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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
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Phase 3-2:日本の亜細亜覇権への決意

 1968年を迎えようとしていた頃、ジェネラル・ウィン率いる北ビルマ政権は戦術的には追いつめられていた。

 

 少数民族を多数内包するビルマ社会の問題を突いて編成されたビルマ解放戦線は、米軍の繰り出す圧倒的物量に押さえ込まれ、もはや毛沢東伝来の巧みなゲリラ戦を以てしても対抗できるものではなくなりつつあり、地の利を約束してくる北ビルマの大地は連日米軍の重爆撃機による絨毯爆撃と強力な除草剤の散布により文字通りの丸裸にされつつあった。

 

 陸路を使っての国家社会主義陣営の援助も、山間部を縫うような陸路を使うという負担の大きな方法をとっていたため数年で息切れし始めており、対する米軍はそれとは比べものにならないぐらい負担の小さい海路を使っているだけにいまだ意気軒高だった。

 

 ただ、亜細亜の覇者であるはずの日本は、少なくともその軍隊がビルマの大地に存在するということはなかった。

 

 ビルマは米独の代理戦争の場となっていた。

 


 では、ここからは政治的な事はおいて、少し軍備や戦術的な点から世界情勢とビルマ情勢を見てみよう。

 

 この頃になると世界の兵器体系は大きく三つに分類されていた。

 それぞれの世界を抱え込んだ、アメリカ、ドイツ、日本がそれだ。

 これらの国に統一している事はほとんどなく、唯一帝国主義時代に後れてきて台頭した国々だというぐらいが共通点だろう。

 そして、この三国のどれもがまだその上昇気運を維持しており、世界をリードしていたという事だろうか。

 また、英国やフランス、イタリア、ロシアなどのそれなりの国力を持つ先進国は、自国の国力だけで独自の兵器体系の全てを作りだすだけの力はすでになかった。

 大量消費時代を迎えたこの時代以降、兵器開発は異常なまでの開発資金を必要とするようになっていたのだ。

 

 そして、三つの大国の兵器体系の特長を端的に挙げれば、陸のドイツ、海の日本、空のアメリカというところになる。

 

 これは、それぞれの風土も強く影響していた。

 

 ドイツが陸軍兵備において優秀なのはいうまでもなく、ドイツが現在の地位を築き上げるまで周りの国境を全て潜在的な敵に囲まれており、まず陸軍の強化を重視しなければならなかったからだ。

 これはドイツが全欧を実質的に勢力圏にしていても大きな変化はなかった。

 現在でも、ロシアが国境線全線で亜細亜勢力と対立しており、ドーバーの向こうのアングロに対抗するためこれを手抜きするわけにもいかないという理由もあったが、世界の顧客のため、つまり自らの金儲けのためにもこの得意分野を伸ばす必要があったからだ。

 もちろん、国内で強大な権限を持つドイツ陸軍が兵器の開発に熱心だという事ももちろん影響している。

 

 次に日本だが、この国は誰でも知っている通り島国であり、国を守ろうとするならまず海軍を強化せねばならず、また資源のない国土を発展させるには何をおいても海運業を盛んにし、それらを世界の海の危険から守るためにも海軍の強化は日本の至上命題だった。

 このため建国以来100年、日本は常に海軍を優先して育て上げ、小さな島国ながら20世紀初頭からは最強とされる評価を受け、現在においても国策として海を最優先しなければならないため、この時においてもこれを維持し続けていた。

 

 一方、アメリカで空軍兵備が充実していたのは、これら二国と少し事情が異なる。

 もちろん20世紀に発明された航空機が今や国防には欠かせず最優先すべき兵種であるという事も影響しているが、この点では日独も同様でありアメリカが三国の中でもついにトップに立つようになったのは、アメリカ独特の国土が影響していた。

 アメリカは、北米大陸の半分近くを有する極めて豊かな国土を本土として有しており、高い社会資本と優れた教育程度に支えられ、早くから一般社会に航空機が普及し、航空産業が国策によらず発展していた事が影響していたのだ。

 これが、経済重視となった世界的な民間航空の世界で花開き、これを牽引車として日独を引き離すことに強く影響していた。

 もちろん、個々の兵器では日独が作り上げたカタログデータ上でアメリカのそれよりも優秀なものも多数存在したが、工業製品、蛮用に耐えうる兵器としてはアメリカのものが最も優れており、これが世界の顧客から評価されていたのだ。

 


 では、ベトナムなどでも見受けられた個々の兵器についても少し見てみよう。

 

 まずは陸戦兵器だ。

 陸軍の兵器に関しては、間違いなくドイツの天下だった。

 これは、かつての陸軍大国(現在においてもそうだが)フランス、ロシアを衛星国としている事でこれ以上ないというぐらい補強されており、基本的に海洋国家でしかない日英米の全てに懸絶していた。

 そしてそれを代表する兵器が、第一次世界大戦で登場した「戦車」だった。

 

 この頃のドイツ軍の主力戦車は、105mmライフル砲装備した全てのバランスが高いレベルで調整された20世紀最良の主力戦車と言われる「レオパルド」だ。

 列強での120mm砲装備が主流になる中あえて小口径の主砲を装備した主力戦車だったが、ドイツの堅牢な工業技術が生みだした黒豹は、実際の戦場においてその安定した性能を遺憾なく発揮し世界中の顧客の心を捉えていた。

 これは、20世紀が終ろうとしている時世界の戦車の30%が「レオパルド」系列だという事実が全てを物語っているだろう。

 ドイツの主力戦車だけではなく、欧州の、そして世界有数の主力戦車だったのだ。

 

 もちろん、他の列強もそれぞれのドクトリンに従い新世代の戦車を送り出していた。

 当時最大級の戦車である英国伝統の重戦車「チーフテン」、ロシアの「T-54」、「T-64」、フランスの「AMX-30」、レオパルドと一時は世界の兵器市場を争ったアメリカの「M-60」などがそれだ。

 ただ日本は少しこの点変わっていた。

 日本は陸戦兵器の開発を、自らの忠実な衛星国である満州国に技術だけ渡してその多くを任せていたのだ。

 日本的機会主義と合理主義の発露と開き直りと言ってしまえばそれだけなのだが、ロシアとの長大な国境線で直接にらみ合っているこの国で作られた戦車は、満州の平原で運用することを第一に作られたため、全くもって大陸国家らしい戦車となっていた。

 

 当時の満州は、ロシアそして日本による開発が始まってから約70年、建国から35年を経過し国家としてもようやく充実する時期に差しかかっており、その国力も重工業に重点を置いた開発が功を奏し大東亜共栄圏の中では日本次いで第二位、人口も7000万人と欧州の大国とも単独で伍せるほどの発展を見せていた。

 もちろん、中華系移民の地位が低く日系・韓国系移民が高所得層を占め幅を利かせているなどの弊害もあったが、明治の日本がそうであったように、国全体が上を向いていた。

 それが、1961年に軍事においても花開いていた。

 戦車の名は日本風に単に「六一式戦車(鉄虎)」と呼ばれていたが、基本的に自国内で運用し、あえて必要とする国以外への輸出を考えていない贅沢な内容であり、後に第二世代最強とされる化け物となっていた。

 

 亡命してきたソ連時代のロシア技術者などの手も入ったチーフテンに匹敵する60トンを越える車体に、大馬力発動機と自動装填式の127mm砲を詰め込み重装甲で鎧った文字通りの怪物戦車だった。

 広い接地圧の無限軌道と1000Hpの過給器付き大馬力ディーゼルが生みだす機動力も第二世代戦車としてなら申し分はなく、(埠頭・橋梁・道路・鉄道などの関係で)運用できる場所(国)が制限される事と割高な価格を考えなければ間違いなく最強級の存在だった。

 

 ただし満州国がこのころまだ兵器ビジネスに熱心でなかったため、この戦車はビルマの戦いが熱くなっていた当時世界的にはまだ無名の戦車でしかなく、満州国軍と日本帝国陸軍が装備しているに過ぎなかった。

 


 次に空を見てみよう。

 

 この頃はジェット機と誘導弾の全盛時代の黎明にあたり、各国で盛んに各種航空機が開発されていた。

 

 まあ、ドイツやアメリカの有名な機体については、ここで書くまでもないし紙面の都合もあり、その上私はあまり詳しくもなかったので、日本のものだけにしぼって見てみよう。

 この点は私の仕事にも関りがあったので、マニア(最近ではヲタクと言うそうだが)としてならかなりの知識だったと自負している。

 

 1940年代日本には数多の航空機メーカーが存在していた。

 何でも開発ができる大企業の三菱、中島と大型機と伝統の水上機に特化した川西、戦闘機重視の川崎、立川、時折面白い飛行機を送り出している小身の愛知、九州などが代表的なそれだ。

 プラモデルなどでご存じの方も多い事だろう。

 だが、大量生産・大量消費時代に対応するためと米独の巨大メーカーに太刀打ちするため、そしてジェット化し高性能化の進む航空機自身に対応するため、この頃になると各航空会社の統廃合が進んでいた。

 

 巨大であるが故に三菱と中島、川崎はいくつかの小身の会社を飲み込んだ程度でそのままだったが、他はそういうわけにはいかず、特殊技術を持つ川西は生き残りには問題なかったが、規模は三社にかなわなかったので愛知飛行機などと合併して社名も新明和と改名しつつその地位を保ち、立川は1940年代後半の主力迎撃機を送り出した九州飛行機などを飲み込み、前後して石川島播磨重工(IHI)という先祖返りとも言える元の名前が何だったのか分からないような社名となっていた。

 それ以外の小さな会社についても似たり寄ったりで、民間の小型機部門で生き残っているいくつかを除けばどこかの大会社に合併されるか、さもなくば倒産していた。

 つまり、この頃日本の航空機メーカーは民需、軍需を問わず5社による共存・競争時代を迎えていたという事だ。

 ただ、石川島播磨重工は、当初の高速戦闘機重視からどちらかと言えば航空宇宙産業への傾向を強め、航空機に関しては発動機メーカーとして特化しつつあったので、これに含まれるかは微妙かも知れない。

 そしてもう一つ興味深いのは、これらの企業の多くが単なる飛行機製作会社ではなく、複合的な産業を抱えた巨大企業(の一部)だと言うことだろう。

 この点はアメリカやドイツと大きく異なっている。

 

 なお、この五社を一般人にも分かるように極めて極端に色分けするなら、全てを作ろうとする中島、陸海軍の三菱、連合空軍の川崎、ヘリ・飛行艇の新明和、発動機の石川島播磨となると思う。

 重爆撃機については、冷戦時代初期に「飛鳥」を送り出した三菱と先だっては「富嶽」を、この時代においてはIHIの大馬力発動機を搭載した超音速重爆撃機「轟天」を送り出した中島しか存在せず、かつて大型機も手がけていた新明和は細々と維持されている水上機や飛行艇以外では、自らを特殊な航空機であるヘリに特化することで大メーカーとしての地位を維持していた。

 なお、後に川崎が民間航空機部門から大型輸送機や大型偵察機などで食い込んできて混乱を大きくする事にもなる。

 

 また、韓国の現代ヒュンダイ、満州の満業(満州産業(日系資本))などの両国を代表する三菱のような大企業も東亜にあっては一応大きな航空機部門を持っていたが、日本はもとより世界の列強に対抗するにはまだ当時は難しく、日本の技術援助を受けて技術的に低い機体のライセンス生産で自国生産分を作るのがやっとだった。

 

 そして、ビルマの空が騒がしくなっている頃、アジアの空を席捲していたのは、「三菱58式艦上戦闘機(剣風)」、「川崎64式戦闘爆撃機(蒼燕)」、「中島55式(艦上)攻撃機(火龍)」、「三菱(飛鳥)重攻撃機」、「中島(轟天)重攻撃機」、そして当時最新の「三菱67式艦上戦闘機(天風)」などだった。

 


 まあ、空について話しだすとキリがないので、最後に海軍を見よう。

 

 このころ巨大な海軍を維持していたは、日米独は当然として、依然として英国もかなりの戦力を保持していた。

 フランスやイタリア、ロシアもそれなりのものを持っていたが、とりあえずはこの四カ国を見ておこう。

 

 当時世界最大最強とされた海軍は、間違いなくまだ日本帝国海軍(IJN)だった。

 

 1961年に世界初のリアクター推進の超大型空母「鳳祥」を建造してみせたり、保管艦モスボール状態とは言え大量の戦艦を保持しているのだからそう見られていてもあながち間違いではなかっただろう。

 

 この頃の日本海軍は、水上艦艇が大型空母9隻(CVN1、CVB4、CV4)、戦艦(装甲巡洋艦)2隻の現役艦艇を中核としていた。

 これに予備役で無数の戦艦・空母が加わる。

 数量的にはプレジデント級超大型空母6隻を有するアメリカに対しても互角以上の状態を保っていた。

 しかも、ビルマ情勢の悪化に従い予算が増額され、いまだに超大型戦艦を常時現役に留めているドイツへのブラフとして世界最強の戦艦「大和級」の現役復帰が進められていた。

 

 また、多数のSS、SSN、SSBNを水中に展開しており、こればかりは予算の削減から米独よりも数は少なくなっていたが、質の面では世界最高のレベルを維持していた。

 

 ついで、アメリカ海軍は先述の「プレジデント級」超大型空母6隻に既存の旧式大型空母2隻を保有し、これに16インチ砲を12門搭載した「ルイジアナ級」戦艦の2隻をドイツへの対抗上現役に留めていた。

 これが米海軍の水上艦隊の主力という事になる。

 

 そしてアメリカに隠れて目立たなくなっていたが、依然英王立海軍も健在であり、大型空母2隻を中心にして、日米の三分の一程度の勢力を保持していた。

 一見三分の一と言われると小さいようにも思えるが、基本的に日米の海軍の規模が巨大すぎるのであり、これでも十分有力な存在といえた。

 その気になればドイツとも水上艦艇だけなら対抗できるぐらいはあった。

 

 そして、自由世界の敵としてのドラゴン・ロードをばく進しつつあるドイツ帝国の有する海軍だが、これら日英米に比べると面持ちを少し異にしていた。

 簡単に言えば、空母と戦艦の比率が逆転していたのだ。

 20インチ砲搭載の「フォン・モルトケ級」戦艦2隻、16インチ砲搭載の「グロス・ドイッチュラント級」戦艦2隻がそれだ。

 また、空母は日米から「航空巡洋艦」、「航空戦艦」と呼ばれる大型艦が2隻保有されていたが、日米の空母と比べると個艦での質も『お話にならない』としか言い切れないものでしかなかった。

 ただし、潜水艦に関しては異常なほど、日英米を合計したよりも多くが保有されており、依然潜水艦王国としての座を守っていた。

 その個々の能力については、言うまでもなく全ての対抗国にとっての脅威だった。

 


 さて、各国の軍備に関してのダイジェストはだいたい以上のようだったが、これが全てビルマに集まっていたわけではない。

 

 このころビルマにあった列強の軍隊は、アメリカ軍とイギリス軍だけだった。

 ドイツやロシア、人民中華は義勇軍として多数の軍人を派遣していたが、自由主義連合とされた英米軍だけがまとまった戦力を派遣している事になっていた。

 

 そして、英米は双方で約30万もの兵力をビルマのジャングルに投入しており、潤沢な兵器と補給に裏付けられ、純軍事的には圧倒的優勢にあった。

 

 なお日本軍は、タイ国境にブラフとして1個師団を派遣しタイなどに軍事援助を強化していたが、直接的に介入可能なものは最大でもマレー半島のペナンまでしか進出しておらず、シンガポール駐留軍と合わせてこの地域に多数の艦艇と航空戦力、第一空挺師団の1個旅団と海軍陸戦第三旅団、海軍特務陸戦隊主力がいつでも動ける態勢を維持しつつも静観の構えを続けていた。

 

 そうした中、1968年4月「ダヂャン(水かけ祭り)攻勢」と呼ばれる大規模な軍事作戦がビルマ解放戦線の手により発起されたが、この攻勢作戦は、米軍の優れた偵察能力と英国伝統の諜報能力、アングロ同盟の特長である優れた分析力によって、戦術作戦的裸体図を描けるほど解明されていた。

 

 このため、アングロ同盟はあえて敵が攻撃しやすそうな拠点を作り上げそこに大兵力を伏せたり、全てを吹き飛ばすための軍事力を付近に展開していた。

 


 「ダヂャン攻勢」のダヂャンとは、ビルマの旧正月での水かけ祭りの事であり、この作戦がこの日に発動された事からそう呼ばれているものである。

 

 そして、開始されたビルマ解放戦線の作戦は、純戦術的には完敗に終った。

 まったくもって、正しい情報に基づいて正統的に大兵力を運用したアングロ同盟側の大勝利という、近代戦争の典型的な結末だった。

 

 この攻勢前約8万人を抱えていたビルマ解放戦線は、作戦が完全に失敗に終った段階で二割以下の1万5000人程度にまでその構成数を減少させていた。

 もちろん、どのような軍事機構でもこの状態でその後の軍事活動を続けるなど不可能だった。

 

 だが、この作戦を指導したウィン革命政権は自らの勝利を確信していたと言われる。

 この作戦存在そのものがアメリカ世論を左右できると確信していたからだ。

 

 これは、世界中にラングーンのアメリカ大使館がビルコンの手によって襲撃・陥落する映像が送り出された事で決定的になったとみていた。

 ビルマ首脳部は、アメリカの心の中にニュークを放り込むような戦略をこの時立てていた。

 ビルマ解放戦線の同志諸君がどうなろうと知ったことではなかったのだ。

 

 そしてそれは、アメリカ本土においてまるで化学変化のごとく効果を表した。

 この衝突でこれまでビルマで行われていた6年もの軍事介入により、アメリカ内でくすぶっていた厭戦気分が一気に吹き出してしまった。

 

 これ以後アメリカでは、国内での激しい厭戦活動のため以後の継戦がむずかしくなりつつあった。

 そして海峡を挟んでドイツと対峙している英国に、単独でこのような世界の果てで戦争をする能力など存在しなかった。

 つまり、アングロ同盟は戦略的に敗北したのだ。

 そして、戦争そのものを失いつつあった。

 

 ジェネラル・ウィンは勝利したのだ。

 少なくともこの瞬間はまさにその通りだろう。

 しかし、彼に計算違いがあるとすれば、この頃の日本の動向だった。

 


 この頃日本では、市民レベルでビルマを救援せよという声がにわかに巻き起こっていたのだ。

 まあ、ぶっちゃけたところ私が煽ったようなものだった。

 少なくとも火に油を注いだ張本人の一人だとの自負はある。

 

 私は当時日本への留学生だったアウンサン女史と出会い、彼女の行動と理念に導かれた人の善なる部分に従い、自らの持つあらゆるコネとツテを使ってマスコミを大規模に動員する事に成功した。

 当時日本のかじ取りをしていた政治家、官僚、企業がその流れに気づいた時はもはや手遅れだった。

 薄幸で妙齢の女性が愛国心から混沌の中にある祖国を救おうとすると言う、表面的には一般大衆が喜びそうな点を強調した事が功を奏したのだ。

 また、当時の日本が何となく経済以外の点では逼塞感を持っていた点も無視できないだろうと思う。

 これで、日本人は外への感情のはけ口を明確に「見つけた」事になるのだから。

 

 まあ、ここに至る経緯を書くと一冊の本が書けそうなので全て割愛するが、この事が原因だろうか派閥力学の影響か、私は日本の方針を決める場に居合わせていた。

 議会に出す前の委員会とか言うものへの出席を求められたのだ。

 これを当時の私は、責任をとれと言われたと解釈して、われながら幼稚なロマンチズムに心を満たしていたものだ。

 そう、私が一番幻想に酔っていたのだ。

 

 その委員会では、首相以下大臣のお歴々、将軍たち、政府お抱えの専門家、そして私などのような委員会の開放性を強調するためだけに呼ばれているような若手議員が幾人かいた。

 

 そして、二つの方針に搾られ、多数決を取ることとなった。

 もちろん、最終的には首相が決断を下すのだが、ドイツのような独裁、アメリカのような強権を嫌った佐藤首相の方針で、これがほぼ最終決定のようなものだった。

 

 二つの方針は、要するにこのまま軍事力を付近に展開したまま中立を貫くか、積極的な介入を行うかだった。

 


 さて、私はどちらに賛成するべきだろうか。

 


________________

 1. 南ビルマ政権を支持して

   アングロ側に肩入れ

   (Phase3-3 へ進む)

________________


________________


 2. 事を平和裏に解決するには

   日本は中立を堅持すべき

  (Phase3-e1 へ進む)

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