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Phase 0-7

●世界同時多発テロ


 日本時間の2001年9月11日深夜、世界を激震させる事件が発生した。

 アメリカ政府により「世界同時多発テロ」と呼称された事件がそれだ(日本では単に『トラック事変』とされ、「事変」呼称されたように軍事的な事件として扱われている。)。

 

 事件そのものは、日米英を中心とした新たなローマ帝国となった海洋国家連合が表面的な平和を謳歌し軍事的緊張感をゆるめていた事と、時代に取り残されたイスラム原理主義者などの世界の金持ち国家(民族)に対する様々な負の感情が重なった結果発生した惨事だった。

 

 この事件を要約してしまえば、そう結論してもよいだろう。

 歴史的、政治的、宗教的な対立や軋轢などの側面から見れば違った見解も出てくるが、結局のところ時代錯誤と富と軍事力の極端な集中がこの新たな戦争を勃発させたのだ。

 

 また、日本に対する攻撃の背後には、まだ形式的には日本と同盟関係にあるはずの中華民国の影が色濃く見えていた点も忘れるべきではないだろう。

 


 イスラム原理主義者の狂信的と表現してよいであろう自爆攻撃は、アメリカの経済と軍事の中枢に一撃を加え、日本の新たな帝都とすら呼ばれた場所の一部を破壊した。

 つまり、日米はその横っ面を思いっきり殴られたのであり、日米からすれば理不尽きわまりない時代錯誤者たちの横暴は、全く以て許し難いものだった。

 

 当然、攻撃された日米の怒りは非常に強いものとなる。

 

 だが、この時の日本とアメリカの対応がその後の混乱を呼び込んでしまう。

 

 アメリカはこの荒っぽい宣戦布告を受けて、自らの新たな敵が完全に殲滅されるまで追撃の手を弛めないだろうとスポークスマンに高らかに宣言させ、日本はテロリストは世界の良識のもと裁くべきだとした上で、テロリズムを単に武力での恫喝や殲滅をするだけではなく、世界がこの事を重要に受け止め表面的な話し合いではない、根本的な解決のための実を伴った対応をすべきだと訴えかけた。

 

 要するに、アメリカはあくまで狩猟民族的、直接的に武力での短期解決を訴え、日本は農耕民族的、東洋民族的な長期的解決を訴えたと要約できる。

 

 そしてこの両国の即時の反応による最大の特徴は、日米が同じ敵から物理的な先制奇襲攻撃を受けたという歴史的な事件でありながら、日米政府は違った対応をした事であり、冷戦時代はまるで一枚板のように宣伝されていた両国の関係や体制が必ずしも同じでない事を浮き彫りにした点だろう。

 

 そしてそれは、アメリカ型民主主義(個人主導型自由民主主義)と日本型共栄圏思想(伝統重視型民主主義)の決定的な違いを世界に改めて浮き彫りにさせたものとなった。

 

 このため、世界は大きな混乱を迎える事になり、それが表面化したのが、国連会議の席上であり、日米政府のその後の政治的・軍事的対応という事になる。

 

 

 それまでの日米関係は、1853年の江戸幕府時代の日本の浦賀へのペリー来航以来150年間常に様々な距離で対立するか利害の一致で手を組んでいたにすぎなかった。

 それが一度激発したのが、1934年に行われた「太平洋戦争」だったわけだが、この限定総力戦によるアメリカ軍事力の一時的減退(当時の『戦略兵器』である戦艦の多数喪失)と経済的つまずき、そして何より敗戦による内政的なモンロー主義への回帰が第二次世界大戦での日米の奇妙な共存と競争をもたらした。

 更にそれは、欧州でのドイツの台頭を決定付け、以後半世紀の三極構造も決定したと言えるだろう。

 

 第二次世界大戦以後も、異なるイデオロギー国家を共に敵とした事からリターンマッチをしたくてもできないまま日米の奇妙な共存と競争状態は続き、1972年以後の協調姿勢もよりやっかいな相手がいたからこその結束であり、仲違いするよりも多少いがみ合いつつも二人三脚で世界を経営する方が安上がりだと知っていたからに他ならず、冷戦構造崩壊以後の政治的流れも概ね損得感情の結果に過ぎない。

 

 ところがこの攻撃は日米を共通の被害者としたにも関わらず、日米の政治状態、民族感情の違いを再び浮き彫りにしてしまい、必然的に世界情勢を複雑化させる変化を強要していた。

 


 ではここで、21世紀黎明の国際情勢を中東を中心に少し復習しておこう。

 

 21世紀を迎えたこの時期世界をリードしていた、堅い表現を用いれば覇権を握っていた列強は、第一位がアメリカ合衆国、第二位に日本帝国、第三位としてドイツ第三帝国改めドイツ連邦共和国となり以下英国、フランス、満州と続きそれ以下の15位まではだいたいドングリの背比べだった(GDP、軍事力的にはロシア、イタリア、インド、スペイン、ウクライナ、ベトナム、韓国、中華民国など)。

 

 なお、今挙げた上位の国々だけで、世界の富の4分の3、いや8割以上を占めている事になる。

 

 そして中でも軍事覇権国家にして経済覇権国家であるアメリカ合衆国連邦(USA)と日本帝国(EJ)の力は強大で、この2国だけで世界の富の半分近く、単年度あたりの統計によっては50%以上を生み出していた。

 しかも、日本は満州をアメリカは英国を現実レベルで最も強いつながりを持つ同盟国としていた。

 

 要するに、いつ如何なる場合でも日米は連携さえしていれば世界の半分以上を握っている事になる。

 そう、世界は日米が連携する限りにおいて彼らの手の内にあったのだ。

 これは、世界の海洋コントロールと航空網の過半を押さえている事で補強されていた。

 

 また、この大連合が世界の軍事力(軍事費)の6割以上を持ち、宇宙開発予算の80%以上を占めている点は、様々な表面的な統計数値以上に世界の覇権が誰の手にあるかを明確に示していた。

 

 かつて、「全ての道はローマに通ず」と言われたが、21世紀を迎えた今日この言葉は日米の二国の首都に対して言い換える事ができるだろう。

 

 もっとも日米政府の政治的温度の小さくない違いから、分裂直後の東西ローマ帝国の状態、という付帯事項が必要になるかも知れない。

 

 反対に世界(特にアングロ同盟にとって)の問題児とされていた国々は、イラク共和国、中華民国、リビアが表面的にやり玉に挙げられており、これにイスラエル、シリアなど21世紀の火薬庫となっていた中近東の国々と主にアフリカに散らばる国家社会主義残党のいくつかの国と列強以外の核保有国が続く事になる。

 あとは、人道的見地以外なら大きな問題はないとされていた。

 それは、その他の国々が経済的、軍事的には大きな価値が存在しないと日米双方とも認識していたからだ。

 

 そして、中でも問題児の筆頭とされたイラク、中華民国、リビアはアメリカから『イービル・アクシズ』もしくはテロ国家・支援国として口汚く名指しで指名され、今回の事件ではテロを直接指導した組織の潜伏地とされたリビアが注目の的となっていた。

 

 この時点で幸いだったのは、中華人民共和国の事実上の崩壊で共産主義(国家)がほぼ完全に撲滅された事だろう。

 テロ支援国でなくても、主義・行動様式そのものが潜在的テロ国家である共産国家などがこの時点で存在していては、混乱が大きくなるだけだからだ。

 

 また、イラク、リビア共に世界有数の産油国である点を見逃してはならないだろう。

 このため、必要以上に列強の目を彼等に向けさせたからだ。

 この点については理由を説明する必要はないと思う。

 


 そして、これらの国々の中に本来ならイランやアフガニスタンなど、それまでの中東紛争国が問題国に連なっていた可能性が高かったのだが、アフガンに関しては日本が隣国のイランとパキスタンの間を取り持ちながら比較的熱心に欧州軍撤退後のアフガンの面倒を見た事と、イランがアフガンの政情安定のため積極的に介入をした事から大きな問題には発展していなかった。

 特に混乱の元となるドイツ人が立ち去った時国内に溢れかえっていたイスラム戦士たちに対しては慎重な対応が取られ、まずは欧州勢力と入れ替わりに国連治安維持軍として入ったアジア諸国の大規模なアフガン駐留軍事力を以て彼等が最初の激発をせぬように押さえ付け、段階的に彼等を同国の国軍や警察機構に組み込んでいき、それを拒んだ者にも強行な武装解除を行わず母国への帰国を望む者には可能な限りの配慮を行うなど、戦乱の大地を可能な限り安定させようとした事から比較的平穏だった。

 少なくとも全国規模での内戦や活発なゲリラ活動には発展していなかった。

 民衆レベルでの不穏分子を潜在的に一掃してしまうとすら言われる、日本お得意の近代国家建設プログラムの実行による効果については言うまでもない。

 そして、アフガンに関しては戦乱終息から10年で、ザヒルシャー王朝と言う形で立憲君主国を目指して一応の安定を取り戻し、イランにとってそしてアジア諸国にとってのロシアに対する新たなバッファーゾーンへと変化していた。

 

 もっともアフガンが比較的早く安定した理由は、これ以上ここで問題を起こしても誰も得をしない事と(安定させてもあまり得はないが)、地下資源が乏しかった事が原因している。

 つまり、ロシアの勢力が減退したため戦略価値が低くなり、その空白をアジア諸国が熱心に地ならししたからこその安定だったのだ。

 

 また、1980年代長きに渡る戦争で対戦相手のイラクと共に何かと騒がれたイランだが、1950年代からの半世紀近くに及ぶ社会主義的とまで言われた近代化政策の成果により、トルコのような安定した近代的イスラム国家として国際的にも認知されるようになり、地下資源の豊富さもあり日本にとって重要な同盟国の地位を確固たるものとしていたが、イスラム非主流派の民主国家だっため、むしろ他のイスラム原理主義の攻撃対象とされていた。

 ただし、半世紀の近代化プログラムとイラクとの8年間の戦争により、中進国程度の国力と日本型軍隊としては完成の域に達していた軍事力を背景に、(地域)大国主義へとやや傾きつつあったのが国際的にも懸念材料と見られていた。

 

 なお、この2国については、日本の覇権の拡大による勢力圏の変化がもたらした安定とヨーロッパでは認識され、無分別な独裁国や宗教国家よりマシとして一部の国以外からはそれなりに好意的に見られていた。

 

 

 そして2001年11月、アメリカ合衆国はリビアをテロ支援国家として国内と国際社会で非難のやり玉に挙げ、欧州各国の消極的な了解のもと大規模な軍事力を地中海に電撃的に展開させ、自らのショックの大きさを隠すためのように一気に殴りかかった。

 

 リビアという砂漠の国は、地中海沿岸部の限られた場所にのみ大都市と社会資本の全てが存在していたので、この時の攻撃の効果はまさに破滅的だった。

 

 このとき、アメリカ軍は3個空母任務部隊を地中海に展開させ、これに英国が1個空母任務部隊で加わり、それまでの地理的・歴史的関わりからイタリアがおつき合いで参加し、さらに英米がドイツの横やりをかわして地中海沿岸各地から半ば強引に借り上げた基地から航空機を多数展開して、これら圧倒的な空軍力の支援の元、1個海兵師団と2個空挺師団がリビアに電撃的な侵攻を行った。

 

 戦闘の結果は言うまでもないが、開戦からたった2時間の空爆でそれまで地中海の癌とすら言われていたリビア・カダフィ政権は軍事的な抵抗力を失い、2週間で政権が崩壊するに至った。

 

 もっとも世界は、かねてから危険視されていた政権の崩壊には比較的好意的で、むしろ問題となったのはこの後この地に存在する油田問題の方で、政治的にも日欧米の関係が大きく悪化する事はなかった。

 


 なお、この間日本はアメリカの軍事的空白を埋めるために中東にそれなりの戦力を展開させ、地中海には他の列強同様おつき合いレベルでしか戦力(戦後の治安維持部隊程度)を派遣しなかったが、これは感情面はともかく日本にとってリビアという国家の位置が戦略的に価値の極めて低い場所だったからに他ならないが、それよりも日本にとっての新たな敵がリビアなどの小物ではなく、もちろんイラクでもなく、急速に不倶戴天の敵となりつつある中華民国であったからだ。

 


●「世界の癌」イラクと中華


 2003年2月、今度は列強各国の間で揉めに揉めた国連を半ば無視して、米英を中心とする圧倒的な軍事力が一方的にイラクに殴りかかろうとした。

 

 そしてこの時、世界政治において日独が共にアメリカの行動を非難するという、それまでの関係を思えば奇妙な行動を両国に取らせる事になった。

 

 もっとも完全に両者の行動が一致していた訳ではなかったので、アメリカは国連での不利を確認すると英国など自らと協調姿勢をとった国々の支持を取り付けるとそのままイラクに一方的に殴り掛かかろうとした。

 それが、2003年2月の時点での列強間の情勢だった。

 

 そしてこの事は、ニューヨークに本拠を移してより常に国連という錦の御旗を利用して国益拡大をしてきたアメリカの政策の挫折であり、通称「1972年体制」と呼ばれる日米の蜜月から次なる国際環境の変化を促す号砲だとする意見が強い。

 

 なおこの時、10数年前の転向と混乱からいまだ国力を回復し切っていないドイツ以下の欧州諸国は、リビアでの米英の一方的な行動を苦々しく感じており、大多数の国連諸国の後押しを背景にアングロ同盟による一方的な戦争行為を是とせず、大量破壊兵器査察を含めた話し合いによる解決をあくまで求め、これを国連の多数票の力で世界の意志として認めさせようとし、日本以下アジア諸国はそれよりも少し強硬な、いわゆる『飴と鞭』をもってイラクの態度を変化させようとした結果、その選択肢の一つとして結果的に欧州諸国に同調した。

 

 この事は、東洋も欧州も結果を急いではロクな事はないと歴史的な経験から知っており、そうした半ば精神的な面を見せる政治的風土を持っていたからだ。

 だが個人主義国家にして人工国家であるアメリカは違っていた。

 それが、国連での分裂状態を導いてしまったのだ。

 ただし、英国やスペインなどがアメリカに同調したのは、単に力関係から導き出された国家戦略上の結果に過ぎない。

 


 もっとも、この時の日独(亜・欧)の間温度差は、日米の政治的温度差と少し性格が違っていた。

 

 欧州の外交が、冷戦構造崩壊以後それまでからは考えられないぐらい保守的になっていたのは、伝統打破の傾向が強い国家社会主義崩壊による反動で、伝統主義に根ざした保守勢力が台頭した事にあると見られていた。

 そして、保守主義とは基本的自国が侵略されない限り戦争には否定的であり、また欧州の成熟した市民社会が必然的戦争を否定した事も影響していた。

 

 これに対して日本と言うよりアジアの方針が、アメリカの一方的な侵略傾向を非難しつつも、武力による解決も選択肢の一つとしてあくまで対当の国家関係のまま解決を図ろうとした原因のひとつは、自らの外交原則を守ろうとした、と言うよりもアメリカに対する警戒感からだった。

 

 つまり、1980年代半ば以後の経済の失敗以来、アメリカ外交が再び帝国主義時代の匂いを濃厚に放つようになり、アジア諸国がこれに敏感に反応した結果が今回の日本の政治的行動となってあらわれたとも言える。

 

 この事をアメリカは、日本の中華地域に対する数年前の強攻策を比較に出し、さらに今回の行動は日本外交は弱腰だと強く非難したが、リビアがそうであったように相手国を根こそぎ叩きつぶすような態度がアジア諸国の警戒感を強くさせ、日本を始めアジア諸国の外交方針を欧州寄りにしてしまったというのが、この時の結果につながったと言えよう。

 


 また、湾岸事変以後の英米と日本以下アジア同盟の行動の違いも、この時のイラクでの緊張に強く影響していた。

 

 湾岸事変以後、イラクは大量破壊兵器所持疑惑や少数民族弾圧などを理由に国内での軍事力の展開制限を受けたり、経済封鎖を含めた厳しい制約を国連の名のもと課せられていた。

 

 これに、アジア諸国と一部の欧州諸国は、第一次世界大戦後のドイツと同じような事をすれば、いずれイラクは激発せざるを得ないと警鐘を鳴らしたが、歴史的に自分と異なる道を歩もうとする国に対しては高圧的外交を当然とするアングロ連合が強引にイラク封鎖を主張し、他陣営が短中期的にはそれに代わる程の案もなかった事からイラクの経済的・軍事的封鎖がこれ以後10年間続けられる事になる。

 

 なお、イラクが経済封鎖された最大の理由は、各国が抱えていた石油市場に都合が良かったからだともされている。

 これに関しては、樺太の海底天然ガス田、イランでの新規油田を大規模に開発しようとしていた日本も同列であろう。

 


 だが、湾岸事変以後イラクが生き残る事ができたのは、全く違った理由が最大原因だった。

 

 それは、1990年代のアジア(日本)、アングロ(英米)、ユーロ(独)の3大勢力にとってのバッファーゾーン(緩衝地域)がここバビロニアの大地だったからだ。

 

 これを地理的・国家的に見ると少しわかりやすいだろう。

 

 アジア諸国の西の防壁イラン、欧州の玄関口トルコ、アングロの石油バルブのサウジアラビア。

 イラクは、これら三国の勢力圏の間にちょうど存在していたのだ。

 

 もちろん1990年代以後、表面的には日米など環太平洋諸国、ドイツ以下の欧州勢力など先進国と呼ばれる全ての国々は、それぞれ節度ある協調姿勢を維持している事になっていたが、ドイツの一時的勢力減退により空白化しそれぞれの勢力にとって中間地帯となり、政治的にも難しい地域にある事と、何よりこの地域が石油の大産地という事実が先進国列強に新たな地図を描かせたのだ。

 

 1991年の湾岸事変で日米双方が大軍を派遣したのも、遠因はドイツの勢力減退による新たな経済的勢力圏争いにあると言える。

 


 そして2003年を迎える頃、再びペルシャ湾を中心とした中東地域に列強各国の軍事力が集中し始める。

 

 だが、12年前と違い列強各国の表面的な派兵理由は様々だった。

 これは、表面的にはイラクが他国に武力侵攻を行ったなどの理由がなかったからだ。

 

 アメリカを中心とした国々は、イラクの大量破壊兵器(ABC兵器(核、生物、科学兵器))保有と軍事独裁、少数民族弾圧などを理由にイラク・フセイン政権の軍事的打倒を目指して大軍を進め、トルコやギリシャ・エジプトなど近隣諸国とのつながりの強い欧州諸国は、影響力保持と自らのバッファーゾーン保持のためそれらの地域を中心に軍事力展開を行い、日本などアジア諸国の軍事力は、イラクに対する軍事圧力を与えると同時に、対イラク問題をあくまで対等な国家関係で解決を図るべく英米の一方的激発をけん制する目的を持った形で多くの兵力が派兵され、イランなど近隣諸国が軍の警戒態勢を臨戦態勢にまで上昇させていた。

 

 この状態を各国のイエロージャーナリズムが、さも第三次世界大戦が日米の間で始まるかのごとく騒ぎ立てたりもしたが、最終的には英米が列強各国の圧力の前に持論を曲げ事態が再び国連に事態を委ね、結果として欧州勢力が当初から主張していたイラクに対する封鎖と査察の強化で妥協した。

 また、イラク側も英米が本格的な軍事侵攻を行えばどうなるかは10数年前にイヤと言う程体験していた事もあり、双方の可能な限りの歩み寄りという形でこの時の戦争は回避され、日米の艦隊がペルシャ湾に遊弋する中、続々と国連組織がイラク国内へと流れこんでいく事になる。

 

 要するに、三大勢力のパワーバランスがある程度均衡していた事がこの時のイラク延命につながったと最終的に結論付けできるだろう。

 この結果の中に、イラクが独裁国でテロ支援国、大量破壊兵器保有国であろうと世界第二位の石油埋蔵量があろうとあまり関係はなかった。

 結局のところ列強各国のパワーバランスこそが全てであり、21世紀を迎えた現在において、三大勢力のパワーの合従連合により世界が牽引され、あからさまに抜け駆けはしようとすれば他の2勢力が阻止にかかるという今後半世紀の構図の最初の事例となったと見て良いだろう。

 


 なお余談ではあるが、この時中東に集中した各国の兵力を見ておこう。

 

 まずやる気満々だった米英連合だが、アメリカが3隻の原子力空母を地中海とペルシャ湾に持ち込み、これにイギリスも1個空母機動部隊を派遣、それらを中核に水陸両用戦部隊など約80隻の艦船とサウジなどペルシャ湾岸やディエゴガルシア島に駐留する約600機の航空機と船内に装備を積載した1個旅団の海兵隊と陸軍部隊があり、さらに米英それぞれの本土では合計5個師団もの高度に機械化・電子化された部隊が待機していた。

 

 これらの兵力が全てイラクに殴りかかったとするなら、合計20万もの陸上兵力量に相当する事になり、湾岸事変で装備と兵力の多くを失ったイラクは、正面戦闘では全く対応できないものと後の軍事研究で結論されている。

 

 そして、トルコ方面に主に兵力を送り込んでいた欧州勢力だが、地中海にドイツ軍が意地で派兵した大型空母「オットー・リリエンタール(旧ヘルマン・ゲーリング)」を中核とする空母機動部隊を中心に、米英をけん制と言うよりは中東諸国が無視する事ができないレベルの派兵を行っていた。

 また、ドイツ軍の装甲師団が1個、冷戦時代から変わることなくトルコ領内に進駐し続けている点は見逃すべきではないだろう。

 何しろ彼らは、真正面からの戦闘であれば後進国相手なら三倍の戦力差を発揮すると言われているからだ。

 

 一方、結果として米英の兵力を押しとどめる事となったとされるアジア勢力だが、アジア中枢にとって遠隔地だった事から警戒態勢を引き上げていた隣国イラン軍を除くと、海軍が主な役割を果たす事になる。

 

 これを具体的に見ると、当初からインド洋・ペルシャ湾方面には、攻撃空母「蒼龍」を中心とする遣印艦隊が、セイロン島のコロンボを根城に活動しており、これに本土から新鋭の攻撃空母「葛城」が新鋭機を含む搭載限界まで航空機を満載して駆けつけていた。

 この本土から来援した艦隊には、戦艦「武蔵」を含む多数の防空打撃艦を含んでおり、また搭載機の多さから限定的に2個空母機動部隊の戦力があると見られ、さらにベトナム海軍の航空母艦「Halong」(旧日本の「千鶴」)を中心とする空母機動部隊と日本海軍陸戦隊1個旅団を伴った水陸両用戦部隊もペルシャ湾に入り、米英艦隊に匹敵する海洋プレゼンスを展開し、コロンボにはディエゴガルシア島の米英軍をけん制するべく、かなりの数の空軍部隊も展開していた。

 

 なお、面倒が起こることが分かり切っているイラン領内へのアジア諸国軍の展開とインド軍の参加は控えられ、この方面は先述したがイラン軍の動員体制の強化だけとされていた。

 

 ただし、米軍に対抗すべく、高度電子化の進んでいた日本陸軍近衛師団と空挺師団、満州国軍の禁軍(近衛)2個師団が緊急展開軍に指定され、輸送船舶への装備搭載を完了し、東アジア各地の港湾で待機していた事は、米英を再び国連に戻す事に貢献したのは間違いないだろう。

 


 そしてこれらの軍事力を展開したまま、国連を舞台に首を突っ込んだ全ての国々の間で喧々囂々の議論が戦われ、4月にはいり国連全ての意志としてイラク・フセイン政権に対して、全国規模での民主的な選挙と大統領選挙の実施、バース党による一党独裁体制の解体を以て国連制裁を解除すると言う条件を突きつけ、軍事的恫喝に屈した形でイラク側も内政干渉と非難しつつも限定的ながら受け入れる姿勢を示し、何とか戦争を回避する方向で事態は沈静化しようとしていた。

 

 だが、イラク情勢が落ち着く頃、東アジア情勢がゆるやかに悪化していた。

 

 もちろん原因は中華民国だった。

 


 当時中華民国は、中華地域の主要部を有し人口約7億人を抱える世界第二位の人口を誇る大国であり、旧式な装備ながら大規模な軍事力と共に中距離弾道弾とニュークの保有国だった。

 つまりアジア随一の地域大国にして、大国の理論に反してニュークを保有する問題児と言う事になる。

 


 またしばらく政治の話を続けるが、基本的にこの国は1911年の建国から国際情勢に従い日本帝国によく言えば友好的で、それは共産中華が存在する1995年まで一世紀近く維持されてきた。

 

 だが、1995年の第二次中華動乱の結果、共産中華は実質的に日本などアジア諸国により解体され、新たな国として再スタートした事からおかしな方向に流れていくことになる。

 また、それまで共産中華が存在していたためあえて問題にされなかった事実が多数クローズアップされ、この最大のものとして中華民国の国家体制が資本主義の皮をかぶったファシズム(全体主義)であった事が世界的に広く知られるようになった事がある。

 

 ファシズムそのものは、ドイツ欧州帝国が1991年に崩壊してより勢力を減退させ続けているとされていたし、少なくとも欧州においてはその通りだったが、もともとファシズムとは社会主義的側面よりも国家主義、全体主義、一党独裁が強い政体であり、民度が低い発展途上国に最も受け入れられやすい政治制度の一つだったため、21世紀を迎えてもアフリカ地域を中心に多くの国家社会主義国が好むと好まざると存続していた。

 

 そして、日本や近隣アジア諸国に対する暗い国民感情が、中華民国を日本のコントロールを完全に離れ、より強くファシズムへと走らせてしまったのだ。

 

 ドイツ人などからすれば何を今更とあきれるか、ニュークを保有し大国のコントロールを離れればこんなものだろうと理論的に納得する事柄だろうが、新たなローマ帝国の一翼を担う覇権国家たる日本からすれば、近隣にこのような危険な国が自分たちのコントロールを離れつつある事は大きな憂慮となっていた。

 

 そして近隣のアジア諸国も日本と同様に考えていたため中華民国の孤立感を煽り、より一層ファシズムへの傾倒を強くさせる悪循環の道を世紀末の10年近く歩かせる事になる。

 これは、直接国境を接しなくなったインド、ロシアを含めた全ての近隣諸国が中華民国を何らかの形で警戒している点が強く補強していた。

 これに関しては、何かと日本に吠えたてている韓国も例外ではなかった。

 もっともこの点は、過去数千年中華中央のくびきにあえいだアジア諸国は、中華中央に存在する国家の大国化と膨張を望まないという、もはや遺伝子レベルでの恐怖感がある事を考える必要があるだろう。

 21世紀を迎えた今日、古代の封冊体制などに誰も興味はなかったのだ。

 

 また、共産中華から中華連邦共和国と改名し、アジア的民主国家への道を歩みだしたもう一つの中華をアジア諸国が重視した点が、中華民国の状態を極度に悪化させる事になる。

 

 分かりやすく言えば、それまで中華民国にだけ流れていた政府開発援助(ODA)を始めとする各種援助や借款の最低半分が今度は中華連邦に流れ、外貨を頼りに近代化を推進していた中華民国の経済が1995年を境に完全に傾き、その逆恨み的感情を関係各国にぶつけるようになっていたと言うことだ。

 


 もっとも、中華民国情勢そのものは今すぐリビアやイラクのような大規模な戦争に発展すると言うわけではなかった。

 

 曲がりなりにも大国である彼の国の支配者達も、自分たちが確実に消滅するだろうMAD(相互確証破壊)の可能性の高い戦争などする気はないし、かといって通常戦争を仕掛けたところで、湾岸事変のイラクよりも悪い結果になるのは分かり切っていたし、表面的には中華民国そのものが日本を中心としたアジア同盟に加盟しているので、何か問題があればそこか国連かで、話し合いで解決すべきだと考えていたからだ。

 

 なお、近隣のアジア諸国がどう考えていたかについては語る必要はないだろう。

 中華地域中央は適度に衰退しているのが一番良いに決まっているのだから。

 

 だが、だからと言って問題がない訳ではなかった。

 特に各国からの援助が極端に減少した経済問題は、中華民国にとっては致命的だった。

 

 原因は、ODA半減以外にもいくつもある。

 1990年代の中華民国自身による産業育成の失敗、インドの『世界の工場』化と共産中華解体により海外資本の流れが変化、それによる中華民国に対しての民間の海外資本の流入停滞化、中華民国の軍拡政策によるアジア諸国の中華民国離れ、中華民国国内での資源の枯渇化(特に石油資源は致命的だった)、人口拡大と産業発展による食糧自給率、資源自給率の急速な低下、その他中華民国国内の官僚腐敗を始めとする諸々の人的原因による経済の動脈硬化問題など数え上げればキリがなかった。

 

 また、直接国境を接している国々との問題も頭の痛い種だった。

 過去一度大規模な国境紛争を起こしているベトナム、中華民国がいまだに正式に国として認めていない満州国、不倶戴天の敵である内陸中国(共産中華改め中華連邦共和国だが彼らは未だに非合法占領地域として国家認定していない)、そして海洋資源を巡り警戒感を強めている日本帝国、それらの国との軍事対立は大半の国と同盟関係にあるとはとうてい思えないものとなっていた。

 

 つまり、今すぐどうこうという事はないが、火種には事欠かないと言うことだった。

 

 そして2003年、イラク問題に平行するように発生した中華民国による憂慮すべき問題は、満州国国境線での発砲事件とそれにあわせるかのように行われた、国際協定を無視した核実験だった。

 

 この二つの事件は、中華民国にとっては近隣諸国へのちょっとした示威行動と手違いが原因でしかなったが、満州国軍は共産中華崩壊以後上昇する事のなかった警戒態勢を丙種警戒態勢(デフコン3)にまで上昇させ、当然のごとく中華民国軍とのにらみ合いへ移行した。

 自らルールを変えておいて、その事に気付いていなかったのは当の本人たちだったのだ。

 

 この頃の満州国軍は、冷戦時代に目指された「八旗兵、20個師団、100万人」にこそなかったが、依然として陸空軍を中心として強大な軍備を維持しており(近衛隊にして緊急展開部隊である禁軍を含めて10個師団、40万人体制)、これに日本の満州駐留部隊(第七機甲師団主力)を含めた大兵力で北アジアの安定を維持していた。

 そして軍主力をそれまでのロシア国境から中華国境にシフトしており、国際環境の変化を示す何よりの例と国際的にも見られていた。

 

 また、南の隣国ベトナムも、南シナ海での制海権の確立のため念願の国産軽空母複数保有を実現し、国境沿いに布陣する陸軍の精鋭部隊と共に対中華シフトを敷いてもいた。

 そして当然のように満州国と歩調をあわせて対中軍事圧力を強めた。

 

 もちろん東洋の盟主たる日本海軍の空母機動部隊が、複数両シナ海に展開した事は言うまでもない。

 さらに、中華民国を対象とした台湾と沖縄に対する軍事力の追加展開も行われた。

 これに関しては、宇宙開発事業団(NASDA)が国にかなりの面積を返還した沖縄の嘉手納基地が再利用され、再び日本の安全保障の一翼を担うようになってもいた。

 

 そして中華民国は、この時の同盟国の過剰なまでの反応にスポークスマンやマスコミなどを通じて強い調子で非難こそしたが結局おとなしく引き下がり、軍事バランスと国家関係が変化した事を強く理解すると共にさらに暗い感情を蓄積させる事になる。

 


 そして現時点でイラクと中華民国、この二つの国に言えるであろう事は、現状の東洋的解決が良かったのか、それとも第二次中華動乱やこの時の米英の行動のような西洋的解決に訴えるべきだったかこの時点では不明だと言うことだ。

 

 この顛末に関しては、みなさまのその目で確認していただきたい。

 


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― 新着の感想 ―
[一言] 難しいところですね~。 米国型の敵地進撃は、結果としてテロ支援国家を壊滅させた代わりに現地人組織のテロリストどもを跋扈させてしまった。 しかし、逆の穏便外交は今の北朝鮮を産み出す原因にもなっ…
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