Phase 2-2 開戦前夜
1952年4月29日午後2時18分、昭和の元号が施行されてより26度目の「天長節」と呼ばれる天皇の誕生日で沸き返っている日本列島の片隅で、一つの偉大な科学的成果が現出された。
嘉手納空軍基地、後の「嘉手納宇宙基地」と呼ばれる事になる両シナ海最大規模の軍事基地より、全長70メートルの巨大な尖塔状のものが末端から凄まじい火焔を噴き出しつつ天空の彼方目指して上昇を続け、地球を巡る人工物となった現象がこれに当たる。
もちろんこれは、人類が作り上げた物体が史上初めて宇宙空間に達した瞬間であり、日本が欧州で戦った事に対する最大級の科学的成果の現れとも表現できるだろう。
それを端的に現すものが、このロケットを建造したのがドイツ人科学者たちで、如何に日本のドクター・糸川の名や人工衛星の価値をうたいあげても、現実はそれだった。
もっとも、そのような些細なことを日本政府そのものはあまり気にしていなかった。
日本政府にとっては、自国で建造された新たな科学技術の結晶が大きな成果を挙げた事こそが重要だったからだ。
そう、日本がこの科学実験により、世界での新たな自らの位置をこれ以上ないぐらい示したのだ。
当然、この科学的偉業は、世界列強に強烈な衝撃を放ち、これがその後世界に新たな災厄を呼び込む事になる。
なぜなら、この時すでに日本は核兵器保有を宣言し、当然多数を保有すると見られており、この大型ロケットが天空に達したという事は、ロケットの先端部を人工衛星とさらなる高みを目指すブースター・ロケットではなく核による弾頭としてしまえば、それは容易く『大陸間弾道弾(ICBM)』という当時迎撃が全く不可能な凶悪極まりない超長距離攻撃兵器に変化するからだ。
もちろん、ステイツも負けていなかった。
アメリカ合衆国も、1948年の日英の核共同保有宣言に続いて、1952年11月1日にネヴァダ砂漠にて原爆実験に成功し、世界で3番目の核保有国となり、日英との力の均衡を図った。
そして、これこそがステイツを日本に対する短期決戦に誘っていく事になる。
この頃の米日関係は、経済問題を主な原因として完全に険悪化していた。
双方が巨大な経済力と生産力を持ちすぎていたのがその最大のファクターであり、互いが互いを潜在敵と見て自らの市場を相手側に積極的に解放していない事がこれを補強していた。
米日は、関税障壁という互いの城壁を挟んで、強く睨み合っていたのだ。
だが、戦争の撃鉄は、世界の識者にとって意外なところから発生する。
当時、戦争の原因は、前回同様中華大陸だろうと考えていた。
何しろいまだにアメリカ移民の一部(と言っても現地での混血を含めると15万人近い)は、満州に残っていたからだ。
当時中華大陸は、1946年から47年にかけての日本を中心とする国連軍の軍事介入で、中華民国、満州国そして中華人民共和国という三つの勢力に分裂しており、さらにソ連を中心とする共産主義勢力が、中華大陸内陸部に存在する中華人民共和国とそれに付随するモンゴルを握り、日英が満州国を独占し、日英以下それ以外の列強が中華民国とのつながりを持っていた。
そして中華民国は、中華全土が取りあえず落ち着きを見せると、全体主義的傾向の強い蒋介石率いる国民党主流派と、汪兆銘率いる穏健派による国内対立へと自動的に移行し、その対立の影響かインドとのバッファーゾーンとしてチベットが自治独立地帯として中華中央から分離しつつあった。
そしてつまりは、旧帝国的多民族国家特有の混沌が、このとき中華大陸で現出していたのだ。
だが、そこにはステイツの存在はほとんどなかった。
これを象徴していたのが、蒋介石の最大の後援者だった上海を根城にする宋財閥が、1920年代アメリカに大きく勢力を拡張していたのを、第一次太平洋戦争以後のユダヤ資本の大規模な移動にともない、日本や英国に重心を移動した事だろう。
ステイツは、中華民国の側から見限られたのだ。
そしてこれはアメリカ合衆国という大国が、世界から国力と国内経済だけが巨大な、責任感を持たない無定見な国家だと見られていた何よりの証拠だった。
扱い的には、政治的にソヴィエトより少しマシと言う程度と言えば、多少は分かりやすいだろうか。
かつてはともかくこの頃には、誰もがステイツに多くを期待しなくなっていたのだ。
しかし、中華民国での権力争いに見られるように、中華大陸は安定化しているとは言えず、世界はいまだ植民地主義的ブロック経済の残滓の中にあり、だからこそアメリカ経済が自国経済の自然発生的な拡大による市場獲得を求めたければ、その市場は中華地域が最有力であり、そこでの国際的警察権を担っている日本と再び対立し、激突するのが必然と思われていた。
だが、ソヴィエトというイデオロギー国家の出現がこれを修正する。
もちろん、舞台はドイツ・東欧地域ではない。
こちらはこちらで後に冷戦構造の象徴とされる大軍が対陣して睨み合う様相を呈していたが、だからこそアメリカの介在する余地は全くなかった。
撃鉄が起こされたのは、中華近隣のインドシナ地域だった。
インドシナは、1887年に完全にフランスの植民地となって以後、20世紀に入ると独立運動が始まるのだが、これが第一次世界大戦でフランスの覇権が縮小すると活発になり、第二次世界大戦中の一時的なフランス滅亡で加速、そして当時ベトナム人の政治的リーダーとなっていたホーチミンは共産主義者であった。
だからこそ、ソ連やコミンテルンは彼を支援し、日英の中間地点に共産主義国を作ることに熱心だったが、優れた政治力と現実的視点を持ったホーチミンは、今日知られているような機会主義的な共産主義者である以上に強い民族主義者でもあり、ベトナムが列強のくびきから離れ自主独立出来るのなら誰の手を借りても、どのような政治的形でもよいと考えており、太平洋戦争で実質的にフィリピンを解放してしまった日本人を利用する事を彼のプランとさせ、第二次世界大戦中に日本人と取引してフランスからの実質的な独立を1943年に宣言するに至る。
当然怒ったのはフランスとソ連で、第二次世界大戦後資本主義と共産主義の対立をもう少し深刻なものとして日ソの関係は固定された事でインドシナでも敵対し、日本とフランス人は同じ陣営に属しているとされながらも、様々なレベルでいがみ合いを続けていた。
しかし、インドシナ近隣随一の覇権国家日本に、一度国家が崩壊したフランスが強く何かできるわけではなく、フランスは日本から戦災復興のための資金援助すら受けていたので表面的な外交では多くを言えず、大戦後続いた東南アジア地域全体の独立がインドシナ各地域の独立の流れを肯定した。
だが、だからと言って彼らが一度握った利権を簡単に手放す筈もなく、テロリズム的な行動でインドシナを混乱状態に陥れ、何とか日本人の勢力を追い出そうとする。
もっとも、現地の意志は民族自決による独立にあり、根なし草のテロリズム活動・ゲリラ活動が実質的な成果を挙げる筈もなく、日本や満州で教育・訓練されたベトナム人の官僚や軍人の卵たちが祖国に帰ったことで、フランスの陰謀は自然消滅するかに見えた。
この傾向に変化が訪れたのは、アメリカがこの問題に首を突っ込んできた時からだった。
アメリカは、当初フランスと歩調を合わせて国連でインドシナ問題を採り上げようとしたが、アジアは確実に全地域の自主独立へと傾いており、常任理事国だからといって拒否権発動以外でこれを否定する事ができず、代わりに現地でのゲリラ活動を採り上げ、軍事力による調停が必要と問題をすり替え、何とかして日本人の手をすり抜け、現地に軍事力を送り込もうとした。
一定の軍事力さえ一度送り込めば、現地の貧弱な政権打倒などワケなく、その後なし崩しに親仏・親米政権を作ればよいとアメリカに説得されたフランスも、ある程度のインドシナ地域の独立を考えるようになっていた。
だが、結果としてフランスとアメリカのインドシナに対する政治的干渉は失敗する。
日本の動きの方が一枚上手をいっていたのだ。
もちろん現地住民の努力もあったが、結局アメリカ外交は世界の主流にはなれなかったのだ。
だが、ステイツにとってここで心理的に大きな副産物が発生し、これが自国の核兵器開発と重なって、日本人に対する短期限定総力戦へ誘っていく。
では、説明を続ける前にまずは当時の国際関係を単純化したものを見てもらう。
◆各陣営
資本主義(非植民地派):
日本、インド、ドイツ、北欧、東欧、アジア、中東各国、南米の一部
資本主義(植民地派):
イギリス、フランス、西欧、南欧、英連邦各国、(アフリカ)
共産主義:
ソヴィエト連邦、共産中華、東欧の一部
自由主義:
アメリカ、中南米各国
見ていただければ分かると思うが、最大の勢力を有する日英を中心とする資本主義陣営が、植民地に固執する国とそうでない国で分裂していた。
そしてこれは、インドシナ問題で一気に噴き出し、辺境部では軍事力を伴った対立すら発生し、植民地を独立させるさせないの大論争が、国連などを舞台に巻き起こる。
さすがに、日英による直接的対立には発生しなかったし、ソ連率いる共産主義に対する不気味な恐怖が、資本主義陣営間での決定的な事態を引き起こさなかったが、日本と西欧各国の間に溝が出来ていたのは間違いなく、これをアメリカ政府は一時的に日英の覇権が崩れていると判断し、日本に戦争を吹っかける最大のチャンスに映っていた。
一見日本の意志は、当時の国連加盟国の半数以上の意見を代弁していたが、国力、軍事力という点では日本以外でアテになるのは、ソ連をあえて無視したとしても近隣の満州や韓国ぐらいで、日本に友好的な欧州各国はとてもではないがアジア・太平洋の問題にまで首を突っ込める力はなかった。
もちろん時代が平和であるなら国連で連携したり、貿易面など経済的結びつきを強くする事もできたし、チョットした人的援助や技術援助・協力などで日本を手助けできない事もなかったが、アメリカと真っ正面から対立しようという意志までは持てなかった。
彼らはまずソ連と対立しなければならず、加えてアジア・太平洋からは遠すぎた。
そして当時の日本の政治的覇権は、民族自決と反共の二大政策によって現出されたもので、その他様々な理由もあり、日本そのものがソ連対策をおろそかにするわけにも行かず、西欧列強、特に英国と戦時に連携できない事は、アメリカと万が一戦端を開いた場合、自らの敗北を呼び込む可能性が高いことを日本自身に明確に教えていた。
だからこそアメリカ、日英、ソ連という三極構造が成立していたのであり、日本の政治的努力は時代が植民地解体に動き、自らもそれを押し進めながらも西欧各国との関係も同時に重視するという二律背反な状態を生み出していた。
つまりは、日本外交の限界がこの時噴き出していたのだ。
また、米日間の経済問題もさらに深刻化していた。
日本とアメリカは、合計すれば当時の世界の半分以上のGDPに達しており、共に巨大な市場を欲し、日本はそれを持って繁栄しており、アメリカは巨大な国内市場以外は持っておらず景気は大きく後退していたため、アメリカは日本など資本主義陣営の市場開放を自由資本主義という錦の御旗を全面に押し出して要求し、日本はアメリカに市場開放するには、何よりもまずアメリカも自国の関税障壁を大きく引き下げる必要があり、それがなされないなら今アメリカに無条件に市場を開放する事は世界経済にただ混乱を呼び込み、大恐慌の再来をもたらすだけだと強く反対した。
もちろん日本は、手前勝手な自由貿易主義を掲げるアメリカが、自らの関税障壁を簡単に引き下げるとは思っておらず、その思惑はアメリカに市場開放することで自らの経済覇権にほころびが生じるからに他ならなかった。
日本は、あと最低5年はアメリカ抜きの経済体制を持続させる必要があると、自国経済の基礎体力の劣勢から判断していた。
だからこそ、民族自決・人種差別撤廃と西欧協調というダブルスタンダードを掲げた外交を展開していたのだ。
そのため、日本のこの時の動きも、ステイツと同様かそれ以上に切羽詰まったものになる。
当時日本政府は、第二次世界大戦を永田首相のもと外相として主に欧州で過ごし『東洋のチャーチル』と呼ばれた吉田茂をプライムミニスターとして積極的な外交を展開して日本の覇権を維持拡大していたが、その結果として西欧旧列強との対立を生み、それでもなお西欧各国との協調外交を捨てなかった。
東洋の古狐とも言われた吉田だからこそできた二重外交だったが、インドシナ問題、アメリカの核開発成功と続くステイツの積極外交姿勢がこれに楔を打ち込み、西欧との二重外交に加えて深刻な米日対立を突きつけられた吉田茂内閣は1952年10月に総辞職し、政友会から久しぶりに政権を奪回した民政党の鳩山幸夫内閣(彼は戦後すぐに吉田と対立し政党を変更している)が成立する。
しかし吉田とは対照的な鳩山の全面展開的融和外交は、結果として日本国民の反米感情をさらに高めると同時に、弱腰外交と非難され国内の反発を招き、日本政治史上久しぶりの、明治初期の大久保利通以来の暗殺事件に発展、ここに日本の政治は混乱を迎える。
これが1953年春先の事だ。
そして、この日本の政治的混乱の間隙を突いて、アメリカ政府は親フランス派の政治勢力支援を目的としたインドシナ出兵をほのめかして、日本のさらなる政治的混乱を呼び込んだ。
当然日本の政治的態度は硬化し、アメリカのインドシナへの介入を国連に提訴すると同時に、西太平洋に有力な軍事力を展開して、東南アジアでの警戒態勢を強化する。
そして、この日本の勇み足を反対にアメリカが非難し、それが双方にとっての長らくの非武装地帯である筈の中部太平洋での日米艦艇の軍事的ニアミスに発展、以後双方の政府は態度を硬化し、双方の友好国の英国やフランスが調停に出ようとしたが、双方不気味な沈黙を以て応え、世界はあとはどちらが最初に引き金を引くのかを注目するだけとなる。
どちらも自国の経済と、その後半世紀の世界覇権がかかっているだけに本気だったのだ。
そして、その日本の態度を現すものとして、1953年3月実質的な挙国一致内閣の首班として、元海軍大将にして第二次世界大戦当時の日本艦隊の最高司令長官だった山本五十六が新たな内閣総理大臣に就任、就任と同時に積極的な活動を開始する。
なお当初山本は、和戦両用の構えを取ろうとしたと言われているが、一つの事件が全ての流れを固定化してしまう。
アメリカ国籍の大型旅客機がハワイを目指す大圏航路上で墜落したとされる事件が、撃鉄が落とされた瞬間だった。
これを日本軍による撃墜と一方的に断定したアメリカ政府が謝罪と賠償、そして法外な外交要求を突きつけ、受け入れられないのなら1週間以内に軍事行動も辞さないと発表。
ここに第二次太平洋戦争の幕は上がる。
■Phase 2-3 戦争計画 ▼