10.『僕の願いは絶対に叶う!』
◇
どうすればいい。どうすればカイは諦めてくれる。
エイリは混乱のさなか、必死にただそれだけを考えていた。
祭典のメインとなる甲板の上では、使用人たちが冷や汗をかきながら様子を見守っている。
遠くの川面に浮かぶ客船の中には、事情を知らない来賓達が呑気に景色を楽しんでいることだろう。助けを呼べるような手立てはない。
川縁で祭りを楽しんでいる街の人たちも、きっと誰一人、この状況に気がついていない。
「殺せ!」
シータの叫びが空を切り裂き、カイは青空を仰いで身体を揺らしている。笑っているのだ。
後ろ手を甲板の手すりに縛り付けられたシータの頭上には輝く氷の剣が浮かんでおり、彼の隣にはルルが意識を失って倒れ込んでいる。
どう考えても絶体絶命なこの状況に、エイリは下唇を噛んだ。
カイはシータとルルの命を交換材料にして、エイリに自身の願いを叶えることを強要してきた。
カイによると、エイリは人の願いを叶えられるシフォア人ーーストーリアであるという。
エイリ自身に全くその自覚はないし、カイの願いを叶えられる予感などこれっぽっちもない。たとえ、ルルとシータが目の前で殺されてしまったとしても。
つまりエイリがこの場でどうにか手を打たなければ、ルルとシータはただ哀れに殺されるだけになってしまう。そしてきっと、目の前の男はそれを何とも思わない奴だ。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
「なんて出来の悪い"語り部"なのかしら」
呆れたように溜め息をついたのは、アイシャとレンズだった。
「洗脳するために手元に置こうとしたけど、それも無駄になりそうなくらい使えないわね、アンタ」
「……妙な男にそそのかされて逃げ出そうとするから……こうなる」
そうか、とエイリは1人合点した。
「だから、レニアに……」
「そうよ。孤児院だっけ? せっかくその頭の悪そうな夢に付き合ってやるって言ったのに。馬鹿ね」
「……カイの願いさえ叶えればいいだけの話……なぜそれをしない……」
エイリはきっと彼らを睨みつけた。
理不尽に対する怒りは、エイリの長年の生きる糧だった。それはエイリに見境をなくさせるのではなくて、逆にこの状況で折れない強さを思い出させた。
「出来ないって言ってんの。……あんた達だって出来ないくせに!」
「は?」
思わぬ強さで噛み付いてきたエイリに苛立ったのか、アイシャが眉間に青筋を立てた。
「なにアンタ。そもそもアンタが勝手にシナンに連れて行かれて、あまつさえ勝手に語り部のストーリィを手に入れたことが全ての発端よ。そのせいで私たちがどれだけ悲惨な目にあったか!」
カイがかつかつと黒板を鳴らし、首を傾げながらそれを掲げた。
『タイミングが悪かったよね。僕が先代を殺しまくってる途中で、エイリの強い願いが語り部のストーリィを引き寄せた。アイシャとレンズはその瞬間に、レニア家にとってのお払い箱になってしまったんだよ』
「……力を引き継げなかった俺たちを、両親と兄夫婦は迫害した。最低の血筋……滅びて当たり前……」
エイリは拳を握りしめたまま必死に状況を整理した。
おそらく、エイリの『人の願いを叶えられる』力は、もともとエイリのものになる予定ではなかったのだろう。
レンズかアイシャのものになる予定で、なのにシナンの寵姫としてレニア家から離れてしまったエイリにその力が宿ってしまったことで、この兄妹はずいぶんとひどい目にあってきたらしい。この世界に嫌気が差してしまうと語るほどに。
「……レニア家は昔から語り部の力を利用して栄えていた……語り部がいれば戦争に有利なストーリアを生み出せる……」
『語り部になれるのはレニアの血の濃い人間のみで、それはレニア家に長期の利益をもたらした。何せ語り部はなかなか死なないからね』
「……だが、……それももう終わりだ……。ネドはシナンとの戦争に敗北したことを、レニア家のせいにした……。支援は打ち切られ、レニア家の歴史も終わる……」
「先代のせいよ」
アイシャが急に地を這うような低い声で呟いた。
「あの女がレニア家から出奔して、方々でストーリアを生み出すようになったから……」
「無用なストーリアが増えた……そこにいる男のような」
レンズは鬱窟とした視線をシータに投げ、シータが喉を鳴らして身構えた。
エイリはそこで閃いた。では、シータやダリアがシフォア人になったきっかけと、ルルが推論していた老婆が。
「先代の語り部の、す、ストーリア? ……彼女はどうなったの」
カイの笑みが深くなった。
『言ったでしょ? 力を失った先代はその場で死んだよ。本来の人間が生きられる寿命をとっくに過ぎてたし』
「……」
『死なないけど死にたいと思わせることはできるからね。その力に呼応したストーリィが代わりの強い依代に引っ張られたってわけだ』
エイリは胸が悪くなる気分に顔をしかめた。
エイリよりもはるかに長い年月を"語り部"として過ごしてきたレニアの血を引く女性は、最後はカイにどんな苦しみを強要されたのだろう。想像もしたくない。
そしてその瞬間に、おそらくエイリは、シナンの城でメルンの願いを叶えたいと強く願っていた。
ーー願ってみれば叶うものだな。
メルンの掠れた声が鮮明に思い出されて、エイリはぎゅっと拳を握りしめた。
「さっきから『ストーリィ』ってなんなの? なんだか私の中に別の何かがいるみたい」
気丈に別の問題を提示したエイリに、カイは少しだけ目を見張った。
『いいね、やっと君にも自覚が出てきた。それがストーリアの力を高めるよ』
諦めるものか。言いなりになってなんかやるものか。
エイリは思う。
この状況に、抗える人が1人だけいる。
少しでも時間を稼いでやる。
ーーそうすれば、きっと!
『じゃー自覚が出てきたところで1人やってみようか』
「え」
カイが黒板を振り上げたと同時に、シータの頭上に浮かぶ氷の剣が煌めいた。
エイリは目を剥いて動けない。
「……!」
どっ、という音は何故かシータとは離れたところから聞こえてきた。
「……?」
思わず振り返ったエイリの目の前に、倒れ伏したレンズの姿がある。
アイシャの金切り声と同時に、レンズの立っていたところに背の高い青年が立ち上がった。
「レンズ!」
ああ。
「ーーフチ!」
エイリは急に溢れた涙を拭い、急いでシータの元に走る。
フチの鋭い声が甲板の空気を切り裂いた。
「ソル!」
「!」
白い羽がわっとあたりに舞い狂い、カイは目を丸くしてその場から距離を取った。
エイリは動きのと止まった氷の剣に飛びついた。
「エイリ!」
「シータ、ルルを!」
甲板とシータを繋ぐ綱を切るために、エイリは掴んだ氷の剣を振りかぶる。
手の皮にくっついた剣は驚くほどの切れ味で、一瞬でシータを自由にした。
「この人殺しが!」
シータがルルを抱え上げた瞬間に、甲板に女の甲高い声と衝撃が響き渡った。
髪を振り乱したアイシャがどこから取りだしたか剣を構え、フチに飛びかからんとしていた。
「!」
金属音に、エイリは顔を引きつらせた。
抜剣したフチがアイシャの剣を抑えている。
アイシャは鬼の形相で目の前のフチを睨みつけていたが、対するフチは四方八方に忙しく視線を行き来させていた。
「グエーッ!」
エイリの目前を白い翼が切る。ソルがアイシャの前に躍り出て、アイシャは再び怒りの叫び声を上げた。
「邪魔をするな! ……」
フチの動きは簡潔で一瞬だった。素早くアイシャの腹を蹴り上げ腰を落とし、床に崩れ落ちたアイシャの首に拳を落とす。
「……がっ……!」
アイシャの眼球がひっくり返った。
フチの拳が離れたアイシャの首筋に、袋のついた細長い針が突き刺さっている。
シータがぎくっと身体を揺らした。
「……なに、を……!」
「毒だ。もうすぐ死ぬ」
「!」
甲板に肘をついたアイシャは、フチの端的な説明に掠れた声で慟哭した。
立ち上がったフチは剣を鞘に収めながら、この状況にそぐわない無表情で首を傾げた。
「なにが悔しいんだ。世界が終わるのを望んでいたんだろう」
「……!」
「まあ、愚痴を言いながら生きてきたのを見るに、それが真の望みではないのだろうが。……俺にはどうでも良いことだ」
チン、と音を立ててフチの剣が鞘に収められる頃には、アイシャはすでに事切れていた。
レンズもぴくりともせずに動かない。
「……フチ」
振り返ったフチは一瞬だけエイリを上から下まで眺めて怪我を確認したあと、佇んでいるカイに視線を移した。
「……手詰まりだ、カイ」
カイは目を細め、未だ余裕の様子である。
ゆったりとした所作で黒板を川に放り投げたあと、彼は船の下から水を立ち上がらせた。ゆらゆら揺れる水が宙に浮かびながら、ひとりでに文字を描き出した。
『そうかな? 僕はそう思わない』
「レニアの血を継ぐのはエイリだけになった。そしてエイリはお前のためには願わない。つまりお前の願いは叶わない」
その為に、フチはレンズとアイシャを殺したのだ。
悟ったエイリは喉を鳴らした。
だが、嫌な予感が消えていかない。手の中の氷の剣はエイリの体温など何の影響もなく、未だに痛いほどの冷気を放っている。
『手なんて山ほどあるさ!』
カイが大きく身体を揺らした。
どこか狂気を感じさせるその様子に、エイリは身を引いた。
『そんなのレニアの血が絶えないようにエイリに子供を産ませればいいだけだ。幸いエイリは寵姫の中で唯一、シナンの王から身体を守った! レニアの血は絶えない!』
「……!」
『僕の願いは絶対に叶う! 叶えて見せるさ!』
……こいつ。
エイリはゾッとした。
後ずさったエイリを庇うように、フチがカイに歩み寄った。
「もともと手詰まりだと言わないと分からないのか。……馬鹿野郎が」
フチの平坦な声が震えて、カイは笑うのをやめた。
「俺がなぜ普通の身体に戻ったのか考えてみろ。エイリはその時死んでいた」
「……」
「俺は普通の身体に戻りたいと願ったことなどなかったし、エイリが俺が元の身体に戻れるように願ったことも一度もない。ーーエイリに願いを叶えてもらったわけじゃないんだよ」
フチの背中からどろりとした殺気が流れてきた。晴れた青空が作り物かのように感じるほど、急に空気が濁る。
シータが身体を硬直させ、エイリの手の中の剣が初めて振動した。
カイが真顔のまま、フチだけを見ている。対するフチは怒りに肩を震わせたまま、よく通る声ではっきりと言い切った。
「俺のシフォア……ストーリィはすでに消滅している。お前がなにをしようがお前に戻ることは永遠にない。そして、お前の生きる目的も。もう二度と、思い出すことはないだろう」




