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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
Return Match 〜第二次太平洋戦争〜
72/145

Turn 2:状況想定  Phase 2-1 国際情勢

 第二次世界大戦後の米日の深刻な対立と1953年初夏より行われた戦いを見る前に、もう一度世界情勢を見直して次へと進んでいこう。

 


 1945年春の第二次世界大戦(欧州大戦)終結、翌年の国際連盟の組織改革と常任理事国の再選任、1949年の『EATO』成立により形作られつつあった新たな世界秩序は、日英主導による世界秩序維持という明確な目的に向けて進んでいた。

 

 これを世界の人々に実感させたのが、1948年10月、二期遅れて開催された第14回東京オリンピック(12、13回は大戦により中止)で、この時世界の人々に見せた日本の発展ぶりが、全世界を揺るがす事になる。

 

 それは、前大会のベルリンオリンピックでヒトラー率いるナチスドイツが見せた、ドイツの復興と発展を上回る衝撃となった。

 


 それまで日本人と言えば、何だかんだ言っても『サムライ』、『ハラキリ』という言葉と日露戦争などでイメージされるような戦いが強いだけのあか抜けない東洋の一民族に過ぎず、一部の英国人以外の白人勢力は、自らの敵、全体主義や共産主義に対抗するための最も強い番犬や猟犬程度、もしくは工業力を持ったグルガ兵程度の認識しかしておらず、ほとんどの有色人種にしても、日本人が世界列強と互して活躍する姿は半ば神話じみた状態で「知って」いたが、彼らがどのような人々なのかは知りもしなかった。

 数多の有色人種にいたっては、日本人がネグロよりも低い運動能力しか持たず、世界の過半の黄色人種よりも小柄だとは誰も考えていなかったのだ。

 

 だが、1948年に見せた日本列島の繁栄ぶりは世界を驚嘆させる。

 それは、日本人の見た目などを全て考えさせないほどの衝撃となった。

 

 それまで木材と白い土壁で作られた低層建造物によって構成された瀟洒な佇まいを持っていた彼らの都は、ロンドンのシティやニューヨーク・マンハッタン島に匹敵する摩天楼の群を中心とした未来的な巨大都市となっており、そこを歩く人々は彼らの伝統衣装と洋装を着こなした独特のスタイルを作り上げ、彼らの作り上げた現代文明はさらなる驚きを世界に見せた。

 

 縦横に走りつつもさらなる拡張を続ける高速道路網、当時世界最新鋭の電動式機関車が牽引する超高速特急、そしてついに秘密のベールを脱ぎ、世界の人々を東京湾で出迎えた当時世界最大最強の超巨大戦艦。

 

 その姿は、東洋と西洋が渾然一体となった混沌の魔都の象徴であり、そこから発せされるパワーはまさに先進工業国のそれであった。

 

 それを如実に現していたのが、東京湾を覆い尽くすような工場から排出される煙によるスモッグであり、この国がいかに急いで発展しているかの現れであった。

 


 そしてこの情景と第一次世界大戦以後世界に広く出回るようになっていた日本製品が結び付き、世界中の人にそれまでとは違った日本人のイメージを植え付けることになる。

 

 もっとも民族、国家によってその様々な色の目に映った光景に対する理解と感情は実に様々なものだった。

 

 その情景を最も恐れたのが、日本の仮想敵、潜在敵とされたアメリカとソヴィエト・ロシアであり、決して表に出さない諦観を以て受け入れたのが英国で、ただただ嫉妬したのがフランスなど東洋と日本の状況を理解できない、もしくはしたくない旧欧州列強で、期待の眼差しと自らの未来を重ね合わせていたのが世界中の有色人種たちで、より直接的に日本人のパワーに付いて行く事を決めたのがアジアにある日本の近隣諸国だった。

 

 そしてこれは、この時期の世界情勢の縮図であり、新たな昇竜の帝国にとって東京オリンピックは国威を示すと同時に、世界各国、各地域に対する踏み絵だったのだ。

 


 ではここで経済的、国力的な事をもう少し見る前にまずは下記の統計数字を見てもらおう。

 


◆戦争遂行能力比較(全世界=100)(1938~39年統計)


国名   指数

アメリカ 28.8

ドイツ  15.9

ソ連邦  15.4

イギリス 11.2

日本   10.1

フランス 4.6

イタリア 2.8

その他  11.2

合 計  100



◆戦争遂行能力比較(全世界=100)(1951~52年統計)


国名   指数

アメリカ 31.8

日本   20.1(満州含む)

ソ連邦  12.8

イギリス 10.8(英連邦含む)

ドイツ  (8.9)

フランス 3.5(植民地含む)

イタリア 2.4

その他  9.5

合 計  100



 上記の数字は、アメリカ政府上層部にも情報を提供しているとあるシンクタンクからの信頼すべき数字であり、それぞれの時代の世界のパワーバランスを最も単純に数値化したものだ(戦争遂行能力=工業力、資源、人口、資金力、教育程度など国家としての総力戦能力を総合化した数字)。

 

 なお、1952年は、ドイツが再独立して丸3年、敗戦から7年の歳月を経て、当時の首相をして「もはや戦後は終わった」と言わしめた年にあたり、また日本人が覇権達成のための新たなパワーとして、天空に駆け登るロケットを打ち上げた年にあたる。

 

 そして、この二つの統計数字が示しているのが、日本人が大戦争を戦いつつもたった14年足らずで実質的な国力を約二倍に膨れ上がらせたという事実だ。

 


 この頃日本の領域は、ショーグンの政権統治下にあった日本列島から大きく膨張しており、実質的な経済植民地である満州国を含めれば、その経済圏は国内総生産(GDP)に換算すると世界の23%、アメリカ合衆国本土の70%近くに達すると見られ、しかも依然として年率7%以上の成長を続けており、この傾向はアジアでの独立に関連する発展が継続する限り、今後10年間は継続されると過半の経済専門家が見ていた。

 

 また、内包する人口も日本本土だけで1億人近く、しかもほとんど全てが単一言語を話す単一民族という他国にとって実に恐るべき状態で、これに近隣の衛星国、併合地域など商業言語圏を含めると1億6000万人以上の人口を持つ、とても東洋のちっぽけな島国国家とは思えない巨大な国家規模となっていた。

 

 ちなみに、1億6000万人という数字は、ソ連邦、アメリカ合衆国双方の総人口を凌駕する数字になる。

 

 また、日本の唯一のネックである資源問題も、世界が平和であるなら日英共同で世界中に張り巡らされた海洋交通ネットワークによって、コストの安い海路をつたっていくらでも、何でも流れ込む状態が作られており、国内資源の豊かなアメリカよりもむしろ有利な位置にたっていた。

 

 しかも、第二次世界大戦での活躍、いや世界戦略レベルでの勢力拡大により、実質的に欧州列強の持っていた全ての地域を潜在的市場にする事にも成功しており、特に復興の本格化していた中、東欧地域での市場覇権はドイツを従属下において絶対的レベルに達し、今後四半世紀以内に中、東欧地域が経済的に復活し、アジア・中近東が発展した時の日本の経済的影響力はステイツとソヴィエトを合計したほどになり、世界は国連を介した日本の支配下になるのでないか、という予測すら当時はまことしやかに語られる程だった。

 

 そしてそれは、海を挟んだアメリカにとって、自らの手出しできない『日本人による太平洋帝国(The Pacific Empire by Japanese)』とでも呼ぶべき世界帝国による世界支配という悪夢の未来でもあった。

 


 当然アメリカの焦りは大きかった。

 

 しかも、アメリカ政府にとって憂慮すべき事は、それだけではなかった。

 

 伝統のモンロー主義(アメリカ的鎖国主義)と反英感情に根ざした第一次世界大戦への不参戦、日本との対立による中華市場からの締め出し、第一次太平洋戦争での屈辱的敗北、第二次世界大戦に対する二度目の傍観という20世紀前半の歴史的流れによる、ステイツのある種消極的かつ国際的無責任な政策が、第一次世界大戦後より徐々にアメリカ合衆国の力の源である欧州移民減少の流れを作り、市場停滞による国内資本の海外脱出を促していたのだ。

 

 特に国内資本の海外脱出は、大恐慌と第一次太平洋戦争の敗戦後深刻になり、独自の海外市場を持たず、国際的発言力の低い国家での活動に大きな不満を感じていた企業家・資本家たちが、それまでの政策に対する失望から政府の突き上げに動かず、最初は欧州への進出(もしくは帰還)を図ろうとし、二度目の世界大戦が始まるとステイツ以外で安全な文明圏である日本圏と英連邦に流れ、当然それは人の流れも伴っており、一気にアメリカ社会の中心部の空洞化と経済の停滞が進む事になる。

 

 これが、第二次世界大戦による戦争特需で、それまで10年間も続いたどん底の不景気から、未曾有の好景気に転換した筈のアメリカ経済を戦後不活発なものとし、また大きな不景気に戻るというリバウンドを生んだと言ってよいだろう。

 つまり、第二次世界大戦中のアメリカは、一時的な生産拠点としての役割を果たしたに過ぎず、それまでに作り上げられた巨大な生産施設の減価償却をするための生産活動をしていただけと見ることも出来るだろう。

 事実、大戦中に復活した工場は多かったが、全く新規の工場建設などは殆ど成されていない。

 

 その例として1946年を境にアメリカ経済は大きなマイナス成長に転じ、国内が日本との戦争準備態勢に入る1953年の一時的な戦時特需が訪れるまで、この数字がプラスに転じる事がないのが挙げられる。

 大戦中の利益優先の無理な生産で、インフラが限界を超えてしまったのだ。

 


 そして、特にユダヤ系や有色人種系の「人」、「モノ」、「カネ」の流れは顕著だった。

 彼らにとって日本列島周辺部と彼らの持つ満州、あるいは英連邦のオセアニア地域は、最後のカーナンやシャングリ・ラ、もしくはアルカディアに映ったのだろう。

 

 そして、第二次世界大戦で日本の取った行動がこれを補強し、戦後日本に中東問題という政治的重荷を背負わせた代わりに、英国やステイツに互する純金保有と資本力を与え、1905年に鉄道王ハリマンの蒔いたユダヤ資本の種は、アメリカ利権ではなく純粋なユダヤ利権として満州の大地で花開いていた。

 もちろん、その花を間近で見る事ができたのはステイツではなく、第二次世界大戦後特に東洋に進出した国際的規模で活動するユダヤ資本と結託した日本だった。

 

 これを最大級に現しているのが、第二次世界大戦後重要度が飛躍的に高まった中東油田における開発で、同地域は欧州系のB・Pブリティッシュ・ペトロリアム、ロイヤル・ダッチ・シェルと日系の帝国石油(E・O)、満業石油(M・G・O)が牛耳っている事が例として挙げられる。

 


 なお、第二次世界大戦末期日本は、ドイツの心臓と脳髄にあたるルール工業地帯や帝都ベルリンは英国に譲ったかわりに、それ以外のドイツ地方部や東欧各国を解放してまわり、必然的にナチスの各種大規模収容所の解放で主要な役割を果たし、彼らの民族としての人種偏見の低さとその時とった生真面目な行動が、ユダヤ人の日本人に対する評価を非常に高くさせ、満州国の首都新京が第二のジューヨーク(ニューヨークの別名で『ユダヤの町』と言う意味)と呼ばれる最大の原因となったとされている。

 

 もっとも、人種偏見に関して歴史的に無縁で安定した国内治安を持つ日本人たちにとって、単なる大規模収容所ですら我が目を疑う光景であり、日本人の視点から見るなら極めて劣悪な環境に映ったナチスによる収容所の世界に対するアピールは、日本人達の熱意と感情はともかく、ユダヤ人達にとっては甚だ不足するものでしかなく、この時の日本人が正確かつ大規模にドイツの非道を告発した事、朴念仁と言ってよいであろう生真面目な日本人の対応が、今日までユダヤ人が根に持つことになっている、とも言われている。

 

 ただし、収容所の状況がその後の調査で確認されると、今度は日本人の反共精神をより一層強固にさせ、収容所の劣悪な環境は自らの手による戦略爆撃が副次的にもたらしたという事実(爆撃による流通の途絶が招いた末端での物資欠乏)を公表してなお、日本の共産主義に対する敵愾心を煽り、ドイツに対するある種奇妙な親近感を生むという結果を残し、日本の宣伝はナチスのユダヤ人に対する非道を訴えるのではなく、如何なる場所にもテロリズム的共産主義者が潜んでいるという大規模なロビー活動に転化され、アメリカ国内を中心としたユダヤ人の望んだ状況をもたらさず、これが最終的にパレスチナ地域のユダヤ国家建設を阻止したと言っても過言ではないだろう。

 

 また、戦後ドイツ人に示した「武士の情け」と揶揄された厳正な捕虜待遇も、当時のユダヤ人(そして戦勝国とドイツ近隣諸国)にとっては文句だらけだったが、日本人にとって国際法とは欧米と対等につき合うための常套手段にして必須事項であり、戦後水面下で捕虜虐待を指摘したフランスや外野のアメリカ世論や欧州の裏を牛耳るとされる人々が何を言おうと全て正論で覆してしまい、これも日本に対するユダヤ人の二律背反な感情を強く助長する事になる。

 

 何にせよ、どちらも実に世はなべて皮肉に満ちていると言うべき現象だ。

 


 話が少し逸れたが、第二次世界大戦後の日本の状態もステイツにとっては脅威だった。

 

 日本は戦後、俄然豊富になった資金を使い、国内においては戦時債務の健全な財政状態での返済と戦後の動員解除と復員、産業転換を行い、戦時産業態勢の代わりにオリンピック目指した建設ブームを『コンボイ方式』と呼ばれる大規模公共事業により推進し、日本経済をさらなる拡大に誘い、海外においては今度こそ実現した国連での人種差別撤廃条項に従いアジア各国の独立を進め、欧州の戦災復興に「人」、「モノ」、「カネ」全ての面で大きな役割を果たし、その国際的地位は戦後数年、つまりオリンピックの年には不動と思わせる状態になっていた。

 

 そして、1950年の統計数字や産業白書を見たアメリカ政府は驚愕する事になる。

 

 日本(+満州)の合計とアメリカ単独の工業生産指数がいくつかの分野で並びつつあり、特に造船においては造船量、ドッグ総数、保有商船数では倍以上の差が開いており、当然と言うべきか海軍力・海運力の全てにおいて劣勢なばかりかアメリカ国内の造船業は第二次世界大戦までに日本との価格競争の前に事実上壊滅しており、戦中戦後ドイツや英国から導入された世界最先端の技術を手にした航空宇宙産業に至っては、ステイツが遠く及ばないほど高度になり、当然世界一の座に就いていた。

 

 つまりステイツは、世界レベルで制空権と制海権を知らぬ間に失っていたのだ。

 

 しかも、英国など欧州をリンクさせた日本の潜在的経済力・国力はアメリカを凌駕しており、たとえアメリカがソヴィエトを潜在的味方としても彼らの優位は明らかで、ここから導き出された回答、つまりアメリカは今後全面戦争をしても日本に勝てない、勝てるとするなら日本人たちの体制がまだ固まっていない今この時をおいて他にない、という焦りがステイツを急速な戦争へと誘っていく。

 

 それはまるで、満州事変を契機とした第一次太平洋戦争の再来を人々に思わせる事になる。

 


■Phase 2-2 開戦前夜 ▼



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