Phase 1-2 混沌の中華大陸
中華大陸北部を巡る帝国主義的ゲーム、つまりアメリカ、英国、日本の奇妙な競争、共存、競合関係は、日露戦争以後それなりに順調ながらも複雑化の様相を見せる。
それは、互いの市場が中華大陸内で重複してしまったからだ。
そして必然的な帝国主義的競争を生み、最終的に満州事変、第一次太平洋戦争という悲劇的結末を迎える。
「正義は一つにあらず」、というのが20世紀の現代政治での結論だったとは言え、それはあまりにも無惨な結末だった。
もっとも、同地域での問題を複雑化していたのは、中華大陸人民つまり漢民族を中心とする土着民族達の内部抗争が原因していた。
当時、英国、フランス、ロシア、ドイツ、日本の利権が入り込み、典型的な半植民地状態となっていた中華大陸は、日露戦争の結果によるアメリカの本格的進出、ロシアの勢力減退という変化こそあったが、おおむね現地国家である筈の清帝国をほとんど無視した、列強による最もホットなパワーゲームのステージとなっていた。
つまり当時の清帝国は、欧州列強の視点から見るなら近代的統治体制にない、半植民地にしてもなんら問題ない未開民族の国家に過ぎなかったという事だ。
そして、当時世界帝国だった英国は、中華地域でも最も大きな勢力圏を持ち、20世紀初頭以後はロシアから満州の過半を獲得した日本がそれに続き、日本の利権に食い込んだアメリカが徐々に両勢力へのドルによる浸透を強化するという形で、日露戦争以後数年間が経過する事になる。
また、南満州に対するステイツからの良質な資本投下は、本来なら米日の友好関係の架け橋となる筈だった。
事実、当初は極めて良好な協力関係が築かれ、日本人が現地警備と行政を担当し、ステイツが資金と技術を提供するという形で南満州の大地は驚異的なスピードで発展を続け、両国と満州に多大な利益と恩恵をもたらしていた。
これは、日露戦争でのステイツの態度以後醸成されていた米日友好を発展させるのに大いに貢献し、このままの流れが続くなら米日友好によるアジア・太平洋の新たな枠組みが作られたと分析する研究者も多い程で、事実当時の米日の関係者もそう考えていたものも多かった。
だが、1911年以後の中華中央の混沌化が、悪い方向での変化を強要する。
文明が発祥してより中華大陸では、彼らの住む場所こそが世界の中心で、同時に人間社会の全てであり、それ以外の地域は彼らにとって文明人の住む世界には該当ぜず、人間以下の蛮族が中華世界の優れた文明の恩恵を受けて形作っていた化外の地、人以外の獣の大地でしかなかった。
これを一般的には中華思想と言う、過半の民族・国家は一度は持つ国粋主義思想だが、紀元前遙よりこの考えを持つ同地域の人々の中華思想は、極めて頑迷かつ強固なものだった。
これは、彼ら自身が自らを「中華」と名乗っているからも明らかだ。
そして、そうであるが故に彼らにとっては外交というものは存在せず、全ては内政のため、中華大陸での覇権をいかに獲得するのかが、彼らの政治的行動の全てであった。
そして、これを理解できない列強各国は、これを理解できぬまま、中華大陸でも自分たちのルールが通用すると思い、この人の海へと飲み込まれていく。
これはもしかしたら、近隣の日本人の示した態度が東洋人一般にも通用すると、各国の誤解を招いたのかもしれない。
1911年10月、『辛亥革命』により老大国清は崩壊し、その混沌の中から翌年1月中華民国の建国が宣言されたが、これは日本の明治維新などと違い、新たな近代的中央集権国家の出現とはならずに、大規模な内戦勃発の号砲となった。
中華の人々は、それまでの中央政府が倒れた事で、自らが次なる覇権者になれると考えたのか、各地で搾取を重ねて得られた資金を用いて、その殆どがゴロツキや盗賊の群に過ぎない俄づくりの軍隊を作り上げ、自らの勢力拡大に腐心する。
そして、『辛亥革命』を指導した偉大なる孫文の死が、中華大陸の混沌化を決定的なものとした。
袁世凱、蒋介石、張作霖、毛沢東、汪兆明などの権力者が誕生し、それぞれの足を引っ張り合いながらの現在も続く中華内戦の始まりだった。
当然、各列強もこの混沌に我先にと首を突っ込んで、その泥沼に足を取られていく。
特に英国と日本そしてアメリカが深入りしていた。
中でも順調に勢力を拡大していたのは日本人たちで、彼らは日露戦争以後形成されていた清帝国との関係を、その後次々に現れる権力者に鞍替えしながら、基本的に中華民国政府との関係を強くしながら自らの商売を熱心におこなった。
その商売とは、文明人にとって最も忌むべき武器売買で、日露戦争終了とその後の軍縮で余った大量の武器を、安価で売り払う事で彼らの関心を買い、その後日本国内で作られた武器を、安価な人件費、地の利というアドバンテージを利用しつつ販売し続けた。
本来ならこの日本の行動は、他の列強の不興を買うのだが、日本が政府主導で武器売買を行ったため、中華大陸で日本製の武器を手にするのは、満州と中華中央の中でも列強に比較的従順な勢力に限られており、これがある程度の安定を中華大陸にもたらし、この状況を各列強が自らも同種の商売を熱心に行う事で肯定し、唯一植民地的収奪を行っていなかったアメリカは、南満州での日本の国際法を頑なに遵守する政治的態度に当座は満足してしまい、いずれ日本が経済的力関係から他の中華市場もアメリカに順次解放するのではという楽観的期待からも、日本の悪しき態度を見て見ぬ振りをした。
そして、このいい加減な各国の対応が、結局は中華大陸にさらなる混沌を呼び込む事になり、一人欧州列強の顔色を伺いつつ行動する日本人が、場当たり的な賢明さを見せ、中華人民を無視した列強外交の中で一人中華大陸での安定した勢力の拡大を実現していく。
これは、1913年に発生した第一次南京事変と呼ばれる、南京、上海で発生した中華人民による列強租界に対する暴動で、日本軍が断固たる態度で出動し、列強全ての利権を守った事に象徴されている。
また、1911年に双務的攻守条約に改訂されていた日英同盟が、日本の列強間での立場を盤石なものとし、このすぐ後に勃発する第一次世界大戦で、英仏を始めとする連合国側が日本に大きく期待させるという流れを作り上げる。
中華大陸の混沌化と日本の場当たり的な賢明さは、欧州列強をして日本を自らの政治ルールを守るゲームプレイヤーだと強く認識させたのだ。
だが、ここで米日関係が斜陽を迎えていた。
アメリカ人は、日本がステイツにとって第一の潜在敵と言って良い英国とばかり協調し、自らの他の市場をアメリカに解放しない事にいらだちを覚え、日本人達は自らの利権拡大の為だけに金と人ばかり無理矢理中華大陸に持ち込み、国家として責任ある行動を何もしないアメリカを、貪欲なだけの無定見な相手だと考え、さらなる市場と利権ばかり要求する事に次第に苛立ちと脅威を感じるようになっていたからだ。
この影には、米日を仲違いさせる事で自らの利権拡大を図る英国の姿も見え隠れしていたし、中華各勢力の目先の利益だけを見据えた無定見な活動が米日の反目利用に傾いていた事も影響していたが、米日の経済摩擦問題、以後今日まで続く米日の永遠の課題が噴出し始めた事が、短かった米日の蜜月を終焉へと向かわせたのだ。
そうした中、欧州を中心とした第一次世界大戦が勃発する。
1914年から1919年の長きに続いた欧州での戦乱は、その後世界の政治地図を大きく描きなおしてしまう。
表面的には、同盟国側に立ったドイツ、オーストリア、トルコの各帝国が地図の上から一度消滅し、大戦の余波でロシアでは共産主義政権が誕生し、その副産物として欧州近在では多数の民族自決国家が誕生する。
当然、アジア地域にも大きな影響を与えた。
特に満州においてそれは顕著だった。
これは、第一次世界大戦に連合軍側に積極的に参戦した日本が、ベルサイユで行われた講和会議で主張した事柄が強く影響していた。
日本はこの講和会議に乗り込むに当たり、自らの覇権の拡大と、有色人種の期待に応えるという実利と理想の二つの政治目的を満足させうる革新的提案を持ち込もうとしていた。
彼らにしてみれば、「正義は常に一つ」と言ったところだろう。
そして、彼らの主張の一つは、オブザーバーとして講和会議に参加したアメリカ合衆国大統領ウィルソンの持ち込んだ、戦時特需で国力を大きく増大させたステイツが国際的地位の向上を目指して提唱した各種提案の一つ、国家間の紛争・問題の解決・調停を行う国際機関の設立とほぼ同じ提案の提出であり、もう一つは有色人種国家であるが故に自らも強く望んだ世界規模での民族自決主義・人種差別撤廃の実践だった。
国連創設構想は、何もアメリカの独創的な考えではなかったのだ。
そして当時国際条約尊守については世界一生真面目だった日本人達の理想は、ステイツの白人支配層の予測を越えた状態で一部実現して多数の独立国が出現し、『国際連盟』の名を冠した国際機関が設立される。
ただし、ここで日英の間に裏取引があり、日本が議題を公にする前の根回しの際、日本が当初さらに一歩踏み込んで提案しようとしていた全世界規模での「人種差別撤廃」の言葉を取り下げる代わりに、英国は民族自決を欧州だけでなく中華大陸においても認め、満州の中華中央からの分離を約束した事がこれにあたる。
そしてこの約束があったからこそ、日本は大戦末期の中華大陸の覇権拡大を必要最小限にとどめ、他の有色人種からの期待を一部裏切ったのであり、これを全く知らなかったステイツは、個人レベルが主であったがドル資本の浸透を大々的に行い、戦後中華各勢力と列強から強い不審と不興を買うことになる。
その事をアメリカは、国際連盟の会議で中華大陸問題が取りざたされ、国連の理念一つである民族自決主義に基づき、中華大陸での漢民族以外の民族の住む地域の分離独立という流れが示された事でようやく知る事になる。
そして、結果としてステイツは日本から完全に裏切られたと解釈し、以後中華大陸で独自の行動を取るようになり、米日友好の溝を深くしていった。
もっとも、当時の日本政府はこの時アメリカを中華市場から追い出す気まではなく、単に自らの勢力拡大を図ろうとしたに過ぎないと今日では判断されている。
いつの世も誤解が誤解を呼ぶという典型だった。
第一次世界大戦後、満州での日本とアメリカの経済対立は日増しに激化していく。
また、大戦により経済力を巨大化というレベルを超え肥大化していたアメリカ経済は、その後も中華市場全域で影響力を強めており、アメリカと英国を始めとするその他列強の対立も激しさを増しつつあった。
これは、南京を拠点とする蒋介石率いる中華国民党と、北京を拠点にする袁世凱の北閥、日本が後押しする満州の張作霖という形で事実上の代理戦争に発展する。
また、コミンテルンが後押しする中華共産党の勢力も日増しに大きくなりつつあった。
そして、蒋介石の北伐により袁世凱が駆逐され、中華共産党も勢力を減退させ、中華中央部が国民党により一応の統一がおこなわれると、アメリカの行動は一層激化する。
当時アメリカは、ひとり第一次世界大戦から続く好景気の中に今だあり、世界の富の半分はアメリカの手にあると言われる状態が続いていた。
同じく世界大戦で国力を大きく増大させた日本が、彼らの首都を襲った大地震を契機に大規模な公共投資による内需拡大、政府主導型産業発展路線へと変更したのと対照的に、株への投機と市場経済といういまだ未成熟で得体の知れないものに自らの全てを捧げていた。
だからこそアメリカ経済は常に市場を欲しており、その為の資金は国内の異常な投機熱により無限に生み出され、その一部が満州の大地へと降り注いでいた。
見せかけだけとは言えその巨大な資本力は、確かに同地域の社会資本の整備には大きく貢献し、鉱工業生産力、農業生産力は飛躍的な向上を見せていたが、それは1920年代に増えた都市部中心の偏った好景気により荒廃したアメリカ中西部農村からの移民(経済難民)の手に多くが還元されており、満州全土の実質的な支配者である日本人と現地民族の悪感情はほとんど全てアメリカに向かう事になる。
当然、現地アメリカ人と有色人種の衝突が各地で発生し、現地の警察活動の全てを担っている日本も、国際的に非難を浴びかねない日本人による不正行為や非道には積極的な治安維持活動を行ったが、現地住民がアメリカ人に行う事実上のテロ行為については、最低限度の活動、つまりおざなりの対応しかしなかった。
これは必然的なアメリカの態度硬化を招き、1925年にはアメリカ自ら軍事力の満州常駐を発言させるに至り、1927年遂に日本などの強い反対を押し切って、最初のアメリカ兵が大連港へと足跡を記した。
当初派遣されたアメリカ合衆国連邦陸軍は、連隊規模の司令部に1個大隊、1000人程度の軽装備の実戦部隊を伴っただけのもので、その輸送にも軍艦を用いずに政府が徴用した輸送船や客船をあてがい、日本や英国など列強にも最低限配慮していたが、日本を始めとした列強各国がこれを好意的に見る筈もなく、日本のように中華全土での国際的警察活動をするのでないなら、全く不要な戦力と全ての国々が見ていた。
欧州や日本は、この時のステイツの行動を、帝政ロシアと同質と見ていたのだ。
特に現地住民の反感は強く、徐々に増えつつあるアメリカ移民がついに軍隊を伴ってきたと、日本が行っている事と同じ事をしていながら、反応は極めて悪いものとなった。
日本人達も帝国主義的活動を現地でしていたが、それだけでなく現地の自分たちに直接関わり合いの薄い広範なインフラ整備などにもなぜか熱心で、それが現地住民から好意的に見られる要因となっていたからだ。
とにかく、1929年には満州で独立準備政府が成立し、以後他国の軍事力駐留が難しくなるその間隙を突いたアメリカの行動は、現地住民の自尊心を著しく傷つけた。
そして、それは一つの形に収束し、日本の衛星国的立場ながら満州全土の支配権を握る張作霖に決断を強いて、それがアメリカに一つの謀略を実行させる事に繋がる。
Phase 1-3 満州事変と第一次太平洋戦争 ▼