Phase 1-ZERO 閑話休題もしくは補習授業 其の壱 <第二次世界大戦と日本>
ここでは本論を離れ、第二次世界大戦での日本について少し見直してみたい。
日本帝国は1939年9月、英国がナチスドイツに宣戦布告するとその24時間以内、正確には9時間後、つまり日英の時差と同じ時間の後に、1902年に締結されて以後、改訂を重ねられつつ継続されていた日英同盟に従いドイツに宣戦布告を行う。
開戦当時、ナチスドイツとソヴィエト連邦は不可侵条約を結んでおり、ソ連に対する恐怖、ドイツに対する理不尽な怒りがこの参戦を実現するのに大きな役割を果たし、また欧州への早期兵力派遣を実現したと言っても良いだろう。
また日本は、政府首脳から床屋の親父に至るまで、「露助」の衣替えした姿である「アカ」こと共産主義ソ連を伝統的に敵視しており、その感情をそのまま当時「ソ連の同盟国のように見えた」ナチス・ドイツにぶつけてしまったと表現してもよいかもしれない。
そしてこれは、1939年夏にソ連との間に行われた大規模国境紛争から継続されていた準動員体制の維持と、1934年に行われた第一次太平洋戦争が残した様々な効果によって補強され、開戦から半年後には早くも英本土に日本海軍の大艦隊と1個航空艦隊にも及ぶ大兵力が展開すると言う結果をもたらし、1940年8月にドイツ側が英国に対して仕掛けた英本土の制空権獲得競争で大きな役割を果たした事で、戦争の流れそのものを変えてしまうほどになる。
なお、英国国民にとって「バトル・オブ・ブリテン」での日本海軍主力戦闘機「ゼロ」の活躍は、もはや伝説的と言ってもよいだろう。
以後、日本軍の兵力増強は続き、交代もしくは補充用兵力として本土や満州にプールされた陸軍力、空軍力を除いたその過半の兵力が、欧州へ派遣される事になる。
つまりは、日本軍の早期の兵力展開が、ドイツの侵攻速度を上回るスピードで行われ、これがドイツの戦争計画を根底から覆してしまったのだ。
最も端的な例として北アフリカ・地中海戦線での枢軸国戦線の早期崩壊が挙げられるだろう。
では、欧州での二度目の戦争をねじ曲げてしまった当時の日本とは、一体如何なる姿だったのだろうか?
1940年当時、日本の国力を可能な限り簡単に数値化し箇条書きにすると以下のようになる。
まず最初に戦争遂行に際しての根幹ともある人口だが、日本本土とその周辺地域(含む台湾)で約8,000万人以上が居住し、これに満州国と大韓国が衛星国として存在しており、この二つの衛星国も日本式西欧教育の結果、日本側が資金と装備、教育を行うなら兵力としてかなり期待出来、韓国や満州の能力を半分と見ても、総体として基礎人口数値は1億2000万人程度なる。
当時のドイツが人口約7000万人、英仏本土が共に約4000万人と言えば、この大きさが分かっていただけるだろう。
そしてこの中で特に恐ろしいのは、日本本土人口の過半が日本語を操るほぼ同じ民族、つまり純然たる日本人で構成されている事で、衛星国についても日本式の近代化政策の模倣により国民全般に高い基礎教育が施されているので、潜在的な兵士の質は人種差別が横行するステイツなどよりも高いと言えるだろう。
もちろん銃後の生産力としての価値は言うまでもない。
そして外征用動員兵力を単純にあらわすと400万人、日本国内だけでも300万人が動員可能という数字が見えてくる。
もちろんこれは、陸海空全てを合計した数字になり、外征でなく防衛戦と定義するなら最低でも500万人、最大800万人程度の兵力を揃える事が出来、事実日本は後方に多数の予備兵力を抱える事で、この戦争の人的資源の円滑な供給を実現し、総体として約600万人の動員を実現している。
それ以上の根こそぎ動員を行わなかったのは、日本国内の戦時生産を支えるためだった。
そして安全地帯として維持拡大し続けた近代戦に不可欠な鉱工業生産力だが、鉱業については日本国内では石炭産業以外たいした産業は存在せず、日露戦争後得た樺太島北部から採掘される石油も、日本国内の需要すら満たせないほど貧弱な規模しかなかった。
だが、半植民地である満州には、鉄鉱石、石炭、石油の大鉱山がそれぞれ存在しており当時から稼働中で、また英国との経済的リンクでその資源の多くが海路で利用可能なので問題も小さなモノになる。
しかも、インド洋以東となるとナチスの水面下の飢狼たちと言えど手を出すには遠すぎ、日本は近在の資源を自由に使い、自らの生産力、工業力の拡大だけを図ればよい状況だった。
そして、近代化以後戦争のたびに大幅にその能力を拡大していた日本の工業力は、特に重厚長大産業分野においてここ四半世紀の躍進は凄まじく、造船力に至っては1942年に世界一を達成して年産600万トンを突破し1944年には1000万トンの数字を達成していた(大戦中の合計は約4,000万トン)。
また、鐵鋼生産力も1941年には2000万トンの大台を突破、連合国各国からの受注がピークに達した1944年には3000万トンに達し、ドイツやソ連などの欧州列強を完全に凌駕する勢いを見せていた。
そしてこれがドイツ軍の展開する通商破壊を英国と共同で封殺したのであり、これこそが新興海洋帝国の力の根元だとすら表現できるだろう。
また、新興工業国であるだけに機械工業や精密工業の幾つかの分野の不備も見られたが、これは戦争が始まって後の英国など欧州からの大幅な技術導入によりカバーされ、それでも足りない産業分野は、工業製品、資材など戦略物資などをアメリカ合衆国から大量輸入する事で乗り切っている。
しかし、一部を輸入に頼ったとは言え、その大部分は国産でもまかなわれており、これは1933年以後、満州での全面開発がスタートし、東京オリンピック開催が決まって後の異常な程の生産力拡大態勢を維持したまま戦争に突入できた事が大きく影響している。
これを土木作業の機械化、自動車化の分野で見てみると、満州、北海道の大規模開拓、第一次世界大戦後から始まった日本中の大規模土木事業の計数的拡大が、ブルドーザーなど建設機械の異常な発達・普及を生み、また大規模公共事業の一環として行われた、高速道路網の建設を象徴とする日本中の主要道路の舗装は、日本人にモータリゼーションの萌芽をもたらし、1939年までにドイツをしのぐ自動車生産量を示すまでに至り、この土木機械生産力と自動車生産力が戦中の日本の戦闘装甲車両、自動車両の生産・供給を支えたのであり、各種航空機の安定供給を実現したのだ。
また、大戦中日本と満州の各地に作られた巨大工場は、その設備と効率性により非常に高レベルのコストパフォーマンスを実現しており、戦後も世界中に日本製品をばらまく拠点として機能し、ステイツの産業を大きく圧迫するようにもなる。
もちろん、大戦中に萌芽した生産管理の概念と、日本社会への浸透もこれを助長している。
なお、1930年代から50年代にかけての日本産業は、満州抜きに語ることは出来ず、満州の工業力の過半は日本の為に使用されていた点を忘れてはならないだろう。
そして、列強5指、最終的には2位に入るほど巨大化した日本の工業力により強化、増強された日本軍は、1944年には戦時動員により肥大化というレベルに達し、ワルシャワ市東方でソ連軍との対面を果たした時、実に巨大な戦力が展開する事になっていた。
概略だが詳細を見ておこう。
まずは第二次世界大戦後半最も役割が低かったと言われた海軍だが、直接欧州方面にある兵力はかなり少なく、1945年春には日本本土からハンブルグに至る範囲に広く分散しており、特に海上護衛を旨とする巨大な戦力は、駅馬車を守る騎兵隊のごとく各地に展開していた。
また、終戦当時地中海方面での作戦が始動直前だった事もあり、それまで英本土近海にたむろしていた水上打撃艦隊、空母機動部隊、両用戦部隊など第一線戦力の多くが地中海に移動してもいた。
もちろん、日本本土近辺に主力艦艇はほとんど存在していなかった。
次に空軍力だが、当時日本は独立軍種としての空軍を持たず、陸海軍が共に航空隊という形で戦力を保持していた。
そして、海軍の基地航空隊が対潜作戦部隊と戦略空軍を保持し、陸軍が戦術空軍、防空軍としての機能を分担して、陸海合計6個戦術航空師団、2個戦略爆撃師団を構成する、総数7,000機の作戦機(中小型機4,500、重爆1,500、その他1,000、空母艦載機部隊と対潜部隊を除く)と100万人の空軍要員を派遣し、総合的に連合国空軍戦力の約半分の戦力を構成していた。
(当然、残り半数の主力は英連邦になる。
)
なお、日本本土近辺には、純然たる教育部隊を除くと本土に2個、満州に2個の戦術航空艦隊が展開しており、表向きは欧州への補充兵力とされ、実際に兵士達はローテーションを組んで満州と本土を行き来していたが、明らかにソ連を指向する兵力配置と見て取れる。
そして最後に日本陸軍だが、最終的に160万人の陸軍軍人、軍属がスエズ運河より西に足を運び、さらに40万人の衛星国軍がこれに加わる事になる。
そしてこれら合計による兵力量は、師団など分かりやすい兵力に換算すると、(近衛)機甲師団:3、機甲師団:7、機械化歩兵師団:9、(自動車化歩兵)師団:8、山岳師団:1、空挺師団:4、海軍陸戦師団:3、機甲旅団:3、砲兵旅団:10という数字になり、ギリシャやイタリア戦区で次の作戦に備えていた2個軍団(8個師団相当)を除く過半の兵力がドイツ、東欧地域に振り向けられ、さらに日本側は解放(占領)地域の治安維持のため大量の憲兵組織もしくは占領活動用の部隊として10個師団の後方警備用の二線級師団を送り込み、主に東欧の開放任務とドイツでの円滑な占領業務を行うことになる。
特に後方警備兵力の多くは、1944年後半から多数送られており、ここに日本政府の戦後を見据えた動きを見る事ができる。
実際、連合国軍がドイツ領に侵攻してから、後方警備師団の活動は活発化し、ドイツ主要地域の占領に多大な効果を発揮している。
なお、これに衛星国・同盟国が各種12個師団相当の陸上兵力を派兵し、側面を固めていた。
そしてそれらにより日本遣欧総軍(日本欧州軍集団・ドイツ北部担当)の全てと英第6軍集団(ドイツ南部担当)と英第15軍集団(地中海方面)の半数を構成している。
ちなみにこの戦争で英国は、連邦地域(インド、マレー除く)を含めて約50個師団の兵力を動員しており、これに連合国各国合計でさらに10個師団程度が加わるので、陸上兵力の45%程度が日本などアジア圏の部隊で占められていた事になる。
もっとも、これが日本陸軍の全力ではなく、日本本土にあった純然たる留守師団である戦時急造師団を除く第一線師団の多くが日本本土と満州地域にあり、こちらも空軍戦力同様欧州への補充用として説明されていたが、日本本土の北海道、樺太、そして満州にその部隊の過半が展開しており、ソ連に対するブラフであった事は疑いないだろう。
なお、日本本土の戦闘師団の数は自動車化歩兵師団が過半ながら約15個師団が存在すると見られており、兵站さえ整えばすぐにも欧州に派遣可能で、この兵力の70%を送り込んでいれば、イタリア本土上陸も可能だったのではと言われている。
ちなみに、以下が1945年春の時点での日本陸軍の総兵力となる。
(近衛)機甲師団:3(3)
機甲師団:8(7)
(機械化歩兵)甲師団:10(9)
(自動車化歩兵)乙師団:20(8)
(半自動車化歩兵)丙師団:23(10)
山岳師団:2(1)
空挺師団:4(4)
海軍陸戦師団:3(3)
機甲旅団:4(3)
砲兵旅団:14(10)
( )内は欧州派遣分
Phase 2-ZERO 閑話休題もしくは補習授業 其の弐
<とある造船技官の回想> ▼




