8.『君こそが語り部』
◇
エイリは死にそうな顔をしながら船に乗せられていた。
レンズとアイシャとの謁見があった次の日の朝、エイリは拉致よろしく部屋から連れ出され、あっという間に式典のメインとなる豪華な客船にいた。
ごてごての装飾をつけられた緋色のドレスは、アンリあたりが鼻で笑いそうなほどエイリに似合っておらず、かつてないほど暗い顔のエイリとのコントラストに余計に拍車をかけている。
「それ以上近寄ったらぶん殴ります」
俯きながら言うエイリに、レニア家の使用人は近寄らないようになった。エイリは落ち込んでいたしキレていた。
「船から下ろしてくださいませ」
「それが……レンズ様からの言いつけで……」
「じゃあいいですわ。降ります」
「ひいい!」
船の小窓からライヌ川に飛び出しそうになったエイリを止めたのは、使用人の悲鳴ではなく、レンズ本人だった。
大柄な彼は真っ赤な髪をライオンのように逆立てながら、険しい顔をしてエイリの腕を掴み上げた。
「エイリ……なんでそこまで嫌がる……」
「分からないならとんだクソ馬鹿野郎ですわ。今すぐ降ろせ!」
レンズは理解できないと言いたげに首を振って彼女を抱きかかえて船首に移動しようとした。
大柄なレンズの腕はフチよりもがっしりとしていて、エイリはぞっとした。
「やめろ!!!」
エイリの大絶叫に使用人達は気絶しそうになっている。
エイリの様子にただならぬものを感じたらしい。レンズはやっとエイリを離したが、その目は未だに憮然と細められていた。
「なんでそこまで嫌がる……従兄なのに……」
「ただの従兄でしょ!? 勝手に触らないで!」
エイリはヒールをガン!と木の床に叩きつけた。弾みで穴が開くほど強い力だった。
騒ぎを聞きつけたアイシャが慌てて船内に降りてきても、エイリは構わなかった。
「エイリ、何をそんなに……」
「ーー貴方達が! 勝手なことばかりするから! 私はフチに弁解ができない!」
「???」
兄妹は顔を見合わせてからエイリに向き直った。
カンカンに怒ったエイリは地団駄を踏み、船内の床を穴だらけにした。
ーーフチに嫌気がさされちゃったら、どうしてくれるの!
エイリの頭の中は、目下、それだけだった。
昨日の夜、寝不足のままフラフラしながらフチの長い腕に抱きしめられたエイリは、また都合の良い夢を見ているのだと勘違いした。そして目の前にいるフチを、最近の夢を見ると必ずと言ってもいいほど出てくるカイであると考えた。
何度フチにキスをされたり抱きしめられたりして舞い上がった瞬間に、カイに成り代わって絶望したことか。だから今回もきっとそうであろうと考えたのである。
『だから、何がしたいの!』
エイリがそう怒鳴り散らした瞬間に、カイはいつも夢ごと消える。なんて質の悪い嫌がらせなんだろうと思って、最近のエイリは、実はろくに眠ることが出来ていなかった。寝不足も冷静な判断ができなかったことの原因でもあった。
やっちゃった……。絶対尻軽女だと思われてる……。
昨日、呆然とした顔のフチを置いて、エイリは慌てて部屋に帰ってからベッドに潜り込んで後悔と反省に足をジタバタした。
説明などできるわけがなかった。男嫌いを通しているエイリの頭のどこで作られたのかと思うほど、夢の中のフチはあざとくて魅力的だったのである。
死にたいと思いながらもなんとかフチに弁明しようと立てたプランは、この兄妹に連れ去られたことで見事に崩れ去った。
というわけで、エイリは大激怒しているのである。
「エイリ。昨日から変ですわ」
アイシャが厳しい顔をしながらエイリに近づいてくる。
「レニア家と縁を切る、資金提供も必要ないって、どういうことですの?」
「……意味が分からない……」
「昨日、ちゃんと説明した!」
エイリは華奢な肩を怒らせる。よく考えてそう決断したのだ。
エイリはエイリ・シェリア・レニアに戻ることを拒否した。資金も望まない代わりに、今後、レニア家と一切の関わりも持たない。
もうこの意思はすでに、昨日の夕食の時間にこの兄妹に伝えてある。
「フチを! 私の大事な人を『イース騎士』としか呼ばなかった貴方達を! これから先! 信頼できるとは思えない!」
エイリは思うのだ。
大切な人の周りの人も、大切にしたくなるのだと。
フチを大切に思うようになってから、エイリには大切にしたい人がどんどん増えた。ルルやシータ、アンリやジィリア。そしてソルも。みんな今はエイリの大切な人だ。
一人ぼっちだったエイリにこんなに大切な人を作らせてくれたフチに、エイリはとても感謝している。
でも、この兄妹は。
「貴方達はフチのことを最後まで尊重しなかった!」
「……」
「私、フチのことを大事な人だって、手紙でも説明した! でも貴方達の態度は変わらなかった!」
エイリはフチを、ただのネドまでの護衛の騎士として紹介するつもりは毛頭なかった。その場でも大切な人だと説明した。
なのに彼らは、まるでフチをエイリにつく厄介者だとでも言いたげに終始ひどい態度で接したのである。
だから、多分。
ここから先は、昨日には言わなかったことだ。エイリは深呼吸して気持ちを落ち着け、一息で言い切った。
「だから多分、貴方達は、……私のこともそれほど大切ではないのでしょう」
「……!」
レンズが初めて目を見開いた。アイシャは身体を揺らしてから、反対に目を細めてエイリを睨みつける。
「そもそも私はレニアの領地を治めるお手伝いは何も出来ないし、シナン王の寵姫という立場でした。虐待のせいで子も作れない身体だとイース王から聞いているでしょう。実際はそれはただのデマだけど」
「……」
「そんな私をそこまでして近くに置きたい理由が分からない。過去の短い思い出と、血のつながりが何になるっていうの」
「……血のつながりがなんになる、ですって?」
アイシャの雰囲気が一気に剣呑なものになり、空気が凍りついた。
エイリはぐっと顔を引き締めて彼女に向き直る。自分の言ったことが間違っているとは思わなかった。
「そう思うのはアンタが一人でお気楽に生きてこれたからでしょ……」
「アイシャ!」
レンズの鋭い声が飛び、アイシャはキッとレンズを睨みつけた。
彼はあっという間に元の気怠そうな表情に戻っており、エイリを驚かせた。
「エイリの言いたいことは分かった……」
「……では」
「……ああ。そこまで言うのなら、レニア家はエイリの籍を元に戻すことを諦めよう……」
ほっと一息ついたエイリに、レンズは言葉を続けた。
「最後にレニアの祭典だけ見て行けばいい……船の上からこの祭りを見ることはそうそうできない……」
エイリは鼻を鳴らしてレンズに従うことにした。早くフチに会いたいと思いながら。
壮観だった。
この街の祭典は古くからの歴史を今日まで伝えるものだと聞いていたが、ここまで人々が熱心に参加するものだと思っていなかったエイリは内心かなり驚いていた。
ネド国レニア領とセイリーン自治区アマンテスは幅広のライヌ川によって寸断されているが、河の向こうに目を凝らすと大量の人々がいるのが見えた。程近いレニア領側の川縁にも大量の人々が華やかに賑わい、明るい雰囲気に満ちている。
一昨日まで滞在していた街アマンテスと、白亜の観光地レニア。国境を隔てまで開催されるこの大きな祭典は、近隣の王族や諸侯まで招待すると言う。
「昔の、とある男女と、一人の女の話……」
海に流れ込むライヌ河は、潮の匂いがした。
エイリは甲板の上で柔らかい髪を風に揺らしながら、突然ボソボソと喋り出したレンズに向かって怪訝な顔をした。
アイシャはと言えば、2人の後を険しい顔をしながらついてきている。
「何の話ですの?」
「……3人は親友だったが、男と女の片方は愛し合い、共に生きたいと望むようになった」
「……」
「だが……出身が違う2人はやがてそれぞれの生き方を迫られ、このライヌ川で別々に引き離されてしまった。昔はこんな大きな川を渡る技術などなかったから、実質別れとも言えた。残った女の片方は、2人が川を越えて愛し合えることができるようにと願い続け、そのうち男は川を干上がらせる力を得るようになった」
エイリはレンズを睨みつけた。勘の良いエイリは、レンズの言わんとすることと、雰囲気を尖らせたアイシャに気づいたのである。
「これが、ストーリアの起源……」
「……ストーリア?」
アイシャが髪をかき上げた。
その額にある大きな傷に、エイリは目を細めて対峙した。いつの間にか、背中に冷や汗をかいている。
「ストーリア……何かを失う代わりに、願いを叶えられる人間。雪を自在に操ることも、建造物を自由に操ることも、空を飛ぶこともできる……。そして、願った女はレニアの遠い祖先……」
「!」
「『人の願いが叶えられる』ストーリア。昔話の語り部となる、全ての始まり……」
そう言ってレンズはエイリをじっと見つめてきた。
エイリは思わず後退したが、背中にアイシャがぶつかってよろめき、前方に膝をついた。
「その女の力を受け継ぐことができるのは、レニアの者のみ……」
「わ、私は、人の願いなんか叶えたこと、ない!」
エイリが大声で言ったところで、甲板にひょこっと青年が降りてきた。まるで階段を数段飛ばしてきたかのような気軽さに、深い色のローブが揺れる。
「カイ!」
エイリは目を剥いた。
カイは目を細めて笑ったあと、いつものように携帯していた黒板に素早く文章を綴って見せてきた。
『嘘だよ、エイリ。よく考えてみて』
カイ。
幾度となくエイリとフチをつけ狙い、ガクを操り、エイリを一度殺した男。そして夢の中にしつこく現れ、エイリを絶望させようとしてきた男。
エイリはぞっとした。そばにフチがいない。もしかしたら、この状況は。
『ほら。“願いなんか叶えてくれなくていいから、元の身体に戻してください“って願いを、君は叶えてきただろう』
「……」
『君が、君こそが。“語り部”のストーリア。全てのストーリアの頂点だ』
「……なんで、あんたがここに……」
答えたのは、アイシャだった。
「それはもちろん、私たちが誘導したからよ」
「……アイシャ」
「頭の中お花畑だと思っていたけど、意外と鋭かったのね、アンタ。……そう、私たちは、アンタの助けなんて必要としてないし、アンタのことも大切になんか思ってない」
やっぱり、とエイリは厳しく目を光らせた。アイシャはヒールをカツカツと鳴らしながら真っ赤な髪を揺らし、レンズの隣で顎を上げる。
「血の繋がりなんて、って言ってくれたわね。その血のせいで私たちがどんなクソみたいな目にあったか!」
『レニアの人間はみんなぶっ壊れてたからねえ。僕が終わらせてあげたよ』
「どういうこと?」
カイが笑う。
エイリはそれを見て、ぞわっと肌が粟立ったような気がした。
そう、これはもうきっと、カイが何度も見せてきた悪夢ではないのだ。まごうことなき、現実だ。
「カイは終わらせてくれるのよ。この世界を」
「何を言ってるの……」
エイリはアイシャが急に頭がおかしくなったのだと思ったが、当の本人はその台詞の異様さに全く違和感を持たずに、むしろ誇らしげに見えるかのような仕草で、隣のレンズにしなだれかかった。兄であるはずのレンズに。
レンズはと言えば、アイシャに構わずにエイリに向かって手を伸ばした。一体その手に、エイリから何を貰い受けようというのだろう。
「……エイリ。“語り部”のストーリィをこちらに寄越せ。さもなくば……」
『だから、無理なんだって』
カイがレンズを遮った。
『“語り部”のストーリアの力を奪うことはできない。だって死なないんだから』
「では、どうしろと……」
『それ以外の方法で、エイリがストーリィを手放すようにすればいいんだよ。方法はなかなか難しいんだけど……』
そこでカイはエイリを見て、にっこりと微笑んだ。背筋も凍るような笑みだった。
『エイリは夢が効かないし、自己犠牲の精神が強いからね。精神的にも肉体的にも、彼女自身を痛めつけるのは得策じゃない』
「……」
『だからこんなものを用意してみました』
ドサッと音がして、カイの足元に落とされたものに、エイリは驚愕した。