3.後悔メダカ、教会前にて
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ルルは小さい頃、ずっと母の背中を見ていた記憶がある。母はルルによく似た髪色と体格だったが、日に日に背は曲がり、髪は色が落ちて抜けていき、枝毛だらけになっていった。
よく似た自分を見比べてもらえば、母はきっと自分の異常さに気づくだろうと、ルルは母につきまとった。だが彼女は全くルルに振り返ることなく、常に、鏡に向き合っていた。鏡よ鏡、とうわごとのように唱えながら。
ルルが父に呼び出されたのは、エイリの目が覚めた次の日だった。ルルの父は、賢いルルでさえ何を考えているか分からないところがあり、何故かアマンテスの屋敷ではなく、街の中央にある会員制のサロンでルルに会うことを求めてきた。
それはまだいい。
「ルル嬢、あそこのケーキ屋に寄りたい」
イース騎士フチ・シーザウェルトを伴うこと。
手紙の最後に書かれた文章に、ルルは顎が落ちるかと思うほどあんぐりとした。そしておそるおそるフチに伝えると、彼がすんなり了承したことにも仰天した。
「フチさん、食べ過ぎです」
「……お土産だが」
「その割には減ってますが。お土産の山が」
真顔になったフチの隣には山積みになった菓子の箱があり、ルルはそれがいつ馬車の揺れで崩れるかと心配をしている。
「そもそも、この馬車は私の手配したものではないですから。さっきも馬車を停めてくれとお願いしたら御者に冷たい目で見られたんですよ」
「俺はいい加減にしてくれって泣かれたが。約束の時間に間に合わないって」
「じゃあやめましょうよ……」
ルルはフチと2人、街中のサロンに父が手配した馬車で向かっていた。目の前で本を読みながら次々に菓子を平らげていくフチは、ルルには何を考えているかさっぱり分からない。行儀の悪い姿も絵になるなあとか、頭に浮かぶのはそんなことばかりだ。
……でも。怖い男だ。
ルルは怯えている。怯えている故か、最近目の前の男から目が離せない。どこにいても視線が追う。
私のことがバレたら、この男は私をどうするだろう。
ノイ砦で負ったフチの脇腹の怪我はそこまで深いものではなかった。潰した鼓膜もあっという間に治った。逆に言えば、あれだけの人間を殺しておいて、フチはその傷を負っただけなのである。心臓の上の痣は2つに増えており、間違いなく彼がガクというシフォア人を殺害したことをルルにはっきりと示していた。
「あれ?」
そこまで考えて、ルルは馬車の窓から見える景色が緑っぽくなっていることに気がついた。
「……あの、フチさん。街中ではなさそうです」
「うん?」
本から顔を上げたフチは、首を傾げてから急にルルに聞いてきた。
「ルル嬢、今も俺を死んでもいいって思っているか?」
「え?」
そのあまりにも唐突な内容に、ルルは頭が真っ白になった。急に馬車の中の温度が冷えたように感じた。
フチはいつの間にか本を閉じて、ルルをまっすぐに見つめている。
「俺が会いたいと言ったんだ。貴女の父親……バスク・セイリーンに。だから、こうしてここにいる」
「……な、」
「街外れに向かっているのは俺の与り知らないところだが。……貴女の父親は、俺をどうする気だろうな?」
心臓がどくんと音を立てる。
目まぐるしく情報が頭の中で錯綜して、ルルは青ざめた。
私の、父は。
フチは恐らく、今までのルルの行動を全て見透かしている。父に連絡を取ったということは、そういうことだろう。
彼は聡明な男だ。一旦ルルの行動に疑問を持てば、きっとあとは鈴なりに事実を掴んでいくはず。
ルルはそれを何としても阻止したく、必死に作戦を考えたのだけれど。途中からはもう、完全に保身のためだった。
「貴女の行動について、どうにも納得がいかないことがある。今から勝手に推測を話すから、答えてくれると嬉しい」
静かにこちらを窺う男に、ルルは震えながら首を振った。
「あの、すみません、最初に言わせてください。……この状況は、全く、私には予想出来ていませんでした。父は私に言わずに、何かを企てています」
「……」
「き、危険です。とにかく馬車を停めた方が」
「必要ない」
「!」
端的な一言に、ルルは頬を張られたような衝撃を受けた。
「着けば、そこがどこであっても手っ取り早く色々なことが分かるだろう。……危険はない。貴女の父親は俺の価値を分かっている」
「……」
「それより、貴女がどう思ってどう行動してきたのか、そしてこれからどうするのか、教えてもらう方が俺には重要だ」
だめだ、捕まった。
ルルはがたがたと震えながら、胸の前で手を組んだ。
真正面にいるフチはルルだけをじっと見ている。そしてそのまま、特にもったいつけることもなく、いつも通りに話を始めた。
「貴女は今まで、怪我をしたエイリに無理をさせたことはなかった」
「……」
「だが、今回、アマンテスの街に行くことに対してはやけに強硬だった。馬車の中でエイリが高熱を出した際も、引き返さなかったし。……そもそものアマンテスへの移動という発案も貴女だ」
「……」
「そしてアマンテスにはアンリがいた。アンリは俺がここにいることを知っていた。ジィリア以下の小隊はアンリがここにいることを知らなかった。つまり俺達のことをアンリに伝えられる人間がいるとすれば、貴女しかいない」
馬車が揺れがひどくなった。いつの間にか足場の悪い道に差し掛かっていたらしい。
揺れに崩れかけた菓子の箱を受け止めて、フチは首を傾げながら、ぱかぱかと蓋を開けたり閉じたりした。やっと視線が逸らされた。
「最初、そんなことをする必要が貴女にあるとは思えなかった。でも、あったんだな。最初から」
「……」
「アンリは俺をイースに求めている。そして俺は恐らくそれを断らない。ジィリアと引き合わせたのもその理由じゃないか。貴女と貴女の父親は、俺をイースに帰らせたかった」
ルルは喉を鳴らした。その先を言わないで欲しいという願いは、呆気なく手折られた。
「というか、エイリと俺を引き離したかったんだ。ともすれば俺の生死はどうでも良かった」
「!」
「ガクの襲撃のことも、貴女は何となく察していたんじゃないか。もしくはガクに操られたジィリアの書いた手紙を、一番最初に読んでいたか」
ルルの渡した手紙を受け取ったエイリの顔を、ルルは未だに忘れない。自分の行動が何を招くか、ルルとルルの父親はある程度察していた。
「だが、ここまで来て疑問が出てきた。貴女達は、理由はどうあれ俺とエイリを引き離したかった。別にエイリを死なせることが目的じゃない。だったらここまで手厚く世話をする意味がないからな。……危険に向かわせて、エイリが死んだらどうする気だったんだと」
「……フチさん」
「……だから多分、貴女達はわりと早い段階から、エイリが死なないシフォア人であることを、分かっていたんじゃないのか。だからエイリをどれだけ危険に晒しても構わなかった。何があってもエイリは死なないから」
「フチさん、」
ルルは泣きそうだった。
改めて彼の口から淡々と語られると、自分達がどれだけエイリとフチに酷な真似をしたか、改めて思い知らされた。
そしてフチは、容赦がなかった。
「一緒に俺が死ぬ……もしくはエイリの旅に俺が同行出来ないほどの怪我を負えば、それが一番良かった」
「……」
「で、あれば……貴女の行動の全てがある目的につながっていく。ゴス村で俺たちを助けてくれたことも、デジデリ遺跡に来たことも」
ルルは諦めてしまった。
もう、フチは全てに気がついている。長い足を組み直しながら言葉を紡いでいく姿は、やけに穏やかに見えて、それがかえって絶望をルルに感じさせた。
「貴女達は、エイリの力を欲しているんだ。そしてそのためには、なぜか俺がエイリのそばにいることが邪魔だった。だから引き離したかったんだ」
どうだろう、と指を組んで首を傾げるその姿に、ルルは項垂れた。
「……合っています。ほぼ……」
「教えてほしいな。貴女と貴女の父親の、その目的を持つようになった理由を」
ルルは顔を上げられず、俯いたままゆっくりと口を開いた。
「わ、私たちは、フチさんの言う通り、エイリさんの力を欲しがっていました。そしてエイリさんの信頼を勝ち取れるよう、要所要所でエイリさんの助けになれるように尽力しました。ーーライアさんのことは、言い訳になりますが、全く予想はしていないことでしたが」
「……」
「も、目的は……シフォア人の消滅です」
そこまで言ってルルが顔を上げると、フチが首を傾げた。続きを促すような仕草に、ルルはぐっと顎を引く。
「エイリさんのシフォア人としての力は、あくまで予想ですが……『シフォア人を普通の人間に戻すことができる』ことと、『死ななくなる』ことです。このシフォアの力はシフォア教の由来の根幹として、長らく伝わっています」
研究を進めていくうちに、ルルはこの力こそがシフォア人の消滅に必要不可欠であることを結論づけ、父もそれに賛同した。
「エイリさんは共感し、その人と共に願うことでシフォア人をシフォア人でなくすことが出来ます。ですが、エイリさんにはその力があるという自覚がなかった。自覚があればもっと自身の力を有用に使えるかもしれないと、父は私を通してエイリさんの自覚を促しました。例えばダリアさんやシータさんのように。……そして同時に、シフォア人である貴方から引き離すようにも命じました」
「……俺がシフォア人らしくなかったから?」
ルルは驚きながら頷いた。
「シフォア人は力を手に入れた時とは逆に、失うことを願っていることが多いと考えられます。ダリアさん然り、シータさん然り……それは同時に手に入れたもう一つの力を失うことを願うからです」
「……」
「ただ、フチさん、貴方はーーもう一つの願いは判明しないことはおろか、小さな自身の身体について悩んでいる素振りも一度も見せませんでした。それはシフォア人の肯定です。シフォア人の消滅を目的とする父にとって、貴方の存在は限りなくイレギュラーであり……エイリさんに、父にとって都合の悪い影響を及ぼすことが考えられました」
そう。フチは特異な存在だった。
小さい身体ゆえの苦労をいくつも跳ね返して、自分を否定せず、彼はエイリのそばにいた。それはエイリにシフォア人などあってはならない存在であると刷り込ませたいルルの父の意向に反していた。
だから父は、何があってもイース騎士フチをエイリから引き離すことをルルに命じた。たとえフチの身体に危害を及ぼすような方法であっても。
「だから、あの時……私は、エイリさんがデジデリ遺跡を向かうことを止めませんでした。むしろ一人で向かえるように周囲の方達に頼りづらい状況を作りました。シータさんを離れさせて、フチさんには相談しないようにと口止めをして」
「俺もシータも止めるだろうからな」
フチは溜め息をついた。珍しく視線に翳りが見えた。
「結局エイリは相談してくれて、そして俺はエイリと共に向かってしまったわけだが」
「……追い詰められたエイリさんが一人でデジデリ遺跡に向かい、私はそれをフチさんに伝える予定でした。そして慌ててフチさんがエイリさんを遺跡に追っていくのを期待していました」
「それが貴女達の作戦だったというわけだ」
ルルは頷いてから勢いよく首を横に振った。どうにもさっきから気が急いて仕方がなかった。
「あの、私は、最初は父に従っていたんです。父の言う通りに動くだけでした。で、でも」
視界が滲んで煩わしい。
ルルの胸中を占めているのは、エイリを覗き込むフチと、目を開けた瞬間にフチを迎えに駆け出した血だらけのエイリだった。
「でも、わ、私たちは愚かでした。エイリさんの死ねない故の苦しみと、フチさんが目の前でエイリさんを失った苦しみを……私も父も、考えられなかったのです」
本当に、本当に。ルルは愚かだったのだ。
フチとエイリは常に周囲への気遣いを忘れずに、真摯に自分の出来ることを考えられる人間だった。そして逆境の中でお互いを尊重し合うことのできる人間だった。
ルルは一緒に過ごすうちに、彼らを目的のためだけに利用することは出来なくなっていた。
「本当に、ごめんなさい……」
フチが何かを言いかけたとき、ガタンと音がして馬車が停止した。
「な、ここは、一体……」
ルルは青くなったまま、馬車の窓から見える朽ちた教会を仰ぎ見た。いつの間にか、アマンテスの街に何度も来たことのあるルルも見たことがないほど、奥まった森の奥にまで来てしまっている。
「……降りてみよう」
ガタガタ震えるルルを手際よくエスコートして、フチはさっさと馬車から降りた。
ひんやりとした空気が辺りに満ちている。蔦の這った壁はすすけ、木の大きな扉は開くかどうかも怪しいほどぴったりと閉じられていた。
父さんが、ここに?
ルルは納得がいかなかった。
「先代当主が中でお待ちです」
御者はそれだけ告げて逃げるように来た道を戻って行ってしまった。
土埃にむせるルルがやっと落ち着いて顔を上げると、フチがなぜか、折り目正しく頭を下げている。
「頼みがある」
「ふ、フチさん?」
「エイリの本当の友人になってくれないか」
ルルはぽかんと口を開けた。
「エイリは、素直で明るい良い娘なんだ。分かっていると思うが……。なのにあの娘は、家族や友人から当然に貰えるはずの愛情をもらったことがない」
どうやらフチはエイリのことルルに頼んでいるのだと、混乱するルルはそれだけを認識した。
「貴女は貴女の目的があってエイリを利用したのだろう。でも思い直してくれたんだろう。だからノイ砦に、シータを俺に迎えに来させてくれた。貴女がそうしてくれなければ、俺はそのままそこで死んでいたかもしれない」
「……」
「貴女を信じている。貴女の目的は俺が果たす。だからエイリとは何も関係ないところで良い関係を築いて欲しい」
艶やかな黒髪は、途中でぴくりとも揺れることがなかった。呼吸まで止めてしまったルルが何も言えないでいると、フチはやっと顔を上げて眉尻を下げた。
「え、エイリは良い娘だろう? ちょっと口が悪いときがあるけど。……女性にとっては違うのか?」
ーーこの人は。
ルルは全身から力が抜けてしまった。それから涙が出て、声まで我慢ができなかった。
「う、」
「!?」
「ごめんなさい……!」
ルルはフチに殺されることも考えていた。ノイ砦の男達のように。
でもそんなこと、彼がするわけがなかったのだ。
『ルル、怪我が治ったら、今度はアマンテスのケーキ屋さんに連れてってくれる?』
ちょっと照れ臭そうに甘えてくるエイリは、ルルのことを本当に友人だと思ってくれているのだから。
エイリにとってのそんな存在を、フチが手にかけることあり得ないなど、ちゃんと考えれば分かっていたはずなのに。
「本当に、本当にごめんなさい……!」
ルルはついに空を仰いで泣き出した。
フチは心配そうにルルを眺めていたが、ちょっと気まずそうに「で、本当にエイリの友人になってあげられるか」と言う旨を聞いてきた。ルルがぼろぼろ泣きながら何度も頷くと、ついにほっとしたように緩やかに微笑んだ。
「よかった。じゃあ帰ろう」
「えっ?」
フチは教会を見上げて溜め息をついた。
「どう見ても怪しい」
「えっ、でも、さっき、フチさんがどこでもいいって」
「その辺の時の返事はあんまり考えてなかった。それよりルル嬢の返事が欲しかったから」
「……ち、父が中で待ってるって、御者さんが」
「嘘だろう。貴女の父上は街中のサロンにいるんだろう?」
ルルは口をパクパクしながら、教会に背を向けて歩き出したフチについて歩き出した。
「いや、入れよ!!!」
道端から、黒尽くめの集団が飛び出してきたのはちょうどその時である。




