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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
Red Storm_亜欧州大戦
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Phase 06:1941年9月 東欧戦線3

 にわか同盟国となったハンガリーを起点に、チェコスロヴァキアとユーゴスラヴィアへ侵攻を開始したソ連赤軍だったが、その歩みは全くはかばかしくなかった。

 

 理由は言うまでもなく、侵攻側のソ連軍が開戦一日で制空権を失ったからに他ならない。

 しかも部隊の主力はドイツを刺激しないため、いまだルーマニア国内に主力が存在するという状況で発生した。

 

 ただし、この時点でこれほどの戦果を予測できてなかったとされるドイツ陸軍は、開戦当初はドイツ、旧ポーランド=ソ連国境線を中心に防備を固め、事前の予定通りチェコとオーストリアに援軍派遣を開始した以外は行動を開始しておらず、遅滞防衛戦という以外では、ソ連赤軍と真っ正面から殴り合うという状況にはなかった。

 

 同時に参戦した英国も、ギリシャ国境に兵力を展開し、ユーゴへの空軍支援を開始したぐらいで状況はドイツと似たり寄ったりだったが、大規模な空軍部隊が続々とギリシャ・地中海方面に送り込まれつつあり、ドイツが作り上げた航空優勢を側面から補強していた。

 

 そして、たとえ軍事クーデターを起こし軍内部から政治士官を追い払おうとも、一度決定した事は簡単に覆せないというソ連独特の政治的体質もあり、侵攻、彼らの言うところの『平和的武力進駐』はそのまま継続される事になる。

 


 このため、ドイツ軍が制空権を握りドイツ空軍を始めとする欧州空軍の圧倒的優位という状況で前線付近での航空撃滅戦が行われる中、ソ連赤軍が東欧をさらに西進するという奇妙な状態が生まれていた。

 

 このため、ソ連軍は己の血を代償としてしか前進する事は適わず、主に目標となりやすい装甲車両、自動車両、砲兵を中心として膨大な損害を被る事になる。

 

 東欧の戦場は、開戦二日目からはドイツ空軍の誇る急降下爆撃機「Junkers Ju87(スツーカ)」ソ連兵の言うところ「悪魔のサイレン」達による射的大会となっていたのだ。

 

 そして、ドイツの成功に気を良くした英国のいくつかの決定が、双方の事態をさらに加速させる事になる。

 

 一つは、ギリシャに対する軍団規模での援軍の派遣で、オーキンレック将軍を司令官として本国に温存していた1個戦車旅団を含む4個師団の精鋭をギリシャに送り込みソ連に対するブラフとした事だ。

 

 なお、ギリシャにはそれまでにも3個師団近い英国軍兵力が送り込まれ、さらにエジプトや中東にも各1個師団近い兵力が展開しており、この派兵で英国はアレキサンドリアを司令部に東地中海軍司令部を開設して自らの態度を明らかにしていた。

 

 また、世界最強のロイヤルネイビーも地中海艦隊の増強を積極的に進め、新鋭戦艦を含む8隻の戦艦、2隻の空母を中心とした英海軍の3分の1にあたる圧倒的な戦力を誇る艦隊の常駐を開始し、ソ連軍がボスポラス海峡を一歩でも越えてくれば襲いかかる姿勢を取って、海洋国家らしい圧力をかけてもいた。

 

 だが、事態を加速させたのは、この直接的な兵力の展開ではなく、もう一つのどちらかと言えば政治的な行動の方だった。

 

 対外的には『対独援助協定』もしくは『対独援助法案』と呼ばれる、ドイツに対する物理的な援助を約束する法案の可決がそれだ。

 

 この条約は、それまでの軍需物資でもある各種資源の優先的輸出を認めるものではなく、これらの資源の安価な輸出、場合によっては無償供与を定めたもので、さらにはそのまま前線で使用できる兵器の輸出、貸与、援助を認めたものだった。

 しかも、この協定には暗に兵器の取り扱いのための軍事顧問団派遣すら含まれていた実質的な軍事同盟条約だった。

 

 ただしこの条約は、英国が今回のソ連との戦争に対して、当面はドイツの同盟関係の保留を明確にした事も同時に表しており、ポーランド侵攻に見られるようなドイツに対する政治的不審が英国に於いても消えていない事を示すと同時に、フランスにも気を使った中途半端な英国の態度を示す好例でもあった。

 

 またもう一つの英国の取った政策は、1934年から行われた太平洋戦争において日本から多数の借款や国債を引き受けた事から、これを一部の完全放棄もしくは利子の帳消しを日本に伝え、日本の経済的負担を小さくしこの代償として、ソ連に対しての軍動員を促進させようとした事がある。

 

 そして、この後者二つの政策は、ソ連とドイツにいくつかの決断をさせる事になり、欧州での戦争を激化させる方向へと針路修正を強要する。

 


 ドイツ軍は英国の後ろ盾、特に各種資源、中でも石油資源とその精製物の分野でフリーハンドを得たことを殊の外喜び、すぐにもハンブルグなどに運び込まれた援助物資を使い、急速に対ソ戦態勢を整えていった。

 

 もっとも、ドイツ人が一番最も喜んだのは、英国が味方についた事でコーヒーの輸入が今後も支障なく行えた事だと言われている。

 

 一方ソ連は英国が本格的に動きだした事で、自分たちに対する締め付けがいよいよ強くなった事を実感し、より一層動きを早めた、と言うよりも欧州列強との本格的対決姿勢を強くする事になる。

 

 ただし、順次予定されていた極東や支那地域などへ戦線拡大は中止され、戦闘正面は様々な問題から欧州正面と事態が許すならと言う付帯条件付きで中東に限られる事になった。

 

 これは、英国の日本に対する外交活動の結果、ソ連側が行動開始を予定していた1942年夏には日本の動員態勢が整ってしまう公算が高くなり(1943年にはソ満国境に再び100万の軍勢が出現予定で、空軍戦力も陸海合計で4個航空艦隊(空母部隊除く)が動員予定だった。)、特にソ連側が制空権と制海権を奪える公算が全く立たず、このため満州や樺太サハリンに侵攻するどころか自らの極東の拠点全てを失う恐れが高くなる事が予想された、『東方を侵略せよ』と命名された街は、反対に東方から侵略されるだけの戦略価値しかない街に成り下がっていたのだ。

 

 そしてこれは、特に賢明な、ある意味軍事に於いて賢明すぎた新たなソ連の統治者トハチェフスキーが、日本海軍が編成しつつある巨大な空母機動部隊を恐れ、以後日本に対するリアクションが低調になる最初の例となった。

 

 余談だが、これをトハチェフスキーの空母恐怖症、もしくはトハチェフスキー症候群と呼ぶ者もいる。

 

 確かに2個航空艦隊に匹敵する外洋航空戦力が、外線防御(もしくは攻撃)の有利を利用してどこからともなく現れ、圧倒的破壊力を持ったままイニシアチブを握っているのだから、理論的にはたまったものではないだろう。

 

 また支那地域の計画の遅延は、元々ソ連が直に手を下すのではなく当地の共産党勢力に依存したものであり、その肝心の中華ソヴィエト(中国共産党)が支那全土の規模で紛争状態にできる体力を持つには最低あと5年は必要と見られた事に起因している。

 なお、これも日本が満州を実効支配している事が影響している。

 

 かくして、1940年代の戦争の帰趨は、事実上のドイツとロシア・ソヴィエトの一騎打ちという形で、中欧にて行われる状況が1939年末から1941年秋の間に形作られる事になっていた。

 


 そして遂に銃弾は、旋条痕を刻まれつつ銃口から放たれる事になる。

 

 1941年9月10日、東欧各国国境に接した全てのドイツ軍部隊の火砲が一斉に火蓋を切り、戦車を先頭とした大軍勢が越境を開始したのだ。

 

 これは、ドイツ軍による「秋攻勢」と呼ばれる、東欧南部奪回をかけたこの年最後にして最大の軍事行動だった。

 

 この時ドイツ軍は、歴史的にも知られている通り、ポーランド南東部を軸に南下する軍主力を巨大な金槌とし、ギリシャなどに展開している英国から増援を受けた防衛部隊を金床として、ソ連赤軍・東欧解放軍の包囲殲滅を狙った、秋に入ってからのロシア大陸進入を避けた防衛的な作戦となった。

 

 ドイツ軍は、ハナからソ連侵攻など考えていなかったのだ。

 

 本作戦は「チタデル」と命名され、2個軍集団プラス1個軍を主力とした、ポーランドで鉄壁の防衛態勢を敷く1個軍集団(東プロイセン軍集団)を除いたドイツ国防軍の過半を投入した大規模な攻勢作戦で、作戦に従事した兵員の数は同盟国軍を加えると250万人に達していた。

 

 これは、110万から150万人に増強されていた東欧のソ連軍の二倍に達する数で、攻勢側がドイツであるというイニシアチブと制空権がドイツ軍の手にある事を考えれば、ドイツ軍としては攻者三倍の原則を満たした十分勝算のある作戦だった。

 

 そして、この作戦が軍事的に極めて堅実に組み上げられた背景には、ドイツ総統を始めとしたドイツ首脳部が持つトハチェフスキー将軍とその傘下の優れたソ連将校団に対する恐れと、それでいてソ連との対決は避けられないと判断された恐怖心が直接原因だ。

 

 そして、世界中がソ連への攻撃態勢を整える来年夏までに、自らの状況を悪化させないというただ一点に軍事的命題を掲げたドイツ参謀本部が、攻勢防御戦闘においてほぼフリーハンドを得た事に起因している。

 


 一方、ドイツの全面攻撃を受けたソ連側は大きな混乱に見舞われる事になる。

 

 これはソ連軍が軍事政権だった事とロシア人の一般的気候判断が最大の原因だった。

 この二つの大きな要因から、ソ連はこの時期にドイツが大規模な陸上反攻を行うとは到底考えていなかったのだ。

 

 そしてそれは、8月にドイツ空軍の自らに対する戦術的・戦略的奇襲がこれ以上ないぐらいに決まったにも関わらず、ドイツ陸軍が行動を開始しなかった事で補強されてしまい、ドイツが国境線に部隊や物資を集めているのも、自らの攻撃に対する防衛的な措置だと一方的に誤断した事で、彼らの頭の中にドイツ軍の攻撃という答えを完全に消してしまっていた。

 

 これを識者の中にはルーマニアでの成功がソ連軍に慢心を生み、その短期的結果が(ソ連側にとっての)第二の奇襲攻撃に繋がったとしている。

 

 この認識は一部においては正しいだろうが、やはり上記の二つの理由、軍事政権故の常識への固執、遺伝子レベルにまでしみこんだ気候に対する考えこそが最大原因と言ってよいだろう。

 


 なお、ロシアの気候について少し書いておくが、ロシアの大地はその大半が世界一般的には寒い地方に含まれ、真冬にはマイナス40度にも達する寒冷な地方なのは有名だが、もちろん一年中雪が積もり冬将軍や雪の女王がロシアの大地を席巻しているわけではなく、当然冬と夏の二つの季節があり、冬が明けると雪解けの季節を迎え川の氷は割れ大地は雪解けにより泥の海となり、それが過ぎると寒冷地方特有の乾いた非常に過ごしやすい夏が訪れ、そして秋には冬の前触れに雨期が到来し再び大地を泥の海へと変貌させ冬将軍を迎える準備をする、という流れを繰り返している。

 

 そして、寒い地方であるだけに10月には積雪が観測される場所での秋は早い年なら9月に始まり、平均気温がマイナスになるまでロシアの大地を泥の海としてしまう。

 しかもロシアの大地の泥の海は世界一般尺度からすると常軌を逸しており、彼らの大地のインフラを考えるととてもではないが近代的な軍隊が活動できる環境ではなかった。

 

 そして鏡の向こうの自らに殴りかかられたとしても、最低2ヶ月程度の大規模な攻勢を行わなければ、ロシアの大地の蹂躙とソ連赤軍の撃破は不可能であり、だからこそ8月の時点で地上攻勢がなく9月を迎えた時点で何事もなかったため、ソ連軍は完全に油断していたのだ。

 

 しかも、9月から向こう2ヶ月先には冬将軍が控えており、なおさらロシア人達に安心感を与えていた。

 

 この心理的にはどうしようもない油断が、ドイツ軍の強襲となる筈だった大攻勢をほぼ完全な奇襲攻撃としてしまったのだ。

 

 もっとも、ドイツ軍がこの時期を狙っていたのは、そのような心理側面ではなく、ソ連軍による東欧侵攻が攻勢限界点に達する時を狙っただけであり、ソ連と言うよりロシアの秋や冬の事など知ったことではなかったと言われている。

 


Phase 07:1941年10~12月 東欧戦線崩壊 ▼



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