Phase 3-3:混沌から統一へ
1968年9月、国際連盟総会はビルマ内戦に対する国連軍の派遣を決定した。
ダヂャン攻勢により、アングロ同盟の世論は非戦方向に急転換していたが、欧米の世論とは反して日本そして共栄圏内での「ビルマを救え!」という声は日に日に増大していた。
そしてこの世論に煽られる形で日本政府が国連を介しての武力を用いた調停を提案、世界規模での大々的なロビー活動へと展開させ、ドイツなど黒い欧州諸国からの反対を躱しきり、アングロ国家の了解を取り付け、ついに久しぶりの国連軍派遣にこぎ着けた。
欧州の反対が躱し切れたのは、要するに日本だけでなく、世界の一般大衆も「おとぎ話」的なシチュエーションや「光り物」には非常に弱かったという事が背景にあった事は現代において意外にしられていないのでこれを追記しておく。
まあ、確かに厳つい軍人のオッサンよりは、妙齢の女性の方がいいに決まっている。
そして、すでにビルマ近隣に展開していた日本軍が、国連軍第一陣としてその数日後にはラングーンへと進駐していた。
その後、すでに準備が整えていた日本はもちろん満州国、韓国、ベトナムなど共栄圏各国の軍隊が続々とビルマへと移動を開始し、すでに敗北を避けるための戦いを続けているだけの米軍と次々に交替していった。
ただ、アングロ同盟の中にあって、英国とその連邦構成国の軍のいくつかは、そのまま歴史的な経緯もあり留まる事となり、国連軍の一員として再びこの戦いに参加していた。
なお、後の外交問題を考慮し、慎重を期して国境を接し完全な隣国であるインドとタイからの派兵は控えられていた。
そして、アメリカ軍は日本などと入れ替わるように軍備の急速な撤退を行い、戦争の傷を主に経済面だけでも少しでも減らす努力がなされる事になる。
もちろん、国家の威信を保つため国連軍にも引き続き参加し、士気の低下していない一部の精鋭部隊と長く居座り拠点を持ち経験豊富な後方支援部隊と海空軍が、数は激減しながらも最後まで任務を全うする事になる。
これによりようやくビルマは、アメリカがプロパガンダとしていた自由主義対国家社会主義の戦いへとシフトした。
そして、現地に派遣された国連軍(半数は日本軍だが)は、戦術的にそれまでの米軍とは大きく違っていた。
日本軍は米軍の戦闘を細かく調査検討し、先に模範解答を用意して戦争に赴いたからだ。
そしてそれは日本の戦争の特徴として常に短期決戦を求めるだけに、極端かつ執拗だった。
もちろんそれまでの米軍による「B-52」や空母機動部隊による爆撃は徹底かつ執拗だったし、実際北ビルマ軍やビルマ解放戦線に深刻なダメージを与えていたが、日本軍の同種のそれはこれとは質を異にしていた。
日本軍の大量爆撃のルールは、米軍とは違った意味で至って簡単だった。
攻撃されたらその分だけ報復する。
それ以上もそれ以下もない。
ただそれだけだった。
殴られなければ殴り返さない。
それは、米軍にすでに壊滅的ダメージを受けていた北ビルマに属する兵士たちにとっては悪夢でしかなった。
国連軍の一つの小隊に大きなダメージを与えれば、その翌日には空母機動部隊が丸ごと押しかけ、1個連隊の上に絨毯爆撃をあびせかけるという有り様だったからだ。
そしてそれ以外は、平和を愛する国連軍というポーズを取りつつ、黙りを決め込んでいるのだからタチが悪かった。
しかも、北ビルマが手を出せる部隊は、ぎっちりと戦線を張り守りを固めてほとんど動かない有様だ。
この最大の反応があったのは、ビルマ解放戦線が国連軍の1個連隊に対して、米軍のダヂャン攻勢と同様の効果を期待して行った、日本軍が訪れて活動を開始したばかりの1968年雨期も終わった11月に行われた局地的な攻撃に対する報復行動だった。
何と日本軍は、北ビルマ唯一の港湾だったアキャブに対して、空母機動部隊の傘により完ぺきに守られた水上打撃艦隊を派遣して街を全て吹き飛ばしてしまった戦闘が北ビルマ軍の攻撃に対する回答だった。
この時、日本海軍が派遣した艦艇は、若干の近代改装を施し現役復帰したばかりの戦艦「大和」と砲艦外交のため常時2隻を現役に残されていた装甲巡洋艦4隻のうちの「剣」、「黒姫」を中核にした水上打撃艦隊だった。
つまりこの頃日本が現役としていた大型水上打撃艦の全てのここに叩きつけたのだ。
しかも、日本本土では同型艦の「武蔵」の現役復帰も進められていると、日本のマスコミはこれ見よがしに報道もしていた。
久しぶりに咆哮した20インチ砲の釣瓶打ちによりアキャブの街はただの廃虚となり、特にそこにあった軍事施設はただの瓦礫の山となっていた。
これが20インチ砲の破壊力だった。
しかも、朝鮮動乱の後50口径の新型軽量砲に改装され中距離以下での初速を上げ、さらに超重量弾の運用で遠距離射撃の際の水平貫通力を大きく上げていたので、ドイツ人たちが建設していた堅固な潜水艦用ブンカーすらも破壊していた。
軍事顧問として極秘にこの地域に来ていたドイツの工兵将校たちですら再建は不可能と判断したほどの破壊を振りまいたのだ。
しかも、一ヶ月後には本当に「武蔵」もやって来て、ルールどおりの報復攻撃を行い、北ベトナムの施設を吹き飛ばしていた。
また、地上においてもその動きは米軍のそれとは少し違っていた。
ビルマ解放戦線がダヂャン攻勢による壊滅していた事で国連軍全体が戦況を有利に運んでいた事もあったが、主に日本軍のちょっとした行動パターンの違いがこの変化をもたらしていた。
日本軍とアメリカ軍の違いは、歩兵をどう運用するかだ。
特に初期に投入された日本軍が、精鋭を以てなる陸軍空挺師団と海軍陸戦隊だった事が影響していた。
どちらもこの当時の世界的なごく標準的な陸戦部隊とは違い、対歩兵戦闘を重視していた事がこの変化をそれまでの調査よりも明確に戦訓として教えた。
彼ら精鋭たる歩兵集団は、米軍同様ヘリという高度な機動力と後方と自らの潤沢な火力を利用しつつも、作戦展開してからは目的地に達するまで常に歩いて任務達成を行った。
何を当たり前なと言われるかも知れないが、当時の米軍は初期の無意味に映った人的損害に懲りて、その後敵が発見されるとヘリで兵力を投入し、見えなくなるとこれを撤退させるという戦術を取っていた。
これは一見合理的だし今でもそれなりに有効な戦術だとされているが、歩兵という兵種を考えると全く無意味な兵力の運用だった。
歩兵とは、その足で敵地を制圧することがその存在意義であり、この当時のヘリによる歩兵運用はその特性を全く活かしていないからだ。
根のない草を植えているようなものと言えば分かりやすいだろう。
また、日本軍は米英に倣い対歩兵戦闘に秀でた特務部隊を大量に投入していた。
主に投入されたのは、海軍特務陸戦隊(SNLF)と陸軍特務空挺団(SAAF)である。
どちらも日本の歩兵部隊の精鋭中の精鋭であり、オホーツク沿岸や満州で冬山での過酷な訓練をしたり、台湾やベトナム、フィリピンなどで常にジャングル戦の訓練ばかりしている部隊もあれば、アジア各地の小さな紛争には必ずいると言われる程実戦を経験しているという、表面的には平和国家とされる日本にあって、何というか非常に気合いの入った戦闘部隊だった。
また、満州国からも「陸軍長距離偵察隊」と言う名の同種の部隊が多数派遣されていた。
当然、地の利を利用して戦っていたはずの北ビルマ兵に対しても大きな効果を発揮し、それが日本が有するこれら特務部隊の大半を投入、実数において一気に千の単位の人数で投入された事は、この戦場に破滅的な効果を発揮することになった。
一騎当千とまでいかなくても、彼らが何らかの理由で帰国するまでの平均的な「戦果」がキルレシオ1対20以上とされていたのだから、それのすさまじさが分かると思う。
しかも、彼らの90%以上は無事に帰国しているのだ。
つまり、1000人の特務部隊が投入されたと仮定した場合、完全編成の師団が丸々一つ地上から消滅しているという事になる。
まあ、さすがにこのような単純な算術的な事はなかったが、それに似た効果をビルマの大地で立証していた。
だが勇名と共に悪名を馳せたのも間違いなく、エンジ色がかった赤いベレー帽をかぶった海軍特務陸戦隊、黒いベレー帽がトレードマークの陸軍特務空挺団は等しく、当時のこの業界での著名人たるダン・ラザー氏によって「イエロー・デビル」や「イエロー・ヴァンパイア」と命名され、現在でも通用する軍事俗語となっている。
空でも少しそれまでとは異なっていた。
日本の航空機の設計思想が強く影響していた。
この当時欧米、特にアメリカは誘導ミサイル万能論とでも言うべき思想で染め上げられていた事から、格闘戦軽視だけでなく機体によっては機関砲すら装備していない機種が多数あった。
これについてはドイツも似たり寄ったりだが、日本人達だけは別の考えを持っていた。
伝統の格闘戦重視思想とも呼べる戦闘機に対する考え方がそれだ。
主力の「三菱58式艦上戦闘機(剣風)」、新鋭の「三菱67式艦上戦闘機(天風)」のどちらもがその思想の寵児であり、「川崎64式戦闘爆撃機(蒼燕)」についても川崎のお家芸である高速重戦闘機だったが、これは日本国内を基準としてであり、欧米の基準からすればこのどれもが異常とすら言えるほど格闘戦を重視したもので、アジア的、日本的な流麗さでまとめあげられた空の侍たちは、ビルマの空を飛ぶ独露の義勇パイロットにとっては、アメリカなどとは全く違う存在として恐れられていた。
しかも、誘導弾よりも機関砲を重視するような戦闘は、ジェット時代の戦闘を一昔前のレシプロ時代へと逆行させたかのような錯覚を欧州のパイロット達に味あわせていた。
もっとも、戦線に投入された当初の日本の操縦士からすれば、どうして欧米の戦闘機は高速だがああもまっすぐしか飛ばないのか、当りもしない遠距離から誘導弾ばかり無駄に射ってくるのかが非常に疑問だったらしい。
当初より欧米機の状況の改善された時に日本軍が投入されていたのだが、それまで格闘戦訓練に明け暮れていた空のサムライたちにとっては程度問題だったようだ。
では、最後に派遣された国連軍の中でも日本軍について中心に見ておこう。
最盛時(1970年春頃)国連軍として派遣されていた日本軍は、合計で4個師団規模に過ぎなかった。
ちょうど米軍の半数程度だ。
だがこれは、この当時の日本の陸上戦力のかなりの割合であり、この紛争を日本が本気で取り組んでいた何よりの証だった。
1968年に国連軍派遣が決まるまで、日本陸軍は以下のように兵力を配置していた。
樺太・ :<第二機甲師団>
オホーツク <第十一機甲師団>
北海道 :<第七重機甲師団>
<第五師団>
本土 :<第六機甲師団>(既にタイ国境へ移動)
<第一師団>
<第三師団>
台湾 :<第四師団>
満州 :<近衛第一重機甲師団>
<第八師団>
直轄 :<第一空挺師団(2個空挺旅団編成)>
<富士嚮導旅団>
海軍 :<海軍陸戦旅団>×3個旅団
これらはそれぞれ「方面軍」と呼称され、これらの兵力に各方面軍ごとに重砲兵旅団や独立戦車連隊、防空部隊、工兵、輸送、各種支援などが付随している。
「師団」は機械化歩兵大隊6個、戦車連隊1個を基幹とした機械化歩兵師団で、「機甲師団」は機械化歩兵大隊3個、戦車車連隊3個から構成され、「重機甲師団」は機械化歩兵大隊6個、増強戦車連隊3個(各3個大隊相当)を基幹兵力としていた。
このため師団規模がそれぞれ違っており、「師団」は約1.2万人、「機甲師団」は約1.5万人、「重機甲師団」は約2万人から構成されている事になる。
一部師団以外は、海洋国家らしくドイツやアメリカの師団に比べるとやや小さい編成だったが、概ね標準的と言えるだろう。
そして、この兵力を陸軍25万(甲種予備役10万)、海軍陸戦隊6万(甲種予備役1.5万)で維持していた。
これは世界の三大パワーの陸軍力としてはかなり小規模であると言えるが、陸上兵力に関しては東亜の他の同盟国が大量に保有していたことから、島国たる日本は国土防衛の最低限と海外派兵用の陸軍さえあれば十分だった何よりの証明だ。
そしてこのうち、<第六機甲師団>、<第三師団>、<第一空挺師団>と<海軍陸戦旅団>の全力をビルマに投入していた。
また、機甲戦力のテコ入れとして独立部隊の第一戦車団と富士嚮導団の抽出部隊から編成された「第一独立機甲旅団」が増援戦力として国連軍の一部を構成してもいた。
これらの部隊は当然ながら戦時編成なので規模も大きくなるし、<海軍陸戦旅団>は陸軍に比べて支援部隊が非常に規模の大きな部隊だったので、概ね10万人の陸上兵力を派遣していた事になる。
また、日本以外のアジア諸国は、海外から伝統的に「八旗兵」と呼ばれる重厚な陸軍兵力を保持する満州国軍が、戦略予備として国内内陸部(首邑の新京周辺)に保持している親衛隊から1個軍団2個師団を派遣し(満州国陸軍は、親衛隊である禁軍(黒旗)が4個師団、黄旗、白旗、紅旗、藍旗が各3個師団+3個国境防衛旅団で、これを根幹としている)、韓国からも同じく2個師団が派遣され、他の国々は大隊レベルで約1個師団分ほどの兵力がこの地に赴いていた。
これらを合計すると、ビルマに展開したアジア系の国連軍の総数は約20万人程度、これに英連邦やその他の国々が合計5万人ほどの陸兵が加算されるので、合計約25万人もの地上兵力が投入された事になる。
しかもこれは陸上兵力だけであり、多数派遣されている空軍兵力、海上兵力を総計すると国連軍の総数は40万人にも達していた。
もちろん、60万人程いる南ビルマ軍を除いての数字である。
この派兵に日本では、一部予備役動員がされた程なのだから、これがいかに大きな兵力だったかがわかると思う。
これに対して北ビルマ軍は、兵数だけは約70万と何とか対抗できていたが、装備の点でまるで問題にならない規模・戦力でしかなく、ダヂャン攻勢後の国連軍介入以後国際世論が怪しくなった事と、取りあえずアメリカを疲弊させる事には成功したとしてドイツが同方面への援助を大きく低下させており、ロシアについてもビルマでのアジア勢力の活発化に伴い極東地域でのアジア軍の動きが無視できないものになっていた事からまずそちらへの措置を優先せねばならず、ドイツよりもあっさりとこの地域を見限っていた。
これについては人民中華についても同様で、独露との仲が険悪化しつつある中(1969年には中露国境で武力衝突もしている)、足下を見た中華民国軍が睨みを強めているのに、子分の手助けなどしている場合ではなかった。
要するに北ビルマ政府の命数は、あと幾ばくもないと言うことだった。
そして、この末路に待つものは、国連軍による圧倒的軍事力を用いた南ビルマ政府による武力統合だろうと考えられていた。
だが、軍事介入したアジア勢力は、必ずしも一つの結論だけを持たずにこの地域に足を踏み入れていた。
別に、欧米や大陸国家の流儀を自分たちの縄張りでする事などどこにもないからだ。
錦の御旗を持つだけに、それ相応の解決策も最初から用意していたのだ。
チャンダン攻勢からちょうど1年後までにほぼ完全な軍事優勢を獲得した国連軍は、雨期の間これを維持する事のみに努め、1970年10月ビルマの長い雨期が終ろうとしていたその時期、南北ビルマに対して一つの提案を行うに至った。
そして双方は妥協点としてこれを受入れる事となった。
国連軍諸国は、雨期の間をこれの準備期間として利用していたのだ。
国連が提示した提案というのは、平和裏なビルマの再統合である。
しかも、双方の政治勢力をある程度維持することも最初から認める内容だった。
話しは思いの外スムーズに移行する。
すでに英米が平和を訴える世論で満ちあふれていた事も影響していたし、双方にとってビルマ統一に最も邪魔だったビルマ解放戦線がこの時点で活動をほぼ停止していた事も強く影響していた。
ダヂャン攻勢での戦術的敗北と国連軍の攻撃で、彼らはほぼ死滅していたのだ。
要するに「イエロー・デビル」たちは、ビルマ解放戦線の頑なな同志諸君をビルマの大地で殺して回っていたという事にもなる。
余談だが、海軍部隊の中にはすでに女性兵士の姿もあったという。
まあ女性云いはともかく、何とも日本の暗部を映す側面とも言えなくもないだろう。
もちろんそんな事など知らない平和を愛する世界の人々は、この国連の調停と両国の合意を諸手を挙げて賛成した。
これには、後から介入してきた日本にあまりよい感情を持っていなかったアメリカ政府も流れには逆らえなかった。
そして、完全に疲れ切っていた二つのビルマも、ダブルKOした試合後のボクサーのように歩み寄り握手をする事になる。
双方に文句がないわけではないが、実にアジア的な決着の付け方だった。
1973年、正式にビルマは統一国家して再スタートを切り、東南アジア地域は安定を取り戻す事となった。
また、日本を始めとする国連軍は、実質的な派兵から2年弱(実質1年半)でビルマ問題を解決してしまい、日本や満州などはこの出兵での戦費の増大による経済の傾きではなく、軍事費・軍需の増大を適度な公共投資として景気拡大に利用してしまい、違った意味で世界に悪名を広める結果となっていた。
そして、このビルマ再統一の影響は、その後世界情勢にも強く影響を与えたが、少なくともアングロ同盟をアジアに強く目を向けさせる事となり、軍事だけでなく外交を駆使して問題を穏便に事をまとめた日本の株は非常に高くなっていたのだ。
これを象徴するように、1972年2月アメリカ西海岸のサンフランシスコにて日本の佐藤首相とアメリカのニクソン大統領の間で日米首脳会談が開催された。
そこで「サンフランシスコ宣言」がだされ、アングロ同盟と大東亜共栄圏の間の実質的な対立の解消を世界に向けて宣言していた。
そしてこれは、海洋国家連合と欧州帝国との最後の対立の始まりでもあった。
こういった事の始まりは、歴史的にはよく分からないまま始まる事も多いが、これは明確すぎる開幕のベルでもあった。
ただ、私にとって一つ残念な事に、ビルマの平和的統一に尽力されたアウンサン女史が、統一されたビルマにおいて政府首班はおろかどのような重要な役職にも就こうとしなかった事がある。
もちろん、私のように神輿を担ごうとする輩はたくさんいたが、その甘言に乗る事はなく、また年齢を表面的な理由として女史自らがこれを望まなかったからだ。
また、現在においてもアウンサン女史は、「近代ビルマの母」と呼ばれ等しく国民の敬意を受け、大統領すらこれを無視する事はできず、心静かに暮らす事でビルマを安寧させている事には、もうスゴイとしか言葉が出ない。
これは、「東洋のジャンヌ・ダルク」などと言う俗な言葉などで語れるものではないだろう。
■Episode. 4:1980年10月
ニュークリアーウォー(欧州帝国vs海洋国家連合)
●Phase 4-1:大軍拡時代到来 ▼
 




