11.
思い出すことはない。もう二度と。
『なにを言ってるんだ?』
カイは甲板の手摺りに腰掛けてにこやかに目を細めたが、雰囲気が未だかつてないほど鋭くなった。
エイリの手の中の氷の剣がブルブルと震え始め、エイリは焦って剣を抱きしめた。その切っ先が、フチに向いているからだ。
「俺を依代としていた『ストーリィ』とやらは死んだと言ってるんだ」
対するフチの声はますます低くなった。
「お前はシフォア人……ストーリアを殺しすぎて、全ての記憶を奪われた。自分がどこの誰で、いつ生まれたのかも思い出せないんだろう。なぜ数多くのストーリアを殺してその力を手に入れたのか、その力を使って一体何をするつもりだったのか、それも何も思い出せないんだろう」
『……』
「だから行動に筋が通らない。意思に一貫性がない。エイリが死なないのを分かっていたのに、ガクにエイリを殺させる。お前が何をしたいのか俺は分からなかった。でもお前自身も、分かってなかったんだな」
カイが見る間にフチに向き直り、怒りを全身に滲ませた。
フチは臆することもなく、カイを見据えて言葉を続ける。
「そしてお前が頼ったのが、もともとお前が持っていて、途中で俺に移行した『誰かのために生きられる』力だ。それが戻れば、お前はお前の生きる目的が再び思い出せると思ったんだろう。……目論見はずれだが」
エイリは叫んだ。もう踏ん張りが効かない。
「フチ!」
手の平にくっついた剣が凄まじい力でフチに向かって突進したのだ。
エイリの身体は宙に浮かび、剣もろともフチに突っ込んだ。
「……!」
「エイリ、大丈夫か?」
衝撃に甲板に這いつくばったエイリの目の前で、剣が粉々に砕け散った。
フチの長い脚が踏み潰している。彼は剥がれてしまったエイリの手の平を見て、眉尻を下げたあと、急に彼女を抱え上げた。
エイリはほっとしたあとに慌てたが、フチは来るべき瞬間に備えて準備をしているだけだった。険しい表情の中に光る緑の目に、エイリは心臓を掴まれたような気分になる。
……フチが、怒ってる。
「とっくに終わってる。脅威にするほどのものでもない。哀れな生き物だ、カイ。生きていても誰も喜ばない。お前自身でさえも」
『……だまれ……』
「俺が終わらせる。お前を全て手詰まりにしてやる」
「ーーウバアアアア!!!」
カイがマスクの向こうで怒鳴り、その大音声にエイリはフチに縋り付いた。
ドン!という音に船が揺れた。
カイの後ろで、大きな水柱が立ち上がって船に覆い被さった。
「エイリ、掴まれ!」
その声の通りにエイリはフチにしがみついた。次の瞬間に鼓膜が破裂しそうな音と身体を揺さぶる衝撃、そしてーー冷たさに包まれる。
船が沈む。カイは全員殺す気だ。
エイリは多分死なない。でもフチは、シータは、ルルは。
「!」
海水が鼻の中に入り込んだと思った瞬間に、エイリは急浮上していた。何が起きたかわからなかった。
急に出来るようになった呼吸に、エイリは咳き込んだ。掴んだフチの肩が変わらずあることだけを強く意識して。
「……!」
相変わらずそこは甲板の上だった。
咳き込むシータとその腕の中にいるルルに、エイリがほっとした瞬間に、フチがはっきりと言った。
「言っただろう」
カイは水の球の中で浮かびながら、目を丸くして真下を見ている。船の下を。
川面から大きな黒い影が飛び出して、キュウと一声、甲高く鳴きながら着水した。
エイリは驚きに口を開けた。図鑑で一度だけ見たことがある。海に生きる動物だ。
その黒い影は船の下に潜っては顔を出し、同じく船の下にいる夥しい数の影と一緒に周囲を旋回した。飛び散った水しぶきがキラキラと陽光に輝いた。
エイリは息を飲んだ。おそらく彼らは、フチの指示通りに、船底から船を支えている。
「!」
ヒュッと音がする。
フチの足元に突き刺さった矢の出所は、周りに浮かぶ小舟である。
「よくもレンズ様とアイシャ様を……!」
目を釣り上げたレニアの兵士に、フチは構わなかった。
「フチ! 危ないよ! ーー」
怒りに燃える兵士が再び弓をつがえた瞬間に、小舟に砲撃が襲う。
「や、やっちゃった!」
「ちょっとやりすぎだよ!」
散り散りになって河に飛び込む兵士たちの向こうから、ひときわ豪華な客船が現れた。船首近くの大砲には、見慣れたイースの黒い騎士服が見える。
「ご! ごめんなさい! そんなつもりは!」
「ほんと君ってば不器用なんだから!」
青くなるジィリアと楽しそうに跳ねるアンリだった。
2人は呆然とする他の来賓を差し置いて、やんやと騒ぎながら次々に大砲を発砲させていく。
河に白い水柱がいくつも立ち上がり、船が来賓用の客船は反動でぐらぐら揺れた。
「逃げろ!」
恐れをなしたレニア兵士達は散り散りになっていく。ほとんどが船を置いて川面に飛び込んだ。
フチがただ真っ直ぐに、カイから決して目を逸らさずに再び口を開いた。
「言っただろう、カイ。……全て手詰まりにしてやると!」
「……!」
カイはマスクをかなぐり捨てた。水球の向こうでくぐもった怒鳴り声が響いた。
「ウガアアアア!」
「!」
それに呼応するかのように周囲で数多くの雄叫びが上がった。
エイリが驚愕して周囲を見渡すと、いつの間にか来賓用の客船に負けず劣らずの大きさの船が、何艘も取り囲んでいる。甲板には、大砲や武器を構えた黒いローブの人間が大量に載っており、近づいてきたアマンテスの川縁にも、黒いローブの人間達がエイリ達のいる船に向けて敵意を放っていた。
祭典を楽しんでいた一般の市民達は突然のことに悲鳴を上げる。逃げ惑う彼らに黒いローブが襲い掛かった。
そして、アンリとジィリアのいる客船の甲板にも、黒ローブが何人も鬱蒼と姿を現した。
ーーシフォア教狂信者達だ。
エイリはぞっとした。カイは一体、何人もの信奉者を抱え込んだいたのだろうか。
このままではエイリやフチはおろか、一緒に囲まれたアンリ達まで危険だ。
「……イースの騎士様は人遣いが荒いですね」
「……!?」
逃げ惑っていた市民が急に黒ローブに掴みかかった。そして鮮やかな手つきで黒ローブを放り投げたあと、その身柄を取り押さえた。
エイリは目を瞬いた。一体何が起こっているのだろう。
「なんだ!?」
そしてほど近くなったアンリ達のいる船にも、異変が起きていた。
少数の来賓者を残し、ほとんどが黒ローブを取り押さえた。明らかに普通の人間ではないその手並みに、シフォア教狂信者達は呆気に取られたまま次々に取り押さえられていく。
「まさか貴方の予想が当たるとは思いませんでしたよ。フチ・シーザウェルト」
そしてアンリとジィリアの隣に、背の高い老人が顔を出した。咥えたパイプを燻らせて、首を傾げている。落ち着いたその様子は、どこかルルによく似ていた。
「セイリーンの自警団を舐めてもらっては困ります。陰気なカルト信者に負けるわけがない」
「……イース騎士への協力要請もいらなかったのでは……。バキバキに鍛えてますよね」
「我慢して、ジル……。とりあえずまあ、ご協力痛みいるよ。セイリーン家先代当主!」
「とんでもない、アンリ様」
軽く挨拶したアンリに、その老人も軽く対応した。ちょこんと帽子を上げた後、再びフチに向き直った。
「君ならシフォア人を滅ぼせると聞いたから協力したのです。しっかり完遂させて、その様を私に見せてくださいね」
フチはそちらの方に一瞬だけうなずいた後、再びカイに向き直った。
カイは水球の中で目と口の端を吊り上げて、怒りの形相を浮かべていた。
パクパクと開く口が何を言っているのか、エイリにも分かることができた。
ーー殺してやる。殺してやる。お前ら全員殺してやる。
「やってみろ」
ざわっと波打ったフチの覇気に、初めてカイの顔が引きつった。
「お前が何度その力を使ってエイリを害そうとしようが、俺がいる」
ああ、フチだと、エイリは思った。
理不尽な敵意にも暴力にも、フチは絶対に揺らがない。確固たる意思の強靭さは、エイリを絶望から引き上げて、再び彼女の中に一陣の風を巻き起こした。
好きだと思った時は手の平に載っていた彼は、今やエイリを力強い腕で支えている。
「諦めて死ぬがいい。お前に……エイリと俺の邪魔はさせない!」




