13.「キミが願えば何でも叶う」
◇
エイリは、カイの身体から溢れてきた、蝶のような形をした光の塊を眺めながら過去を思い返していた。
メルンの願いを叶えた時も、ダリアの願いを叶えた時も、シータの願いを叶えた時も。エイリにあるのは理解と共感だった。
だからきっと今回もカイを理解し、その思いに共感したから、きっとうまくいくと言う自信があった。
……しかし、目の前の男はエイリに理解できない側面も持っていたようである。
「!」
急にカイの身体から湧き出ていた光が動きを止め、同時にカイの身体が不気味に小刻みに揺れた。
笑っていた。
『馬鹿だなあ。エイリ』
「……?」
『君はそうやってフチの願いも叶えるのかい?』
エイリは目を見張った。
カイは覆っていた手から顔を上げ、箍が外れたように笑みを浮かべている。
『だって僕とフチは一緒だよ。ストーリアを殺し、記憶を失った。きっと不安に負け、誰かに必要とされたくて力を欲する。その繰り返しだ。きっといつか僕みたいに誰からも必要とされなくなる!』
「……そんなことない!」
即座に否定してからエイリは振り返った。嫌な予感がした。それはずっと記憶を失ったフチのことを心配していたエイリだからこその不安だった。
「そんなことはない」
バシッと音がしそうなほど、フチはきっぱりと断言した。確信がある、いつも通りの顔だった。
「フチの過去なら僕が知ってるもの」
返事は意外なところから聞こえてきた。
船底へと下る階段から、アンリの白髪が顔を出した。彼は立派な羊皮紙を広げながら歩いてきて、途中で躓いてジィリアに叩き起こされた。
「フチ・シーザウェルト。イース領アンプ区レンティア孤児院出身。10年前にイースとシナンの戦禍に巻き込まれた際に孤児院が爆破され、生き残ったのは彼一人。……そこに通りかかったサンク・シーザウェルトに拾われた際に、自分のために生きてみろと言われて、その際に"親指"のストーリィを君から奪取し、親指ほどの大きさになったと……。うん、こんな感じ。もっと詳しく書いてあるけど割愛。プライバシーって大事だよね」
「おい! 知らないって言ってただろ!」
いつのまにかシータもルルも甲板に出てきている。
怒鳴り散らしたシータを悩ましげに見たアンリは、額に指を当てて謝罪をした。
「ごめんね。ほら、あの時は君らのことがまだ信用出来なかったからさ。君たちが僕を信用していなかったように」
「……」
「イース騎士サンクから、イース前王カミルへ。受け継がれたフチの過去と歴史は、僕に遺言として残された」
「……!」
「2人ともフチを残して逝くことを詫びてある。フチが自分のために生きられないことを、2人は分かっていたんだ。僕に、彼の生きる指針になって欲しいって」
アンリはそう言って、羊皮紙を巻きながら微笑んだ。
「カイ。これが君とフチの違いだよ。エイリの言った通り、君には誰も何も残してはいかなかったけど、フチは違う。託された僕がいて、そして何よりエイリがいる」
「……」
エイリは思わずフチを見上げて、彼はまっすぐにエイリを見返してきた。何故か困ったような、怒ったような、妙な顔をしている。
「あー、エイリ」
「フチ?」
「前に俺はエイリのために生きるって言ったけど、実はやめたんだ」
「え、そうなの!?」
「おい急に何の話だよ」
エイリは驚愕して、シータが冷静にツッコミを入れた。
フチはまたまた何故か、素早く前方に視線を戻してから一瞬だけエイリを横目に盗み見た。
「エイリ、俺の姓がいらないか?」
「え?」
「必要になると思うんだが」
「え?」
「おい嘘だろ……」
シータが気味悪そうに言い、同じく口の端を下げていたアンリが取り繕うように手を叩いた。
「ほら、ね? ぜんぜん違うでしょ? ね? ね?」
「フチ?」
エイリはジリジリとフチに近寄ったが、フチはその場で微動だにしなくなった。
「……」
「あ、」
妙な雰囲気の中、ルルが息を飲んだ。
その視線の先にいるカイを見た瞬間に、エイリも目を見開いた。
「カイ」
カイを覆う水のベールが流れ落ちていた。重そうに水に濡れたローブの端から、光る蝶が飛び立っていく。
「……一人で死ぬのは寂しいな」
初めて聞くカイの声だった。フチによく似た低い、落ち着いた声音だった。
「何がいけなかったのかも分からないんだ、何にも覚えていないから」
「……」
「ありがとう、終わらせてくれて。ずっとこうしたかったんだ」
誰も何も言わなかった。
早く死ねばいいと思う者もいれば、なんと言ったら良いかも分からない者もいただろう。
エイリはと言えば、特に何の感慨も湧かなかった。そもそもカイの胸中をこれ以上慮ることに、彼女は意義を見出せなかったのである。礼を言われる筋合いもなかった。
カイはぺらぺらと内容のないことを喋り続けながら、ゆっくりと身体を甲板に沈ませていった。
カイの声が完全に止んだ後、エイリは空気が抜けたように膝の力が抜けてしまった。
やっと終わったのだ。カイの脅威は去った。
「……」
よろけたエイリの腕を掴んだのは、隣にいたフチだった。
「あ、ありがと」
「……?」
「?」
フチは目を丸くしている。その視線の先はエイリではなくて、エイリの頭の上に注がれていた。
「失礼する」
その場にいた全員が仰天して口を開けていた。
エイリの頭の上から、背中に羽のついた小さな騎士が降りてきたのである。
「我が依代よ。これは重大な契約違反である」
親指ほどの、昔のフチと同じ大きさ。違いといえば、大きなつるりとした羽根ぐらいか。
その騎士は白銀の鎧を纏い、何もかもが真っ白な姿をしていた。中性的な顔に似合わない厳しい声音は、どうやら怒っているらしい。
騎士はエイリの目の前で何の躊躇いなく、急に鞘から剣を引き抜いた。
「!」
エイリの視界がぐんと横に引っ張られた。
エイリを庇ったフチが、自身の腕で騎士の剣を止めている。
針に刺されたように見えるほどちっぽけな剣だったが、それはフチの腕に吸い込まれて姿を消した。
瞬間、どろり、とフチの肩から先が溶けて消えた。
「フチ!!!」
エイリは悲鳴を上げた。
一気に緊迫した甲板の空気の中で、シータが瞬時に弓を引き絞り、ジィリアが剣を構えて走り出した。
「やめろ!」
短い怒声をあげたのはフチである。
その声に、シータもジィリアも呼吸まで止めてしまったようだった。
「『ストーリィ』だ。何をされるか分からない。手を出すな」
「フチ! 大丈夫なの!?」
「うん」
ーーこの人は。
エイリは溢れそうになる涙をぐっと堪えた。
残った腕でエイリを抱くフチは本当に平気そうに見えたからだ。肩の先から、血なのか何なのか分からない黒い液体が断続的に甲板に流れ落ちている。
「"親指"の残滓か……なんと痛ましい。死してなお強大な力を残すか」
小さな騎士はエイリ達の目の前に浮かび、溜め息をついてから頭を振った。
エイリは冗談抜きで、腹の中が爆発したと思った。
「何してんの!!!」
騎士は片眉を上げ、唯一真っ黒な瞳だけを胡乱げにエイリに向ける。
「私は"語り部"のストーリィ。エイリ、お前にずっと力を貸していたが、この度のお前の行いが目に余ったため、罰を与える」
「なんだと……!?」
「"語り部"の力は『他人の願いを叶える力』。お前はカイを誘導して、死にたいと願わせた。それは自身の願いを叶えたいがための力の乱用と言わざるをえない」
シータが目をつり上げ、エイリは喉を鳴らした。
騎士は手の平を上向けて、その何もない空間に真っ白な剣を再び現した。
「よって当初の契約の重大な違反として、エイリ、貴様の存在をこの世界から抹消する。招かれる混乱を避けるために存在の記録も抹消する。私は新たな依代に宿り、契約を続行させよう」
「!」
「人間がストーリィの力を本来の権利を越えて使用することなど、永劫あってはならない」
エイリの足元で、何かが音を立てて崩れ落ちるような気がした。
また、エイリのせいだ。張り詰めていた理不尽への怒りがついに折れそうだ。
ーーフチが。なんで。私のせいで、こんな目に。
「道理がおかしい」
「……」
「契約であれば最初からそれを明示するべきだ。エイリはカイに願わせることを契約違反だと認識していなかった。つまりそちらの説明不足だ、単なる」
フチはまるで動揺もせずに、騎士を見据えてきっぱりと反論した。
騎士がぴく、と眉間に皺を寄せる。
シータがフチを振り返った後、毒気が抜かれたように弓を下げた。
「……!」
エイリは涙を拭って深呼吸した。
フチは何度だって、変わりかけたエイリの世界を元に戻してくれる。
「……その通りだねえ」
のんびりした鈴の鳴るような声が聞こえてきたのは、ちょうどその時だった。
エイリは口から心臓が飛び出るほど驚いた。
かつてシータの肩の上でそうしていたように、美しい少女の外見をした小さな彼が、今度はエイリの手の平の上に座っている。
「ベリィ!!!」
「!」
つんざくようなシータの悲鳴に、ベリィは目をぱちぱちさせたあと満面の笑みを浮かべた。背中の羽根が軽やかに揺れた。
「シータ! やっと会えたね! ホントはずっと見てたけどね!」
ベリィは、シータの空を飛ぶ力を持つ、彼の親友である。シータが大人になってからすぐに、そばにはいられないと消えてしまった。
そのベリィが何故ここに、とエイリは目を白黒させるしかできない。
「お、おま、おまえ……」
シータはつんのめる勢いで駆けてきて、エイリの手の平ごとベリィを抱きしめた頃にはもう号泣していた。というか号泣しながらブチ切れていた。
「馬鹿野郎、急にいなくなるなよ、うわああ!」
「ごめんね、でもまた会えると思ってたから……」
「じゃあ俺にそう言えばよかっただろ!!!」
「そうだね!!!」
わんわん泣くシータの腕の隙間から、フチがエイリの手を引っこ抜きながら「久しぶり」とベリィに対して挨拶をした。
「うんうん、僕はずっとエイリの中にいたからキミに何があったのかも全部見てたけど……。でもフチ、改めて! 相変わらず良い男だね。出来るときに頂いちゃえば良かったな。失敗したな」
「……」
ウィンクをしたベリィに、相変わらず冷たい視線を投げたフチは、一瞬で白銀の騎士に向き直った。
エイリもぽかんと一連を眺めていたが、その様子に慌てて首を回した。
騎士が剣を握りしめ、憎々しげにベリィを睨みつけている。
「ーー現れたな。"永遠"のストーリィ、ウェンディが」
「そっちの名前はやめてね、ティターニア」
対するベリィといえば軽く手を振ってから、鼻をすするシータの肩に腰を掛けた。
「ちょっと見過ごせなくてね、出てきちゃった。キミ、あんまりにもひどいと思うよ」
「……非道いだと? 笑わせる」
「違う違う、あんまりにもお粗末だって言ってんの。妖精女王が聞いて呆れるね」
「……」
膝に頬杖をついたベリィは、ヘラヘラと笑いながらナイフのように尖った言葉を吐き出した。
「そもそも契約違反はキミでしょ。エイリはただレニアの血を引いているだけで、正式に契約を取り交わして『異界渡り』していない。本来ならばキミの依代にはなり得ない。それを勝手に彼女に宿ったのはキミでしょ」
「……」
「カイを殺させておいて、用が済んだからエイリを切り捨てるつもりでしょ? ちょっとボクらに都合が良すぎる。人間側の寿命を盾に勝手にやるつもりじゃないだろうね」
エイリはちんぷんかんぷんだった。聞いたこともない単語が飛び交っている。
フチはじっと彼らのやりとりを見つめていて、シータは目を回している。
ルルとジィリアは口元を手で覆い隠して、それはそれは驚いているようだった。
無理もないと思う。ぱたぱたと羽ばたく羽根に、舞い交う光の粒子。彼らはどう見ても人間ではなかった。
そしてそんな中に、強引にも口を挟んだのはアンリであった。分厚い瓶底のような眼鏡を指で支えて、興味深そうに近寄っている。
「お話し中悪いんだけど、君たちがストーリィかい?」
「……」
「初めまして、アンリ! シータが世話になっているね」
「……面倒臭いことは抜きにして、ちょっと良いかな? 君たちは一体何の、どういった存在なのかな」
ティターニアと呼ばれた騎士が、鼻を鳴らした。
「ストーリアでもないお前に語ることは何もない。もとより秘匿の存在だ」
「……そういうのいいから。早く教えてくれる? 分かればフチの腕だって元に戻せるかもしれないだろ」
アンリの眼鏡の奥は見えない。だがきっと剣呑に細められているに違いない。
一瞬で冷え切った空気に、口火を切ったのはベリィである。




