Phase 5-2:多国籍軍派兵
1991年1月初旬、この時私は沙漠の暑い太陽の照りつける洋上を疾走する船の上にあった。
船の名は「武蔵」と言う。
日本が半世紀近く前に国家の威信と存亡をかけて建造した、都合4隻建造された史上最強とされる戦艦の次女という位置づけにある排水量10万トンに達する巨大戦艦の事だ。
この頃には私は、周囲の声を半ば無視し息子に席を譲る形で議員すら引退し、年寄り達のヒーローほどではないが「ご隠居」生活を満喫していた。
生涯現役など、柔軟な思考と決断力を必要とされる政治家には害をもたらすだけだからだ。
まあ、首相などという大役すら大過なく勤めあげたのだ、御国へのご奉公はもう十分だろう、後は周りより多少は高額な年金をもらいながら、趣味に講じた悠々自適な生活がしたいという気持ちがあった事も事実だったが。
そして、その趣味が高じて始めた新聞や雑誌への寄稿がどうやら軍部に受けたのか、それとも政治家時代の私の苦労をそれなりに認めてくれたのか、久しぶりの海外大軍派兵という大事業を展開していた軍が、私をゲストとしてペルシャ湾に招待すると最大限の謙譲表現でもって伝え、これに私が子供のように喜んで応えた結果、この時期の私をペルシャ湾の軍艦上に立たせることになっていた。
私が喜んで沙漠の海にやって来た理由は、自分が関った事の成果を多少なりとも実際この目で見ておきたいという事と、何より軍に奉公している次男が中佐という肩書きで軍艦に乗り込んでおり、正月すらすっぽかしたその息子に会えるかもしれないという理由があった。
もっとも、史上最大の戦闘艦の上からの情景は、ひどく一般人のイメージを裏切るのだと思い知らされる事となる。
何しろ8隻の様々な艦艇から構成されているという航空母艦を含む艦隊の筈が、双眼鏡を使わなければ「武蔵」が守っている空母「蒼龍」すら肉眼ではっきり見る事は難しく、その他の護衛艦艇に至ってはほとんど肉眼で見る事ができないのだから、観艦式などでしか洋上を航行する艦隊を見たことない者としてはひどく物足りないものを感じたものだ。
だからといって「武蔵」の魅力に魅了されなかったかと言えば、これは全くの別問題だった。
基準排水量で9万3000トン(満載は11万トンにも達する)もの船体は全く男性的な魅力に満ちあふれていた。
西洋では船が女性名詞で表されるという事を感じ取ることなど全く出来ないほどの圧倒的な存在感だった。
1950年代の大改装によりさらに凶悪さを増した史上最大・最強の51サンチ主砲、新時代の装備を施されてもなお旧時代からの威厳を失うことのない艦橋構造物、主機関を蒸気タービンからオール・ガスタービンに換装する事で全体をより今風の装いに見せている太く角ばった煙突、ドレスで着飾る女性の装飾品のようにちりばめられた無数の防空火器と電探・電波兵器の数々、それらが日本的美意識でまとめられた優美とすら言える船体に装備され、その全てが魅力に満ちあふれていた。
しかも近年の大改装で、後部格納庫と甲板には固有の戦闘機すら搭載されており、単にカタログデータ上での比較なら「大和級」1隻で通常の一個艦隊と同等の戦闘力が備えられているとすら言われる。
1980年代に行われた本級の大改装には、4隻合計で大型空母1隻分と同じ改装予算が投入されたというが、それだけの能力はあると言いたいのだろう。
また、これほど強固な水上戦闘艦が誕生した背景には、空母を全ての用途に使おうとする米海軍と違い、日本海軍の戦術ドクトリンでは空母艦載機を純粋な攻撃力として用いるために艦隊防空を可能なかぎり水上艦でまかなう必要があり、それが少数の艦で可能だっため半世紀近く前の戦艦が現代に復活する運びになったそうだ(多少余談だが、最大級の構想では当時まだ保管艦状態だった「富士級」戦艦の現役復帰すら計画されていた)。
また、大型空母の維持費用が、その性格上異常に高価なのに比べれば(リアクアー機関を備え、省力化しても乗員4000名が必要だからだ)、圧倒的防空能力を保持した水上打撃艦は費用対効果の点でそれなりに有利で、さらに任務の棲み分けもしやすく、それを海軍全体で有機的に機能させるためわざわざ4隻全てを改装・現役復帰させたという背景があるらしい。
もっとも最後あたりの点は、「戦艦派」の言い分だからかなり眉唾と息子は言っていた。
ちなみにこの時期の日本海軍の標準的甲種艦隊編成(当然乙種もある)は、空母1隻に対して「大和級」戦艦1隻、打撃巡洋艦1隻、対潜巡洋艦1隻、防空駆逐艦3隻、汎用海防艦3隻、巡洋潜水艦1隻とされ、さらに危険度の高い地域では甲乙の2個艦隊を統合して運用するとされている。
そしてこのペルシャ湾に海軍は3個の甲種空母機動艦隊を展開し、さらに乙種艦隊が1個インド洋上で展開するという重厚な布陣で望んでいた。
つまり、日本の水上艦隊の半分が投入されたという事になる。
海軍がこれほどの兵力を展開した背景には、水上艦は遠方への派遣が他兵種に比べて比較的容易だと言う事と支那での情勢悪化により連合空軍が当初の予定より引き抜けなかったからで、ドイツとの睨み合いから解放された英米と対照をなしていると言えるだろう。
この招待のおり私自身が興味を持っただろうか、暇なのは自分だけだからと案内役を仰せつかってくれた艦長は、実に懇切丁寧に乗艦と艦隊・海軍の事について詳しく話してくれたので、ここでその一部なりとも紹介しておこう。
まず説明されたのが艦隊の編成に関してで、先に書いた艦艇の構成についてもこの時教えられたものである。
英米風に表記すれば、「CV:1、BB:1、CGA:1、CGH:1、DDG:3、FF:3、SSN:1」を以て艦隊が構成されている事になる。
うちこの当時で「天弓システム」を搭載していたのは、BBと巡洋艦に最新鋭の「睦月級」防空駆逐艦(駆逐艦であるにも関わらず排水量は1万トン以上ある!)で、最低3隻は艦隊に所属している事になる(最新鋭の「天城」の随伴防空駆逐艦は全て「睦月級」で固められていた)。
そして、「大和級」は同時に40個以上の目標に対する誘導弾迎撃能力があり、これは最新鋭の防空駆逐艦の二倍以上の能力で、本級1隻だけでもドイツ軍の想定していた空軍の対艦誘導弾飽和攻撃に対しても十分な防空能力を持つと言われている。
この圧倒的能力が、21世紀に入り大改装から20年近くを経ても「大和級」が交代で現役を勤めている理由だろう。
この強大な艦隊の牙となるのが、各艦艇に搭載された多数の巡航誘導弾と対艦誘導弾、そして目玉商品の各種艦載機となる。
各種誘導弾については、純然たる対艦誘導弾以外の巡航誘導弾の弾頭の内容が軍機に触れる事も有り詳細は教えて貰えなかったが、1個艦隊あたり巡航誘導弾だけで100発程度配備されている。
そして、最も重要な攻撃兵力である空母機動部隊は、非常に重厚な布陣を誇っていた。
主力をなすのは艦隊の中核を占める航空母艦の飛行隊であり、満載9万トン以上の巨体を誇る彼女たちには約90機、戦闘攻撃機4個中隊、攻撃機1個中隊に対潜哨戒機1個中隊、ヘリ1個小隊を核として早期警戒機、給油機、電子作戦機がこれらを支援すべく搭載されていた。
空母に関してのアメリカとの違いは、日本の空母はアメリカの「F-14」のような制空専門の機体を搭載せず、全てを戦闘爆撃機にしている事で、ここに日米の空母に対する認識の差を見る事ができる。
空母以外にも、駆逐艦と海防艦にはそれぞれ1~2機ずつのヘリが搭載され、巡洋艦と戦艦には同じく6機のヘリがあり、さらにこの時は戦艦には8機の垂直離着陸型の防空戦闘機(英国生まれのハリアー戦闘機の改修型(通称Jハリアー))が搭載され、艦隊の能力を高めていた。
これらを合計すると約120機の搭載機が一つの艦隊に属している事になり、これらの兵力だけでチョットした国が有する空軍全てを相手取れるだけの能力を持っているとされる。
この艦隊編成は、同程度の規模を持つアメリカ海軍が、より単機能化された艦艇で構成されている事に比べて少し変わっており、大型空母など保有できない他の国々からすれば贅沢の極みと言える艦隊構成をしていると言われていた。
要するにコストパフォーマンスの悪い艦隊構成だという事だ。
この事は、議員現役時代の私の耳にも入っていたので、現場の人間である艦長にも少し聞いてみたのだが、彼らもその事は十分知っており、そのうえでこう話してくれた。
「ああ、その事ですか。
いや、我々も実に贅沢な装備を与えられている事は十分熟知しております。
その最たるものがこのデカ物で、こいつは何でもアリですからな(笑い)。
しかし、贅沢であるだけに現場の意見の多くが反映された実に優れた艦隊だと感じております。
特に残存性の高さについては、将兵一同常に心強く思っております。
たとえば、艦隊の先頭に立ち真っ先に敵の攻撃を受ける本艦の残存性は、他国の同様の任務に投入される駆逐艦などと比べれば系数的な差すらあります。
そのため我々は「大和級」の事を「世界最強の斥候艦」と呼んでおります。
(中略(大和がなぜ「制海艦」と呼ばれているかについての話題が主となる。))
また、「金剛級」対潜巡洋艦も贅沢な船ですが、建造された頃は強大なドイツ潜水艦隊に対して残存性の高い対潜作戦旗艦が必要と考えられ建造されたものです。
ですから単なる潜水艦制圧戦だけなら贅沢に空母を投入しなくても、あれと1個戦隊の海防艦があれば事足りる程高い能力を持っています。
それに、最近の改装で多数の巡航弾(巡航誘導弾の彼ら内での一般的な呼び方)を搭載してその任務の幅を広げた効果については、地上に対しても大きな効果がありますから、ますます使い勝手の良い船となっている事になります。まあ、つまり贅沢な船という事になりますかね」
彼の話は、武蔵艦内の紹介の合間の長い通路を歩く間続いたが、現場からの与えられた装備への見解や意見などというものを伝えるために艦長自らが案内して回ったのではないかという程深く切り込んだもので、話しを聞いた私の方が内心冷や汗をかくほどだった。
だが、話している当の本人は、どうみても自分の職場と仕事道具について楽しげに話している職人といった風、もしくは深い愛着のある乗艦の事を自らの細君ののろけ話のように話しているようにしか見えず、それでいて鍛えられた体の動きにスキはなく、すれ違う乗員との関係も実に良好のようで、まるで半ば伝説となっている日露戦争の頃の軍人たちのように感じたものだ。
まあ、私がそう感じたのも当然と言えば当然で、彼の一族は代々海軍を「家業」としており、明治の頃に当時かなり話題となった人物をご先祖としていた。
そして、それをあらわすかのように彼は褐色の瞳と黒みがかった亜麻色の髪の持ち主で、その逸話が全くの真実である事を雄弁に物語っていた。
さて、海軍の話しばかりが長くなったので公正を期すため、この「湾岸事変」で多国籍軍として派遣された他の日本軍とその同盟国についても少し紹介しておこう。
「湾岸事変」に対して、日本帝国は多国籍軍の主力として実に大きな兵力を派遣していた。
規模的には英本土で不要になった兵力を根こそぎ持ち込んでいた米軍にこそ劣っていたが、並の国家相手なら単独でも十分対抗可能なほどの兵力だった。
これは、イラク軍に対抗するためと言うよりは、アメリカに対する国家のメンツがそうさせたのだろう。
具体的な数字を見ると、陸上兵力だけで陸軍が3個師団と1個旅団これに海軍陸戦隊が2個旅団を派遣しており総数で4個師団規模、支援部隊を含めると総数10万もの陸兵を派遣していた。
これをさらに部隊で見てみると、北海道に駐留する<第七重機甲師団>と独露との対立解消によりお役御免となった満州駐留軍に属する<近衛第一重機甲師団>、それに日本陸軍の機動兵団の先鋒にして総予備にあたる<第一空挺師団>と<富士嚮導旅団>がペルシャ湾にやって来ていた。
特殊な編成である空挺師団以外のどれもが満州と日本国内の工場で量産が進んでいる新鋭戦車「86式戦車(鉄虎)」を装備し、全ての部隊は日本陸軍の精鋭部隊とされ国際的な評価も非常に高く、多国籍軍の地上兵力60万の最も重要な位置に属していた。
航空戦力は連合空軍の主力が移動できなかったため、米軍に一歩譲る数だったが、それでも航空戦力全体として見るとかなりの数となっていた。
これは海軍が400機、海軍陸戦隊が100機、陸軍が200機(各種ヘリのみ)もの機体を持ち込んでいた事も影響しており、日本軍全体では1000機に及んでいた。
つまり連合空軍や宇宙軍からは約400機が派遣されていた事になる。
連合空軍の主装備は、世界最強の制空戦闘機としてアメリカの「F-15(イーグル)」と双璧をなす「川崎=中島・80式戦闘爆撃機(天狼)」で、IHIの大馬力発動機とカナード翼を多用した優れた機体設計、高性能電探により圧倒的な戦闘能力を誇っており、「F-15」を凌駕する事を目指し「F-15」より後に完成しただけに史上最強の戦闘機という評価を得ていた。
またこの機体は選択装備の懸架を装備するだけで簡単に戦闘爆撃機となり、大馬力発動機搭載なればこその大きな搭載量を同時に持ってもいた。
ただし、ライバル同様非常に高価な機体で設計も凝っており、冷戦最終期に大量発注された機体が日本と満州で採用されただけで、この事変の頃にはほぼ生産すら停止しているという代物だった。
この点では、戦闘攻撃機として大きな拡張性と柔軟性を持ち各種改修型・派生型がその後誕生した「三菱・82式戦闘攻撃機(旋風)」と比較すると興味深いと言える。
かたや当初から高い完成度を目指した機体、かたや発展余裕を豊富に持った機体。
ただ、どちらも発動機と電探、電算機の新型への改修でこの頃は似たような能力と言われていた。
なお、「旋風」は海軍陸戦隊も多数保有しており、湾岸にも空母艦載機と共に多数が派遣されている。
攻撃機の主力は連合空軍の戦術爆撃機は、海軍と共同開発されたばかりの全翼式の機体を持った薄っぺらい三角オニギリのような形をした「87式攻撃機(剣山)」で、12トンという強大な搭載量を誇る最新鋭の機体だった。
これは攻撃力を殊の外重視する海軍主導で開発された事もあり、他国にはない単機能機で米軍の「A-10」攻撃機とは違った意味で特異な存在だったが、「A-10」のような極端な方向に走らず、あくまで汎用性の高い攻撃機として誕生したため、その後も長らく使われる事になる。
もちろんこれも、冷戦時代のドイツへの恐怖心が生みださせた機体だ。
ある意味最後の亡霊とも言えるだろう。
そして、宇宙軍の超音速重攻撃機「66式重攻撃機(轟天)」といまだ一部が生き残っている重攻撃機「54式重攻撃機(飛鳥)」がこれを補完し、ディエゴ・ガルシア島にて待機している。
米軍のように奇妙に角張った形をした本格的な「ステルス機」の類は、予算の都合もあり日本軍は自らの兵器体系にまだ組み込んでいなかったが、米軍に匹敵するこれらの航空兵力は、今回の事変では大きな期待がもたれ、特に高い攻撃力を持つ事は多国籍軍の中にあっても最重要と目されていた。
なお、多国籍軍として湾岸地域に派遣された各国の航空機の合計数は約2700機で、日米だけでこれの80%以上を占めていた事になる。
そして日米が双方大兵力を派遣しているという事は多国籍軍全体にとって、ともすればクウェートにいるイラク軍よりもやっかいな問題だった。
問題となったのは指揮権に関する事だ。
多国籍軍の総数的には、日本率いるアジア諸国と英米の兵力量はほぼ同比率で、航空戦力だけが若干英米側が多いぐらいだった。
そして指揮権となると、日米とも当初全く譲る気配がなかった。
日本側はより危険なペルシャ湾に多数の艦艇を派遣している事、自らの軍ネットワークにあるアジア諸国がより多数参加している事から主導権を主張し、アメリカ側は最初にサウジアラビアに司令部を開設し司令部施設が自分たちの方が良い事、多国籍軍の後方兵站の六割を実質的に自分たちが負担している事、そして何より沙漠には自分たちの方が慣れている事を主張して指揮権を求めた。
結果は、「正義と平和を守る多国籍軍」という肩書きを守るため、実に折衷的・調整的なものとなった。
総司令官は英国、その他各指揮官は海が日本、空はアメリカ、そして地上兵力の統括は巨大な機甲兵力の運営に高い能力を持つとされる満州国から選ばれた。
各国に不満がなかった訳ではないが、基本的に圧倒的と言う表現すら莫迦莫迦しい程の大兵力を展開させている多国籍軍にとって、まあ派遣国の間の調停が取れるなら多少の不都合は問題ないと判断されていたようだ。
そして多国籍軍にとってのもう一つの大きな問題は、政治的な問題もありどの程度までイラクに対して戦闘を行うかという事だった。
開戦は、軍そのものとしては準備期間と戦術的・戦略的な都合から1991年最初の月の新月の夜と決められ、航空撃滅戦と徹底した空爆が行われる事までは問題なく決められたが、次の段階と言うより最終段階である地上侵攻はどの程度行うかという点では、戦略的な問題、つまり各国の政治的意図の違いや認識の差からいくつかの意見に分かれていた。
大きく当初の国連での案件通りにクウェートを解放するだけに留める、全ての国が一応納得(許容)できるように効果的にイラク軍を撃滅するために、クウェートとイラク南部に展開するイラク軍主力を包囲殲滅してしまう、強硬案を通しバグダッドまで進撃しフセイン政権そのものを打倒するという3つだ。
作戦会議と各国で協議を重ねる中、クウェート解放は当然と受け取られたが、それ以上となるとどうにも意見が統一されなかった。
これは日米がイラクの石油利権でいがみ合っているという実に現実的な対立のせいでもあったが、それ以外にも事実上崩壊しつつあるドイツ政府からのオブザーバーやイラクに関った人間から、イラクの政体はフセイン政権以外では維持することは不可能と言うレポートが出された事でさらに混乱する事になる。
ドイツ人は同レポートで「現在のイラク政権はかつての我々の歪んだコピーである」と結論づけていたとされる。
これにより、クウェート関連のみで問題を納めたがっていた「イラク軍主力撃滅」派が勢力を大きくし、当初圧倒的意見とされていた主にイラン問題やイスラエル問題の問題を少しでも減少させたがっていた「バグダッド進撃」派の意見を90年の晩秋には覆そうという勢力になりつつあった。
果してどこで戦争を手打ちにすべきだろうか?
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1. バグダッドまで進撃する
(Phase5-e2 へ進む)
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2. クェート解放をあくまで目的とする
(Phase5-3 へ進む)
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