Case 04-02「アメリカ略史2」
1869年、最初の「大陸横断鉄道」が開通した。
それは、アメリカという新興国の隆盛の象徴だった。
この時の喜びは大きく、アメリカ全土の教会の鐘が鳴らされ、人々は鉄道完成を祝ったとされる。
だが、こうした鉄道完成に活躍した労働者は主に支那とアイルランドからの移民たちで、アメリカという国の側面を現すものであった。
そして先住民族や黒人奴隷のみならず、こうした人種的にも宗教的にも少数派の苦渋の歴史の始まりを告げる時代でもあった。
1800年代後半に入ると英国で始まった産業革命は欧州各国に波及し、その波はアメリカにも押し寄せ、新進気鋭に富んだアメリカは徐々にそのリーダー的な存在となっていく。
そしてこの背景には、数多くの革新的な技術の発明があった。
電球や蓄音器を発明した偉大なる発明王エジソン、電話を発明(開発)したベル、ガソリン車の走行に成功したのもアメリカ人ならば、その成果を形にしたのも同じくアメリカ人のヘンリー・フォードとその仲間達であり、このガソリン車は動力飛行機発明の大きなヒントとなって、1903年12月17日にライト兄弟が距離にして120フィート(約37メートル)、12秒間の初飛行に成功した。
アメリカが光り輝いていた時代だった。
また産業革命、大量生産などによりビジネスで大成功をおさめ、大富豪となったものもいた。
石油王ロックフェラーがその代表であり、鉄鋼王、石炭王、石油王、鉄道王などありとあらゆる鉱工業に成功者を生み出し、アメリカン・ドリームという言葉と共に、アメリカという広大で肥沃な国土の上に巨大な富を作り上げていった。
また、アメリカが繁栄に沸いた理由として膨大な数の移民の存在を無視することはできず、時代時代によって移民者の祖国の状況が彼らを新大陸に誘っていく。
特に輸送技術が飛躍的な発展を開始する1840年代から移民の規模は大規模なものとなり、1840年代から50年代にかけてはアイルランドとドイツ人が飢えから逃れるか新たなビジネスを求めて押し寄せ、1850年代から60年代には支那からの移民が西海岸に殺到した。
これが移民の第一波と呼ばれている。
当然第二波がその次に続き、その大半はヨーロッパからの移民たちで、その殆どがイギリス、オランダ、スウェーデン、ノルウェー等の国から仕事を求めて海を渡ってきた人たちだった。
しかし1890年代になると移民たちの傾向が変わり、今度はイタリア、ブルガリア、ポーランド、ギリシャ、ロシアからの移住者が増加し、その数は数百万人以上にもなった。
なお、大西洋からアメリカに渡ってくるヨーロッパからの移民達が最初に上陸するのがニューヨーク市港で、1892年から1943年の間はエリス島と呼ばれる島が玄関口となり、ここでアメリカ政府に対して身分証明書類を提出すると同時に健康診断を受け、1日に5000人以上の移民達がこの島を通過することもあった。
だが、移民の数が急増すると同時に、彼らがそれまでのアメリカ市民たちの職をおびやかしたり、貧困や犯罪を持ち込むのではないかという懸念がアメリカ市民の間に広がり、政府は移民の入国を管理する法律を制定することで移住を制限するようになり、この結果アメリカの公用語が英語に固定化され、さらには移民制限まで設けられ、中には日本人などのように移民を禁止される人々も出てくるようになる。
これもアメリカ史の暗部と言えるだろう。
そしてこの間アメリカは、自らもハワイの実質的な武力併合とスペインに難癖を付けた末の戦争でキューバ、プエルト・リコ、グァム、フィリピン、パナマの獲得や中南米に対しての強硬な外交姿勢によって帝国主義的な政策に邁進しつつ、工業生産面ではイギリスを追い越しドイツの追撃をかわしてついに世界一の経済力を誇るようになり、その状況が不動のものとなった頃、第一次世界大戦(World War I)が勃発する。
アメリカの大きな転機ともなった大戦争の始まりだった。
この戦争の経緯や委細は省略するが、時のアメリカ合衆国大統領ウィルソン(Woodrow Wilson 在任1913-1921)は、戦争排除を公約に1916年に再選されたため、連合国に対して物資提供等の経済援助を行う事を堅持した。
しかも彼は、純粋な武器を搭載する船舶にアメリカ船籍のものを除外するように通達を出した程だった(代わりに形振り構わず、欧州に何でも運んだのが自国の護衛艦を伴った日本の商船隊だ)。
そうしてアメリカ合衆国は、連合国の兵器廠の役割を果たしつつも戦争には介入しないまま、この世紀の大戦争を過ごす事になる。
しかしこの裏には、イギリスとの歴史的な対立が存在し、特に20世紀に入ってからのアジア利権を巡る対立から、反イギリス的、そして反日本的な傾向が強くなり、また第一次世界大戦に積極的に介入した日本に対するやっかみもあって、アメリカをこの戦争の傍観者にしたとされている。
そして戦争そのものは、1917年のロシア革命、1918年のドイツ軍の総反抗の失敗、以後の戦線膠着化による疲弊、そして1919年11月でのドイツの革命によって皇帝が退位して休戦が実現した。
終戦後も世界は数々の問題に直面した。
特にドイツ他同盟国の国々は戦争により多くの負債をかかえて経済状態は最悪で、連合国に多額の借金があった国々は支払いを断念せざるをえず、ここでアメリカが政治的に大きな発言権を持つようになる。
そして、圧倒的な工業力とドル($)の力によりベルサイユでの講和会議に大きく首を突っ込み、平和の使徒を任じるウィルソン大統領は世界平和を願って「国際連盟(League of Nations)」の設立を訴え、世界の主人が欧州でなくなった事を体現したようなアメリカの姿勢は、欧州世界に大きなインパクトを与える。
アメリカの黄金時代の到来だった。
欧州大陸において第一次世界大戦が残した爪痕は大きく、対するアメリカは戦争中の膨大な利益をもとでにして一般大衆を中心にした大量消費時代を謳歌するようになる。
戦後の一時的な経済的リバウンドを抜けた1920年代になると、アメリカ経済は再び次第に上向きになり、失業率も低くなって商品の購買力も上がってきた。
フォードは多くの車を製造し、生産ラインも動き出した。
アメリカ国民の多くが車を買い求め、ラジオや映画といった娯楽を楽しむようになり、皿洗い機や冷蔵庫、掃除機といった電化製品が次々に発明され、人々の暮らしも豊かにしていった。
また浪費が激しいとされるアメリカ一般民衆の象徴とされる分割払いやローンの利用により、多くの消費者がこれらの製品を手に入れるようになった。
そして1920年代のアメリカを象徴する事象が徐々に加熱する。
そうこの頃から一般人の間にも株式投資を始める人が増え続け、借金をしてまでも株式を購入し、転売することによって利ざやを稼ぎ、市場はどんどん活発化していったのだ。
だが、永遠の成長などというものは存在せず、伸びきったゴムが収縮するように、そのリバウンドは実体のない経済というゴムを引っ張ったアメリカにこれ以上ないというしっぺ返しを行う。
1929年10月29日木曜日、ニューヨークの株式市場で突然株式の大暴落が起こり、かつてない恐慌、「大恐慌」の到来がそれだ。
この人災は、世界に対してもその威力を遺憾なく発揮し、アメリカ経済に依存していたヨーロッパ諸国への影響も深刻で、特にアメリカ資本に頼って経済復興していたドイツの傷は大きく、これがナチス台頭を呼び込む事になる。
またアメリカにおいては、株価の下落は加速こそすれ減速することはなく、多くの人々は瞬く間に価値ある財産と信じていたものを失っていった。
工場は為す術もなく閉鎖に追いやられ、商店は閉店し、農場には腐るに任せた作物がうずたかく積み上げられ、それらを強力な牽引力に失業率は跳ね上がり、銀行の倒産によって預金を奪われ、負債を抱える人々は支払いの目処が立たずに路頭に迷っていった。
企業の倒産は後を絶たず、経済活動は一気に低下した。
当時のアメリカ大統領ヘンリー・フーヴァーは、恐慌の拡大を阻止するためにドイツの賠償や連合国の戦債支払いを1年間停止する政策を打ち出したが効果はなく、国民の支持率低下は免れなかった。
そしてその混沌の中から登場したのがフランクリン・デラノ・ルーズベルトだった。
1933年第32代大統領となったルーズベルトは、内政においては「ニューディール(新規まきなおし政策)」と呼ばれる経済政策を開始し、外交においてはアジア特に日本との対立姿勢を強くして、全体主義的な大規模公共事業と戦争という二つの大車輪で経済を一気に立て直そうとしたと言われている。
だが、彼の施策の多くは実を結ぶことはなかった。
なぜだろうか。
この大恐慌の頃、アメリカと似たような経済政策を行った国は、アメリカ以外に二つあった。
大日本帝国とナチス政権が率いるようになったドイツだ。
そしてアメリカとドイツは驚くほど状況が似通っており、その二面性もまたそっくりだった。
アメリカとドイツの共通項と日本の違い、それは何だろうか。
どの国も巨大な公共投資と軍備への傾倒、様々な経済政策によって自国経済の建て直しを計ろうとした。
そして、日本の場合は他の二国よりも先に一時的に自由資本主義から離脱して社会主義的な政策を推し進めていたため、大恐慌の惨禍を最小限に止めることが出来たと言われ、また満州など開拓地への情熱がこれを防いだと言われている。
確かに結果はその通りだろう。
だが、それが日本とアメリカ、ドイツの違いではない。
アメリカとドイツに共通していたものは、スケープゴートの存在だ。
そして、ドイツはこれを活用することに成功し、アメリカは反対に噛みつかれる事で大失敗を犯してしまったのだ。
また、ドイツがヒトラーという絶対権力者が国家を指導していたのに比べ、アメリカ大統領の権限が弱かったこともこの時のルーズベルトの様々な施策を失敗させた原因だとも言われている。
ヒトラーは、ユダヤ人をスケープゴートにすることにより、ドイツに根強く残っていた資本家(上流階層)と労働者(下層階層)との19世紀的な階級的対立を解消した。
おかげでドイツ民族は一致団結し、国家のために奉仕労働を行い、ドイツの生産力は飛躍的に増大して、45%もあった失業率を順調に減らし、第2次世界大戦前の1939年までに、失業者数を20分の1にすることに成功した。
ヒトラーが軍事力の整備を失業率回復に使ったとされたが、この現実の数字を前にしてはアメリカ政府は形無しだろう。
そしてそのアメリカの大恐慌からの脱出は、大幅なデフレを中心にした市場経済による価格的数量的調整と、市場の枠組みそのものに加えられた制度的変更、そしてスケープゴートとした日本に対する事実上の侵略戦争による国民の一致団結によって解消される筈だった。
だがルーズベルトの国内政策は、急速に悪化した対日問題に追われた事から、制度改革の緊急対応に追われ、首尾一貫性を欠き、思いつきに終始し、折衷的で哲学を欠いていた。
このため、彼が在任した僅かな期間の間にテネシー峡谷開発公社の創設に代表される、前代未聞の数の制度や法律が作られた。
そのうちニューディールの根幹をなしたのは、農業調整法と全国産業復興法という全体主義的な制度の出現だった。
だが、彼が次のステップに進もうとした段階で、日本との限定的全面戦争が発生し、1934年から1935年にかけての約1年間の戦争でアメリカ軍は戦術的敗退を重ね、結果として太平洋の覇権の過半を失い、この無謀な挑戦を行ったルーズベルトは、任期途中で失脚を余儀なくされる。
なお、ルーズベルト辞任当時副大統領だったジョン・N・ガーナーが、ルーズベルトの後を継いだ形で1937年まで大統領職を続け、ルーズベルトがアウトラインを引いた国内政策を続けようとするが、弁護士出身の平凡な政治家に過ぎずルーズベルトほど指導力のない彼は、国内の資本家階層からの反対によって全体主義的、社会主義的とされる経済政策を行うことができず、ルーズベルトが制定した様々な制度や法律の多くが、連邦最高裁判所によって違憲と断定されてしまう。
このためもあって1935年春には、アメリカは再び大きな不景気に突入し、日本に対する敗戦と疲弊しきった経済というダブルパンチにより海外へリアクションする能力も意思も失い、失意の数年間を過ごす事になる。
その後第33代大統領には、アメリカ優先協会の体現者と言うべき共和党のウェンデル・ウィルキーがアメリカ社会の再生を旗印にして就任し、WASP中心の無定見と言われた穏和な閉鎖的海外政策を行いつつも、最低限の経済改革と社会制度の整備を続けて、常時15%を越える失業率を抱えつつも何とか二期目の当選にも成功する。
そして彼の時期に制定された様々な法制度は、ルーズベルトがアウトラインを引いた政策をやや穏和にしたものが多く含まれており、ここにルーズベルトの行おうとした政策が必ずしも間違いばかりでなかった事が伺える。
そうして最盛時の6割程度の経済力という低空飛行を続けていたアメリカに救世主が現れる。
第二次世界大戦という救世主がだ。
そして、1942年に病気で急死したウィルキーに代わって大統領職を引き継いだトマス・デューイは、ウィルキーの閉鎖的ではあるが穏健な善隣外交政策により健全化していた日本との外交関係をさらに強化し、当時アジアを席巻しつつある日本に対して極端なまでの親日政策を掲げ、日本の尻馬に乗る形でアメリカをアジア市場の獲得に走らせ、その他欧州に対する急速な需要の拡大がアメリカ経済の復活を誘い、ドイツの急速な膨脹による国防意識の高まりを利用した軍備の再建が急ピッチで進み、これも経済を後押しする結果を生み、1944年第二次世界大戦が終わった時、アメリカの経済力と軍事力はそれなりに満足しうるレベルへの回復を達成するに至った。
そしてそれは、アメリカの新たな挑戦への始まりであり、戦争により肥大化したドイツ、日本との新たな競争へ名乗りをあげるためのこれ以上ない援護射撃となり、ここに新たなローマ帝国の座を巡った新たな戦いの最終ラウンドが始まる。
Case 04-03
「第二次世界大戦とその後のアメリカ」 ▼




