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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
BudDream

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Case 03-01「メイン・プレイヤー」

 グリニッジ標準時1949年5月15日午前0時30分、現地時間午前3時30分、半年間で200万人にまで増強されたドイツ東方軍所属の3個軍集団が、ロシア人にとどめを刺すべく東方正面と南方からウラル山脈地帯目指しての進撃を開始した。

 

 従来からロシア国境に陣取っていた部隊は、装甲戦力の大幅増強を受けたうえでそれまでの東方軍から二つに分離して「ウラル軍集団」、「ボルガ軍集団」に改名し、一方欧州本土から続々と送り込まれた部隊を集成して「カスピ軍集団」と呼んだ。

 

 対するロシア社会主義連邦共和国(ソヴィエトは1945年内に事実上消滅)も、「北」、「中央」、「南」と3つの軍集団がぞれぞれ100万人の兵力を抱えて、さらに民間義勇部隊など、あの国独自の民兵組織が多数その傘下におさめられ、それら人数の上では圧倒的と呼びうる戦力を各地の要塞陣地帯に配備し、さらに総予備として機甲部隊が後方に配備されていると言われていた。

 

 その数およそ500万人、欧州ロシアをドイツが制圧した1943年頃からこの数字に大きな変動はなかったが、個々の軍事的価値としてはかつてのソ連赤軍のようなパワーは全くなく、一部の精鋭部隊をのぞいて歩兵は兵士としての訓練もロクにしていない民兵の群と見られていたが、この圧倒的な数字が地の利を味方に際限ないゲリラ戦を仕掛けることで、ドイツに対していらぬ出血を強いていた。

 また、ウラル地方に後退して以後のロシア人達は、人的資源の枯渇から戦法に変化が見られ、ドイツにとっての厄介さを増していた。

 

 そして、このロシア人達の態度こそが、この度のドイツ人の激発を呼び起こしたのだが、この時世界は表面上大きく騒ぐ事はなく、ドイツ人の手により何度目かのロシアン・ゲリラに対する軍事行動が行われたと言う程度の反応しか示さなかった。

 

 では、戦いそのものを見る前に、そこに至るまでの経緯と各国の状況などを見てみよう。

 


 ロシアとドイツの争い。

 いや、ロシアと中部ヨーロッパの歴史は、まさに国家の存亡と民族の生存を賭けた戦いの歴史であり、欧州の人間にとってもはや遺伝子レベルにまで刷り込まれた、恐怖と闘争心が呼び起こした戦いの歴史と言っても過言ではないだろう。

 

 欧州にとって、ロシアとはスラブ系の白人国家ではなく、ロシア人達がタタールと呼び忌み嫌うモンゴルの末裔と同様、大陸奥地から豊かな欧州の大地を伺う蛮族の群に過ぎないものだった。

 

 もちろん時代が進み、世界が広がると共にそのような意識は希薄となったと見られるが、これも欧州人の世界が広がる事が大きなファクターとすら思えるほど、欧州大陸人のロシアに対する潜在的恐怖が消えてなくなることはなかった。

 何しろ彼らは数が多かった。

 

 これは特に欧州各国の旗が、キリスト教の象徴である十字を意匠化したものである事からも見ることができ、ナポレオンのロシア遠征ですら欧州人の持つ恐怖心故の行動と見ることもできるのではないだろうか。

 

 欧州人にとって、ロシアの侵略と戦う事は、神の威光を守ることと同義語ですらあったのだ。

 


 もちろんこれは、嫌われ、恐れられ、場合によっては忌み嫌われすらしたロシア人の側にも責はあった。

 

 ロシアという国は基本的に大陸国家であり、そこに住まう人々は個人としてなら農業に根ざした純朴な人々が多いのだが、これがひとたび大陸国家としてある程度まとまると、防衛本能と侵略衝動により常に周辺地域を併呑する習性を持つようになり、またその手口も強引・強欲で泥臭いものが主となるのでよけいに嫌われる事がほとんどで、世界最大規模の大陸国家であるロシアがこのドグマから逃れる事はできず、故にロシア帝国として成立して以後、常に周辺地域を異民族を武力で併合してきた事がロシアの歴史そのものと言えるだろう。

 

 これは最盛時のロシア帝国が、世界の6分の1の大地を支配していた事から端的に見ることができる。

 

 だが、ロシア人にも言い分はあるだろう。

 

 何しろ彼らの発祥とされる大地は、高緯度にあるため寒冷で、農業をするにしては土地は貧弱で、交易を盛んにしようにも冬には海は凍結してしまい、とてもではないが豊かな大地とは言い難かったからだ。

 また、そのような苛酷な大地に存在する国家だからこそ、強い権力が民衆を束ねねば国家として維持できないとも強弁するかもしれない。

 


 また一方の戦争当事者であるドイツだが、この国も基本的には大陸国家であり、しかも欧州の中心部に位置するという地理的環境から、常に強大な権力と軍事力を持つ国家を有するか、そうでない場合は未曾有の侵略にさらされるか、そうでなくても周辺地域からの干渉によりひどい分裂状態にあるという起伏の激しい歴史を歩んできていた。

 

 また、そうした地理的環境、歴史的経緯からか、そこに住む住民たちは、欧州一般のキリスト教一般的価値観よりも「ドイツ」というものに強い帰属意識を持っており、これは強大な国家が成立すると容易に中華思想に繋がり、必然的に侵略的傾向を強く持つようになる。

 

 この象徴がドイツ第二帝国であり、20世紀半ばにさしかかったとき突如出現したナチスドイツであった。

 

 そして、この二つの帝国は共に軍事的絶頂に達したときに自らの手で大戦争を呼び込み、前者はこれに大失敗し、後者は歴史上空前の成功を収める事になる。

 

 特にナチスドイツ、自らをドイツ第三帝国と呼んだこの帝国は、ピレネー山脈からウラル山脈(実質的にはスペインからボルガ河)までを支配する現代のローマ帝国やモンゴル帝国と言えるほど膨脹し、大きく膨れあがった風船がそうであるように常に大きな危険をはらみつつ、その巨体をもって自分たち以外の世界と向き合っていた。

 


 そして、その二つの大陸国家が真っ正面からぶつかったのが、第二次世界大戦中の1941年6月22日から約2年間行われた、「独ソ戦」と呼ばれる、欧州ロシアを舞台とした史上最大規模の陸戦になるだろう。

 

 この時独ソは、互いを不倶戴天の敵と認識する政府を持ちながらも不可侵条約を結んでいたのだが、そのどちらもが独裁者を仰ぐ軍事国家であるだけに、その盟約はあまりにも意味のないものだった。

 

 事実、ドイツが一方的に条約を破棄して、完全なまでの奇襲攻撃の形でソ連赤軍を席巻し、欧州ロシアを蹂躙した。

 

 この時ソ連赤軍はドイツ側の甘い見積もりでも200個師団以上、総数約400万人を擁していたのだが、ドイツ軍は同盟軍を含めて約160個師団、300万人を以てこれをいとも簡単に突破してしまう。

 

 なお、日本で「 どく()せん) 」と呼ばれる戦いは、第二次世界大戦における、ドイツ第三帝国とソヴィエト連邦(ソヴィエト社会主義共和国連邦)の便宜上の呼称で、ドイツは第二次世界大戦のクライマックスと考え、ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれ、ロシア人は1949年の二度目の戦いは始まった時も、いまだに戦争は継続中だとしている。

 


 そしてその独ソの開戦の理由として挙げられるのは、ドイツの国家社会主義とソ連の共産主義というイデオロギー対立が第一の要因だとされている。

 

 また外交的には、当時イギリスはソ連の参戦を期待していたため、ソ連を倒せばイギリスが講和してくるかも知れないというドイツの思惑があったとされる。

 

 そして、ヒトラーを信奉するものにとっての第一の理由が、ドイツ人民のための「生存圏(Lebenslaum)の獲得」、つまりは東ヨーロッパ平原の劣等民族たるスラブ民族をシベリアに強制退去させ、優秀民族であるゲルマン民族(ドイツ人、北欧人)を東ヨーロッパ平原に移住、東方大帝国をつくるつもりであったとされる。

 もっともこれに関しては妄想と見るのが妥当だろう。

 

 他に、ドイツの生命線であるルーマニアの油田の防御なども理由としてあげられるだろう。

 事実、ヒトラーが先に仕掛けなければ、スターリンがルーマニアに侵攻していた可能性が高いという資料も多数存在するのでそう言う点では実に正しい判断なのかもしれない。

 


 そして異なるイデオロギーと歴史的軋轢が重なった戦争は、当初宗教を否定する政府を駆逐したドイツ軍を「解放軍」と考えていた地域住民の感情を逆撫し、彼らをパルチザンに変えてしまうものとなった。

 両国による凄惨な捕虜虐待、虐殺、暴行、略奪行為は、統計数字に表れている目を疑いたくなるような犠牲者の数と共に戦場の各地で日常茶飯事と言えるレベルで見られた。

 


 なお、その戦場となったロシアの大地だが、ドイツ軍がそれまでに行った欧州大陸の戦場は、鉄道網、道路網がよく整備された土地であり、進軍・補給ともに計画したように行動できたために電撃戦の効果を十二分に発揮できたとされ、戦略爆撃という考えの低かった当時は実にうまく機能していた。

 電撃戦によって短期間に他国を蹂躙・占領し、その戦闘で消耗した兵器・兵士は修理・補充・休養を取り、資源を搾取する。

 このことは資源を持たないドイツにとって重要なことであった。

 ドイツ参謀本部は、6週間という周期で進撃スケジュールを立てていた事がこれを端的に示している。

 そしてこれは、フランスとベネルクスに対する西欧大侵攻の際にその威力を発揮したと言えるだろう。

 

 一方、本国とはるか離れた広大な領土を持つロシアにおける戦いは、短期決戦に失敗すれば即持久戦を意味した。

 

 ゲージが異なる鉄道網、満足に整備されておらず充分な情報もない道路網(高速道路はモスクワ=スモレンスク間の一つしかなかく、ロシアの交通網の主力は河川と運河網だった)など、自動車化が完全ではなく補給に問題があるドイツ軍にとっては困難な戦場であった(機械化部隊の一部以外は全て馬匹による輸送が主力だった)。

 極端な例になるが、補給を例にあげるかぎり都市という陸の孤島を奪い合うような戦場がロシアの大地だった。

 

 また同時期に戦場となっていた北アフリカには、一部の港湾施設を利用する以外は自動車以外の補給手段がない為に、その作戦規模に比較して膨大な輸送用自動車が割かれていたことも大きな問題となっていた。

 

 しかもロシアの大地は、春と秋には泥の海と呼ばれるほどの泥濘と化すため、このことも移動・補給に大きな影響を与えた。

 

 このため、実際の戦闘でドイツ軍が戦争開始から半年で、ソ連の頭脳にして心臓部にあたるモスクワを攻略できた事は、ドイツにとって僥倖以上の事と言ってよいだろう。

 

 また、反対側に存在する日本がソ連を強く敵視していた事と、その日本が英国に対して単独で宣戦布告してインド洋一帯を制圧した事もドイツ有利に働いた。

 

 前者は、参戦しなかったとはいえ精鋭部隊が揃うソ連極東赤軍を釘付けにし、後者は1942年に入り英国によるペルシャ湾ルートの援助ルートを途絶する事になったからだ。

 

 これが、ソ連の1941年秋の防戦を低調なものとし、1942年夏以降の南方戦線での停滞をもたらした。

 

 そして政治的重心を失って以後のソ連は戦争のイニシアチブを完全に喪失し、ボルガ川以東を統治するのが精一杯という状況に追いやられ、第二次世界大戦の総決算である講和が成立して後は、欧州ロシアはドイツの統治するところとなった。

 

 だが、その講和会議においてロシア(ソ連)代表が出席せず、ドイツとロシアの戦いは正式には終了しないままだった事は、その後のドイツに大きな影を投げかける。

 

 そう、ロシア人と正式な和平が結ばれなかった事が、ロシア国境線での恒常的なゲリラ戦を誘発し、その後も延々と続けられ、ついには二度目の大戦争へと発展していくからだ。

 

 しかし、その影にはドイツ第三帝国を良く思わない勢力の姿が常にちらついていた。

 



 Case 03-02「ゲスト・プレイヤー」 ▼


 


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