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Phase 5-3:戦闘

 1991年1月17日、湾岸戦争はついに開戦した。

 本当は多国籍軍による攻撃が始まっただけなのだが、世界一般にはそう受け取られている。

 

 1月15日の多国籍軍からの緊急声明の後、軍事に多少詳しい者なら誰もが開戦日を予想できる、この年最初の新月の夜が多国籍軍の反撃の時となったのだ。

 


 この開戦を私は艦を降りる機会を逃した事から戦艦「武蔵」で迎える事となった。

 しかも艦長(軍)の好意で戦闘指揮所に入れてもらえたのでその詳細を事細かく知ることが出来た。

 チョットした幸運というヤツだ。

 そして、多数の様々な大きさのモニター画面で埋め尽くされた広い武蔵の戦闘指揮所内は、私などのようなロートルからすれば孫達の見ているようなテレビアニメかテレビゲームのようにすら思えるほどの先端機器で埋め尽くされ、ここ最近の軍事技術の高度化に驚嘆するしかない現実と言えた。

 おかげでそれらの画面を見ただけでは一体何が何やら状態で、艦長が付けてくれたベテラン士官の説明がなければ理解することすらできなかっただろう。

 私が湾岸事変を軍事的に詳しく知ることが出来たのは、結局人の説明によってという事だった。

 

 また、この戦闘指揮所でのもう一つ驚かされたのは、このような戦闘的な部署にまで多数の女性の姿があった事だ。

 しかも、階級章など見ると最高位は少佐にまでなっており、私の驚きの表情を発見したくだんの艦長などは、本艦には1800人からの乗員がいますがその2割は女性ですよ、と子供におもちゃを見せるような笑みを浮かべながら教えてくれたものだ。

 

 何でも人員不足を主な原因として、これにここ10年程の急速な電算化が重なり、今までの衛生や通信、主計任務だけでなく、戦闘部署にも多数の女性将兵が導入されるようになったらしい。

 ただこれは単に社会の女性進出と事情が若干違い、兵器の高度技術化が重労働の比率を低下させ、これが女性の戦闘部署への進出を容易にし、さらに電算機の操作はタイピングなどがそうであるように、女性の方が向いているという事で、合理的な判断からそういう流れが出来たらしい。

 ただ、そう言われても戦闘指揮所の三割からが女性で、男性的なものの象徴とすら言える50糎砲の管制すら女性の手にあるという事実は、素人である人間からしても実に奇妙に感じたものだ。

 まあ、最近では戦闘機の第一線パイロットすら見かけることができるというのだから、この程度で驚いてはいけないのだろうが。

 


 そうして私が半ばぼう然とその様子を眺めている間に、「武蔵」は1隻の海防艦をお供にして空母の護衛から離れ、ペルシャ湾の奥へと進んでいた。

 

 気がつくと、と言うより次に説明を受けた時には、「武蔵」は他の似たような艦種の艦艇ばかりで構成された艦隊に合流していた。

 何でも沿岸部に多数存在が確認された誘導弾発射施設らしき場所に向けて、派手な艦砲射撃を実施すると言う事だった。

 

 要するに派手な艦隊を敵の戦力にあえてぶつけて、それを囮として相手の切り札を早々に消耗させようとするのが目的と言うことだろう。

 そのために極めて強力な、恐らく世界最強と言ってよい水上打撃艦隊がこの任務にあたっていた。

 向こうが打ってこなければ、ただ単に踏み潰せばいいからだ。

 

 この時艦隊を構成していたのは、旗艦任務を仰せつかった戦艦「信濃」を先頭として同型艦の「甲斐」、「武蔵」、打撃巡洋艦の「白根」、「鞍馬」と護衛の駆逐艦が2隻、海防艦3隻で、なんでもビルマ紛争以来の水上打撃を任務とした艦隊だったそうだ。

 だが、他国の同種の艦隊との大きな違いは、「大和級」戦艦がどれも8機ずつの固定翼機を搭載し、常時4機が直衛任務に就いている事だろう。

 だが、「大和級」が3隻も集まれば、その航空機運用能力は限定的なものながら中型空母1隻分にも匹敵する事を考えれば、ある意味当たり前の状態でもあるらしい。

 

 そして、私のお守り役を仰せつかった士官は、この時久しぶりの純粋な打撃艦隊の編成に興奮していたのだろう、何かにつけて艦隊の「凄さ」について実に事細かく解説してくれたように思う。

 思うという訳だから、私にはそのような詳しい話しが全て理解出来るはずもなかったわけだが、そのような者でも本物の「戦艦」と呼びうる艦艇が5隻も参加した部隊が、世界的に見てもいかに珍しいかぐらいは体感的に理解できた。

 

 なお、後から聞いた話しでは、お守り役の士官はいささか古いタイプの特務士官(たまたま乗りあわせていた海軍陸戦隊からの相互連絡のための派遣士官だそうで、本人曰く「まだ自分も観客のようなもの」らしいが、私などのお守りをしていてよいのだろうかは不明だった。)で、最初の「八八艦隊計画」の戦艦たちがまだ海洋を悠然と疾走していた頃に水兵として入隊したのだそうだ。

 そう思えば、彼のあの時の興奮も理解できようと言うものだ。

 何しろこの時の艦砲射撃の規模は、実戦で艦砲射撃を行うという点において、今では伝説とすら言える太平洋戦争以来だったからだ。

 

 

 もっとも、戦艦と言う凶悪極まりない兵器の中枢で実体験する事となった51糎砲を27門も並べた艦砲射撃だが、あまりにも強固に防御され外の世界から隔離された環境にある戦闘指揮所で体験したそれは、思いの外味気ないものだった。

 

 衝撃吸収と音響遮断を徹底的に考えて改装の際に新たに作られた場所で、その上外の様子が直接見えなければ、主砲の射撃も実体験的には一瞬の地震が連続するようなものか、良く揺れる列車の中でテレビゲームをしているような程度の感覚しか覚えなかったからだ。

 まあ、実際の戦争を知らないからこそそう感じたのだろう。

 

 そう言う点では、艦砲射撃の前に行われたイラク側というよりはるばる沙漠の大地まで来ていたドイツ軍軍事顧問団が行ったであろう対艦誘導弾の一斉飽和攻撃の方がよほど緊迫感があったように思う。

 何しろ自分たちに向って何か得体のしれないものがものすごい勢いで突っ込んでくるのが、大きなスクリーンに情報として映し出されていたからだ。

 

 ただ、冷戦時代を通じて日英米の海軍から恐怖の象徴の一つとされていたドイツ製対艦誘導弾の飽和攻撃も、これに対抗するべく異常なまでに強力な防空能力を付与された5隻の艨艟の前には、自らが剣を抜き放つ前の単なる前座程度に過ぎないらしく、敵の発射とほぼ同時に旗艦「信濃」からの『全自動迎撃』が命令されると、後は長距離対空誘導弾を操作する武器士官が艦長の命令を復唱、10秒とかからず迎撃弾の発射が開始され、各艦たったの2斉射ほどの誘導弾発射で全ての目標を撃墜していた。

 

 もっとも、この時5隻の「天弓システム」を装備した戦艦から放たれた誘導弾の数は、たった十数秒の間に170発以上にも上っており、約100発も発射された筈のドイツ製の西側が「ワルキューレの槍」と呼んで恐れていた大型対艦誘導弾をその姿を見張り員が肉眼で見る前に完膚無きまでに殲滅して、付近をPLの花火大会のような情景にしてしまっていた。

 この迎撃は自動迎撃に一切を委ね飽和迎撃しただけに極めて徹底しており、取りこぼしを迎撃すべく艦隊前衛で空中待機していた12機の対空迎撃装備を満載した艦載機(Jハリアー)の必要すらなかったほどだ(意地を見せるように4発の敵誘導弾を迎撃しているが)。

 なおこの数字は、それまでの実戦において、数発単位でしかどちらの誘導弾も発射された実例がない事を思えば非常に激しい戦闘で、世界中の軍事関係者が大いに注目した戦いだったそうだ。

 

(この時は、完全編成のドイツ軍事顧問団・地対艦誘導弾1個連隊装備の96発とイラク軍の地対艦誘導弾1個大隊装備の18発の対艦誘導弾が、日本艦隊に艦砲射撃で破壊される前にとばかりに誘導弾を一斉に発射、これに対して日本艦隊は発射確認と同時に迎撃を開始し、174発の長距離迎撃誘導弾を発射していた。)

 

 そしてその日を境に地上戦を開始するまで、湾岸事変での多国籍軍の航空攻撃はドイツ、ロシアなど欧州各国製兵器に対する射的大会の様相を呈していた。

 

 CNNやNHKがいくら冷静に事の事実を伝えても、お茶の間に届いた映像からはそうとしか受け取れないほど、戦争とはとても言えないほど一方的な戦闘が展開される事となった。

 この事もあり、日本軍・政府ではこれを「戦争」とは最後まで呼ばず「事変」としている。

 軍としては戦争と呼ぶに値しない戦闘行為だったと言う事だ。

 日米英にとっては、冷戦時代にため込み、その解消と共に余ってしまった凶悪だがコストパフォーマンスの悪い兵器の一斉在庫処分市にして評価試験のようなものだったのだ。

 

 しかし、半世紀の間自由主義社会を恐れさせ続けてきた科学大国ドイツの兵器が、なぜこうも容易く自由主義側兵器に殲滅されてしまったのだろうか。

 

 答えは思いの外簡単に見つかった。

 原因は、一般社会と同じく経済原則と競争原理というヤツだ。

 ミリタリーマニアなどが言うように、大戦前からの電波・電算技術の遅れが、ここで致命的な結果をもたらしたワケではない。

 

 国家社会主義とは、とどのつまり国があらゆる産業を統制してしまうもので、そのような企業間の競争が著しく阻害されるような環境で健全な企業育成や技術開発が中長期的に広範な分野にわたり出来るはずもない。

 これは、1950年代の日本の官僚専政時代にも言われた事だ。

 しかも第三帝国という政治的体質が、自らの勢力下の国々の技術開発や工業生産力など産業全体を故意に強く抑制、妨害してもいた。

 それが半世紀も続けばどうなるかは、経済や産業というものに少しでも知識を持っていれば連想できる事だった。

 

 いかに優れたドイツ製の兵器であっても、それに使われている電探・電算機・電子機器の大きさが日米の何倍もあり性能も劣るのでは対抗することそのものが無理な話し、しかも自由主義陣営では日本とアメリカが互いに先端産業での世界シェアの覇権を争って凄まじい開発競争を繰り広げていたのだから、欧州大陸に閉じこもってプロパガンダばかりが立派なドイツ産業に太刀打ち出来るはずもないだろう。

 

 しかも、先端技術の格差は理論的には互角でも最低で10年の格差が開いているとあっては、この電算化の進んだ近年にあっては致命的な差が出ていたと言う事だろう。

 

 ヨーロッパ対オーシャンズの対決が終り、鉤十字の印の入った鋼鉄のカーテンが取り払われたとき欧州にあった兵器は、謎の黒い帝国が作りだした秘密兵器ではなく、職人気質なマイスターが作りだした巧妙だが実用性の低い時代遅れの産物だったのだ。

 

 しかも対する日米は、アメリカが移民の国らしい合理主義に裏打ちされた自由資本主義の寵児であり、日本は神話の時代からそれが便利であるなら悪魔からすら何でも真似てしまうと言われる民族なのだから、孤軍奮闘を強いられたドイツが哀れというものだろう。

 悪らつさについては人後に落ちない英国を敵とした事についても言うまでもない。

 

 一応、ロシアやフランス、イタリアと言ったパートナーもあったが、ロシア人はドイツ自らの政策の影響で基礎体力(国力)が低く、戦車作りは上手かったがそれだけであり、イタリア人は一部偏った兵器の開発は上手く、理論的・技術的に見るべきものは多々在ったが、総合的な体力(国力)とコストの面で日米の量産兵器に対抗できず、もちろん国力の小ささから兵器体系を作り上げることなど夢物語で、フランス人に至っては国力に比例したそれなりに優れた素質がある筈なのに、背伸びして何から何まで他国のマネばかりしていて、結局は全てドイツ人が行わねばならず、老練な英国、新進気鋭に富んだアジアの新興工業国をパートナーとした日米に優位に立てるはずもなかったのだ。

 


 だが、ドイツはまだ世界を二分するとされた帝国であり、特にこれまで世界の半分の政治的盟主である事から、多数の兵器を輸出し国家財政を回転させてきただけに、この日米による射的大会は感情、実利全ての面で許容できるものではなかった。

 

 このため、イラクに多数入り込んでいた軍事顧問団は、自ら兵器を操り機会を見て果敢に反撃を行う事になる。

 大失敗だったが開戦壁頭の日本の水上打撃艦隊に対する攻撃などがそれだ。

 

 またイラクには、多数のドイツ製、フランス製、ロシア製兵器が溢れていた。

 これこそが多国籍軍の膨大な兵力を呼び込んだわけだが、それだけにかなりの脅威と開戦までは多国籍軍からも認識されていた。

 

 特に欧州の陸軍大国が多数輸出した5000両以上とされる戦車の群は多国籍軍の一番の脅威だった。

 イラク親衛隊だけが装備しているとされたドイツの「レオパルドI」、数の上の主力のロシアの「T-72」、「T-62」、「T-54」、重装甲車を中心に値段が安かった事もあり膨大な数が装備されたフランス製の各種戦闘装甲車、それらを支援する多数のドイツ製、ロシア製の優れた火砲。

 

 まるで、冷戦時代の欧州帝国軍のオールキャスト出演のようなイラク地上軍の陣容は、少なくともカタログデータや編成上では極めて脅威と考えられていた。

 

 航空戦力についても同様だった。

 特にドイツ各社が送り出した輸出用の航空機、対空誘導弾の数々は、それがたとえ性能の型オチした「モンキー・モデル」と呼ばれたものであっても、冷戦時代の日米双方の最大の脅威であり続けただけに、1月17日の航空撃滅戦が始まる時は、多国籍軍の各航空部隊はかなりの緊張をもって実戦にのぞんだと言われる。

 

 だが、蓋を開けてみると射的大会だった。

 

 各種電探情報はもちろん、早期警戒管制機や衛星情報に従い誘導、戦闘を行う多国籍軍の航空機が、単なる性能差よりもそうしたカタログデータ以外の目に見えにくい戦力倍増効果により圧倒的な戦力を発揮し、イラク空軍が優れたドイツの土建技術で作られたシェルターを以て兵力温存を図りまともに多国籍空軍に対抗しなかった事も重なり、多国籍軍の攻撃開始30分でイラク全土の制空権はイラクにとって、そして欧州各国の軍事顧問団にとっても絶望的状況となり、不十分にしか遮へいされていなかった地上物は、それが何であろうとも手当たり次第に多国籍軍爆撃機の餌食となっていた。

 

 また、強大であるはずの陸軍を守護することになっていた対空防御システムも全く振わなかった。

 衛星テレビに映し出されるバグダッドの激しい対空砲火は、テレビの前のお茶の間の人々にとっては夏の花火大会のような印象しか与えず、その実際も多国籍軍が放つ各種電波攻撃の前に、ドイツの優れているとされた対空迎撃システムはほとんど有効に機能しなかった。

 つまりバグダッドの映像が伝えるように、盲滅法に対空砲を打ち上げるしかなかったのだ。

 もちろん、確率論の結果撃破される多国籍軍機の姿もあったが、撃墜される数が全体の0.5パーセント程度と言われれば、軍事的には無意味も同然だった。

 

 兵器を提供したドイツ軍事顧問団が操った場合は、イラク兵の操る同じ兵器であっても効果がまるで違うとされ、実際戦後の研究でもそれは実証されていたが、多国籍軍の物量を前にしてはそれも程度問題であり、大勢にはまったく影響はなかった。

 多国籍軍の航空優勢はそれ程圧倒的だったのだ。

 


 ただ、各国・各軍の爆撃方法などを見るとその軍事ドクトリンの違いが見え、興味深いものがある。

 

 端的に言えば、日本は防空を地上の強大な対空迎撃システムに大きく依存している事もあり、航空機に関しては最も攻撃重視の思想で染め上げられ、アメリカが航空機をあらゆる任務に使おうとしている点だ。

 また、英国はこれまで狭い海峡を挟んで強大な欧州帝国に対抗していた事から最も防衛的で、その装備体系も制空権保持を第一に考えた編成になっていた。

 

 次に各軍についてだが、日本が連合空軍、宇宙軍、海軍に分かれており、そのどの軍もが地上部隊に防空の多くを委ね、進撃可能な兵力はかなりの比率で攻撃的に編成されている。

 反対に英国は空軍も海軍も全てが防衛的で、同じように英国本土をまず防衛せねばならなかった米空軍もかなり制空を重視したものとなっていた。

 ただし、米空軍はそのあまりの巨体のため攻撃力も極めて強大であるから、日本などよりも万能空軍と言えるだろう。

 

 それらの中で特に対照的だったのは日米の艦隊航空戦力で、日本が極端なまでに艦隊防空を水上艦に任せてしまい、空母艦載機の大半を攻撃的任務に投入可能なものとしていたのに比べ、米海軍の空母は艦隊の全てを守りその上で攻撃にも使おうとした事から、攻撃力と言う点で日本のそれと比べるとかなり低いレベルでしかなかった(単純に空母搭載の攻撃機の総合搭載量比較で日本が1.6倍もあった)。

 そして、この事はこの湾岸事変で大きな差を見せ、自らの空母のあまりの攻撃力の低さに米海軍を慌てさせる事になる。

 しかも日本海軍が伝統的に命中率にも異常にこだわり、派遣されていた航空集団の中でもっとも兵器のスマート化と大威力化が進んでいた事は、攻撃力の違いをより一層大きくしていた。

 

 要するにこの戦いまでの空母とは、日本海軍にとって長い槍であり続けそれ故徹底的に磨き上げ、米海軍にとってはありとあらゆる用途に使える万能銃であったと言うことだろう。

 この基本的な考え方の違いがこの差をもたらしたのだ。

 


 なお私自身は、攻撃開始の数日後に乗っていた「武蔵」が少し後方に下がった時に艦を降り、以後しばらく休暇のような仕事をこなしつつペルシャ湾に滞在したが、湾岸事変そのものは爆撃開始から一ヵ月強が経過した2月24日に多国籍軍の地上侵攻が始まり、たったの72時間で地上戦は事実上終了していた。

 多国籍軍は、国連決議のクウェートからのイラク軍撤退という錦の御旗を利用してイラク軍主力を撃滅する事だけを戦争目的とし、それを達成したのだ。

 

 以後の経過は、もともと中東問題に深く関っていた英米主導で事が運ばれ、クウェート解放という錦の御旗のもと何とも歯切れの悪い政治的問題へと移っていったが、この侵攻作戦以後、多国籍軍として多数参加していたアジア諸国は、取って返すように本国へと帰国する事になる。

 

 別に戦費が惜しくなったからではない。

 

 極めて確度の高い情報として、独裁状態の中華人民共和国の独裁者の危篤が報道され、それにより同国での権力簒奪のための内戦が勃発し、それがアジア全域に波及すると恐れられていたからだ。

 

 このため、あれ程湾岸を注目していたアジアの民は、この事をしばらく忘却の彼方へと押しやり、目の前の脅威に大いなる関心を向ける事になる。

 今回は、『サーカスとパン』とはいかない事だけに、その関心も極めて高いものだった。

 

 幸いにしてこの時の報道は、いまだ事実上の一党独裁体制にある中華民国のいつもの虚報だったのだが、この事は数年以内に現実になるだろうと見られていた。

 

 このため湾岸事変は、軍においては実戦経験を得るまたとない機会として、一つの僥倖と見られていた。

 


 ちなみに、湾岸に多国籍軍として兵力を派遣していたアジア諸国は、日本帝国は当然として、日本と同様に独露との対立から解放された満州国が陸空軍の面で大軍を派遣し(中央軍に属する禁軍(親衛隊)の1個軍団の地上兵力(3個師団10万人)と200機の航空機を派遣していた)、これにベトナム連邦共和国もそれなりの兵力を派兵、タイ王国、マレーシアなどが付き合いレベルの兵力を送り込んでいた。

 まあ、大隊レベルの派兵は、言ってしまえばオリンピックに出るような気分だったのだろう。

 そして、ただ一国大韓国だけは、110億ウォンの日満の戦費の肩代わりをしただけで全く派兵を行わず、アラブ諸国は元より世界、そしてアジア各国からすら無定見な国家として非難を浴びているのは記憶に新しいと思う。

 



■Episode. 6:1995年4月

セカンド・ウォー(中華統一戦争) 


 ●Phase 6-1:原因そして発端 ▼


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