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Phase 1-3:停滞

 私は話し始めた。

 「ええい、どうにでもなれ」という気持ちだった。

 

「確かに国連軍にとっての至上命題とは、一日も早く人民解放軍を撃滅し、支那全土を民国の手で統一する事にあります。

 しかし、それを安易に達成できそうだからと言って、使用した地域に悪しき影響を残す可能性の高い核分裂反応兵器の使用は、慎重の上にも慎重を期すべきだと思われます。

 それに、悪逆なる侵略者から虐げられている民衆を解放するのが国連軍の筈です。

 その国連軍が、全てを吹き飛ばしてしまうような非人道な兵器を使用するのは国際世論上最悪の結果をもたらしかねません。

 また、日本本土、アメリカ合衆国、オーストラリア、カナダ、インドなど自由を愛する全ての国々で、今中華民国を救うべく国連軍が編成されつつあり、すでにこちらに向っているものもあります。

 これらの新規兵力の投入が間に合うまでの時間稼ぎを行うなら、海軍の主張する洋上機動力を保持した兵力による阻止爆撃は非常に有効だと判断され・・・」


 私はしゃべり続けた。

 

 話しだした以上、もうそうするしかなかったからだ。

 

 そして、私がいつの間にか話し終え、それを一つのきっかけとして喧々囂々の会議が再開される、今度は一つの結論に向けて会議がまとまろうとしていた。

 

 そして、「会合」とだけ呼ばれた会議は、一つの結論に達する。

 

 国連軍、もとい日本は、自らの最強の剣たる海軍の全力を以て華中一帯に展開する共産主義者とロシア人を吹き飛ばす事としたのだ。

 


 数日後、すでに東シナ海に展開を終えていた連合艦隊は、黎明を期して全力で出撃を開始した。

 

 「春節攻勢」の開始である。

 

 連合艦隊の旗艦には久しぶりに『Z旗』がはためいていた。

 

 各空母に満載された約1000機の航空機は、日本海軍の特長である長大な航続距離を活かし、現地に展開する国連軍の空軍に片手を縛られた状態の人民空軍とロシア義勇空軍を横合いからの一撃で粉砕すると、次々に再び南京、上海などを目指していた敵の頭上に様々な爆弾・ロケット弾を投下していった。

 

 この時、作戦に参加していた航空母艦の数は、正規空母が何と13隻、軽空母が6隻という当時の日本が保有していた全ての高速空母を結集したものだった。

 彼女達を中核に連合艦隊を再編成し4つの空母機動艦隊を編成して東シナ海に展開したのだ。

 

 これは開戦まで海軍が、いやこの当時の全ての人が主力だと信じて疑わなかった戦艦が内陸奥地の戦闘にはまるで無力だった事が最大の原因で、近海には有力な敵水上兵力が存在しなかった事が後押ししていた。

 要するに戦艦が相手をしなければいけないような敵はなく、空母が相手にすべき遊び相手には事欠かなかったのだ。

 

 なお、この時海軍は最新鋭の「改大鳳級」空母の「白鳳」空母から、当時退役も間近で練習空母として余生を送っていた大型空母「蒼龍」すらもこの作戦のために無理矢理動員しており、大きく以下のように艦隊を編成をしていた。

 


◆第一機動艦隊(艦載機数:約400機)

 CV:<大鳳><海鳳><翔鳳><白鳳>

 BB:<大和><武蔵><信濃><甲斐>

 AC:<白根><鞍馬>


◆第二機動艦隊(艦載機数:約300機)

 CV:<翔鶴><瑞鶴><千鶴><神鶴>

 BB:<高千穂><穂高>

 AC:<剣><黒姫>


◆第三機動艦隊(艦載機数:約250機)(第二艦隊を基幹に新編)

 CV:<蒼龍><飛龍><雲龍>

 CVL:<祥鳳><瑞鳳>

 BB:<富士><阿蘇><雲仙><浅間>


◆第四機動艦隊(艦載機数:約180機)(第二艦隊を基幹に新編)

 CV:<伊勢><日向>

 CVL:<日進><瑞穂>

 BB:<葛城><赤城><愛宕><高雄>


◆第一艦隊(艦載機数:約50機)(近接支援用)

 BB:<紀伊><尾張><駿河><近江>

 BB:<加賀><土佐>

 CVL:<龍驤><龍翔>



 見てのとおり艦隊は大きく5つから構成され、補用スペア機も含めれば、総数1200機以上の艦載機を抱える空前絶後の空母機動部隊であり、航空母艦の数・戦力に至っては当時の英米を合計したよりも多い程だった。

 当然、依然として海軍後進国であるドイツなど足もとにも及ばない戦力だ。

 

 いったい海軍は何を考えて、常識をどこかに置き忘れたかのような巨大戦艦と共にこれらの新規兵力を整備したのかを問いただしたくなるような存在だったが、彼女たちの存在こそが国連軍を救うことになったのだから、感謝こそすれ文句を言うのは筋違いと言うものだろう。

 (海軍は常にアメリカやドイツの海空軍を恐れ、それに対する軍備として熱心にこれらを整備し続けていたらしい。)

 そして、世界の関係者を驚かしたのは、それまで誰も注目しなかった無数の航空母艦の数ももちろんそうだったが、むしろその艦隊編成にあった。

 なにしろ、世界最強の戦艦すらも単なる護衛艦艇の一種類に貶めてしまっていたのだから、日本などと同様に依然戦艦信仰の強かった欧米の全ての海軍関係者を愕然とさせたと言う。

 もっとも、当の連合艦隊としては、当面使い道のあまりない戦艦は圧倒的なまでの防空能力を持ち、それこそ撃沈するのが不可能なほどの防御力を備えているのだから、脆弱な空母の護衛としてこれ以上最適な艦艇はないから随伴させていただけで、これほど反響を及ぼすとは考えてもみなかったようだ。

 この頃の連合艦隊の多くの者は、この戦争が終われば以前のような艦隊編成に戻すつもりだったのだ。

 


 ついでなので、この作戦に参加した艦載機についても少し見てみよう。

 

 現在の空母艦載機は、今では戦闘機、攻撃機、対潜哨戒機、電子偵察機、早期警戒機これに回転翼機が加わるが、この当時はもっと単純で、戦闘機と攻撃機、偵察機、一部運用の始まっていた回転翼機から構成されていた。

 

 順に戦闘機は「強風」、「陣風」、攻撃機は「極星」、「流星改」、偵察機「景雲」、「彩雲改」、回転翼機「川崎・四八式」となる。

 戦闘機と攻撃機に二種類ずつあるのは、空母の新旧により運用できる機体に差があったからで、これは奮進機を運用できる<大鳳級>、<翔鶴級>とそれ以外のレシプロ用空母の差という事になる。

 

 そしてこの中で「強風」と「景雲」が奮進ジェット機であり、「強風」は当時主流の亜音速機ながら航空先進国のドイツの機体と同等かそれ以上の性能を持つとされ、実際支那大陸では縦横の活躍をしている。

 偵察機に高速性能が求められていることについての説明は不要だろう。

 のぞき見する者は逃げ足も早くなくてはならないのは生身の人間でも飛行機でも同じだからだ。

 

 また、「陣風」、「極星」、「流星改」、「彩雲改」のいずれもがレシプロ機の終末期に属する大馬力発動機を搭載した怪物的な機体で、驚くべき事にどれもが中島飛行機が製作した3900馬力もの出力を誇る「究」発動機を心臓としていた。

 

 そして今回の花形は何と言っても攻撃機であり、「極星」、「流星改」がこれに当たる。

 「流星改」攻撃機は1943年に配備の始まった「流星」攻撃機の改造発展型で、「流星」では800kgの搭載が限界だったものが、二倍近い出力の発動機を搭載した事と機体の改造で二倍以上の積載量を持つまでに発達していた。

 「極星」はそのさらに発展型と言えなくもないもので、米国海軍の「A-1Hスカイレーダー」に対抗して設計された機体で、他と同じく「究」発動機を搭載していたのは同じだが、圧倒的な積載量と防御力に重点が置かれた設計をしており、12.7mm機関銃キャリバーでの撃墜は不可能と言われるほどの頑健さと、満載3トンという少し前の重爆撃機並の積載量を誇る怪物機となっていた。

 もちろん、3トンという数字はこの機体に合わせて開発・製造された音響追尾魚雷を搭載するために求められた数字だ。

 ただ、欠点は空母からの発艦が強力なカタパルトを必要とし、着艦もかなりの甲板長がないといけない事だった。

 このため、この作戦の時も<大鳳級>と<翔鶴級>でしか運用されていなかった。

 

 そして連合艦隊はこの攻撃に、艦載機の数を戦闘機400機、偵察機など100機、それ以外の全てを攻撃機とするという極端な編成で臨んでいた。

 共産主義者の好んで使う引用での圧倒的な鉄量の投入を行おうとしていたのだ。

 

 ちなみに、この時の第一撃目の全力出撃で約2000トンもの爆弾が共産主義者とロシア人の頭上に見舞われていた。

 これは、海軍の関係者は10年前では考えられない爆弾投下量だと、自分たちが成しえた事なのに自分たちがまず呆れていたらしいと言うから、この攻撃を受けることになった側にすれば災厄などと一言で済ませられる事ではなかっただろう。

 その証拠にこの攻撃開始を境に中露軍の進撃は停止し、華中、華北で飛ぶ彼らの機体は皆無となっていた。

 空母機動部隊という集中性と機動性に富んだ兵種こそが成しえた成果だった。

 

 数日後からはさすがに全力攻撃は続けられないので、日本艦隊はローテーションを組んで交替で爆撃をシフトし、準備の整った連合空軍の戦略打撃兵団、二週間ほど後に来援したアメリカ太平洋艦隊の一個空母任務部隊と共同で阻止爆撃を継続、貴重な時間を稼ぎ出すだけでなく、人民解放軍の戦争計画そのものに大きな齟齬をきたさせる大戦果を挙げていた。

 

 この攻撃をアメリカのマスコミは好意的に報道し、東シナ海に常時遊弋する空母機動部隊の事を『サムライ・ステーション』と呼び、自由資本主義を守る云々のアメリカ大衆的美辞麗句と共に世界に向けて発信していた。

 私などは何ともおめでたい連中だと思うだけだったが、この時の報道が後の日本軍の評価を英米の間で好意的なものに戻したのだから、世の中不思議なものだ。

 


 1951年3月、ようやく第二次増援部隊の先遣隊が上海に上陸し、その一ヵ月後にはアメリカやインドなどからの援軍が続々と到着していた。

 

 この増援を受けて、増援と共に現地昇進の形で国連軍総司令となった栗林忠通大将は反撃作戦を発令。

 

 余談だが、栗林大将は騎兵将校であるにも関らず、この戦いで実に粘り強い防衛戦をたびたび成功させた事から、昭和の秋山好古と称され、英米との仲が良好だった日露戦争の頃の記憶を人々に思い出させ、民心のアメリカとの友好関係の修復に図らずも貢献したと言われている。

 


 圧倒的な装備と絶対的な制空権を握る国連軍の重機甲部隊は、大規模な装甲部隊を展開するにはこれ以上の場所はないと言われる華北平原を無人の広野を行くがごとく躍進、3月には北京を再び奪回する快挙をなしとげていた。

 

 この時国連軍は、300万人という数だけは多い中華民国軍を除くと日本軍から一個方面軍30万を最大勢力として約60万の大兵力を展開していた。

 対する中華人民共和国側は、人民解放軍が初期の打撃から立ち直り約150万を維持し、義勇ロシア軍が50万人程あったと見られていた。

 これを地上部隊の装備や制空権の有無などを加味すれば、国連軍側が三倍近い優位を獲得していると見られ、支那大陸での戦争にもようやく楽観できる状態となりつつあった。

 

 しかし、それは反対側の勢力から見れば由々しき事態であり、5月に入るとウラル山脈を越えシベリア・中央亜細亜を通って、さらなる義勇ロシア軍が投入される事になった。

 しかもそれだけではなく、義勇欧州軍という名称に義勇軍は衣替えし、ロシア軍だけでなく大陸陣営の宗主国たるドイツ国防軍、フランス軍など西欧の義勇軍も多数含まれるようになっていたのだ。

 

 すわ第三次世界大戦かと世界中が緊張したが、ドイツから異常なほど神経を使った義勇軍報道と欧州での普段と全く代わらない動きから、支那大陸以外を戦場にする気はないと国連軍側も暗に了解し、1951年の夏頃には東経111度あたりで戦線が完全に膠着し、支那大陸では数百万の大軍がにらみ合う事になっていた。

 

 もちろん、戦術レベルでは各地では激しい戦いが展開された。

 特に互いに相手の戦線を突破しようとした機甲突破戦が双方の陣営で何度か行われ、戦略的には全く無意味だったが当事者にとっては、それまでの戦争ですら経験しなかったような激しい戦闘が繰り広げられた。

 

 この事を書きだせばそれこそキリがないのだが、私が興味深いと思った事を少しだけ書いておこう。

 

 この頃、支那の人の海に大規模な機甲戦力を持ち込んでいたのは、国連軍側が日本人とアメリカ人、人民共和国軍側がロシア人とドイツ人で、バランス・オブ・パワーとでも言いたげにどちらも似たような兵力を持ち込んでいた。

 

 これを戦車を中心とした機甲師団だけを取り上げ具体的に見てみると、日本が近衛と第二、第七の3つの機甲師団、アメリカが第1と第7の2個機甲師団を持込み、ロシア人が義勇第1戦車軍団と言うアメリカ人と同じ程度の兵力規模ながら3個戦車師団を、ドイツ人が第7、第11そして前回の大戦とこの戦争でも勇名(もしくは悪名)を馳せたLAHライヒス・アドルフ・ヒトラーの名を持つ武装SS第1師団が派遣されていた。

 

 そしてさらに興味深いのは、この四つの大国のどれもが「7」の数字を冠する師団をこの戦場に持ち込んでいた事で、全くの偶然だったとしても戦争を端から見ていた私などは国は違えど考えることはあまり変わらないものなのだなと奇妙な納得をしたものだった。

 

 そして、ある種醜悪だったのが、大国のどれもがデモンストレーションのように精鋭部隊を送り込み、母国や自分たちの属する軍そのもののメンツなどに賭けて無意味とすら言える戦闘を何度も行い、しかも現地住民の事など特に欧州義勇軍側がそれを無視して戦闘を行ったため大きな惨禍を残した事だろう。

 

 この頃の重装備の機甲部隊はそれだけの破壊力を持ち、それがぶつかり合えば低いインフラしか持たない当時の支那大陸の戦場となった地域一帯を全くの廃虚とする程の破壊を振りまいていた。

 これは、一応気をつけて戦闘を行っていた筈の国連軍側でも程度の差こそあれあまり変わらなかった。

 大平原での戦闘では火力の制限がなく破壊の程度が大きすぎて、何をどう注意しようとも無関係なものを破壊するようになっていたからだ。

 

 

 とにかく、戦線の膠着は国連軍にとっても日本にとってもこれは計算外の出来事であり、またどの勢力もこんな場所での代理戦争で長期戦をする気などさらさらなく、この頃から両者は歩み寄りを見せる動きを突然とも言えるぐらい急に始めていた。

 

 そしてここに至ってまた私にも戦争の波が押し寄せる事となり、日本政府代表団の末席を埋めるべく私にも辞令が下り、私にとっての初めての海外旅行となる支那大陸行きが決定していた。

 

 その時の上司の目は、「まあ、責任を取ってこい」と言っているようにも思えたが、表面的には君の経歴に箔を付けるにはちょうど良いだろうというありきたりな言葉を賜り、現地へと赴かされることになった。

 実際は、その言葉どおりだったのだが。

 


 その後、西安で行われた休戦会談は、私はもちろんとして世界中の関係者の予想をはるかに裏切り、約2年もの間ダラダラと継続され、その間数百万の軍隊は小競り合いを続けたまま、ついに決定的な戦闘をする事無く、まるで第一次世界大戦の出口のない塹壕戦のような戦争を過ごすことになった。

 

 私達を始めとした文官だけの責任だとは思わないが、1953年7月27日にようやく休戦協定が調印された時、満足感よりも先に何とも後ろ髪を引かれる思いだった事が今でも強く思い出される。

 


 なお、この戦争の統計が後にとられたが、それは関係者を等しく慄然とさせるものとなった。

 

 世界最大級の人口密集地帯での大規模な近代戦争は、何と5000万人もの戦争犠牲者を生みだしていたのだ。

 これは、この地域に落された国連軍の投下した爆弾総量が100万トン(1メガトン)だった事など些細な事に思えるほどの衝撃を世界に与えることになる。

 また、イデオロギーの違う勢力同士の血みどろの戦いが、戦場だけでなく占領地域などで残虐な行為を一般化させてしまった事と、これはあまり言いたくないのだが、あの大陸独特の風土(国家規模での間引きである王朝交代のアレである)が最終的に5000万人という死者数を現出させたのだと思う。

 

 まあ、実際現地の状態を見た私のようなものからすれば、まあこんな場所でなりふり構わないイデオロギー戦争を行ったのだから、当然といえば当然の結果だろうという感想が一番に浮かんだものだ。

 もちろん、戦争の犠牲者を気の毒とは思ったが、そういう気持ちすら摩滅する程この頃の私は忙しかった。

 


 なお、この戦争で自国を巻き込んだ戦争景気により日本経済はさらなる躍進を見せていた。

 国連軍の兵站拠点として日本中が好景気で沸き返えり、日本はまたしても戦争により巨大化していたのだ。

 この事を後の資料で知った私は、人気のない資料室で一人乾いた笑いをしていたらしい。

 

 そりゃ、そうだろう。

 

 他人の不幸で自分たちだけが幸せになっていたのだから。

 


 そう、この休戦により支那大陸は完全に分断されたのだ。

 



 ■Episode. 2:1962年10月 

  キューバ・クライシス(キューバ危機)へ ▼




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