2.
「こ、こちらです」
月が上がる頃、街角に停まる馬車までエイリとフチは導かれていた。どうしてなかなか、立派な馬車である。というか巨大である。3台繋がって馬が5頭も引っ張るようになっている。
エイリですらこんなに大きな馬車は見たことがなく、イライラを忘れて驚いていた。
その女性は自らの名前をルルと名乗った。
「け、研究者をして……ます」
「研究者?」
フチはエイリの肩に腰掛けて彼女の言葉を反復している。なぜフチはこのルルという女性の言う通りに、馬車に乗せてもらおうと言ったのか、エイリは理解できない。
「い、医者の端くれというか……。親が裕福なので、ちょっと道楽して、旅をしながら研究をさせてもらっています」
相変わらずルルはおどおどしながら馬車の扉を開けた。エイリと目が合うと逸らされる。どうやら、怯えられているらしい。
無理もない。エイリはさっきも今もピリピリとした雰囲気を纏って、唇を尖らせている。
「で、俺に興味が湧いたということか。調べてもらうのは全く問題ないが、本当に運賃はいいのか?」
「お金は本当にいりません。ちょっとだけお話をお伺いしたいだけなのです」
エイリは馬車の入り口でずっこけそうになった。
「フチ! 貴方なんてことを言いますの!?」
見知らぬ人間に身体を調べさせるだなんて、エイリは理解出来ない。
「俺はもうずいぶんいろいろ調べられているからな……特に問題はない。腹を開くとかはさすがに嫌だが」
「そん、そんなまさか、そんな酷いことはしません」
エイリよりルルの方が慌てている。
エイリはフチの言葉に空恐ろしいものを感じた。イースの王宮で、フチはもしかしたらその身体の特異さ故に、ずいぶんとひどいことをされたのではないだろうか。それを特に問題はないと言い切ってしまう彼の、過ごしてきた環境を、エイリは想像して胸が悪くなる思いがした。
ルルの馬車の中は広くて豪奢だが、生活感にあふれていた。
雑多に積まれた書籍に、あちこちに転がる硝子の容器。一応棚っぽいものには分厚い布が掛けられているが、その圧迫感にエイリは身構えた。
絨毯やソファの柔らかい匂いの中、嗅いだことのない薬品のような匂いが混じっており、それもエイリの警戒心を助長していた。
「き、汚くてすみません。寝る場所は別の荷台があるので。その扉から行けますので。反対の扉は研究室なので」
ルルは早口で言いながらソファに座るように促した。エイリはとても警戒しながら腰を下ろし、ルルから目を離さない。
「お茶、飲みますか?」
「頂けるか?」
「フチ!」
抗議するエイリを尻目に、小さなテーブルの上に着地したフチは、ルルを見上げて微笑んだ。
「砂糖多めだと嬉しい」
フチはティーカップの縁に捕まって悪戦苦闘している。手製の小さなカップにお茶を掬って入れようと苦心しているが、エイリは機嫌が悪いので手伝ってやらないことにした。
「ルル様。馬車に載せて頂ける申し出、ありがたいですわ。……ただ、どうにも不審に思ってしまいます」
「そ、そうですよね。あの、説明しますね」
対面に座したルルは、手をもじもじさせた。エイリより歳上に見えるのになんだかとても幼い、自信のなさげな仕草である。おそらく彼女は性格的に自信のない様子が基本のようである。
「この界隈では全く進展のない研究なのですが、……『ありえない事象が起こっている人間』……シフォア人というのを研究しております」
「はい?」
いきなりの話にエイリは目を瞬かせた。
ルルはわたわたとしながら必死に話を続ける。
「あの、ですね。人間には出来ないこと、というのがありますよね」
「はあ」
「例えば水中で息をしたり、空を飛んだり、雪を自在に操ったり……出来ないですよね?」
エイリはちょっと息を飲んだ。エイリは出来ないことが出来ている人間の1人を知っている。
「で、出来ないですわね」
「そうなんです。出来ないですよね。普通に考えて。そしてそれは、人体の仕組みからしてありえない、という研究の成果も出ています」
ルルは頷きながらフチに視線を落とした。
フチはといえば、机についたエイリの腕を背もたれにして、自分用のサイズのカップで優雅に茶を飲んでいる。
「フチさんも。そのうちの1人、シフォア人ではないのかと思うのです」
「フチが?」
「ええ。通常フチさんの大きさで、人間としての生命を維持していることはあり得ないのです。私たちの内臓は、この大きさでこそ、正常に機能するものなのですから」
ルルはそこまで言って、はっとしてフチに謝った。
フチは特に構う様子もなく、エイリを見上げてくる。
「お気になさらず。……それよりエイリ。あとあげる」
「へ!?」
「美味しいぞ」
フチはティーカップを指差し、飲めと勧めてくる。エイリはかなりそんな気分ではなかったが、フチがしつこいので仕方なく、失礼のないように口をつけた。
……甘すぎる。
フチは甘党、とエイリは頭の片隅に留めることにした。
ルルはエイリとフチの様子を微笑んで見つめていたが、頬を引き締めて話を再開した。
「私の研究は、シフォア人の発生の要因とその種類です。目的は……私の専門の医療からはちょっと外れてしまいそうですが」
「どういうことですの?」
「医療的には解決の糸口は見つからない、ということだろう」
フチが特に感慨もなく述べる。全て了解済みだと言うように。
ルルはしゅんと肩を落とした。
「そうなんです。いくら身体を調べてもありえない、以外の成果は出てこないんです……。医療への応用は出来そうにありません。ただ、発生の要因さえ解明できれば、糸口になるのでは、と考えています」
ルルの話にはおかしなところはなさそうだ、とエイリはひとまず判断した。内容にはかなり興味を惹かれるが。
ルルはぎゅっと拳を握った。瞳が熱っぽく輝いている。
「なので、フチさんには、ぜひ! 話をお聞きしたいのです!」
「申し訳ないが、あまり参考になるようなものではないと思うが……」
「構いません!」
エイリはふらふらと身体を揺らした。
おかしいな。
フチの身の上話は、とても気になる。彼は産まれた時からあの身体だったのか。それとも途中であの身体になったのか。彼の過去に、一体何があったのか。
なのに、エイリの頭はぼんやりと霧がかったように茫洋としている。窓の外を思わず見ると、綺麗な月が夜空に浮かんでいた。
おかしいな。気になるはずなのに。
眠いなあ、と自覚すると同時に、エイリは目を閉じた。
水音が聞こえる。
エイリはゆっくりと目を開け、見慣れない馬車の中、ソファの上で頭を抱えながら身体を起こした。
どうやら、いつのまにか眠っていたらしい。がたごとと揺れる馬車は、エイリが眠っている間に出発したようだ。
「フチ?」
そして、エイリの周りには誰もいなかった。おまけに部屋の隅のランタンの光が弱くなっていて、薄暗い。
さっきまで、フチとルルと一緒にいたはずなのに、とエイリは頭を抱えた。頭が痛む。この痛みには覚えがあり、エイリは混乱した。
「フチ?」
窓の外を見ると、月の位置が少し移動したくらいで、あまり時間が経っている様子はなかった。
エイリは混乱したまま立ち上がり、足をソファにぶつけながら、フチを探す。
水音がする。
エイリははたと動きを止めた。何故、馬車の中で水音がするのだろう。
エイリは音の出所である、厚い布のかかった棚らしきものに近づいた。恐る恐る、布を引き下げる。
「……」
人だ。男だ。
それは大きな水槽だった。硝子の四角い大きな容器に、たっぷりと水が注いであり、その中に裸の男が膝を抱えて沈んでいる。
「なにこれ」
エイリは息を飲む。
シナンの城の中を隠れて探っているとき、迷い込んだ部屋の中で、同じものを見たことがある。入っているのは男ではなくネズミなどの動物だったが。
……標本だ。
月明かりの中、それはさながら幻想的な光景に見えた。
見たことのない顔立ちの青年だ。濃い藍色の髪がゆらゆらと水中で揺れている。裸の胸から首筋までびっしりと大量に、黒い小さな紋様を刻んでいた。
エイリが言葉を失っている中、青年のまぶたがぴくりと動いた。
「え」
そして見間違いようがなく、ゆっくりと目を開き、エイリを見つめてきた。