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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
Return Match 〜第二次太平洋戦争〜
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Phase 3-ZERO 閑話休題もしくは補習授業 其の参 <日清・日露戦争>

 日本人の奇襲癖は、先祖伝来のものである。

 

 日本の歴史上に名を残している武将の多くは、奇襲攻撃によって歴史に名を残し、自らの活路を切り開いている。

 

 確かに戦争において最も効果的な攻撃手段の一つが奇襲であり、世界史レベルでの英雄の幾人かも同様の攻撃方法により歴史にその名を残しているが、日本にとっての近代戦争である日清戦争、日露戦争においてもそれは変わりなかった。

 

 もちろん、諸外国においても宣戦布告前の奇襲攻撃を行う事はあったが、なし崩し的に戦線を拡大するのは満州事変の例を見るまでもなく、これも日本人の性癖と見るべきだろう。

 

 これは、アメリカを始め多くの国が事実上の卑怯なだまし討ちとしている、第一次太平洋戦争での東シナ海海戦においても適用される、とされる。

 

 もちろん、第二次太平洋戦争も例外ではない。

 

 では、近代日本最大規模の奇襲攻撃を見ていく前に、一度日本の近代戦争について見ておこう。

 


 日清戦争は、1894年(明治27)7月から1895年4月に行われた戦争で、李氏朝鮮(韓国)をめぐる日本と清(中国)の地域覇権国家としての地位をかけた戦争と定義できる。

 なお、清または中華民国では甲午中日戦争と呼ぶ。

 

 日本側の戦費総額は2億5000万円、兵力動員は24万人、戦傷者1万3000人、期間11ヶ月であった。

 

 このデータだけを見ると、列強最弱と言える日本の当時の国力だけが見えてくるが、ここでの奇襲的攻撃は戦略レベルでの奇襲となり、1895年3月に遼東半島全域制圧後、戦費に不安を感じていた日本政府が、清帝国政府内部での不協和音を停戦に傾かせる為、黄海での制海権を確立したのを利用して、一気に2個旅団を天津に送り込み、事後軍団規模の部隊を上陸させ、一気に天津を無血開城同然で攻略後、北京に向けて進軍、これを包囲下に置いて清帝国政府に事実上の降伏勧告をかける事で終息を迎える。

 

 そして、北京包囲とほぼ時を同じくして始まった下関での講和会議で清帝国は、首都包囲という戦略的・政略的失点を前に苦しい講和条件を結ばざるを得なくなり、一時的な清帝国内の反日気運を作り上げる事にもなる。

 

 なお、1895年5月からの下関講和会議では、伊藤博文と李鴻章との間に下関条約が結ばれ、講和した。

 その主な内容は以下のようであった。

 


 *清が朝鮮の独立を認める

 *遼東半島、台湾、澎湖島の日本への割譲

 *賠償金4億両を日本に支払う

 *新たに重慶ほか4つの港をひらく



 このうち、遼東半島については、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉により日本は放棄することとなり、「臥薪嘗胆」のスローガンのもと反露機運が急速に高まり、日露戦争の最大の呼び水となる。

 だが、遼東半島と引換に得た3000万両の追加賠償金の方が、この時の日本にとっては益が大きかったのではないかという説も存在する。

 


 そしてこれ以後10年の間、日本は往年のソヴィエト連邦も真っ青となる程の軍備拡張と重工業の建設に国家予算を投入し、対露戦備の充実を図るようになる。

 

 これを可能としたのは、清帝国から賠償として得た4億両、7億円余もの賠償金であり、当時の日本の国家予算の約3.5倍の予算の80%が軍備に投資され、これを原動力にして貧乏国家とは思えない程の軍備が1904年には姿を現す。

 

 箇条書きで列挙すれば、伝説を作り上げた海軍の「六六艦隊」とされる、戦艦、装甲巡洋艦6隻を基幹戦力とした、極めて完成された近海型迎撃海軍の建設、7個から13個と倍増された陸軍師団、日清戦争での弾薬不足の戦訓により大幅拡張された大阪砲兵工廠の存在と、そこで生産、備蓄された大量の砲弾などとなるだろう。

 


 そして、日本の戦争を始める準備が頂点に達し、戦争を終わらせるための準備がようやく緒についた時、1904年2月8日、日本軍による奇襲攻撃で日露戦争が開戦する。

 

 日露戦争の概略経過は、期間19ヶ月、戦費20億円、総兵力109万人、戦傷者38万人に達しており、日本側の陸海両軍による奇襲攻撃に始まり、「旅順攻囲戦」、「遼陽会戦」、「奉天包囲戦」、「ハルピン会戦」、「日本海海戦」などの結果、日本側の優勢が確定。

 一方ロシア側は相次ぐ緒戦の敗北及び、それを含めた帝政に対する民衆の不満(血の日曜日事件)による政情不安を抱え、米国の仲介の下、1905年10月に締結されたポーツマス条約により正式に終戦を迎えるという流れになる。

 

 そして、ここでの日本の努力の多くは開戦初期の戦力の集中と在極東ロシア軍の撃破に注がれていた。

 

 これは日本不利の戦時国債を売るという、弱小国としての悲哀を見せる戦略も存在したが、ロシア全軍がヨーロッパから押し寄せる前に、その前衛戦力である極東軍だけでも撃破しておかねば、日本の敗北は確定したも同然だったからだ。

 

 そして、もし敗北していたなら日本は、東欧、北欧もしくは中東各国のような、半植民地もしくは属国状態に置かれると誰もが見ており、この点から日露戦争を真の独立戦争と呼ぶ史家もいる。

 


 なお、日露戦争の戦術的展開は、日本側から見たならまさに軍記物語のようであり、それだけにギャンブル性の高い作戦に満ちあふれていた。

 

 これを後の戦史家が、戦争そのものの勝率は1%もなかったと語った言葉が有名だろう。

 

 明治日本は、まさに奇蹟を現出させたのだ。

 

 では、その奇蹟の一端を順を追って見ていこう。

 


 1904年2月に日本海軍による旅順港を奇襲攻撃で開戦を迎え、以後日本海軍による旅順封鎖が実施されるが、これが効果がないと分かると日本軍はすぐさま戦略の一部変更を行い、開戦直前に英国やその他日本に好意的な中立国から貸与もしくは購入した大量の輸送船舶を使い、遼東半島に日本軍の陸軍部隊を続々と投入、一方朝鮮半島側からも黒木将軍麾下の精鋭1個軍団が進撃し、8月末にほぼ同時に「遼陽会戦」と「第一次旅順総攻撃」が行われる。

 

 そして、どちらも劇的な戦闘となった。

 

 「遼陽会戦」では、比較的豊富な砲弾により平野部の日本軍主力が押している間に、成功率20%と言われた迂回突破を実現した黒木第一軍(1個軍団)により半包囲されたロシア軍が雪崩を打って後退を開始、以後後退から撤退、潰走となったロシア軍を追う日本軍による砲兵を主とした追撃が続き、ここで許容範囲を超える損害を受けたロシア軍は一気に奉天まで後退、1ヶ月後には同地域での対陣を迎える。

 

 一方それまでの前哨陣地の攻防戦と、8月の日本軍による大規模威力偵察による戦闘を経た後の日本軍による攻撃は、ロシア軍の意表を突き、1ヶ月の準備期間をかけて行われた要塞北西にあり湾を見下ろせる位置にある通称「203高地」が丸裸同然だったのを利用して一気に攻略し、ここに砲兵観測所を設ける。

 

 そして、両戦線での優位を獲得した日本軍は、実に日本人らしい勢いのままロシア軍に対する突進を続け、11月には奉天での大会戦を迎える。

 

 この時日本軍は17万人に対するロシア軍は20万人と、防衛側が優勢な状態にも関わらず強引な突進を行い、大きな犠牲の後ロシア軍司令部の誤断による戦線崩壊でロシア極東軍主力の3分の1が日本軍に包囲され、結果として参加兵力の半数以上を失う大敗を喫し、この責任をとって当時の満州軍総司令官だったアレクセイ・ニコラエビッチ・クロパトキン大将は罷免され、変わって第1軍司令官だったリネウィッチ大将が極東ロシア軍の指揮を取るようになる。

 

 そして、戦線が一度崩壊したロシア軍は、這々の体で満州最大の拠点であるハルピンまでの後退を余儀なくされ、冬営の間に本国からの増援を受けつつ軍の建て直しを図り、本来の戦略、ロシア伝統の戦略である本格的反撃の準備に入る。

 

 同じく日本軍も、ハルピンまでの長距離補給態勢を維持できないため、前面での進撃停止を余儀なくされ、両者の暗黙の了解のもと戦線は停滞を迎える。

 


 そして、その同じ月ロシア軍に悲報が舞い込む。

 

 「旅順陥落」だ。

 

 旅順要塞は日本軍の用心深いとしか言えない7月の連隊規模での大規模威力偵察、8月末からの奇襲的な「203高地」奪取と、そこから観測する陸海の重砲群による旅順軍港内砲撃という流れで、ロシア人の予想を遙かに超える形で戦況が悪化し、これを覆すべく10月に入るとロシア軍側の大規模な反撃が、攻守を逆転して日本軍が野戦要塞化した「203高地」に対して行われる。

 

 ここで日本軍は、自軍の損害すら考慮にしなかったとされる重砲と新兵器機関銃による弾幕射撃を実施し、高地目指して突撃してくるロシア軍を粉砕、ここでロシア軍は防衛の要だったコンドラチェンコ少将麾下の1個師団が壊滅、たった一度で5000名以上の死傷者を出し、実質的な要塞防衛指揮官の戦死も重なって、以後旅順のロシア軍の活動は、旅順市内に落下する日本軍の砲弾の数だけ低下するという様相を示し、司令官のステッセル中将麾下の旅順要塞軍は、砲弾、将兵が十分あったにもかかわらず降伏するという結末を迎える。

 

 なお、旅順攻略を担当した奥将軍麾下の日本第二軍だが、兵団の実質的指揮権を持つ軍参謀長が工兵出身だった事が、要塞攻略に大きな影響を与えたと言われている。

 


 その後戦闘は、満州が本格的な冬を迎えた事で停滞するが、翌年2月末より最後の大会戦の時を迎える。

 

 ハルピン北西に布陣した日露両軍は、日本軍27万、ロシア軍31万人と比較的両者は拮抗しており、それ故激しい戦闘になった。

 

 戦闘開始当初は、当然ではあるが日本軍がごり押しをする形になり、その後日本側の戦略に従い鶴翼に展開した左右の軍団がロシア軍を翻弄すべく攻撃を行うが、新司令官リネウィッチ大将は日本軍の戦術に大きく乗る事なく半包囲されつつも防戦につとめ、戦闘中盤にロシア軍の予定通り反撃を開始する。

 

 ただし、反撃に転じたロシア軍だったが勝手が違い、塹壕線を中心とした簡素な野戦陣地しかない筈の日本軍陣地は、その過半が多数の機関銃により強固に防衛されており、しかも日本軍中心部は野戦城塞のような防御力を持ち、なぜか攻城砲級の重榴弾砲が彼らの頭上に降り注ぐような戦闘が展開され、いったいどちらが陣地固守を目的としていたのか分からないとすら言われた戦闘が各所で展開される。

 特に、日本軍中央部の重砲部隊は強力で、ロシア軍を圧倒する程の砲火を突撃するロシア兵に浴びせかけていた。

 

 そして、度重なる突撃による損害に耐えかねたロシア軍の一時的な後退に乗じる形で、日本側が形振り構わない反撃を開始し、騎兵旅団を先鋒とした乃木第三軍による半包囲行動がロシア軍の動揺を誘い、結果としてロシア軍の戦線崩壊、潰走へとつながり、なし崩し的にロシア軍はハルピンからも追い出され、ここに満州での陸戦の決着がつく。

 


 そして、もはや説明の必要すらないであろう「日本海海戦」が5月27日に行われ、前後して行われた日本軍による樺太島とロシア極東のウスリー州に対する形だけの侵攻によりロシア政府の態度も急速に軟化し、アメリカ政府の調停により停戦が実現する。

 

 なお、ロシアが停戦に応じた理由には、相次ぐ緒戦の敗北だけでなく、それを含めた帝政に対する民衆の不満による政情不安があり、ここにロシアの革命勢力や民族勢力を先導した日本軍の活躍を忘れるべきではないだろう。

 

 そして、この戦争は単なる日本とロシアという二つの国家の戦争ではなく、また日本の真の独立戦争でもなく、近代史上初の非白人国家による白人国家への勝利であり、欧米列強の支配下にあった当時のアジア・アフリカ諸国民に独立への希望を与えた点が世界史的に最も価値が高いと言えるだろう。

 


Phase 4-ZERO 閑話休題もしくは補習授業 其の四

       <トラック沖海戦> ▼


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