Case 04-01「アメリカ略史1」
グリニッジ標準時で1949年5月15日午前9時、北米大陸東海岸の時間で5月15日未明、日本時間で5月14日夕刻、インド洋ではその日の午後、ドイツによる宣戦布告の3分から30分後、アメリカ、日本、イギリスそれぞれの首都と軍事力、特に海軍力に対して大規模な攻撃が行われ、中東ではペルシャ湾目指して地上侵攻が開始された。
しかも、北米大陸東海岸においては、ドイツ海軍の至宝とでも呼ぶべき空母機動部隊による攻撃で、アメリカ海軍最大の拠点ノーフォーク軍港が大打撃を受けていた。
それが全世界を舞台とした第三次世界大戦の号砲だった。
この時の攻撃は、世界の誰もが想像した手段を超越した先進的な技術が用いられたが、幸いと言うべきか意外と言うべきか究極の破壊力を与えられた新兵器の投入が行われなかったため、そのまま世界は全面通常戦争へと流れていった。
だが、この時なぜドイツ第三帝国はアメリカを含めた世界全てに対して戦争を行わねばならなかったのか、ここではアメリカを中心の視点において、戦略面を中心に見ていきたいと思う。
なお、ドイツ軍により同時に攻撃が行われ、未曾有の戦いに参加を強要された日本帝国・英連合王国については、次の機会に見てみたいと思う。
アメリカ合衆国。
この国はいかなる国家なのか。
経済大国。工業大国。資源大国。人工国家。移民者の国。白人を中心とした移民の国。
北アメリカ大陸主要部に広がる広大な国土を誇る大国。
人によって視点は異なるだろうが、経済産業面においては概ねこの程度に収斂されると思う。
また、文化面においては19世紀後期から20世紀前半にかけての大躍進により大衆文化が大いに繁栄した一つをとってみても、大きな繁栄とそれに似合った文化の熟覧があった事も見て取れるだろう。
では、まずはこのアメリカ合衆国の成り立ちを足早に追ってみたい。
アメリカとは、この大地を西欧中心の地球史レベルで「発見」したとされる人物名をそのまま当てはめた名であり、この時点から極めて人工的要素の強い存在だと言えるだろう。
だが、イベリア半島の西端の都を旅立った冒険家がこの大陸の勢力圏に足を踏み入れるまで、先住民族が荒々しくも平和に暮らす平穏に満ちた大地だった。
そこに住む先住民族(Native Americans;インディアン)たちは、気候的に異なるそれぞれの地域で様々な文化、宗教、言語を持ち、武器や食物を作り、部族というまとまった社会を形成し、各部族にはそれぞれ異なるルールがあり、この部族の中で人々は分担して様々な仕事をこなして暮らしていた。
なお、広大な北アメリカ大陸全土にわたって、多くのインディアンの部族が広がり、その数は2000万人とも言われる。
だが、彼らの大地には「馬」と言う優れた移動力と運搬能力を持つ動物は存在せず、人為的に改良された家畜もほとんどなく、さらに「鉄」を精錬する域にまで文明が到達しておらず、遠方地域の交流・衝突もほとんど存在せず、このため欧州大陸の人々が押し寄せたとき、彼らとの文明レベルの差は、大量殺戮技術という面において絶望的なまでに広がっていた。
しかもこの時訪れた欧州大陸の人々の多くは、欧州大陸での食い詰め者や一攫千金を狙う野心的な者が多く、このため彼らの宗教的威光を認めず肌の色も異なる人々と共存しようと言う意志がほとんど皆無だったため大きな悲劇をもたらす事になる。
また、アメリカ大陸という閉鎖された環境だったため、数多くの疫病が旧大陸からもたらされた時、先住民族がこれに抵抗する能力が全くなく、これがさらに悲劇を大きくした。
近代アメリカ史を押し開いたクリストファー・コロンブス(Christopher Colombus(1451-1506?))がアメリカ大陸にやってきたのは1492年10月12日の事だった。
そして彼の報告を受けた多くのスペイン人探検家達が彼の後を追い、血眼になって金・銀財宝を探し求めるようになる。
コステルやピサロなどの名に思い当たる方も多い事だろう。
1500~1600年代にかけて彼らはアメリカ南部の地方とメキシコ北部の山岳地帯に栄えていた古代文明を蹂躙し、この地を英語名で表すと"New Spain"と呼び、現地住民にお構いなく自らの新たな土地であると宣言して多くの人々がここに住み始め、その当時活動が盛んだったカトリック教の使節団を形成し、重要な機能を果たす都市を建設していった。
この当時、宗教イコール侵略の時代だったのだ。
その後、スペイン以外の欧州からも人々が押し寄せるようになり、フランス人はカナダ(ケベック)やミシシッピ川流域へと進出し、オランダやイギリスなどは東海岸北部を中心に入植地を築き、当時対立していたオランダとイギリスの争いの結果、オランダは北米大陸の拠点を失い(現在のニューヨーク近辺)、これ以後北米近代史はイギリスとフランス中心に作られていく。
そしてそれを象徴するのが、1620年のメイフラワー(Mayflower)号の到着だろう。
彼らはイングランドでの宗教争いに敗北した「清教徒(ピューリタン;Pilgrim Fathers)」と呼ばれる人々で、自由を求めて新天地に至ったとされ、これ以後アメリカの国是を示すシンボルのような位置に祭り上げられる。
そして1700年代になると、イギリス人が次々に北アメリカに移住し、東海岸一帯に定着して13の植民地を建設していった。
これらの植民地はそれぞれ独自の発展をとげ、北部(ニューイングランド植民地)では多くのピューリタンが定住し、自営農業と商工業を発展させ、一方南部植民地では宗派も様々で、黒人奴隷を労働の糧として綿花・たばこなどのプランテーション(大農場経営)を発展させていった。
一方フランスはミシシッピ川流域を中心に領土を広げ、多くの開拓者たちが西へ移動していった。
当時フランスとイギリスは折り合いが悪く、植民地をめぐってついに戦争が勃発した。
またイギリスはフランスとアメリカ大陸の先住民族の両方と戦わなければならなかったことから、この戦争はフレンチ=インディアン戦争(1755-63)と呼ばれる。
そして数年間に及ぶ戦争の結果ついにフランスが破れ、イギリスはミシシッピ川東側のフランス領土を全て獲得して、北米大陸での主導権を確立する。
ところがこの戦争でイギリスは多くの負債を抱える結果となり、これらの負債にあてる資金調達のために様々な増税や苦役を北米植民地に対して課し、当然ではあるが植民地の住民達がこれらの条例に強く反発し、この結果「代表なくして課税なし(No taxation without representation)」という主張やイギリス製品のボイコット運動が広がり、ついに1773年には「茶法(Tea Act)」が制定され、これに反対する植民地住民がボストンに入港してきた東インド会社の船を襲撃して、インディアンの扮装をして茶を海中に投じる。
これが有名な「ボストン茶会事件(BostonTea Party)」だ。
この報復手段としてイギリス本国はボストン港を一時封鎖し、これによって植民地と本国との対立が一層激化、ついに独立戦争(1775-1783)が勃発する。
このアメリカ独立戦争は、当初イギリスの優位に進んだ。
しかも植民地側は独立に反対する大地主・商人もいて団結が取れているとは言えず、政戦両略共に苦戦を強いられることになる。
だが、出る杭は打たれるという普遍の理論はここでも機能し、イギリスの宿敵フランスは植民地側に応じて参戦、スペインもフロリダの奪還を目指して参戦するなど、戦局は次第に植民地側に有利に展開していき、ついに1781年10月19日にヨークタウン(Yorktown)で大陸軍は決定的な勝利をおさめ、ついにイギリス軍は降伏する。
そして2年後の1783年に平和条約(パリ条約)が締結され、ここにアメリカ合衆国が誕生する。
独立後のアメリカは、近代民主主義の整備に心血を注ぎ、建国の英雄達は、三権分立、憲法の整備、大統領制、上院下院制度など様々な取り決めを作っていく。
そしてこれが、その後の自由の国アメリカの根幹をなしていく事になる。
なお、アメリカの首都は当初フィラデルフィアに臨時首都として構えられたが、ワシントンDC(ワシントン・コロンビア特別地区(Washington District of Colombia))に正式に構えられている。
そして19世紀に入ると、アメリカ合衆国は次々と新しい領土を取得していく。
まさに開拓者の国の姿であったが、欧州各国からタダ同然の値段で購入されたか強引な戦争で勝ち得たもので、当然この中に先住民族達の介在する余地はなく、そればかりか白人開拓者のために次々と彼らを肥沃な大地から追い立て、駆逐していき、ここにアメリカのもう一つの一面を見ることができるだろう。
そして、これらの開拓を約束するのが、産業革命により生み出された鉄道の存在であり、この機械の力によりついに太平洋にまで彼らの開拓の手は伸ばされていく。
こうして、独立を果たした後のアメリカ合衆国は、着実に領土を増やし順調に発展していったが、外敵の脅威が低下した事で国内の北部と南部の対立関係が次第に表面化していき、1961年の南北戦争に至る。
なお、南北対立の原因は、政治的・経済的な相違点の多さにあると見られている。
また両者の経済・産業は、気候風土等の違いがもたらしたものであり、広大な大陸に存在する国家であるが故にこの対立は必然だったと見ることがむしろ自然だろう。
そして南部が自らの産業態勢から奴隷を大量に使用した大農場を主体とした自由貿易主義を掲げ、北部が自国の近代産業育成のため保護貿易を謳ったことがこの対立を決定的なものとする。
一つの国に二つの制度は成り立たないからだ。
また、奴隷を巡る対立も南北に大きな溝を作り、これも戦争の大きな原因になった。
そして1860年に奴隷制度廃止に積極的なエブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln(1809-1865))が大統領に選出されると、まもなくして南部諸州が次々と合衆国からの離反を宣言し、1861年に軍人だったジェファーソン・ディビス(Jefferson Davis(1808-1889))を大統領とするアメリカ南部連合国(Confederate States of America)を新たに立ち上げ、南軍が攻撃を開始することで「南北戦争」が勃発する。
戦争は当初リー将軍率いる南軍が優勢だったが、国力に勝る北軍が徐々に戦況を覆し、北軍の物量と相手の国土を焼き尽くす焦土戦術や海上封鎖作戦により南部は徐々に追いつめられ、1863年の奴隷解放宣言(the Emancipation Proclamation)発布によって南部は政治的退勢に追い込まれ、さらに同年7月の「ゲティスバースの戦い」で情勢は決定的なものとなる。
その後1865年に南部連合の首都リッチモンドが陥落して南軍は降伏し、1861年から4年間続いた南北戦争がようやく終結する。
なお、奴隷制は1865年に廃止されたが、黒人に対する厳しい社会的差別は残され、その後一世紀間に渡り、アメリカの社会問題として存続し続けることにる。
合衆国再統一後のしばらくは、破壊からの再生に終始する。
これは、合衆国軍が徹底的な焦土戦術を行ったため、南部は壊滅的でその傷跡は大きく、街や農地のほとんどが破壊され、人々は職もなく多くのものを失っていたからだ。
ここに約一世紀後のドイツとの戦い方の原型を見ることができるだろう。
このため、戦後の時代は再建の時代(Reconstruction)とも呼ばれ、連合国に加盟していた南部諸州が立ち直るまでに10年以上の歳月がかかった。
そして、この戦争の前後四半世紀の間に現在のアメリカの形が形成される事になる。
ゴールドラッシュや移民を促進するホームステッド法の効果で移民が増加し、農業が大規模に発展、機械化が普及して北部の有力な市場となって、カリフォルニアなど西海岸が開発されるようになったのもこの頃だ。
なお、アラスカが極めて安価(720万ドル)でロシアから購入されたのもこの時期で、アメリカの国土はこの頃にほぼ現在の形になっている。
そして、再建の時代を終えたアメリカは、自国の持つ良性の機運と産業革命の追い風を受けて未曾有の繁栄へと驀進していく。
Case 04-02「アメリカ略史2」 ▼




