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Phase 2-2:ホワイトスター・ブラッククロス

 第二次欧州大戦後の対立は、不思議な事に日本と欧米ではなく、ドイツ率いる欧州帝国と英米率いる大西洋国家連合(アングロ同盟)の対立となっていた。

 

 日本率いる大東亜共栄圏は、日本の物理的な力よりも人種問題を前面に押し立てた大東亜共栄圏という存在が、政治的な要素から植民地を多く抱えるフランスなどが属する欧州、英国が主体の一つである大西洋国家連合にとって『禁忌』であり、日本人たちが必要以上に出しゃばらなければ見て見ない振りをしていたと言えると思う。

 

 そして、大国との全面対決など全く望んでいない日本帝国もそのことを十分理解しており、植民地問題とドイツ・アメリカ両国内の人種問題に関するカードを握りつつも、勢力圏の経営と必要十分な軍備の整備以外は欧米を意図的に無視していた。

 

 余談かもしれないが一応言っておくと、日米の間でこの頃から再び言われるようになっていた貿易摩擦については、全くの別問題なのでその点誤解なきよう願いたい。

 


 1944年の欧州大戦終結から10年も経過すると、その国際政治の枠組みも変化をもたらすようになっていた。

 

 欧州をようやく経済的にも完全に掌握したドイツ第三帝国が、欧州経済の存続のために勢力圏の拡大を本格的に始めたからだ。

 ドイツは欧州の過半を抱えた事で、自らの「生存圏」だけでなく欧州全ての「生存圏」の面倒も見なくてはならなかったのだ。

 

 これは、中華動乱がその最初の具体的な動きとされたが、こちらでは結局大きな市場を得ることができなかった事から、ドイツの後ろに回された短剣を握った左手は、陰謀の数々を世界中で繰り広げる事となる。

 

 最も代表的なのが、英米と日本にくさびを打ち込むべく行われた、中華人民共和国を経由してのビルマ革命政権への肩入れと、1959年に革命により成立したキューバのカストロ政権に対する強い政治的な干渉だろう。

 

 また、フランスなどが有していた地域に対する国家社会主義への政治的誘導と、それに付随する英米の勢力圏への政治的浸透もその後の混乱を考えると無視できない要素と言えるかもしれない。

 

 さらに、イスラム教を強く信奉する世界で最初に文明が発祥した地域でも複雑な動きを見せていた。

 

 これはドイツが欧州での人種浄化政策に従い、ユダヤ人をパレスチナの一部地域に隔離・追放した事が影響していた。

 このため、イスラム教徒たちはこの新たな国家の誕生(当人達は復活と言っているが)に対して酷く敵意を持ち、ここにユダヤ人の国を創り上げたドイツ人達をも憎む事になる。

 また、アメリカはもともとユダヤ人の勢力の強い国家であるが故に、敵対国が創り上げたこの国へさも当然とばかりにドイツを無視してまで潤沢な援助を行い、これもまた中東諸国から憎まれる事となっていた。

 この地域で過去何度も酷いことをしている英国人とフランス人については言うまでもなかった。

 

 そして、ロシア人とアメリカ人を過去に一度やっつけ、今も一人有色人種国家として白人勢力と正面から向き合い、その上ペルシャ湾で産出される石油をせっせと購入してくれる日本帝国はこの地域では、個人レベルが主だったがおおむね人気者だった。

 特に過去ロシア人に酷い目にあっているロシア近隣諸国との関係は主に感情面で極めて良好であり、一部夢想しがちな同地域の人々からは、いずれムスリムに成り代わり欧米の悪魔を全て討ち滅ぼす神の国だとすら考えていたとすら言われているそうだ。

 

 もっとも、当の日本人達にとっては必要以上の好意はいい迷惑でしかなく、確かに良く言われれば悪い気はしないし、英米と経済的に妥協して中東からは大量に石油を買い付けているが、日本人たちからすればそれ以上はどうこうするつもりも、されるつもりもないというのが本音で、英米を必要以上に怒らせない程度にこの地域に肩入れする以上の事をしなかった。

 もっともこれが、後に日本を中東に深く足を突っ込ませる事になるのだが。

 

 

 まあ、中東の問題が難しいのは今に始まった事ではないので、米独のイデオロギー対立に話を戻そう。

 

 1959年にキューバにてフィデルー=カストロ率いる国家社会主義革命が発生し、俗に言うところのカストロ政権が成立した。

 そして、英国に配備されたアメリカの中距離弾道弾に対抗するため、ドイツがその総力を挙げてドイツにとってのブリテン島である、キューバ島に各種弾道弾を持ち込んだことが、1962年10月に合衆国軍の手により判明する。

 

 ここに至る経緯は、全く以てアメリカにその責任があるわけだが、そこに至る道はどうだったのだろうか?

 1944年に第二次世界大戦と呼ばれる欧州での戦乱は終息した。

 このとき、ドイツが欧州の全土を掌握しており、これと真っ正面から戦争を行った大英帝国は、辛うじて勢力圏の維持ができる程度の力を残していたに過ぎなかった。

 

 そして、亜細亜では日本が10年ほど前に見限った英国を後目に権益と勢力圏の拡大に精を出し、これの片棒を担いだアメリカ共々英国から亜細亜を切り離してしまった。

 しかし、亜細亜が有色人種問題を前面に出したことでにわかに情勢が変化する。

 

 黒人問題、先住民族問題、隣国のメキシコ人問題など数々の有色人種問題を抱える多民族国家アメリカが内政的理由から亜細亜外交から離れてしまい、その矛先を欧州に向けたからだ。

 

 対象は、存亡の危機にある大英帝国。

 彼の国に対してそれまでの遺恨を水に流し手助けしましょうと、かつての宗主国に合衆国人は救いの手と共に問いかけたのだ。

 これに対して、もはやなりふり構っていられない英国が応え、ここにアングロ同盟と呼ばれる、大西洋国家連合が誕生した。

 そして、そのオーナーは巨大な経済力を誇るアメリカ合衆国であり、必然的にドイツとの対決姿勢を強めることになる。

 

 これによりアメリカが得たものは、依然世界の数分の一を勢力圏に収める英国の巨大な市場と彼らが持つ金融、情報、技術だった。

 

 そして、合衆国は経済力だけでなく軍事力でも強大なドイツに対抗するため、巨大な軍備拡張に転じた。

 これは、第二次大戦後二度目の大恐慌を避けるためにも必要な措置と当時の合衆国内では考えられており、内政面でも無視できない事業だった。

 

 そして数年の軍拡の後、ドイツ、日本に次ぐ巨大な軍事力が建設される。

 これは、アメリカ合衆国史上最大級の軍隊の出現であり、その軍事力はアメリカの政治的努力が向けられるべき方向に必然的に多く配備される事となる。

 特に膨大な量の重爆撃機と日本が先に建造したような巨大な航空母艦を何隻も大西洋に展開させた。

 これはアメリカにとっては英国本土をドイツの毒牙から護るための最小限の軍備と言う認識しかなかったが、欧州にとって強い脅威となった。

 しかもその後も軍拡路線は継続され、1960年初頭には、日独を抜いて世界第一位の軍事力を建設するに至っていた。

 

 これに極端に反応したのが欧州の覇王・ドイツ第三帝国で、口汚い演説と共に自分たちも欧州大戦以来の軍拡に転じ、アングロ同盟と真っ正面から向き合う事となった。

 

 しかし、欧州帝国にとってやっかいな事に、アングロ同盟はその経済力、市場規模、総合的な軍事力など全ての面で自分たちよりも大きな存在であり、圧倒こそされないものの大きな憂慮だった。

 しかも、亜細亜・極東地域ではロシアが、いつの間にか自分たちと同じぐらいの力を持ってしまった日本人と向き合っており、これも全く無視できるわけではなく、欧州の覇王の憂慮は日に日に大きなものとなっていた。

 

 ドイツにとって、何か正面からではない外交戦略が必要だった。

 

 そしてそれは自らのイデオロギーのさらなる拡大による勢力圏の拡大、そうでなくても相手の嫌がる地域での活動へと発展していく。

 それが、ビルマ革命政権とキューバのカストロ政権に対する強い肩入れだった。

 

 ドイツにとってビルマはともかく、キューバという位置は実に都合の良い場所だった。

 何しろヤンキーどもの裏庭であり喉元だからだ。

 しかも欧州からもそれなりに近い。

 ここに有力な武器を配備し彼らを牽制できればその政治的効果は極めて大きいだろうと考えられた。

 それに、既に自分たちも英本土から同様の脅威を受けているのだから、バランスを考えればこれぐらいが丁度良い状態と認識もされていた。

 

 これに従いドイツはキューバと武器援助協定を62年2月に締結、アメリカとの直接対決姿勢を強めた。

 

 そして、これはカストロ政権成立と共にドイツにとって最重要の国家戦略とされ、総統自らが「ラグナロック作戦」と命名し、作戦の発動を指令した事で実働する。

 

 作戦の骨子は比較的単純で、欧州に存在する約100隻の輸送船の搭載物を隠匿しつつキューバに送り込み、その船の中に48基の中距離、短距離弾道弾を同数の核弾頭と共に積み込み、合わせて当地に恒久的な基地建設のための建設・維持管理要員を送り込むというものだった。

 通常の軍事力に関しては、最低限の対空防御部隊以外は随伴しない事とされた。

 通常兵力の移動にはさらなる船を調達せねばならず、アングロ同盟に弾道弾配備が既成事実化される前に露見する可能性が高いので断念されていた。

 


 そして1962年10月16日、ドイツの中距離核弾道弾がキューバに配備されているのをアメリカが察知した。

 これが、キューバ危機の世界的に目に見えるレベルでの発端だった。

 

 その時キューバの各地には、実にドイツ人的な生真面目さを以て既に数十基の発射施設が据え付けられ、これがあったからこそアメリカの偵察機がこの撮影に成功したのだ。

 

 この報告はジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領の起床を待ってホワイトハウスの寝室に直接届けられ、ケネディ大統領は国家安全保障会議緊急執行委員会(EXCOM)を召集した。

 

 世界が恐怖に震えた二週間が始まったのだ。

 

 

 この時私はプライム・ミニスター池田勇人のご意見番の一人、要するにアメリカでの大統領補佐官のような役回りを首相サイドと上司から仰せつかって首相官邸に足を運んでいた。

 この私の状態は、日本の政治が大戦後必然的に変化を強要された証のひとつだった。

 

 だから、この時の報告は真っ先に知ることができた。

 

 しかしここで私はさらに驚くべき報告を聞く事になる。

 

 なんと、日本帝国はこの事をアメリカ、アングロ同盟が察知するかなり前から掴んでいたのだ。

 

 もちろん、コートの下の短剣を使ってではない。

 この点ではまだ英国の方が優れており、ドイツ人の同業者に至ってはこの当時世界最大級の組織を持っており、ようやく亜細亜の情報を掌握できるようになった我が祖国のその手の同業者が真っ正面から太刀打ちできるものではなかった。

 

 ではなぜ知り得たのか? 答えは簡単だった。

 空の上からのぞき見して、これを見つけていたのだ。

 

 この事件の前年に打ち上げられた多数の低高度軌道偵察衛星は、日本的職人芸だけが産み出せる、いかなる量産型工業製品よりも高い精度を誇るレンズが使用された高性能カメラを装備しており、この眼が全地上に存在するありとあらゆる敵性施設をのぞき見て回っていたのだ。

 

 これをアメリカ人が「キャッツ・アイ」、ドイツ人は「デア・ゲルプ・アオゲ(黄色の目)」と呼びどちらも忌み嫌っていた。

 天候以外に妨害のしようがないのだからタチの悪いことこの上ないからだ。

 特にドイツ人がこの偵察衛星を黄色の目としたのは、有色人種に対する嫌悪からだろう。

 もっともこれを聞いた日本人たちは、限りない利益をもたらす目として黄色ではなく「金色」と無理矢理意訳し、この天空からの禍々しい眼を反対に誇らしく表現していた。

 

 なお、この全てを見通す金色の瞳は、キューバのドイツ軍弾道弾施設だけでなく、ドイツ、ロシア、アメリカ、イギリスの有する弾道弾基地、施設の半数以上の概要を掴んでいたと言われており、私などが触れられる軍機ではなかったが、政府の判断に大きく貢献していたと言われる。

 機密資料については、未だ公開されていないが。

 


 池田首相は当面アングロ同盟に対する協力姿勢をどうするかについて討議しつつ、アメリカでのある程度の決定が出るまで静観することを決定した。

 ただ当然の措置として、軍の動員準備は進められ、アングロで言うところの「DEFCON-3」、日本を始めとする東亜軍での「丙種警戒態勢」へと移行することはその時点で決定された(日本の警戒程度は「甲」、「乙」、「丙」、「丁」の4つに分かれている。

 これ以下は名目上は警戒しないという事で特に名称は存在しない。

 なお、ドイツではアントン、ベルタ、カエサル、ドーラ、エミリーなどと呼ばれている)。

 これにより、太平洋で空中待機する重攻撃機の数が倍増され、各地の司令部要員が増強、潜水艦が弾道弾発射地点へと赴く事になった。

 日本もこの時点で世界の終幕を降ろすための準備を始めたのだ。

 

 そして、日本はアメリカの選択を待つこととした。

 当事者でない日本帝国にイニシアチブはなく、アメリカがどう言うアクションをするか、ドイツがそれに対してどうリアクションするかに世界の滅亡がかかっていた。

 


 その頃、アメリカの国家安全保障会議の緊急執行委員会(EXCOM)は紛糾していた。

 傍観者の日本とは大きく食い違っていた。

 それはそうだろう。

 自分たちが最終戦争のボタンを握っていたのだから。

 

 なお、この時この会議にいたのは、ラスク国務長官、マクナマラ国防長官、テイラー統合参謀本部議長、ルメイ空軍参謀総長、ロバート・ケネディ司法長官などで彼らが会議を主導していた。

 

 大半がキューバへの侵攻を支持していた。

 特にテイラーとルメイなど軍人達は、キューバ攻撃を激しく大統領に求めた。

 彼らは、キューバへの侵攻が最終戦争のスイッチにはならないだろうと見ていたのだ。

 

 だが、意見は一応二つに分かれていた。

 1つは速やかにキューバを攻撃する事。

 もう1つはドイツに対し警告を与える事、つまり海上封鎖でアメリカの決意を見せ、政治的解決を図ると言うことだ。

 

 そして、軍人達は日にちが過ぎれば過ぎるほど状況が悪化すると断言しており、一日も早い大統領の決断を即していた。

 まさに軍人、そう軍人であるが故に先に攻撃される可能性を何よりも恐れていたのだ。

 

 特に20世紀のアメリカ合衆国は、これまで日本との限定総力戦以外外国勢力との戦争など体験した事はなく、しかもそれは負け戦だった事から、この頃はまだ今のような自信に満ちた軍隊ではなかったのだ。

 


 10月24日、合衆国はまずアメリカ大西洋艦隊により海上封鎖・臨検を開始した。

 そして、大軍を展開する準備も同時に進めた。

 和戦両用という構えだ。

 

 しかし、アメリカ軍いや大西洋国家連合では「DEFCON-2」が発令された。

 撃鉄が起こされたのだ。

 つまり、英米に属する全ての軍事力が最終戦争に向けての準備を始めたと言うことだ。

 

 そしてここで日本政府も決断を迫られる事になる。

 

 この世界の終末に対して日本は何をすべきか、傍観か? 英米への協力か? 今更両者の調停か? それとも狂言回しを装って自国を含めた軍縮でも提案してみるか? 選択肢はいくつあった。

 

 世界の軍事力の三分の一を握る日本帝国を、世界は無視できないだろう。

 


 ここに至って、日本での混乱も始まった。

 そして私もその舞台に上がるハメになった哀れなわき役の一人というワケだ。

 

 しかも悪いことに、私の部署とそこで堅実な実績を積み上げた私自身は首相から信頼されていた。

 もしかしたら、私が下品な兵器のパイ投げ合戦の号砲を鳴らすかもしれないと言うことだ。

 

 何たる事だろうか。

 

 しかし、いや答えねばならなかった。

 

 さあ私は何を首相に進言すべきだろうか?

 その時日本の緊急執行委員会とでも言うべき、ブレーンと大臣のみの緊急議会の意見は以下のようだった。

 


・アメリカが選択しつつある海上封鎖を支持し、双方が求めるのであれば国連を通じて中立的な臨検に協力する

・日本の介入はドイツの態度をさらに硬化させるだろうから、傍観に徹する。

 

  そしてこれは、日本が世界政治に対して決意のあることを示すか、それまで通り亜細亜に閉じこもるかという今後の外交方針を世界に示す事でもあると認識されていた。

 


 さあ、私の意見は?



_______________


 1. どちらにも荷担せず傍観

  (Phase2-e1 へ進む)

_______________



_______________


 2. アメリカを支持

  (Phase2-2-1 へ進む)

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