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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
Return Match 〜第二次太平洋戦争〜
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Turn 1:対立要因 Phase 1-1 日本の近代化と英国の落日

 大日本帝国とアメリカ合衆国連邦が二度目の太平洋戦争を行った原因を知るには、我々のよく知っているステイツの歴史を見直すよりも、日本の近代史、つまり日本人たちが明治維新と呼ぶ見せかけの無血革命に遡って見なければならない。

 また欧州のグランドマザーとすらうたわれたビクトリア女王が崩御した大英帝国の、20世紀に入ってから動きにも注目しなければならないだろう。

 

 なお、この二つの国に共通するのは、共にステイツに対して20世紀以後常に好意的でないと言う事と、共に小さな島を根城とする謀略外交を好む海洋帝国だと言う事だ。

 

 そして、第二次世界大戦後落日が確実となった大英帝国が、自らの後継者もしくは世界の共同管理者として、潜在的には最も巨大な国力と地球規模での地の利を持つステイツを選ばず、東洋の小さな島国を選んだ事が日本とアメリカの二度目の激突をもたらしたと言って良いだろう。

 

 では、順に見ていこう。

 


 日本列島では、1867年の地方豪族勢力による無血革命により、それまでのショーグンを中心とした近世的封建体制が崩壊し、2000年以上、彼らの伝説によればイエス=キリストよりも古い時代からの血統を誇るとされる「TENNNOU」と呼ばれるエンペラーを中心とした近代的中央集権国家が出現した。

 

 当時ステイツは、南北戦争の荒廃からの復興途上にあり、彼らの政府の行く末について深く関わることができなかったが、この革命がステイツのアドミラル・ペリーによる1853年の日本訪問と日本開国によりもたらされたのは間違いないだろう。

 

 つまり近代日本を呼び覚ましたのは、皮肉にもアメリカ合衆国なのだ。

 

 なお、この新政権は自らを「大日本帝国(G.E.J)」と呼称し、その名が示す通り自ら植民地列強への道を邁進していく。

 

 また、数百年かけてショーグンとサムライ達が作り上げた精巧で緻密な自らの優れた文化を捨て去り、日本人達自らがビクトリアンカラーに染まっていった点も無視できないだろう。

 日本ではこれを「文明開化」と呼び、日本近代化の象徴としていた。

 

 確かに、当時のヨーロッパ列強は、自らと同じ近代的政体、スタイルを持たなければ、相手地域を近代国家として認識しない悲しむべき傾向を強く持っていたが、これは明らかに日本人の根底にある機会主義の最たる現れであり、その証拠として自らの伝統文化・精神を全て捨て去ったわけではなく、ヨーロッパ文明の都合の良い点だけ日本文化・文明の中に取り入れている事が挙げられる。

 

 まさに、海洋国家的行動と言ってよいだろう。

 

 そして、この日本のような改革を受け入れられなかった東アジアの他国が凋落したのは必然だったとも結論できる。

 


 しかし日本が世界史の中で自らの力で登場するのは、彼らの無血革命から約30年を待たねばならなかった。

 

 日本の政治や制度を作り替え、その成果を発揮する為に必要だった時間が30年と言う時間であり、一見何をのんきなと思われるだろうが、このタイムスケジュールは各国と比較すると恐るべきスピードと考えてよく、これほど短期間で近代化なし得た国はそれまで存在しなかった。

 

 そして「日中戦争」、日本の呼称では「日清戦争」と呼ばれる1894年から翌年にかけておこなわれた戦争が、世界が日本を認識した事件となった。

 

 同戦争で日本は、自らの近代化の成果を遺憾なく発揮し、また徴兵による国民軍隊の威力を東洋の眠れる獅子と呼ばれた老大国に見せつけた。

 

 『清』と呼称した世界最大規模の人口を擁する中華帝国は『眠れる獅子』だったのかも知れないが、日本はその上を行く東洋で言うところの『昇竜』だったのだ。

 そして、眠ぼけ眼の獅子が勢いのある竜に負けるのは当然と言えば当然であり、全ての事象から分析しても、ひいき目を一切無くしたとしても、当時の日本が中華に勝っていたのは明らかだった。

 

 「日本軍北京包囲セリ」。

 この電報は当時世界を駆けめぐり、それまで見たことも聞いたことも無かった東洋の小国の存在を世界中に知らしめた。

 特に注目したのが、ユナイテッド・キングダムことイングランドだった。

 


 20世紀初頭の大英帝国は、自らがその先頭を走っていた帝国主義政策の末期的症状にあった。

 いや、最初に末期的症状に到達したと表現すべきかもしれない。

 

 ボーア戦争と呼ばれる、南アフリカで行われたオランダ系原住民との泥沼の戦争がその最たるものだった。

 どん欲さにおいては人後に落ちない旧大陸人たちは、オレンジ自由国、トランスバールと呼ばれたオランダ系移民による二つの国で見つかった金とダイアモンド欲しさに安易な戦争に傾き、二つの国のコマンドーと呼ばれた不屈の兵士達の前に苦戦を余儀なくされ、数年間の泥沼の戦争の末世界帝国として身動きができなくなっていたのだ。

 

 いや、実際は身動きが辛くなった程度だったのだが、20世紀を迎えようとしていた時、ウィーン会議以後形作られた大英帝国黄金時代である『パックス・ブリタニカ』は終わりを告げつつあり、19世紀の間イングランド最大のアドバンテージだった工業力という点において、我がステイツとドイツが特に隆盛して彼らの足下を崩しつつあり、またドイツ第二帝国がその名に恥じぬ膨張外交を展開しつつあり、何を考えているのか世界中で列強各国と衝突し、英国の世界統治を脅かしつつあった。

 帝国主義的政策については、我がステイツも誉められたものではなく、1889年にスペインと戦争を行い彼らからキューバやフィリピンを得るなどしているので、ドイツと同列とまで言わないまでも、英国の屋台骨を揺らしていた事は間違いないだろう。

 

 そして、ステイツやドイツ以上に英国の世界統治に挑戦している国家があった。

 

 世界一暴力的な侵略国家である帝政ロシアだ。

 

 当時、英国に次ぐ世界の陸地の六分の一を領有し、なお領土拡張の意欲に燃える同帝国は、彼らのドグマである南進政策に従いアジアの各地で南に向けて強引な進出を続けており、そこかしこで英国の利権とぶつかり合っていた。

 そして英国は、生命線たるインド近在のペルシャでこそ彼らの動きを抑さえたが、本国からは地球の反対側と言ってよい東アジアではこれを一国で押し止めることが極めて難しいため、自らの代行者として、アジアの番犬としての日本に注目し、日本が中華地域の大規模な内乱である「義和団の乱」で見せた政治的・軍事的行動が決定的となり、1902年の日英同盟締結、英国の栄光の孤立を自ら崩す政治的行動を取らせる結果につながる。

 

 こういう視点から見ると、日本の隆盛と英国の落日が奇妙に重なっている点は実に興味深い。

 


 そして、英国とドイツがそれぞれのバックに付き、旧大国ロシアと新興帝国日本が直接戦うという図式で1904年2月から約1年半の間『日露戦争』が行われ、日本と言う名のそれまで美しいだけの小さな鯉に過ぎなかった『昇竜』は、『眠れる獅子』だけでなく貪欲な『北の熊』をもうち倒してしまう。

 

 これはまさに奇跡の現出であり、世界が日本に本当の意味で驚嘆した。

 特に日本近海の対馬沖で行われた大規模な海戦は、歴史上空前絶後の日本の完全勝利となり、以後神話的色彩を帯びて日本に好意的な人々の間で語り継がれる事になる。

 まさに明治日本が神話になった瞬間だった。

 

 そして有色人種が白人種に勝利したという事象は、世界中の有色人種に大きな希望と光を与え、白人勢力に深い憂慮と影をもたらした。

 

 中でも日本の同盟国、世界の四分の一を支配する植民地帝国だった大英帝国を筆頭とする欧州各地の多民族国家、そして南北戦争で見せたような根深い有色人種問題を抱える我がステイツのショックは大きく、ステイツでこそ問題は表面化しなかったが、大英帝国をして植民地帝国から金融帝国へ移行する最後の決意をさせ、近代化に失敗した旧大国型多民族国家の崩壊を誘っていく。

 

 だが、それでも大英帝国は、日本との同盟をその後長らく継続する。

 理由があった。

 

 もちろん、英国にとってである。

 

 自らの相対的な覇権縮小により、ロシアの勢力が東洋で減退したにも関わらず、アジアでの国家間の警察官としての活動を自らでなく他者に依存せざるを得なくなり、これをなし得るアジアの近代国家が日本しかなかったからだ。

 

 特に混沌の度合いを深める一方だった中華大陸での莫大な英国利権を守るには、日本政府のそれまで示した、特に日清戦争から日露戦争で見せた西欧型近代国家としての態度とその軍事力は大きな魅力であり、英国人特有の損得勘定の結果から、その国家が有色人種によって作られたものだろうと問題とされなかった。

 

 英国は、ただただ日本政府が自らの意向に忠実な警察官活動さえしてくれるなら、彼らの帝国が少々大きくなろうと認めるつもりだった。

 

 なぜなら、それこそが大英帝国の存続を、パックス・ブリタニカの存続を補強するからだ。

 

 そして、この英国の態度こそが、この後の日英関係を続ける大きなファクターとなっていく。

 


 この英国の政治的態度を日本政府が誤解しなかったのは、その後の日本の政策に大きな影響を与える。

 また、日本が東アジアで英国の望む行いをするためにはある程度の覇権獲得が必要で、これを達成するには近隣での広範な商売が必要だと英国に伺いを立て、英国がこれを認めた事が日本の国民レベルで決定的な効果を及ぼす。

 

 つまり、自分たちの懐を温かくする為に最も有効な手段こそが英国追従外交であり、彼らの政治的メッセージを間違えず、忠実に実行する限りにおいて日本の西欧のルールの中での繁栄は約束されたようなものだと、日本人達が損得勘定の結果から正しく回答を導き出したのだ。

 

 当時の東洋の情勢、日本の地政学的位置、欧州政治力学の全てがこれを肯定しており、以後の日本の政策は英国(欧州)の声を聞くため耳を立てる方向に強く傾き、一方では英国からお墨付きのついたアジアでの貿易の拡大に腐心する事になる。

 まさに、機会主義的態度だった。

 

 そしてこの日本の態度は、中華大陸国家に対するこれより以後続く対立を決定的にし、日本に世界規模でのランドパワー対シーパワーへの道、海洋覇権国家の道を歩かせる事になる。

 


 しかし日本人達が、綺麗さっぱり忘れていた事がある。

 我がアメリカ合衆国政府との外交だ。

 

 ロシアの南下政策が中華地域で本格化した時、アメリカは最後の大規模市場である中華地域がロシアの手に握られ閉ざされる事を恐れ、ロシア人の魔手を退けるためだけに日本人たちを後押ししたのだが、講和の仲介をした事以外は民間での協力が主力だったため、日本外交の目を必然的に戦略的支援を強力に推進した英国に向けさせた。

 

 唯一の例外は、当時ステイツで『鉄道王』と言われたハリマン氏と日本の外交担当者小村寿太郎が交わした、南満州での鉄道利権での口約束の履行だった。

 

 これにより日本の得た満州全土の鉄道利権のうち、南満州鉄道と呼ばれた地域にアメリカ資本が入り込み、アメリカは血を流すことなく新たな市場を獲得し、日本はアメリカ人の個人的な日本債券購入者への感謝の現れ、利益配分とした。

 

 もっとも、日本が日露戦争での戦勝で、北緯54度以南のカムチャッカ半島、樺太全島、満州全土の利権、オホーツク海全域での漁業権など多数の利権を得た事で心理的余裕が出たからこそ日本人たちが認めたと言え、もし日本がロシアからわずかな利権しか獲得できなかったら、どうなっていたか分からない程危ういものだった。

 


Phase 1-2 混沌の中華大陸 ▼


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