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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
Return Match 〜第二次太平洋戦争〜
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Phase 1-3 満州事変と第一次太平洋戦争

 1929年6月4日、一つの事件が発生する。

 

 『張作霖爆殺事件』だ。

 

 当時、張作霖は日本の支援を最も受け、それまでの中華民国軍政府大元帥の地位を辞退して満州独立準備政府首班の地位を得る事に成功していた。

 

 英国と日本の政治ゲームが、蒋介石と張作霖の間で代理に行われたのがこの時の政治的行動だった。

 

 しかしこれにアメリカが強く反発し、一つの謀略を実行に移す。

 つまり、張作霖を中国国民党の仕業と見せかけて暗殺し、その混乱に乗じて満州独立は時期尚早と世界に訴えかけ、自国と自国移民の利権を保持、拡大しようと企てたのがこの事件の真相だ。

 


 1929年6月4日、北京から満州に向かっていた張作霖の特別貴賓列車を、アメリカ満州駐留軍は奉天を通過する際に爆破した。

 これにより張作霖は大けがを負ってまもなく死亡する。

 

 しかし、このアメリカの謀略は日英のジャーナリズムによって早々に暴露され、アメリカの政治的失墜だけを招いて失敗に終わった。

 なおかつ、張作霖の息子で張学良が、アメリカ軍のこの仕打ちに激怒し、満州最大の勢力を持つ張軍閥は日英主導の満州独立にそれまで以上に強く傾き、この動きを満州独立準備政府も押さえる事が出来ず、独立達成後国内の外国利権保障を一度白紙撤回し、改めて交渉を行うと宣言させるに至る。

 

 つまり、反米に傾いていた満州から,アメリカが政府レベルで追い出されるのはこの時決まったも同然で、既に満州各地に十万人近く居住していたアメリカ系満州移民も追い出されるのではと、アメリカが考えるのに時間はかからなかった。

 

 そして、アメリカは事件の首謀者を厳罰に処すと国際的に約束しながら、国内世論の圧力の前にそれを履行せず国際的信用を失い、さらなる日満の不審を植え付ける事になる。

 

 その全てのマイナス・ファクターが激発したのが、日本政府側の発表で言う『満州事変』になる。

 


 1929年の張作霖爆殺以後、満州でのアメリカ軍勢力は現地での反米気運に対応してさらに拡大しており、常駐兵力も日本軍が満州に駐留させる『関東軍』に次ぐ、増強連隊規模の約4000人にまで達していた。

 しかもこれは、中華地域にある外国軍隊で第二の規模だった。

 

 そして、満州独立準備政府は、日英、特に日本の後ろ盾を得て南満州鉄道との平行線を新たに敷設するなどして対立の溝を深めていたが、もとが馬賊の寄り合い所帯だけに一枚板ではなく、アメリカになびく勢力も多く、特にアメリカ人の持つ豊富な資金は私服を肥やそうとする人々にとっては強い魅力で、張作霖を失った事で迷走する満州中央、満州独立準備政府の統治力は低下し、多くの軍閥が即物的にアメリカと彼らが強く支援する中国国民党の一部勢力へと傾いていた。

 

 そして、これを深く憂慮した日本政府が、一つの謀略を画策する。

 ただし、正確には謀略を行ったのは最初がアメリカ軍で、それを現地日本軍つまり関東軍が拡大し、これを最終的に利用したのが日本政府という事になる。

 

 そして満州事変は、その背景から少し特殊な軍事謀略となった。

 

 極めて簡単に説明すると、単なる政治的メッセージとなる筈だったアメリカの手による軍事的謀略を現地日本軍が利用してカウンターを行い、現地アメリカ勢力と日英の制御を離れた一部国民党勢力を駆逐し、その現地日本軍を日本政府が独断専行したとして徹底的に処断し、当時緩みつつあった日本国内の文民統制も取り戻し、さらには事件を国連に持ち込み、満州を日英主導で独立させてしまった、というのが事件の顛末になる。

 

 なお、上海事変とリンクさせて考える研究家も多いが、上海事変と満州事変は別問題だと考える方が妥当だろう。

 


 事件の発端は、その後の混乱を考えると「張作霖爆殺事件」に比べれば些細な事件に過ぎなかった。

 

 1932年(昭和7年)9月18日午後10時20分ころ、中国遼寧省の奉天郊外の柳条湖(りゅうじょうこ。柳条溝としている文献もある)で、アメリカ資本の南満州鉄道の線路が爆破された。

 

 被害は線路と枕木の一部で、上下線を合わせてもわずか1mたらずの軽微なものであった。

 しかし爆音に驚いて現場近くの「北大営」から飛び出した満州兵は、アメリカ軍独立守備隊に射殺された。

 さらに、この事件は満州軍の仕業だとして、約100人のアメリカ軍兵士が「北大営」へ突入し占拠する。

 

 なお、「北大営」は現地の張軍閥最大の駐屯地であり、これがアメリカから反米的な満州軍閥とその裏にいる日本への政治的メッセージとなる筈だった。

 

 しかし、アメリカよりも深く長くその手を広げていた現地日本軍は、以前からアメリカの行動に気付いており、アメリカ人が行動を起こすのを待って、この事件をアメリカの重大な国際条約違反として国連や列強への通達もそこそこに警察活動の開始を宣言、さらに不穏な動きのある満州各地の治安維持活動も必要だとして、日本の守備隊は満州各地武力行使を行い、翌日までに米軍の大半を武装解除し、満州中枢部の奉天、長春、営口を占領。

 さらに、国境を接する大韓国の国境守備隊が、日本が国連へ事態を伝えるが早いか、日本と同じく満州での警察活動を開始し、日本軍と歩調を合わせて満州全土から自らに都合の悪い勢力を全て駆逐してしまう。

 

 全ては現地軍の独断専行だった。

 


 そして「ライオン宰相」というニックネームを贈られた浜口雄幸率いる日本政府は、事件の翌日9月19日に緊急閣議を開き、アメリカの謀略を早くも議題として採り上げ、現地日本軍に紛争の一日も早い解決のため毅然たる行動を求めつつも、日本が国際的立場から国際テロを起こしたアメリカとそれに荷担した現地軍閥に対する、断固たる態度を執る事も合わせて宣言された。

 この代表的なものに、浜口の態度に否定的な姿勢を示した時の外相幣原を更迭、後に政界から追放した事がある。

 なおこれは、日本が多方面融和外交を否定し、覇権国家的外交に強く傾いた一つの要因であるとも判断できるだろう。

 

 しかし、『満州事変』そのものは、日本の謀略色が強い事にも変わりなく、日本政府は事件が軍事的に落ち着くと、この事件の現地実行者であった関東軍幕僚の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐などを軍から追放、さらにその当時日本国内で大きな勢力を持っていた「桜会」という陸軍軍人を中心とする軍事力によるクーデターを目論むとされた秘密クラブを一斉摘発、併せて関東軍の謀略に荷担した本土軍の綱紀粛正、徹底したパージを断行、その他当時日本国内外に増えていた「政治将校」気取りのエリート軍人の多くを追放もしくは予備役に編入させてしまい、事実上の逆クーデターにより日本政府の文民統制を完全に取り戻す事に成功していた。

 


 満州を巡る陰謀を行っていた全ての勢力が、日本政府中枢のたくらみに利用され、これはその後日本の情報中枢を担う事になる『内閣情報調査室』後の『日本公安調査庁』、通称『トウキョウ・フート』が歴史上最初に見せた大規模な活動でもあった。

 

 ちなみに、『内閣情報調査室』の正式な設立は第一次世界大戦中の1915年で、日本政府が欧州の情報を円滑に得ようとした事がその発端となっている。

 

 そしてその翌年、満州で清帝国最後の皇帝でもあった溥儀による独立宣言がなされた年に、時の日本のプライムミニスター浜口雄幸による現役軍人大臣制の廃止を実現し、これにより明治日本稀代の軍政家山県有朋の亡霊を駆逐し、以後の『浜口時代(1930年~1938年)』を盤石たるものにする。

 

 同時にこれは、原内閣による日本初の政党政治、続く山本内閣による大震災に対する挙国一致内閣、国内不況に対抗するための高橋(是清)内閣と続く日本の英国型議会政治の完成も現し、日本中央に大きな安定をもたらす事になる。

 

 これは、1939年に成立した元軍人の永田鉄山による戦時挙国一致内閣成立により、英国同様の平時と戦時の政府を使い分ける事で、以後の日本政府の政治態勢を盤石たるものとしていた。

 


 なお、満州事変のその後は、国際的にはアメリカの謀略だけが非難され、日本の行った謀略は英仏など欧州列強により事実上不問に付されてしまい、実際調査に訪れたリットン卿を中心とする国連調査団は、アメリカの行動にこそ混乱の原因があるとして、最終的に全駐留米軍の撤退を通達し、それに合わせた形で日本や韓国の必要最小限の軍事力撤退後や、それまでの満州民族自決政府としての独立を支持したが、この新たな満州の中にアメリカ政府の存在はなく、アメリカの焦りと怒りは頂点に達しつつあった。

 

 そして一連の事件は、強力な文民統制を持つ、国民から圧倒的支持を受けた政府を日本に作り上げさせ、満州全ての利権を失ったステイツは追いつめられ、それが上海で激発する。

 

 事件は、こちらも発生当初は些細なものだった。

 上海市内で起こった中国人による日本人僧侶殺傷事件を、現地日本軍が即座に解決したのだが、これを現地アメリカ系ジャーナリズムが歪んだ形で煽り、必然と偶然が重なり現地中国人による暴動に発展、大挙上海租界(外国人居留地)へ殺到。

 これに対して現地の警察活動を実質的に担っていた日本軍が大挙出動しこれを武力でもって鎮圧したが、ここで暴動に荷担した中華民国軍への臨検と攻撃を行い、戦闘の激化に伴い出動した日本軍は、アメリカ海軍の砲艦を海軍の空母艦載機による爆撃で誤って撃沈、多数の死傷者が発生し、日本と中華民国の枠組みを越えた国際事件となった。

 

 英国の調停で両者の会談が持たれたが、これを絶好の機会と考えた合衆国政府と、感情の赴くまま激昂したアメリカ国内世論は、日本政府に対して直ちに謝罪と賠償、そして中国全土からの撤兵すら要求した。

 

 日本政府も誤爆に関しては非を認めて直ちに謝罪したが、アメリカ軍艦が自らの国旗を掲げつつも中国兵を運んでいた事を指摘、国際法違反だとして強く対抗した。

 

 だがアメリカ側は、当時の国民感情の赴くまま交渉を重ねるごとに強硬な、当時の列強外交の常識とは違った要求を強くしていき、彼らの視点から理不尽に映った要求に日本側も激しく反発、当然両者の国内世論も激昂、早くも米日のイエロー・ジャーナリズムでは戦争の様相を見せる事になる。

 


 その後、米日外相による直接交渉も開始されたが、両者の意見が真っ向から対立していたため効果はなく対立は深まるばかりで、しかもその交渉の最中、アメリカは満州のアメリカ系移民の保護とフィリピンの治安維持を目的に、大艦隊をアジア地域に派遣する事を決定。

 順次ハワイに軍隊の集結を始める。

 

 これを見た日本政府も態度を硬化。

 互いに交渉を重ねつつも戦争の準備を始めることになる。

 

 冬に入ると、戦艦数隻によるアメリカ艦隊がフィリピンに派遣されるに及び、もはや話し合いだけによる解決は難しいと日本政府も判断。

 東シナ海に有力な艦隊を派遣し、武力外交によりアメリカを威嚇する行動に出る。

 まるで、後のキューバ危機のようなエスカレーションのような状況の現出だった。

 

 そして、日本の強硬姿勢に過剰反応したアメリカ政府は、日本の侵略的傾向をそれまで以上に激しく非難した。

 

 両者の罵詈雑言が飛び交う中、1934年1月3日、事実上の臨検と海上封鎖を行おうとした日本海軍第二艦隊とアメリカ太平洋艦隊所属アジア艦隊の間で発砲事件が発生、これが『東シナ海海戦』へと発展し、威圧を目的として相手より有力な艦隊を派遣していた日本側の一方的な勝利で戦闘は幕を閉じ、アメリカ・アジア艦隊は主力艦の全てを失い敗退する。

 

 日本政府は、これでアメリカに冷や水を浴びせかけたつもりだったが、日本政府が新たな交渉を持ちかける前にアメリカは即日開戦を議会で決議、以後約1年にわたり、太平洋という史上最大の舞台を使った大海洋戦争が勃発するのは、よく知られている通りだ。

 


 第一次太平洋戦争については、国内で詳しく知る者は専門家でもない限り少ないと思うが、国民にとって辛い記憶なので、軍事的事象については概略のみ触れて次に進みたいと思うが、やはり最低限だけは紹介しておこう。

 

 第一次太平洋戦争は、先述の『東シナ海海戦』を皮切りに、『第一~三次マーシャル諸島沖海戦』、『ハワイ沖海戦』の3つの大規模海戦と、フィリピン、ハワイを巡る地上戦が大きな戦いであり、実質的にこの5つの戦闘が戦争を決したと言ってもよかった。

 

 つまり、第一次世界大戦で示された国家の総力をあげた戦争が否定され、日本軍の正面正規戦力による戦術的勝利の積み重ねが、ステイツに敗北をもたらしたというのが結論だ。

 

 だからこそ、当時ステイツより圧倒的に国力が低い日本が勝利したのであり、もう一つの視点から見るなら1920年代から10数年かけてのアメリカ海軍に正面戦力でのみ対抗するための計画的軍備建設を行った日本の、中長期戦略が功を奏したと表現できるだろう。

 


 そして日本のライオン宰相・浜口の手腕はここでも発揮され、1935年1月1日の太平洋戦争停戦発効と1935年3月1日の『ホノルル講和会議』締結に尽力し、米日戦争を正面戦力だけを用いた、日露戦争以前の限定的総力戦で幕を閉じさせ、米日両国の戦争による損害を最低限のものとした彼の国際的評価はさらに高まり、英国の日本に対する信頼をさらに厚いものとしていく。

 特に英国にとって、アメリカの対外膨脹が完全に停滞した事は、日本との同盟を始めてよりの最大級の外交的勝利だと言えた。

 

 そして、第一次太平洋戦争の後遺症は、アメリカ政府の政策を軍事面・経済面そして精神面に対するダメージから一時的にモンロー主義へと回帰させ、以後四半世紀近く続くアメリカの国際的孤立を深くする事になる。

 


Phase 1-4 第二次世界大戦とその後 ▼


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