5.
アマンテスの街とネドのレニア家が領地とするレニア領は、国境のライヌ川を挟んで隣にあった。
ライヌ川は幅広で、橋などで一直線に渡ることができないので、大きく遠回りしていくことになるとルルが告げた。ルルによるとレニア領はライヌ川が海に流れ込む場所に位置しており、潮騒の穏やかな有名な保養地であると言うことで、周辺諸国の王族や使者もネド国から招かれてそこに滞在することがあるとのことだった。
出発の直前、玄関ホールで集まったエイリが、フチの隣でただただ仰天していた。
「レニア家ってそんなに大きかったの」
「覚えていないのか?」
「海で遊んだような……従兄妹がいたような……」
フチは眉尻を下げた。
覚えていないのではなく、忘れたのだろう。幼いエイリはそうすることで祖国から引き離された苦しみを耐えたのだ。
「僕も招待されてるよ。ネドの王様に会う前に寄ってけばって言われてるんだ。というわけで楽しく物見遊山するよ!」
アンリがにこにこしながら言い、ジィリアが心配そうにエイリに近寄った。
「会えそうなのですか? その、ご家族とは」
「ええ、多分……日程だけ書いてある返事が返ってきましたわ」
「気合いを入れないとね。お金貸してもらえるといいね」
アンリもだいぶ砕けた様子で、ジィリアと2人でエイリを挟んで頷いている。どうやら彼なりに警戒を解いた様子で、フチもほっとした。
というわけで、ルルの大きな馬車の中の1つで、フチは本を読みながら揺れる窓の外を眺めていた。
アンリとジィリアは後続の馬車に大量の護衛と共についてきており、落ち込んでいるルルとシータは彼女の研究室でこもり切っている。
シータについてはかなり気まずいままアマンテスの屋敷で3日間が過ぎていた。というよりシータがエイリにくっつかないかフチは目を光らせていたのだが、あれからシータはエイリと2人きりになることはなかった。
なのでフチはこれ幸いとばかりにエイリの部屋を訪ねて、訪ねすぎてアンリとジィリアに引かれ、ルルにかなり遠慮がちに説教をされるという事態になった。
『フチ』
よく晴れた道中は次第に露出した山肌ばかりになって、馬車の揺れも大きくなってきた。
そんな中、見慣れた白い羽の大きな鳥が馬車の外側の縁に降り立って、大人しく毛繕いを始めた。
『あのさ〜、あのさ〜』
ソルである。
ガクに操られた日からめっきり姿を見せなくなっていたが、その胴体には相変わらずフチが無理やりつけた、鞍の役割を果たすベルトが巻きついていた。
『この前はほんとゴメンネ。もう載せられなくなっちまったけど一緒にいていいかい』
フチは溜め息をついた。あの日、この鳥がガクの笛の音を聞いてフチを振り落とした際のことを、フチは何度も後悔した。
ソルにではなく、自分の思慮の足りなさに。それ故に招いた最悪の事態に。
『ゴメンよ! マジで! 気づいてら背中からフチがいなくなってたんだって! 俺も一応あれから反省して森にこもってたわけよ。でもね、あのニンジンの味が忘れられなかったんだよ!』
ソルはその場で羽根をバタバタした。フチが目を細めると、グエーと間抜けに泣いて白状した。
『さ、寂しかったんだよ! お前意外といい奴だったし! 嫌われてる俺を構ってくれたし!』
もともとソルに責任はなかったし、フチもソルに対して怒っているわけではなかった。了承し、報酬のニンジンを半分にしたい旨を申し出ると、なんとこの図々しい鳥はそれでは足りないとゴネ始めた。
フチとソルが下らないことで揉め始めてしばらくした後、ソルが急に黒目を輝かせた。
『エイリだ』
フチは振り返って破顔した。
寝室用の馬車の扉から、エイリが外出着のまま、しかめっ面だけ出してこちらの様子を伺っている。寝てなさいと叱られた子供のように。
「エイリ? 体調が悪いのか?」
「ううん。私も本読む。だめかな」
「だめじゃないと思う」
フチの向かいの椅子に座って、エイリは難しい顔をしながら本を読み始めた。どうやら彼女はアンリに焚きつけられたようで、ベッドの上で安静にしている時は専ら孤児院を開くための勉強をしているのだ。
フチは急に降って湧いたような穏やかな時間に、それはそれはテンションが上がってよく回る頭をぐるぐるさせた。そのせいで急に字が目に入らなくなった。
……今日は何て言って分かってもらおう。
フチはこの3日間、ほとんどそればっかり考えていたような気がする。
「ソルは何て?」
「……この前はごめんって」
『ゴメンネ、エイリ。痛かったな』
エイリはフチに、許してあげて欲しいとお願いをしてきて、それがとても良かったので、フチはそれなら仕方がないと恩着せがましく了承した。
『おいフチてめえ! とっくに許してただろーが! この嘘つきクソスケコマシ野郎!』
ソルの声が聞こえるのはフチだけで、それにフチは初めて感謝した。
ソルを追い払った後、本を追い始めたエイリをフチは俯きながら盗み見た。
シンプルな露出の少ないワンピースに包まれた身体が、思っていたより華奢で柔らかいことを、フチはもう知っている。
あの日、エイリを抱き上げた時、実はフチはエイリよりもずっと動揺していた。こんな細い身体に守られていたのだと思うのと同時に、大きくなった自分の身体はこんなにも簡単にエイリを抱き上げられるのだと悟ってぞくぞくした。知らない感情に翻弄されて、しばらくその感触が忘れられなかった。
……でもエイリは、きっと俺が怖かっただろう。
フチは考える。
エイリの過去の話から、彼女はきっと男性性そのものに強い嫌悪感がある。恩人を汚い欲に殺されたエイリの苦悩は、出会った頃からかなり鳴りを潜めたように感じる。が、未だに根底に強く根付いているはずだ。それを払拭するには時間がかかる。
だからフチは頑張っているのである。真摯に誠実に、余裕で、でもそれとなく匂わせるような感じ。そう、そんな感じ。
その甲斐あってかは不明だが、エイリは落ち着いて以前のようにフチに接してくれるようになった。逸らしがちだった視線も真っ直ぐに、飾り気のない仕草も以前通りに。
もうちょっと、いや、まだ早い? それともまだまだ全然だめか?
……教えてくれれば良いのにな、エイリ。
「フチ」
「う? ん?」
急に顔を上げたエイリにびっくりして、フチは慌てて取り繕った。
「どうした」
「フチって、本読むの早いよね」
「そうか?」
「うん。……小さかった時ってどうやって本を読んでたの? 遠くにおいて離れたとこから読んでたの?」
「いや、走ってたな」
エイリは大きな目を瞬いた。
「走ってた?」
「うん。本の上を。走りながら1字ずつ追っていくと読めるというわけだ」
フチは思い出して胸を張った。読書家のフチはこの方法を開発して、わりとそれが自慢だった。だって体力も鍛えられて一石二鳥だ。
「面白い本ほど自分を追い込めて良い。一冊読み切ったときの達成感もすごい。今も実は身体が物足りないくらいだ」
「……ふ、は」
エイリはだんだん顔を歪めて、終いには声を上げて笑い出した。
「ふふ! あっははは!」
「……」
「ごめん、なんか想像して面白くて、あはは!」
花が咲いたように周囲が明るくなった気がした。
……笑ってる。俺がどれだけ冗談を言っても呆れるだけだったのに。
フチの頭がポーンと音を立てた。
「……フチ?」
気づけば手を伸ばして、エイリの白い頬を撫でながら、薄紅色の唇の横を親指でこしこしと擦っていた。どうしようもなく胸が熱くて苦しい気がする。
「フチ?」
あ。どうしよう。
やっちまったことはどうしようもないが、これはちょっとまずかった。何がというか、フチの頭の中が。
みるみるうちに真っ赤になっていくエイリの頬を見ながら、フチはボロボロの頭を回転させ、エイリを動揺させて有耶無耶にしようと決めた。
真摯に誠実に余裕ででもそれとなく匂わせるようなそんな感じ。
「……困る」
「え?」
「最近……というより大きくなって、思ってもみなかった感情ばっかりで困る」
エイリをちらっと見てフチは完璧だと自負した。
これで多分エイリはあわあわしながら寝室用馬車に引っ込むはずだ。多分、フチのことばっかり考えてくれながら。
「それは、どういうこと?」
フチはぎくっと肩を揺らした。
エイリはちょっと頬を染めかけて、でも真剣な様子で、フチの言葉を待っている。
「フチ?」
一瞬ののち、窓の外からソルがバタバタ羽根を揺らして現れた。
エイリはなんと、そっちに目を逸らさなかった。
「わ、私のこと、今までと、違うって思ってくれてるってこと?」
「グエエエエ」
「うわ!」
そこでソルが暴れ出して窓を揺らしたので、やっとエイリはフチから視線を逸らして慌て出した。
フチはぎこちなく断って、ソルに渡すニンジンを研究室用の馬車に取りに行って、ぎょっとするシータとルルに構わず、扉に背をつけて座り込んだ。
「フチさん?」
だめだ、通じないと思った。いつのまにか、エイリに小手先なんか通用しなくなっている。気を抜いていたら、ぽろぽろ本音を言って振られるかもしれないと、フチは思った。
ーー違うに決まってる、エイリ。もう、一緒にいたいって約束だけじゃ、俺には足りないんだよ。
笑ってくれるだけでこんなに嬉しいのに、それ以上のことがあったら、きっともっと抑えられない。フチは自分を抑えつける術には長けていたはずだったのに、知らない自分に動揺していた。
だから、落ち着いて問いかけてきたエイリの変化の理由と、彼女の目の下にクマが出来て、明らかに寝不足であるということが、その時には分からなかった。
「ひっく! ひっく!」
「飲み過ぎだろ……」
「ひっく」
「お前もかよ……」
その日の夜。
アンリと、彼に呼び出されたフチとシータは、アンリの馬車の中で酒瓶に囲まれていた。
アンリのいる馬車はルルのものに負けず劣らず豪奢で、積み込まれた資料や研究の道具がない分広く見えた。
「ひっく! 僕はね、酒には強いんだよ! めっちゃ絡むんだけどね。嫌いな奴に!」
「失礼だろ!」
「ひっく」
馬を休ませるために休んだ街外れで、アンリが強引にフチとシータを馬車に連れ込んだのである。代わりにジィリアはルルの馬車に追い出されて、氷点下の眼差しでアンリを睨みつけて馬車の中に消えていった。
アンリは真っ赤な顔で、イライラして怒鳴り散らすシータの肩に腕を置き、フチは机を挟んだその反対側で頭をふらふらさせていた。
「だって、明日にはレニア家に着いちゃうでしょ? 忙しくなるでしょ? 寂しかったんだよ!」
「じゃあ何で俺まで呼んだんだよ。いらないだろ!」
「シータ……お前を、エイリのいる馬車に、俺がいないまま乗せておくと思うか? ひっく」
「お前は寝てろよ! むかつくんだよ」
シータは腹の立つことにザルらしい。
アンリも酔っ払うといつもより更に人をイラつかせるが、何だかんだ最後には元気になって誰かのお世話になることはない。
とどのつまり、一番弱いのはフチだった。
「……ね、フチ。作戦、成功するといいね」
「うん」
「作戦ってなんだよ」
「シータには言わない」
「なんだよ!」
シータが怒るのも無理はないと思うが、不穏分子に不要な情報を与えてしまうことは出来るだけ避けたいフチである。
「お前だけには絶対言わない」
「わかった。エイリがらみだろ! コソコソ作戦立てるなよ! 卑怯者!」
「やる気か?」
「は? 酔っ払いに負けるかよ」
「喧嘩はやめなよ」
アンリは上機嫌で酒瓶を傾けた。
「教えてあげないこともないよ。仲間外れは良くないもんね」
「アンリ!」
「シータ・シーカーシニア。君が僕の騎士になったらね」
「は?」
シータは目を丸くして、アンリは指を立てる。
フチは何となくアンリの目的を察して口角を下げた。この男は結局、なんだかんだと自分の利のある方向に持っていく力がものすごいのだ。
「どういうことだよ」
「君はね、僕のスパイになるんだよ」
「?」
アンリは相変わらずにこやかなまま、隣に座るシータの眼前に指を突きつけた。
「君はシナンに、たいして忠誠もしてなかったでしょう。シータ・シーカーシニア。同じように、イースのためにも働いてほしいな」
フチはそこで限界がきた。ソファはふわふわだし、明日もやることが山積みだ。気を引き締め直さなければならない。
眠い……。エイリ、ちゃんとルルとジルと仲良く出来てるかな。
ジィリアとルルと何となく気まずそうなエイリを想像して、フチはソファの肘掛けに身体を傾けた。
「何で寝るんだよ! 今!」
「フチはもともとそういう男だから……ほらほら、どうするの? 傷心は金にはならないよ。シータ」
シータとアンリの声を、消えかけた意識の端で聞き流しながら、フチは急速に眠りに落ちた。




