2.
「どういうこと?」
アンリは細い指を組んでにこやかに言ったが、目が笑っていない。
対するエイリといえば動揺しすぎてアンリの様子には気付いておらず、辿々しく説明した。
エイリは孤児院を開きたいと思っており、資金提供を請いにネドの生家であるレニア家に向かう途中であるということ、フチはそれを手伝うためについてきてくれて、その後も出来るだけ一緒にいたいと告げてきたこと。
シータはフチがエイリを生きる目的だと言っていたことに思い当たって、苦々しい気持ちになった。確かにフチの最近の行動指針は、エイリである。
「……だから、もしかしたら、フチはイースの前王様から、今はわ、私のために生きてくれてるのかも……」
エイリは話途中で頬を押さえてにやにやし始めた。
側から見たらちょっとやばい人間に見えるが、シータは、可愛いな畜生!とかフチ死ねクソ!とか、いろんな感情にしかめっ面をした。
「ーーずいぶん都合の良い話だね」
ひやっとした空気をにじませたのは、他でもないアンリである。
ジィリアは咎めるようにアンリの名を呼んだが、アンリは打って変わってそれを無視して、組んだ指の上に顎を乗せた。
「正直、フチにもがっかりしたよ。そんな夢物語みたいな話に本当にフチは乗ってきたっていうの?」
エイリは目を瞬いた。
完全に驚いているエイリに何の容赦もせずに、アンリは矢継ぎ早に質問をしながらエイリを問い詰める。
「じゃあ聞くけど、君はその目標のために何か具体的な手立てを思いついているっていうの? 資金が得られなかったらどうするの? もし運良く資金が手に入ったとして、どこで孤児院を開くつもりなの? 子供の教育が君にできるの?」
「……おい」
シータは低く言った。
「急に何が言いたいんだよ」
アンリは頭を振って深く息をついた。まるで疲れさせたのはこちらだと言いたげな仕草に、シータの怒りが募る。
「世間知らずすぎるって言いたいんだよ。城の中しか知らないお姫様にそんなことが出来ると思えない」
エイリは先ほどの感情とはまったく違う要因で真っ赤になった。
そんなエイリを見ていられなくて、シータはアンリの方に身を乗り出した。
「世間知らずの何が悪いっていうんだよ! 別にエイリは怠けてたわけじゃない。そういう環境にいなかっただけだ。これから勉強すればいいことだろ! つーかそもそもお前に何が分かるんだよ!」
「……お金は、」
絞り出すように言ったエイリの声に、シータは押し黙った。
エイリは肩を上げながら困窮したように、眉間に皺を寄せている。その様子はとても頼りなく見えたけど。
「借りられなかったら貴方に借ります」
「は?」
アンリとジィリアが揃って目を丸くした。
「……貸してくれなかったら、マシュー様がしたことをイースで言いふらします」
「強請るっていうの? 僕たちを?」
エイリははっきりと頷いた。
「困るでしょう。貴方たちの国は寵姫の制度もないから、きっとみんなマシュー様にがっかりすると思います」
「……」
「孤児院を開くのはシナンがいいと思ってます」
「え?」
今度はシータが目を丸くする番だ。
「シナンには大きな貧困街があって、辛い生活をしている子供たちがたくさんいるって聞いたから」
そこでシータをちらっと見てから、エイリは再びアンリに向き直った。
「私はそういう子供の手助けをしたいから。それにシナンは今、終戦直後で混乱しているでしょう。辛い状況にいる子供がたくさんいると思う。……教育は、まだ勉強を始めたばかりだけど。がんばります。絶対に」
「……」
シータは口を開けたまま隣のエイリを見ていた。エイリがこんなことを考えているとは思わなかったからだ。
エイリは最後まで自信なさそうに腕を反対の腕で抱えながら締め括った。
「世間知らずって分かってるけど、……だから今言ったことも的外れかも知れないけど。フチに、皆にも相談しようと思ってます」
シータは急に泣きたくなった。いつのまに、エイリはこんなに変わっていたんだろう。
あの、誰も信用せずに一人ぼっちだったエイリが。自分のやりたいことを見出し、真摯に考え、周囲に頼って力を借りようと考えている。
アンリはややあってからソファーに深く腰掛けた。
「そうなんだね。君はいろいろと考えてはいるわけだ」
「アンリ。いい加減にして。さっきも話をしたでしょう。フチが決めた理由が貴方にも分かるはずよ」
「はあい」
ジィリアにたしなめられ、唇を尖らせたアンリは急にうふふ、と口元を押さえてから笑い出した。
ピリついていた空気が和らいだ。
「王弟に資金を強請るってなかなかぶっ飛んでて楽しいね」
「……万が一の手段ですわ」
「うふふ。でも君は、さっきマシューの仕打ちはもうどうでも良いって言ってなかったっけ?」
「言ってないですわ」
「うふふ」
ジィリアが溜め息をついてから首を振った。
「ごめんなさい、エイリさん。アンリはこれでもフチのことが心配で心配で。あと自分が、フチにとっての前王カミル様になれなかったからって、なれた貴方を妬んでいるんですよ、きっと」
「……さ、お開きにしよう。ネドに向かうときは僕たちもご一緒するからよろしくね。親友との時間を少しでも増やしたいからね」
アンリは早口で言ってから手をパンパンと叩いて、時間を取らせて悪かったとシータとエイリに詫びた。
でもシータは、これで終わらせる気はなかった。ソファーに腰掛けたま足を組んだ。
話を聞いていてどうにも我慢できないことが、シータにはある。
「俺、あんたのこと好きになれない」
「……君に好かれる必要性は僕にはないけど……」
「フチの決断が気に入らないならフチに言えよ。エイリに突っかかるのは筋違いだろ。そんなんで親友ってあぐらかいてんなよ」
エイリは目を丸くしてシータを見上げて、アンリはちょっとびっくりしたようだった。
「……君、痛いとこつくね」
「……」
「そうかも。離れていた期間が長くて、身体も変わってしまったフチだからって、親友と言う関係に甘えて彼に何もしなかったのは……僕の怠慢だね」
「そうだって言ってるだろ」
「うふふ」
また笑い出したアンリを、シータは睨みつけた。
アンリはその様子にも動じることなく、シータとエイリを交互に見て、初めて、まっすぐに2人を見つめてきた。
「フチは本当に恵まれてる。人の運がいいんだよ。……彼をよろしくね、心から」
アンリの部屋を出た頃には、すでに日が暮れかけていた。お茶の時間は過ぎてしまって、夕食の時間に届くような頃合いだ。
エイリは羽織るものを取りに行ってから夕食の席に行くと言って、シータはついていくと言い張った。
意外にも、エイリは嫌がらなかった。先を行く背中に追いつくと、エイリは急に萎んだように深く息をついた。
「つっかれたあ……」
「ほんとにな」
今だから素直に認めるが、アンリのプレッシャーはすごかった。さすが国を背負っていく立場の人間だとシータは認識を改めた。
「あの人がフチをイースに連れて帰っちゃったらどうしようかと思った。王様の弟だし、フチが断ったってあの人にはそれができる力があるでしょ? 緊張したよ……」
「……」
シータは気になっていたことをエイリに聞いてみることにした。
「エイリはさ、」
「?」
「孤児院を開くって、そこまで具体的に考えてたんだな」
「全然具体的じゃないよ……。でも話しながら私もびっくりしたよ。私、こんなこと考えてたんだって」
胸を撫で下ろしながら言うエイリに、シータは思わず、疑問をそのまま投げかけた。
「あの、シナンで孤児院を開きたいって奴も、急に?」
「うん」
エイリの部屋の前で、エイリは振り返った。
「シータの話が急に頭の中に出てきたの。それで、シナンで孤児院が開けたら、そしたらきっと、シータみたいな思いをする子供だって減らせるかもって思ったの」
「……」
「ちょっと待ってて」
シータはどっと溢れ出した感情に突き動かされ、背を向けたエイリの腕を思わず引っ張った。華奢な背中を抱き込んで、そのままうなじに口付けた。
「シータ!」
「好きだ」
好きなんだって、エイリ。
「ほんとに好きなんだ」
エイリの匂いにくらくらする。このまま時間が止まればいいのにと、シータは本気で思った。
そうすれば、このままエイリを俺のにできる。
自分もエイリが変わるきっかけになれたのかもしれないと思うと、どうしようもなく気持ちがはやった。気持ちが身体を突き動かした。
でも。
「シータ、離して」
その声の冷たさにシータは絶望して、頭の芯が冷えた。それから冷や汗が出た。
もしかしたら、エイリとこうやって会うこと自体をを拒絶されるかもしれないと瞬時に思って、シータは強くエイリを抱きしめた。
「シータ、離して」
「やだ」
「……」
「嫌いになっただろ、もうついてくるなって言うんだろ」
気付いたら涙が出ていて、後悔に押しつぶされながら、シータは往生際悪く何度も彼女の首筋に唇を落とした。この気持ちがエイリに伝わればいいのにと呪いをかけるつもりで。
だが、エイリの声はどこまでも冷静だった。
「嫌いにならないけど、もう1回したら嫌いになる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「うう……」
泣きながらエイリから離れる自分はどこまでも情けない奴だと、シータは思う。
振り返ったエイリはやっぱり怒っていて、部屋に引き上げてしまった。と思ったらすぐに出てきて、そのまま夕食が取れる場所に案内しろと言われた。
シータは涙が引っ込んで、言われるがままに食堂に案内した。気づけばエイリの対面で長テーブルの椅子についている。
周囲には人がまばらにいて、珍しい髪色の2人をちらちらと気にしているようだった。
「シータ」
「はい」
エイリは眉間に皺を寄せたまま、薄口のスープに口をつけ、そのあとシータに宣言した。
「もう一回こういうことしたらぶん殴る」
「……殴られればもう一回していいの?」
「真面目に聞いてんの?」
「はい」
エイリは怒っているようだったが、ぶつぶつ言いながらもシータと食事を取るのをやめなかった。
「私は貴方を好きにはならないよ、前にも言ったけど」
「はい」
「だからって急にそういうことはしないで」
「……はい」
「するなら殴る」
エイリの怒りの表現が殺すから殴るになったことに今更気付いて、シータは思わず笑ってしまった。
「何笑ってんの。……ってなんで泣くの」
「……」
「食べるか泣くかどっちかにしなよ……」
「……」
しょっぱい夕食を食べ終わると、エイリはシータとだいぶ距離を取りながらも、シータが部屋まで送っていくことを拒否はしなかった。
良かったあああ。
月の上がる時間、エイリを部屋まで送り届けてから、シータは廊下を歩いていた。安堵にどっと身体の力が抜けて、気を抜くとその場でへたり込みそうだった。
思わず考えなしに動いた自分を殴りたい気持ちもあったし、反面、エイリの身体を抱きしめた感触と、彼女の甘い匂いを絶対に忘れないとも思う。
何より、エイリに全てを否定されなくて良かったと思った。抱きしめたいしキスもしたいしその先のことももちろんしたいけど、エイリとこんな風に話せなくなるのが、シータは何よりも嫌だったのだ。
俺もちょっとはエイリの心の中にいるのかもしれない。
そう思ったときだった。
「ーー!?」
廊下の影から急に飛び出してきた黒い影に、シータは唐突に顔を殴られて、その弾みで廊下に転がった。
目の前がチカチカする。遅れて襲ってきた痛みに、シータは思わず鼻を押さえた。
ーー誰だ!?
「お前、なんてこと、してるんだ……」
フチだった。わなわな震えながら、腰を低くして拳を握りしめている。
初めて見るその様子に、シータまでもが動転した。慌てて身を起こし、素早くフチから距離を取った。そして鼻血が出ていると気付いて、シータは怒りにカッと頭に血が昇った。
「なんだよ急に!」
「エイリに何してるんだ!」
シータは目を剥いた。
どうやら先程のエイリとの一連を、フチに目撃されていたらしい。
だが、だからといってあの冷静な男がこんな急に殴りかかってくるなんて、シータはにわかには信じられなかった。
「お前……ふざけるなよ……」
「お前がふざけんなよ!」
怒りに震えているフチは正直かなり怖かったが、シータには今までの積み重ねがある。何度フチに邪魔されてきたことか。このままフチの剣幕に負けるなんて、シータの負けん気が許さなかった。
「いい加減にしろよ、フチ! お前は何がしたいんだよ! エイリのことなんてなんとも思ってないくせに邪魔すんなーー」
「抱きたいに決まってるだろう!!!」
シータは固まった。
フチの大音声は誰もいない夜の廊下にしばらく響いて、シータを我に返らせた。
「……は?」
「……」
フチは驚きに停止しているシータを見下ろして、みるみるうちに耳まで真っ赤になった。
あの、フチが。
「……」
「……」
「なに、フチ、お前、そうなの?」
フチは呆然としながら、よろよろと後ずさった。近くにあった廊下の酒樽の上に座り込んで、両手で顔を覆い隠した。
「……そりゃ、抱けるなら抱きたいだろう……」
「……」
「……でも、エイリは俺にそういうのを求めてないだろう。エイリが好きなのは男の俺じゃないんだから。今までの俺なんだから」
「……」
シータは目をぱちぱちした。ぶつぶつ呟くフチに近寄る。
「だからゆっくり、しようと思ってたのに。ゆっくりならエイリも分かってくれると思ってたのに……」
「……」
「お前だよ」
「え」
フチは指の間からシータを睨んできた。
「ふざけるなよ。能天気に好きだ好きだと垂れ流し、挙句に下心だけで触ったりして……腹が立つ」
「……な、」
シータも黙っていられなかった。
「だからって何で殴るんだよ! 俺がエイリに何したって、エイリの男でもないお前にやられる筋合いないだろ!」
「うるさい! 正論ばっかり言うな!」
「な、」
フチは一喝し、今度は萎れて長く息を吐いた。
「お前は良いだろう。そういう奴だ。だからエイリだって気を許してる。触っても怒るだけだろう。……でも、俺は違う。きっとこんなこと考えてると知られたら幻滅される」
「……」
「お前はいいよな……腹立つ……」
シータは口をあんぐり開けて、目の前の男に引いていた。
何だこいつ。何でこんな拗らせてんだ。
……何でこんなに余裕ないんだ。
ドライで合理的なフチが、突然殴り込んできて謝罪もせず、拗ねたように悪口を言っているのは、あまりにもらしくなかった。
それほどまでに焦っているのだと分かって、シータは思わず、フチの隣に座り込んだ。
「へー」
「……」
「小さかったときは格好つけて生きる目的とか言っちゃってたのに?」
「……」
「いざ抱けるってなって焦ってるわけだ」
「うるさい」
フチはもはや、頭を抱え込んで困窮していた。
シータは急に吹き出したくなって、フチの背中を強めにどついた。さっきの仕返しにかなり強めに。
「触るな」
「……」
「触るなって言ってるだろう。いまお前をどうやって出し抜くか作戦を立てて……痛っ!」
「あはは!」
シータは声を上げて笑ってから、ぼろぼろ泣きだした。
フチはとなりのシータの様子にも気がつかず、ひたすらに考え込んでいる。
……駄目だったなあ。
一途なエイリにシータの心が折れなかったのは、エイリの想う相手が、どうやってもエイリと結ばれることがなかったからだ。小さな身体で、エイリのことを何とも思っていないフチ。
でも彼は、いつのまにかそれを2つとも覆してしまっていた。
敵わなかった。シータの完敗だった。
2人して頭を抱える男子達の後ろで、月が高く上がってきていた。




