかんだ社畜として生き残れていたあたり、自分自身のことをそれなりに図太い神経の持ち主だと思っていたから、本当に全く心当たりがないのだ。
運良く人を見つけても気が付いてもらえないかもしれないし、何かあったとしても声を出して助けを呼べないのは致命的と言って良い事だった。
どうしよう。とまた頭が真っ白になってしまいそうになったけれど、よくよく考えると、動けないとかそういった問題ではなく、自分で動けるだけよっぽどマシだと思い直すことにした。
くよくよし続けたって何も変わらないのだ。ぐ、と拳を握って落ち込みかけていた気持ちを奮い立たせた。
そうしていざこの森から脱出しようと私が立ち上がった瞬間──ガサガサ、と。風で動いたにしては不自然な音を背後に耳が拾ったことによって、先程までとは一転。緊張に包まれた。
「……っ、」
小さく息を呑み込む。見たくないけれど、見なければならない。大抵こう言ったときは碌でもない事が待ち受けているというのがお決まりだった。
ガサガサごそごそ。まるで何かを探しているかのように草木を掻き分ける音の方へとゆっくり首を動かせば、案の定、揺れる茂みが見て取れた。
そこから目を離さないようにして、ゆっくりゆっくりと音を立てないように後退った。つもりだった。
──パキリ。
足の裏に硬い物を感じ取ったかと思えば、どうやら落ちていた小枝を踏んでしまったらしい。べたべたなシチュエーション。嫌なくらいに乾いた音が響いたことに、私は息を呑んだ。
音を聞きつけたのだろう。間もなくして私の目の前に現れたのは──一匹の大きな狼だった。
画面越しであったならば惚れ惚れとするような灰色の毛並みをした狼は、ひょっこりと茂みの中から顔を突き出して、じっと私を見てくる。
もしかして、餌だと狙いを定められてしまったのだろうか。としか考えられない。最悪の可能性に冷や汗が伝って、心臓がバクバクと動き始めたのがわかった。
微動だにせず狼は私を見つめ続けている。このまま食べられてしまうのだろうか。でも、狼と真正面から出くわしてしまった時の対処法など知っているはずもない。
死んだフリをする? 木に登って逃げるとか。いや、丈夫な枝がたくさんある立派な木が運良く近場にあったらなまだしも、木と言われて最初に思い浮かぶような木を、狼に襲われるよりも早く登れるなんて到底思えない。
なら、背を向けて思いっきり走って逃走を図るしか選択肢はないのかもしれない。
その走り出すタイミングをどうにか見極めようと、じりじりと後退りしながら後退し始めたのは良かったのだけれど、一歩分も動くことが出来ずに背が木に当たって私は涙目になった。
そうだった。うっかり忘れていたけれど、座っていた時に背にしていた木が真後ろにあったのだ。
望まぬ一人コントを私がしてしまっている間に、茂みの中からそろりと全身を覗かせた狼を前に、絶体絶命の文字が脳裏に思い浮かぶ。
こんなところで一人死んでしまうのだろうか。今更逃げられるとも考えられない。一歩狼が足を踏み出したのをきっかけに、いっそ一思いにやってほしいと目を瞑って──瞑って……いつまで待っても何もない。
もしかして、見逃してくれた?
おそるおそる、閉じていた目を開けてみる。すると、いつの間にか私の目の前にお行儀よくお座りした狼が、こちらを見上げながら尻尾を勢い良く左右に揺らしていた。
「………?」
見間違えかと思ったけれど、目を擦ってから見直してみても変わらない。
そうして疑い深く暫しの間見つめ合ったけれど、相変わらず狼はふりふりと尻尾を振り続けるばかりで、私に襲い掛かるような気配は感じられない。それどころか、ハッハッと口を開けて息をしている表情が笑顔を浮かべているようにすら見えて、状況がまだ上手く飲み込めていなかった私はぱちぱちと瞬きした。
四足歩行で私の腰元くらいの大きさがあったのだから、立ち上がれば私の身長を余裕で追い越していることは余裕で察せられた。そうして見た目は立派な狼だというのに人懐っこい大型犬のように見えたから、つい、動物好きの私の心が疼いてしまって、無意識に狼の方へと手を伸ばしてしまいそうになっていた。
「……!」
かろうじて手が届く前に私はハッと我に返った。もふもふの誘惑が強く、頭を振って己に忠実な欲を振り払った。
いくら人懐っこく見えようとも相手は野生動物なのだ。油断させてガブリという可能性がないとは言い切れない。
空中で中途半端に留まっていた手を元に戻そうとすれば、ごろり。まるで私の心の中を読んだかのように、今度は腹を見せるようにして──あら、男の子。なんて呑気な私が目ざとく観察してしまった間も、寝転がった狼がきらきらとした目でこちらを見上げてくるものだから、私が誘惑に勝てるはずもなく。
気が付けば、わふわふと私は狼を撫でまわしていた。
「……、! ……!」
す、すごい。手がふわふわの毛に埋まる。柔らかな感触に私はうっとりとしてしまった。心なしか緊張して強張っていた力も抜けたような気がする。
あり得る筈のない出会いを前に、そのままずるずると、溶けるようにして狼の首元に私は顔を埋めた。
たまたま出会った狼がこんなにも人懐っこいだなんて、見知らぬ場所と言い、これまで自覚のない夢だったのではないだろうか。と思う。
実際の私は部屋のベッドで眠っていて、ここは夢なのだ。なんて、現実逃避の一種だったのだろう。
社畜としての蓄積された疲労に、先程までのストレスがトドメとなり、抗いがたい眠気に誘われるようにして──次に目を覚ました時、寝坊していなければ良いな。そんな事を願いながら、不用心にも私は目を閉じた。