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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
New Horizon

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Episode. 3:1968年4月 カオス・オブ・ビルマ(ビルマ戦争) ●Phase 3-1:国家社会主義陣営の野望

 1967年晩秋、私は母校の門を久しぶりにくぐった。

 そこでは、我が母校の大学祭が行われていた。

 

 私はここでOB代表の一人として、学生たちから講演会を頼まれゲストとして来ていた。

 

 この頃の私は池田政権での働きと地元有力政治家の後押しで、一公務員から政治家へと転身していた。

 

 私は「政友会」へと入党するとすぐに衆議院議員に出馬・当選し、この時はその二期目も無事切り抜けたばかり、つまり私政治家として安定期に入りつつあった。

 私の属する「政友会」の存在もそれを後押ししていた。

 

 その頃の私は、国際政治と軍事の双方に明るい若手実力政治家として見られており、その見識を後輩達に是非ご教授して欲しいという、現役学生達の実に楽天的な要請を快く受けて、気分もよろしく落ち葉舞い散る我が母校へと舞い戻ってきたのだ。

 

 まあ、ちょっとした凱旋気分というヤツだ。

 


 三田祭は、今日が最高潮らしくたいへんな賑わいに満ちていた。

 数々の露天、さまざまなストリート・パフォーマンス、各種イベント・展示などへの過剰なまでの呼び込み、実に学生らしい溌剌さと若者特有の元気の良さを見せつけていた。

 中年と呼ばれる世代にさしかかろうとしている私ですら思わず学生時代に若返ってしまいそうなほどの明るい雰囲気だ。

 日本が繁栄しているなにより証拠と言うところだろう。

 

 私は調子に乗って両手を露天の食べ物でふさぎつつも、呼び出しを受けた場所へと足を向けようとしたが、そこでふと一つの人だかりに目が止まった。

 その人だかりは小さな壇上の上に一人の女性が立ち、たどたどしい日本語と流ちょうな英語で何かを積極的に訴えかけているというものだった。

 しかし、人だかりはあまり多くはない。

 

 私はそれが何となく気になり、それを少し見てから目的地に行ってもよかろう思いその人だかりの中に入っていった。

 演説していた(そう言って良いだろう)その女性は案の定日本人ではなく、どうやらインドかその近在の地域の亜細亜系の留学生らしかった。

 

 そしてその女性は熱心な演説を続けていたが、何気なく向けた視線の先に私がいたことを見とがめた。

 

 それが私と、「東洋のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれるアウン・サン・スー・チー(Aung Sun Suu Kyi)女史との出会いであった。

 


 まあ、少し自伝風書けばこんなところだろうか。

 


 その頃亜細亜特に東南アジア一帯は、四半世紀前に大東亜共栄圏を掲げた日本帝国を中心とした一大勢力圏を作り上げていた。

 

 胡志明ホーチミン率いる、高度経済成長を始めたベトナム連邦共和国、日本の熱心な行政指導のもと全国民の一般教育の普及と国土開発が続けられているフィリピンやインドネシア、歴史と伝統を誇りそれをバネに発展しようとしているタイ王国、東南アジアの穀倉地帯にして周りの発展から観光立国としても自立しつつあるカンボジア王国、日本の経済的ライバルとして頭角を現し出した大韓国、北からの脅威に脅えつつも成長と躍進を続けている日本の最も忠実な同盟国である満州国、共栄圏にて日本最大のパートナーたるインド共和国、そして東西に分断された中華地域。

 

 確かに欧米先進国に比べれば、人口はともかく国力に劣る発展途上国もしくは中進国ばかりでしかなかったが、熱意と発展の速度はかつての日本がそうであったように欧米を驚嘆させるものばかりであった。

 もちろん、それらを追い風として盟主たる日本も大いに発展しており、このころの日本経済は共栄圏の発展に便乗する形で第三次高度経済成長期と呼ばれてもいたぐらいだ。

 

 しかし、問題が全くないわけではなかった。

 

 一番の原因は大陸勢力である国家社会主義国の政治的干渉だった。

 そして、このドイツ人による干渉が原因で順調な発展を妨げられている地域がいくつか存在した。

 また、旧インド地域を中心に英国の政治的影響力が復権しつつあり、これも英米と完全に和解したわけではない日本にとっては頭の痛い問題だった。

 

 そして、その双方の問題が掛け合わさった場所がビルマだった。

 

 もちろん、分断国家となり15年程前に国土の半分以上が戦場にさらされ、世界有数の人口を誇りながらいまだに世界最貧国とされている中華民国の問題も頭の痛いどころの問題ではなかったが、こちらは政治的に二色に分けられているだけにビルマよりも問題はむしろ少ないと判断されていた。

 二色であるがゆえに日本の干渉も行いやすいからだ。

 それに、中華の問題はそこから出ないかぎり彼らだけの問題だった。

 

 だが、ビルマは違っていた。

 

 彼の地は、一度は大日本帝国時代の日本の援助により独立を達成していたが、それはその後の世界情勢の変化により二転三転していた。

 

 最初の原因は独立させた日本側にあった。

 独立グループを日本陸軍の参謀の一部が徹底教育したことで、純粋な独立を求めていたはずの彼らに軍国主義的な考えを植え付けてしまったのだ。

 当の軍人達は違うと言うだろうが、少なくともその方向にビルマの青年達が突き進んでいったのはその後の歴史を見ると間違いないだろう。

 

 だが、方向性はどうであれ彼らの熱意と日本軍の植民地の独立を影から援助する特務機関の暗躍、明に暗に行われた援助物資と政治干渉により1945年ビルマは完全独立を達成した。

 これは誇るべき事だろう。

 だが、ここでの一つの事件が問題をさらに複雑にしていた。

 当時の独立指導者だったアウンサン将軍が独立直前に暗殺されてしまったからだ。

 恐らくこれは英国の謀略だったと言われている。

 

 次なる原因はインドだった。

 インドは日本の援助と英国の衰退、自助努力により独立を達成したが、時のネルー政権は人類文明発祥の地のひとつにある大国たるインドは、世界の何処に対しても独自性を主張しなければいけないという、インドに住う人であるなら諸手を上げて歓迎するであろう政策を掲げた独自路線を取った。

 これが、大東亜共栄圏としてインドを新たな市場にして経済圏に組み込もうとしていた日本がインドとその周辺地域への影響力行使を低下させる事になり、日本の誇る優秀にして悪名高き実務官僚団の行った他の東南アジア地域への国家建設のための行政指導をビルマにおいて阻害してしまったのだ。

 当然、当地域の日本の影響力を低下させていた。

 

 そしてその間隙に英国がインドへの政治的影響力の復活と同時に、ビルマでも同様の事を行ったのだ。

 そしてこれはいくらかの成功を収め、ビルマは日本主導でなく旧宗主国たる英国の指導のもと民主化政権が樹立される事となった。

 

 だが、さらに悪いことは続く。

 中華動乱が原因だった。

 これにより日本が中華大陸に大きく肩入れし、東南アジア地域の影響力を一時的に低下させ、反対に中華動乱である程度亜細亜への浸透に成功したドイツ率いる国家社会主義陣営が、中華人民共和国を通じて東南アジアへの干渉を強めた。

 これに政権が不安定で、各政治勢力の影響力がモザイク化していたビルマが選ばれたのだ。

 しかも、ここなら日本やアメリカにとっても裏庭的な位置でもあるし、暗黙のうちに日本と英米が敷いていた国家社会主義陣営へのユーラシア大陸封鎖に対する突破口になるのが物理的にこの地域にドイツが注目した事も原因だった。

 


 このドイツの方針に従い国家社会主義陣営の工作は続けられ、日本軍から軍事訓練を受けた軍人の一人ネ・ウィン大将がクーデターを起こし、内陸部のマンダレー市を中心に国家社会主義ビルマ(北ビルマ)を作り上げ、ついにビルマは南北分裂時代を迎えた。

 

 これだけならまだ東西分裂した中華地域と同じなのだが、ここで英国が余計な介入を行い問題をややこしくした。

 

 英国は辛うじてラングーン市を中心に残っていたビルマ共和国(南ビルマ)側への全面的支援を約束し、それだけの国力を既になくしていたのに国家社会主義に対する遠隔地での対決姿勢を強めたのだ。

 どうにも意地っ張りというのは、人も国も問題を大きくするものなのかもしれない。

 

 この時点で日本は蚊帳の外だった。

 大東亜共栄圏の一国だった場所は、気がついたら白人同士のパワーゲームの場所となっていたのだ。

 しかも横からはインドと中華各国が援助し、元から仲の悪い両国もこの地域に深く足を突っ込み、キューバ危機が終るが早いか泥沼化の様相を呈するようになっていた。

 

 なお日本がこの地域への影響力行使に不熱心だったのは、英国のしたたかな外交に敗北した事に対する負け惜しみかもしれないが、この地域に日本の必要とする資源が乏しいという、実に日本的な政治判断が原因していた。

 


 そして数年が経過したが、状況は何も変わっていなかった。

 英国が息も絶え絶えに南ビルマを支援して、ドイツとロシアが人民中華を仲介して苦労して北ビルマを援助していた。

 

 ビルマの地は、大国の意地をかけた代理戦争の場となったのだ。

 

 先に根をあげたのは英国だった。

 遠隔地への援助が続けられない状態となると、盟友たるアメリカ合衆国にその肩代わりを依頼したのだ。

 ここに事態はさらに変化を遂げることになる。

 

 そして、この頃には世界最大級の軍備を有するようになり、キューバ危機など国家的な危機も乗り切ったことで新たな世界帝国目指して波にのりつつあったアメリカは、この要請をアメリカのさらなる発展のためと、自由社会の盟主としての地位を確保するという政治目的のため快諾し、太平洋と大西洋の双方から膨大な船団を派遣、自ら泥沼のビルマへと突撃していく事になる。

 これがだいたい1964年頃だった。

 

 その後南ビルマ軍というよりは、アメリカ軍と化していた自由主義側は圧倒的な軍事力により北ビルマを追いつめていた。

 

 だが、北ビルマもドイツ人やロシア人から伝授された武器と戦術を以て果敢に抗戦しており、主にビルマのジャングルを利用したゲリラ戦法を用いて、圧倒的物量を誇るアメリカ軍に対抗していた。

 

 そしてちょうど私がアウンサン女史と出会った頃、ビルマの混沌は一つの頂点に向けて収束しつつあった。

 そして、彼女は故郷の惨禍を見かねて、自らも何かしなければと留学先で動き出したのだ。

 


 ではここで少しビルマ情勢を離れて、それぞれの列強について見てみよう。

 なぜなら戦後の日本の歴史教育は、近代についてあまり教えていないように思えるので、この当時の情勢をこれを見ているであろう方の中で理解しづらい方もいるのではと感じるからだ。

 不要な方は読み飛ばしていただきたい。

 


 1962年にキューバ危機と共に全面核戦争の脅威が遠のいてから1970年のオイルショックに至るまでがちょうどこの時期に当る。

 

 世界レベルの国際情勢的には、それまで世界を主導していたとされる日本と英国とドイツそしてアメリカの中で、特にドイツとアメリカの対立が目立つようになった時代だ。

 

 まあ、短く要約すればこの程度だろうか? だが、これでは中等学校で教えることと大差ないのでもう少し深く掘り下げておこう。

 

 この頃アメリカとドイツが台頭していたのは、ある種当然の経済原則が働いていた。

 また、英国が衰退していたのも同様だ。

 日本については特殊なので最後にするとして、まずは米独を見てみよう。

 

 まずはアメリカだが、1945年頃から英国と共にアングロ同盟を結成し、ドイツ人に属しなかった白人国家を大同団結させた「大西洋条約機構」という経済軍事同盟を結んでいた。

 これに属していたのは、アメリカ合衆国と英連合王国は当然として、英連邦の各国と南米のいくつかの国、アイルランド、アイスランドなどわずかな白人国家が属しているが、実質的に英米のみの組織だった。

 だからこそアングロ同盟と呼ばれていたのだ。

 ただし、英連邦は亜細亜を除いたとしても世界の20%占める広大な地域であり、亜細亜以外の全ての海洋交通を内包していたのだから、その経済的な優位は言うまでもないだろう。

 

 そしてその経済圏を英国の手を介さずに自らの手で完全にコントロール出来るようになったのが、同盟から20年が経過したこの時期だった。

 その証拠に、南北アメリカとアフリカの半分、太平洋の半分を抑えているこの時期のアングロ同盟の総合経済力は、世界の約45%に達していると見られていた。

 これは、日本とその影響圏が世界の約25%、同じく欧州帝国が約25%程度だからいかに巨大かが分かると思う。

 アングロ同盟は、世界帝国の条件であるナンバー2、ナンバー3を合せたと同じぐらいの巨大な国力を実現していたのだ。

 

 そしてその経済力を背景とした、日本を凌駕するほどの巨大な海軍、ドイツを越える空軍戦力、外征陸軍としては破格の陸上戦力を保持するに至っていた。

 


 次にドイツだが、対外的には国家社会主義を掲げるドイツ第三帝国率いる欧州帝国も大いなる発展の道を依然進んでいるとされていた。

 外へ発信される情報がドイツ自らの手によるもの以外ひじょうに少ないために、アングロ同盟も日本もこの事をほぼ鵜呑みにしていた。

 

 だが、欧州帝国が崩壊して後に公開された情報や統計数値を見ると、この頃からおかしな方向に歪んでいたらしい。

 

 まあ、考えてみれば当然の事で、もともと国家社会主義とは国家が経済を統制するという点では社会主義と極めて似た性質を持っており、社会主義と違い企業活動は自由だと言われても、官主導の政策が本来生きものである経済運営を統制しきれる訳はなく、そのような状態が20年も続けばいかに世界に冠たるドイツ帝国と言えど健全な経済運営が続けられる筈もない。

 また欧州とロシアだけでは、アングロ同盟はもとより日本人達よりも小さな市場しか持っていない事になり、これも経済の順調な発展の阻害要因になっていた。

 しかも、ドイツは米日に対しての巨大な軍備を維持し続けねばならず、トドメに最終的には今世紀中に火星を目指すと言う道楽のような宇宙開発を続けていたのだから、これで経済が傾かない方が不思議というものだろう。

 

 まあ、その当時の世界は、ドイツに対する先入観とドイツ宣伝省の巧みな宣伝活動にスッカリ騙されていたのだ。

 

 一方、英国はこの頃凋落の階段を転げ落ちている状態だった。

 多くを説明するまでもないと思うが、この時期に植民地の多くが独立していったからだ。

 特にこの頃にアフリカに有していた大半の植民地が独立している。

 その上、英連邦としてそれまで英国を支えていたカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカが独自路線を進み始めており、あまつさえオーストラリアに至っては地理的要因から亜細亜との結束を強めつつあり英国の経済圏からの離脱を図りつつあった。

 そしてこの頃には政治的影響力はまだしも、経済的なものや軍事的な影響力は大きく減退し、米独日に単独で対抗するのは極めて難しい状態となっていた。

 


 最後に日本だが、少なくとも経済と産業は依然順調な発展を遂げていた。

 これは、東亜共栄圏全域の発展との相互作用により約束されたような発展であり、1964年に就任した佐藤首相の堅実かつ安定した政権運営により維持された。

 その証拠に佐藤政権は、日本政治史上最長の長期政権としてその名を残している。

 そして、この間に日本はさらに大きくなり、単独でも世界第二位の経済力を保持するに至っていた。

 それぐらいの勢いは間違いなくあったのだ。

 全ては統計数値が示していた。

 なお、この頃日本帝国は総人口が1億3000万人を突破、海外日系人口も満州を中心に1000万の大台に達していた。

 つまり人口減少が始まっていたドイツを抜いて先進国としてはアメリカとロシアに次いでの大きな人口を持つようになってもいたと言う事だ。

 

 ではなぜ、軍備は減退していたのか? 理由は二つあった。

 日本経済の躍進が軍備削減により捻出された大規模公共事業に後押しされていた事と、この頃には国家事業の一つとなっていた宇宙開発にばく大な予算を傾注していたからだ。

 日本は、一時的に訪れた緊張の緩和を利用して、大国であってもその維持が困難とされる軍備と宇宙開発の片方をある程度犠牲にする事でこの繁栄を達成していたという事だ。

 また、軍備削減に関してはアングロ同盟との関係が大きく改善しつつあった事もこれを後押ししていた。

 そしてこれは、安定した佐藤政権の存在無くしては成しえなかっただろうと世界中が認めている。

 前後する首相たちに比べると個性と目に見える政策の面では地味だが、佐藤首相こそ近代日本中興の祖の一人と言っても良いのではないだろうか。

 

 なお、削減されたと言っても、勢力圏の現状維持のための軍備は十分維持されていたためそれ程極端ではなかった。

 依然として日本は世界第三位の軍事力を保持し続けていた。

 しかも、不必要なまでに巨大な軍備を有している米独よりも精鋭度と言う点では高いと評価されており、この頃でも実際の戦闘力は米独と遜色ないと世界の同業者からも見られていた。

 


 そして、この三極構造がビルマの混沌をもたらしていたとも言えるのだ。

 


 Phase 3-2:日本の亜細亜覇権への決意 ▼




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