2.ブレンドティーとおののく孤児院
「シュリさん、あの、これ」
「……あ、ああ! 替えておいたのよ」
「……そうなんですね。すいませんでした。……何でですか?」
「リンネはこの素材だと肌がかぶれちゃうのよ」
「……そうなんですね」
シュリは慌ててエプロンで手を拭いながら取り繕うように笑って、せかせかと廊下を走っていく。
エイリは彼女の姿が見えなくなってから、誰にも見えないように小さく溜め息をついた。
……困ったなあ。
ナイカ孤児院は身寄りのない子供たちを40人ほど預かる、シナンの城下町の端っこにある孤児院である。
エイリがここに勤めるにあたってはあまり良くない大人の会話がなされたが、アンリは隠すのも何だからとあらかじめ全て説明してくれた。
そもそも孤児院自体、国からの補助を受けて経営せざるを得ない特徴がある。そして特にシナンのスラム街の子供たちを重点的に引き取っているナイカ孤児院は子供たちが養子として引き取られるというケースも稀で、なかなか苦しい財政状況であった。
『跡継がいなくて廃業寸前だったんだよ。エイリを将来の院の後継にしてくれるならってことで補助金をかなり上乗せしちゃった。ぶっちゃけそれでも苦しいと思うんだけどね。……つまり君は、彼らにとってはいるだけでお金がもらえる存在なんだな。さあ、どう動くか見せてもらうよ、エイリ』
そしてシュリと院長であるサイガは、アンリの言葉通り、エイリに腫れ物を触るような態度で接してくる。
エイリが間違っていてもその場で訂正してくれないし、指摘してくれない。聞かないと教えてくれない。迷惑をかけているエイリに負の感情すら見せてくれない。
このままだとエイリはただ置物になってしまう、と慌てて色々やるのだけど、長年城から出たことのないエイリは空回って大迷惑をかけまくっている。
でも、やるしかない。
フチは、メルンは、シータは、こんな時にどうするだろうと、エイリは常々考える。彼らはエイリの行動の指針であると同時に、なかなか辛いこの状況の心の支えでもあった。
「私の言ってること、分かる?」
台所で、エイリは腰のリボンを結び直しながら、目の前の男の子をきつい口調で叱りつけた。この子は何度言ってもエイリに性的なちょっかいをかけるのをやめられず、ついには夕食の支度中に後ろから抱きつかれて、びっくりしたエイリはスープを鍋ごとひっくり返してしまった。
幸い誰も怪我をしなくて良かったものの、目の前の子供はつむじだけしかエイリに見せてくれなくなった。
「あなたのしたことはとても危なくて、とても私に失礼だよ。分かる?」
「……」
「というわけで夕食抜き」
「えっ!」
あとで持っていってあげよう。
そう思いながら、しょんぼりしながら引き上げる小さな背中を見て、エイリは溜め息をついた。
子供の教育が出来るほど経験を積んでいないエイリは、自然とメルンがかつて自分に接してくれたように子供たちに接するようになった。自分が聞き分けのいい子供だったと気づいたのは最近のことである。子供というのは基本的に思い通りに動いてくれないし、理論も通用しないのだ。
「……腕輪」
床に散らばったスープを気をつけて掃除していると、背中から声をかけられた。
「リコ。火傷しちゃうからいいよ」
「いや、大丈夫」
屈んで手伝ってくれるのはリコという少女である。年の頃は12か13で、15歳ほどでここを出る子供たちの多いこの孤児院では比較的年長者だった。
「腕輪。婚約してたんだね」
「あ、うん。んふふ」
思わず笑ってしまったエイリを見て、リコは肩をすくめた。わざと短く刈っている髪の毛とあまり動かない表情、骨っぽい骨格は男の子を連想させた。
非常に賢く、年下の子供たちだけでなく年上からも頼られ慕われている少女であることを、エイリは知っていた。
「レンはセンセのこと好きなんだと思うよ。だからだと思う」
「……そうだね」
おそらくあの子はエイリを異性として意識していたのだとエイリは思う。だから普段と違って見境なくエイリに触れた。腕輪に気づいたので。
リコはちょっとだけ驚いて「うん」と頷いた。
「センセ、子供って意外とちゃんと見てるから」
「そうだね」
「……センセ、あとでレンにちゃんと夕飯あげてくれる?」
「うん、そのつもり」
「私がやろっか?」
「ううん、大丈夫。話したいし」
エイリが首を振ると、リコはほっとしたように微笑んだ。
落ち込んでいられないと、エイリは思う。
メルンだって頼れる大人の顔の下に孤独を隠していた。隠しきれなくても、そうあろうとした大人の誇るべき意地に、子供はきちんと気づいている。
「よし!!!」
「……びっくりした」
気合を入れたエイリの横で、全然びっくりしていない様子でリコは身を引いた。
ちょっとバツが悪くなったエイリは、昨夜のシュリの様子をリコに聞き、彼女はよく分からないと首を傾げたあと、思い出したように告げた。
「そういえば、ちょっとだけ外套を持って出掛けたかも。時間は遅かったしよく分からない」
「そうなんだ、ありがとう」
「……センセ、あとで婚約者の人のこと、教えてね」
少女らしく頬を染めたリコに、エイリは曖昧に微笑んだ。
「やあ! これあげる。目が覚めるよ」
夜勤が終わった後、王城の中の食堂。朝食の場で、声をかけてきたのはアンリである。
湯気の立つカップの向こうに見える白髪は、最近やっと根元が黒くなってきてジィリアが安心したと話をしていた。
「お疲れ様、アンリ。ありがとう……目が覚める?」
「寝る前に一仕事できちゃったからね。激励のブレンドティーだよ」
フチの親友で、実質シナンを治める立場にある青年は、およそそうとは見えない様子でへらへらしながらエイリの対面に腰掛ける。周囲の人間も気づかないのか気づいてあえてそうしているのか、早朝の空気に緩んだまま欠伸などしている。
エイリはよくない予感に眉をひそめた。
雰囲気ばかりはゆるゆるだが、アンリが現れるのは大概何か問題が起きた時である。
「何かあったの?」
「それがね、君のお勤めしてる孤児院の収支報告書が上がってきたんだけど、なんか数字がおかしいんだよね」
アンリ曰く。
ナイカ孤児院の収入と支出の数字が合わないとのことで、目敏い役人が大騒ぎを始めたとのこと。数字が合わないのはもちろん問題なのだが、厄介なのはその担当の役人が今ではほとんどいないマシュー派閥のイースの人間で、アンリを目の敵にしていることだった。
「僕の決定が裏目ったって喜んでてさ。ナイカ孤児院で補助金の用途外の使い込みがあるに違いないってもー、小躍りしてんの」
「えええ」
エイリは頬を抑えた。夜勤明けの疲れがぶっ飛んでしまった。
「というわけで今から抜き打ち特攻の査察が入ります」
「え!? 今から!?」
「ごめんよ〜。全然言うこと聞いてくれなくてさ〜」
アンリは机に突っ伏し、構っていられないエイリは慌てて朝食を片付け始めた。そんな大変なことが起きるのに呑気に兵舎で寝ていられない。
熱いお茶に咽せて涙目になったエイリを見上げて、白髪の男は珍しく唇を尖らせた。本当に反省してるような素顔だった。
「……せめて助っ人はつけたから頑張って」
「助っ人?」
アンリはひらひらと手を振り、合点したエイリは大慌てで食堂から飛び出した。
用途外の使い込み。それって。
早朝の街道を身軽に走るエイリは、一昨日の夜のシュリの赤い外套と、裏シトロという不自然に明るくて怪しげな屋敷を思い出していた。というかそれしか考えられなかった。
ナイカ孤児院はどうなるのだろうと、不安に居た堪れないままとんぼ返りしたエイリを出迎えたのは、怯えた様子の子供達だった。
どうやら院長のサイガとシュリは、孤児院の小さな応接間にすでに役人と共に入ってしまっているらしい。
「院長とシュリは悪いことをしたの? どっか連れてかれちゃうの?」
不安に色を失くす子供たちを元気付けて、エイリはそっと部屋に侵入した。
「……それは、どうにも……記憶が……」
「記憶がどうこうの問題ではない!」
「そう言われましても」
エイリは頭を抱えそうになった。
絶賛追及中である。机を挟んでイースの役人がふんぞり返り、初老の夫婦が汗をかきながら顔を見合わせていた。
サイガとシュリは身寄りのいない子供を預かるだけあり、顔立ちから人の良さそうな雰囲気が滲み出ている2人である。だが、長きにわたって苦しい生活で苦労してきたせいか、時折、どうしようもない卑屈さを不意に覗かせることがあった。
そして対面するのは神経質そうな、意外と若い男性の役人だった。と言ってもフチとエイリより年上ではあるが。
生粋のイース人であることが分かる黒々とした髭を蓄え、正義感に青黒色の目を爛々と光らせている。
「もともとの補助金の額をよく見てください。いくつかの借金もあり、それもようやく返せたところなんですよ。それで合わなくなってしまったんでしょう」
「であればその際の帳簿を出すべきではないか!」
「数字だけ見てても何も分からんでしょうが。役人さんはこれだから」
「なんだって?」
丸く収まるわけがなかった。ただでさえイースとシナンの戦争が終わったばかりで、地図上ではイースに統一されたとしても、この二国間の溝はいまだに深い。
「……数字だけとは仰るが」
そしてそんなピリついた空気を折るように、はっきりと声を出したのは助っ人……ことフチである。彼は隣のふんぞり返った役人とは対照的に、背筋を伸ばして夫婦をまっすぐ見つめている。
「明確な意志がないと、この点とこの点の齟齬は出てこない」
「だからそれは、」
とん、と長い指が書面を叩いた。
ささやかな仕草にサイガとシュリは黙り込んだ。
「その内容を説明していただきたい。記憶がないと仰るのならば、どこから出てきた数字なのか」
「……」
「……我々は数字でしか測ることが出来ない。それを最初に約束している。補助金が目的と違う使い方が為されたのであれば、約束は反故されたということだ。貴方方から、一方的に」
「……」
「1週間を目処に、収支の差を証明できるものが提出されない場合、次期以降は補助金は減額させていただく」
何だこいつ、という目でサイガとシュリがフチを見たのも無理はないとエイリは思う。
だってフチはすでにエイリがここで働き出す前に、エイリと一緒にナイカ孤児院を訪れて「婚約者のこの娘をよろしくどうぞ」と折り目正しく頭を下げてくれているのである。そんな礼儀正しい青年が次に会ったときにこんな感じだったら、反感も増すというものだ。
……間違いなく、フチの対応が正解なのは分かってるけど!
どこが助っ人なのかと、エイリはついに本当に頭を抱えた。頭では分かっているのだけど、どうにもフチは理論的で、感情ばっかりの人間には理解され難い。
結局サイガとシュリは困り果てた様子でそれを了承し、その場はそれでお開きとなった。
……だが、イースの役人はそれでは気が治まらなかったようである。
「この孤児院の金の使い所がおかしいのではないか」
役人は強硬に主張して、フチが止めるのも聞かず、ナイカ孤児院の中を査察と銘打って歩き回ろうとした。
そして怯える子供達の部屋にまで立ち入ろうとしたので、エイリは怒ってそれを止めた。いくら何でもやりすぎだ。
役人は憤怒に顔を赤くしてエイリを上から下まで眺めた後、パカッと口を開け……フチがブチ切れたのはその瞬間である。
「馬鹿野郎が!」
役人も、サイガもシュリも、子供達ものけぞった。
フチの短い怒声は、普段は冷静な彼とのギャップも相まって、多分普通にぶん殴るより効果がある。
「周りをよく見ろ! 俺たちはイース人で、ここは孤児院だ!」
「……!」
「子供の前で驕りを見せるな! それができないのならばお前にシナンにいる資格はない。自覚して帰れ!」
「か、帰れだと……」
凄んだフチは勢い良く門先を指差した。明るい緑の目が怒りに暗く燃えている。
役人は顔色をどす黒くさせた後、エイリを見て、それから子供達を見て、「ぐう」とも「クソ」とも取れる変な呻き声を上げた。それからすごい勢いで玄関を叩き開けて姿を消した。
「……」
「申し訳なかった」
しんと静まり返った孤児院のホールで、フチがサイガとシュリに向かって、間髪入れずに頭を下げた。
「子供に見せるものではなかった。そもそもイースの騎士がこんな風に突然来ていい場所ではなかった」
エイリは眉尻を下げた。
そう。フチはイースの騎士である。
戦争が終わったばかりの国であるということを、エイリは子供たちの心境を思う傍ら、常に頭に入れていた。ナイカ孤児院には戦争で親を亡くして子供だっている。生きていかなければいけないけれど、忘れられない憎しみはいつまで経ってもそこにある。エイリの心の中にもあるように。
「帰ってくれ」
サイガが冷たく言い放ち、ついに小さな子供が泣き出した。敏感な子供達は、大人が普段見せない感情に戸惑っている。
フチは頷いて手短に事務連絡をしてから、エイリにちょっとだけ目配せをして出ていった。
サイガとシュリはエイリに意味深な視線をやってから子供達を宥め始めたが、エイリはフチを追うことが出来なかった。子供達が怯えていたからだ。
「じゃあ、休みを取るからよろしくね」
「はい、お疲れ様です」
それから1日経った後、忙しい婚約者に会えないまま、朝から仕事に入ったエイリはシュリに簡単に頭を下げた。
今回はシュリがお休みの番で、掃除と洗濯が山のように溜まっている。ワンピースを腕まくりしたエイリは纏わりつく子供達をそのままに、大量の洗濯物をやっつけ始めた。わりと手先が器用なエイリは繕い物が得意で、洗濯の合間にそれらをこなしながら、子供の喜ぶ刺繍などを始めたところであった。
「センセーー!!!」
「ジョウがインチョーの部屋で漏らした!」
「センセ、わたしにはお星様の刺繍して、2つ! こことここに!」
「ちくびだろそれ! ちくび!」
「……」
遅々として進まないが、やっと慣れてきたエイリは溜め息ひとつで立ち上がった。とにかくこういう時は問題を片付けるのに身体を動かしまくるのが最善である。
「……?」
そんなエイリも思わず、サイガの部屋で片付けをしている最中に手を止めた。サイガの書斎の机の上に載っている書面に記載された文字に引っかかるものがあったからだ。
「なにこれ」
とんでもない額の借金が全て返済されている。上乗せされた補助金の額を軽く超えている。
その不可解さにエイリは眉を顰めて、潜っているその書面を引っ張り出した。こんな大金、ナイカ孤児院には手に入れる手立てはないはずだ。
どういうこと?
エイリが再び、裏シトロに消えたシュリの赤い外套を思い出した時だった。
「何してる?」
サイガが扉を開けて、エイリの手元を見てさっと顔色を変えた。
「おい……」
「すみません」
慌てて片付けを再開したエイリだったが、バン!という音に目を丸くした。
サイガが顔を真っ赤にして、扉に拳を叩きつけている。人の良さそうな笑い皺は、今この時には深く怒りが刻まれていた。
「そういうことだな」
「……?」
「もともとイースの回し者だったんだな、あんたは」
エイリは顔を引きつらせた。
「どういう……」
「あんたは! そうやって俺たちのことをあの騎士に垂れ流す気だろう!」
「!」
「もともとあんたを後継にする気なんて俺たちにはこれっぽっちもなかったんだ! だが! 金が必要だった! 仕方なくだったんだよ!」
ビリビリと空気が震える。
サイガは積年の理不尽を全てエイリにぶつける気でいるのかもしれない。それぐらい人が変わったように怒鳴っている。
「あんた達はそれをいいことに、結局俺たちを利用するだけ利用して! この孤児院を乗っ取る気だろう!」
「そ、そんなこと」
「うるさい! 出て行け!」
エイリはヒュッと息を吸い込んだ。この部屋から出ていけ、というだけの意味ではないだろう。
「もういい。出て行け。イースなんかの世話にはならん。回し者のあんたをこれ以上ここには入らせない。出て行け!」
エイリは大混乱した。サイガの泣きそうな顔もその理由もよく分かったからだ。
でも、ここで出て行くことが最善だなんて、エイリが出会ってきた人達は絶対に頷かない。理不尽に立ち向かうことを、思いやりを理由にやめてはいけないのだ。
エイリは思いっきり息を吸い込んで、ぶるぶる震える身体を膨らませてから。
「いやです!!!」
孤児院が揺れるほどの声で怒鳴った。