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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
Red Storm_亜欧州大戦
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Phase 04:1941年夏 ルーマニア戦役

 1941年6月29日未明、ソヴィエト社会主義共和国連邦(以後ソ連)の東欧南部一帯への軍事侵攻開始をもって第二次世界大戦は幕を開けた。

 いや、この場合戦争のイニシアチブを先攻したソ連に敬意を表して「第一次解放戦争」と呼称する方が正しいのだろう。

 少なくとも、今世界中に存在する文書の半数以上はそちらで表記されている筈だ。

 

 なお、第二次世界大戦の開戦時期に関しては、ソ連による1939年の冬戦争や、1940年ドイツのポーランド侵攻こそが正しいとする説もあるし、場合によっては太平洋戦争こそがその始まりだと主張する声もあるが、この戦争の最大の原因であるソヴィエト連邦が大規模に行動した、つまりソ連が欧州列強を正面から敵とする決意を固めて行動を開始した点からも、この時を二度目の世界大戦の開幕とする。

 


 ソ連軍は1941年6月29日午前3時15分、約4,000門の野戦重砲による準備砲撃と空を覆わんばかりの圧倒的物量を投じた空軍力による援護を受けた約80個師団(正確には69個師団プラス各種支援部隊)は、宿敵ドイツの占領するポーランドではなくルーマニア国境へと殺到した。

 

 この時のソ連指導部の本当の戦略目的が何だったのか我々に知るすべはなかったし、単に大陸国家特有の田舎泥棒的な侵略であったのか、緩衝地帯欲しさの予防戦争だったのかすら現在においても明らかになっていないが、三倍以上の兵力、しかも高度に機械化が進んだ部隊による攻撃はポーランドでのドイツ軍がそうだったように、ルーマニア軍にとって破滅的な効果を及ぼした。

 

 これは、急ぎルーマニアの支援を発表したドイツ、イギリスの行動が全く後手後手に回った事も重なり、欧州の政治地図の激変をもたらす事になる。

 

 ドイツの対応が間に合わなかった背景には、自らの防衛的侵略行動の存在があった。

 つまり、ポーランドへの武力侵攻のあまりにも鮮明すぎる記憶が近隣のチェコスロバキア、ユーゴスラビアをして、ルーマニアに援軍を送ろうとしたドイツ軍の通過をなかなか許さなかったのだ。

 

 反対にイギリスの派兵が間に合わなかった理由は単に物理的なもので、英本土から地中海をグルッと回って大輸送船団を派遣しなければならなかったからに他ならない。

 そして、輸送している間に戦闘はたけなわを過ぎていたのだ。

 

 ただし、この時英国が準備した戦力は、ギリシャや中東各地へと派遣されソ連の動きを抑止する事に大いに貢献したので全く無駄とは言い切れない。

 


 同年7月26日にルーマニアは全土がソ連の占領下におかれ、赤軍は資本主義者からの民衆の解放を謳いながら、そのまま軍をブルガリアへと進め平和的武力進駐を行った。

 もちろん、このお題目は彼等の視点からと言う事になる。

 

 また、ルーマニア侵攻と同時にルーマニアととかく対立関係にあったハンガリーが、突然ソ連との同盟関係を結びルーマニア西部への侵攻を開始した。

 ハンガリーの行動は何よりもルーマニア憎しの感情が優先しており、さらには侵略的傾向を持つソ連やドイツに対する小国の外交活動の結果だと言えるが、この時ドイツが受けた心理的ショックはかなり大きなものとなる。

 

 そして、そのショックを体現するかのように、ソ連軍がルーマニア国境を越えると同時にイギリス、ドイツとそれに連なる多くの国々がソ連に対して宣戦を布告し、ここに第二次世界大戦は幕を開けることになる。

 

 なお、東の大国日本帝国は、この時点での宣戦布告は控え、英国に対する後方支援や物資援助だけを念頭にした、事実上の傍観体制に入っていた。

 それは、日本が参戦すれば一人で極東戦線を開かねばならず、そのような事を行う国力が当時の日本に存在しなかったからだ。

 また、アメリカが動かなかったのは、経済的理由と共に伝統の反英外交がその最大原因で、フランスについては、単なる慎重論の世論を反映しただけだと思われていた。

 


 ではここで軍事的・戦術的な点を見る前に、なぜソ連の東欧侵攻がこのような事態に陥ったのかを少し振り返って見ておこう。

 

 1940年6月、ドイツのポーランド併合により表面的には一旦戦争は下火となったが、欧州の政治的状況はいっそう危険なものとなっていた。

 

 それは言うまでもなく、ドイツのポーランド併合により最も侵略的傾向が強いとされる陸軍大国同士が直接国境を接するようになったからだ。

 

 そして、このソ連とドイツの存在と両国の行動が全く予測できない事が、英仏などの行動を遅らせこの時点においても第二次世界大戦と呼ばれる事になるであろう大戦争への発展を阻んでもいた。

 

 もっともこの時の状況は、当事者以外の全ての列強をむしろ喜ばせる事態だったとも言えた。

 なにしろ、どちらも伝統打破を目的とした全体主義と社会主義の政体を持つ国であり、しかも伝統的に侵略的傾向の強い内陸国家で、何より両者は極めて険悪な仲だったからだ。

 

 そして、極めつけとして、ドイツがソ連の脅威の前に「民主主義の防波堤」を宣言し、少なくとも当面は自分達の旗色をどうするかを明確にしていた。

 ついでながら、軍事政権的色合いが強く建国以来あまり健全でない政体にあったポーランドの扱いについて、イギリスなどはむしろ持て余しており、ドイツがこのまま通常の資本主義国家に回帰しポーランドも適当な時期に独立復帰し彼等の忠実な衛星国になるのならと、むしろドイツの行動を好意的に見ている勢力すらいた。

 

 これらの思惑を持つ勢力の急先鋒にして資本主義世界盟主の英国は、ポーランド戦以後もフィンランドなどを支援する姿勢を隠れ蓑に、水面下ではドイツをそれとなく支援する姿勢をより強くし、英国の意を受けた日本は、実際能動的行動をする気もないのに北東アジアでの軍事圧力を対ソ連一本に絞る構えを見せた。

 

 つまり1940年夏、世界の意思は明らかに反共産主義で固まっていたのだ。

 

 もちろん、英国を中心とする自由主義陣営が一枚岩だったわけではない。

 特に足並みを乱していたのが、先述してもいるが欧州の大国フランスだった。

 

 第一次世界大戦こそ天敵と互いに思っている英国と利害の一致から共に戦いこそしたが、ここにきて伝統の親露政策が頭をもたげ、親仏家とされるトハチェフスキーがソ連の実権を掌握した事で強くなり、これに生来の嫌英・反独感情が重なり、さらに当時のフランスで社会主義政党が強い勢力を持っていた事が加わり、とどめのドイツのポーランド武力侵攻が、フランスをすっかり今まで以上のドイツ嫌いにしてしまい、その反動で一時的な感情的親ソ状態になってしまったのだ。

 

 当然フランス寄りの政策(ドイツ警戒政策)をとっている欧州のいくつかの国もフランスの動きに流されており、欧州の政治的状況をより複雑化していた。

 

 なお、両洋に隔たれた世界一の経済大国アメリカは、この時何もしなかった。

 いや、太平洋戦争の混乱がいまだに続いており、内政面の地盤固めが精一杯で、とても欧州にまで手が伸ばせなかったのだ。

 

 おおよそだが、1941年のソ連のルーマニア侵攻を迎えたこの時、世界はおおむねそのような状態にあった。

 そして、西欧の混乱の間隙を突くかたちでソ連が行動を起こしたのだ。

 

 故に1941年6~7月のルーマニア戦役は、世界に大きな波紋を投げかけ、英独の反共共闘姿勢をより明確にさせたが、この時点においても世界の列強はどこも列強に対して宣戦布告を行っていなかったのだ。

 

 つまり、それだけ混乱していた、と結論づけられるだろう。

 

 なお、欧州列強がソ連に対して宣戦を布告しなかった最大の理由は、トハチェフスキー以下精強な将校団率いる常備軍450万人という余りにも圧倒的多数にのぼるソ連赤軍の存在がそうさせていたのは、今更言うまでもないだろう。

 

 誰しも、ロシア軍の伝統を引き継ぐ巨大な軍事力をまず以て恐れていたのだ。

 


 さて、政治的な点は書き出すと長くなるので軍事的な視点に戻し、この時の状況を整理しておこう。

 

 ソ連軍がルーマニア侵攻を行った時、ソ連軍はその機動的に運用できる戦力の約80%(160個師団・250万人)を欧州正面に展開し、そのうち約40%を対ルーマニア戦線に投入していた。

 

 具体的には、ティモシェンコ元帥を総指揮官とするソ連南方軍集団は、5個軍69個師団を基幹としていた。

 

 その内訳は戦車師団6、自動車化狙撃師団4、空挺師団2、狙撃師団57、戦車旅団8、砲兵旅団16を、戦車約4,400両、重砲約5,000門、総兵力110万人で構成しており、この大兵力は第一次世界大戦以後では最大規模の陸戦集団でもあった。

 特に戦車・重砲の数では、最盛時のアメリカ西海岸軍集団すら上回る規模で、機械化戦力はドイツ全軍に匹敵した。

 

 これを定数3,500機から編成された強力な空軍部隊で援護し、まともな機械化戦力と空軍力を持たないルーマニア軍を電撃的に粉砕したのだ。

 

 この戦力は、単純に兵数から見ても攻撃に必要とされる兵力3倍の原則を満たしているが、機動力、火力、制空権など全ての戦力要素を含めたこの時の戦力指数は、ソ連軍はルーマニア軍の25倍に達していると見られる。

 当然、戦闘と呼べない一方的な状況が各地で繰り広げられる事になった。

 

 そして、単に兵力量や数字だけでなく、そこに投入された新兵器の数々も列強に大きなショックを与える事になる。

 

 一般に「レッド・インパクト」と呼ばれるそれだ。

 

 兵器の固有名詞でこの具体例を挙げるなら、「T-34」戦車、「カチューシャ」対地ロケット、「シュツルモビク」地上襲撃機となり、このルーマニア戦役を実質的なデビューとして、以後第二次世界大戦期間中敵対国に対して常に大きな脅威となり続けた存在たちだ。

 

 あまりにも有名すぎるこれらの兵器について今さらここで説明する必要はないと思うが、世界初の主力戦車(MBT)と呼んで差し支えない攻撃力、速度、防御力が高度なレベルでバランスのとれた戦車を先鋒にしたてた機動戦力が、十分な砲兵、航空支援を受けて攻撃するのであるから、これを防げと言う事は第一次世界大戦当時の欧州一般かそれ以下の旧態依然とした軍備しか保有しないルーマニア軍にとっては非常に酷だと言えよう。

 しかもこの時、まだソ連全土で1000両程度しかなかった「T-34」のうち約半数が投入されていた事は、ソ連地上部隊の侵攻を感情面の衝撃度で強くしていた。

 また、それ以外の戦車も45mm砲を装備し、クリスティー式と呼ばれる優れた足回りを持った、「T-34」の前身とも言える快速戦車の「BT-7」が主力を占めており、それだけでもまともな対戦車砲もなく騎兵以上の機動戦力を保持していなかったルーマニア軍のかなう相手ではなかった。

 

 もちろん、現代においてトランシルバニアのドラキュラ伯爵の魔力が及ぶはずもなく(逸話はソ連占領中に数々出現したらしいが)、反対にソ連軍がそのお株を奪うような圧倒的力を見せつける事で戦闘は終息した。

 

 ルーマニア戦役に要した日数は、反対側からハンガリー軍が侵入した事からドイツによるポーランド戦役よりも短い4週間弱、26日でしかなかく、数字の上の戦争は、まさにランチェスターモデルの再現でしかなかった。

 


 そして、ソ連のルーマニア侵攻は世界を激震させる事になる。

 これは、実質的にブルガリアとハンガリーがソ連の軍門に下った事で補強されていた。

 

 そしてこれこそがイギリスと枢軸諸国との関係を完全なものとしたと言って良いだろう。

 

 何しろ、このソ連による東欧侵攻で、ドイツは採掘量1,000万トンのルーマニアの油田を失い、エネルギーの多くを英国に依存しなくてはならなくなり(これはオランダ、フランスなど一部の例外を除く全ての欧州諸国も同様)、また英国はソ連が東欧南端を指呼に捉えた事で伝統の対露封鎖戦略が崩れ、防衛負担を他国、特に東欧と陸続きのドイツと地中海に大きな海洋戦力を保持するイタリアに肩代わりさせなければならなくなっていたからだ。

 


 不幸中の幸いは、ユーゴスラビアがほぼ同時期に発生したチトー率いる革命政権の手で運営され、ボルシェビキに完全になびく事なく中立を宣言しつつも裏で英国と取引し、トルコは伝統的に反露でありイスラム教圏国家にとり共産主義は悪魔でしかなく、国家社会主義にとって共産主義は資本主義よりも敵視すべき存在だった事からドイツ寄りとは言えソ連との軍事的対立を決意したことだろう。

 

 これらにより、ようやく英国の考えるソ連包囲網が形になりつつあった。

 

 ただし、何度も言うように要の一つであるフランスを半ば抜きにしてという付帯条件付きであった。

 

 そして、圧倒的勝利の勢いと欧州の政治的混乱を利用しないソ連ではなかった。


 

Phase 05:1941年8月 東欧戦線2 ▼


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