エピローグ.仕掛ける騎士と突っ伏す淑女
◇
ぼろぼろのメルンはベッドから這い出した。痩せ細った身体はあちこちに殴られた痕があり、爪が何枚も剥がされていて、こびりついた血が黒く変色している。
シナン城の一室で、エイリはメルンに追い詰められていた。エイリはうるさく跳ねる心臓を無視しながら、寄ってくるメルンと対峙する。
「きみのせいだ」
メルンの顔は漆黒に塗りつぶされていて、地面から響くような声はエイリを厳しく糾弾した。
「きみがわたしの言葉をシナン王に伝えなければ、わたしはシナン王にこうしていたぶられることもなかった。わたしがどれだけ辛かったか分かるか。全て、きみのせいだ」
「……」
分かっている。そんなことは分かっている。メルンの次に、エイリがよく分かっていることだ。
メルンの腕がエイリの首を絞めてくる。次第に苦しくなってくる息の下、エイリはメルンの手を掴んだ。
「ごめんね、メルン。でも、貴方が許してくれなくても、……わたしは、もう平気なの」
先に進まなければならない。エイリにはもう、守りたい人がいる。
「貴方は何がしたいの……カイ」
それを最後に、メルンと部屋はエイリを残して暗転した。
「……」
まただ。また夢を見た。
エイリは頭を抱えて、緩慢な仕草でベッドから身を起こした。身体が凝り固まっていて、あちこちがギシギシと音を立てているような気がする。
エイリはそこで、ここが見慣れたルルの屋敷の一室ではないことに気がついた。相変わらず大きなベッドだけど、部屋の造りが柔らかくて豪奢である。
ここは、じゃあ、アマンテスの街の屋敷かな。
エイリの記憶は実はルルの馬車の中で休んだところから途切れている。酷い夢を何回も見て苦しかったような気がするから、馬車の中で体調を崩していたのかもしれない。
「……」
この広い部屋には誰もいない。いつもならルルの診察があるまで待っているのだが、どうしてなかなか、エイリは心細かった。ベッドから降りて、ストールだけ羽織って部屋を抜け出した。
時刻は昼過ぎだろうか。ぽかぽかと暖かい陽気の中、久しぶりに浴びた日光に目を細める。
この屋敷は中央に中庭があるらしく、廊下の先に緑の芝生が見えた。
「いてててて」
腕と腰が痛いが、だいぶマシになったと思う。エイリは腰を折って中庭に半分せり出した大きな柱に手をついて、そこでショックを受けた。
体力が、なさすぎる。
ほんの少し歩いただけなのに息が上がって汗が出た。寝たきりになってしまってから2週間ほど過ぎただけなのに。
「エイリ!」
「ひゃっ!」
そこで、急に廊下の角から出てきた背の高い影が覆い被さった。
フチだ。
「ど、どうした? 何かあったか? どこか痛いのか?」
「ふ、フチ」
心配そうに見てくるフチに、エイリはどぎまぎしながら首を振る。
フチは何回も心配をしてエイリの様子を見に部屋に訪れてくれたらしいが、未だにちゃんと顔を合わせて話を出来ていなかった。
親指ほどの大きさから、普通の青年になったフチに、エイリはなかなか目を合わせられない。
「エイリは馬車に乗ってしばらくしてから熱が出たんだ。引き返すのも難しくて、結局長引いてしまったんだと思う。5日前にズールを出発して、このアマンテスの屋敷には、昨日着いたばかりだ」
エイリの知りたいことを全て一気に教えてくれたフチは、やっぱり心配そうにエイリを上から下まで見て、急にかがんでエイリの膝の裏に手を入れた。
「へええ!?」
「辛そう」
あっという間に横抱きにされ、エイリは慌てて足をばたばたした。
フチの身体はびくともしないが、暴れるエイリを見て、眉尻を下げて顔を寄せてくる。
うわああああ!
エイリはそれはそれは大混乱した。縮尺のおかしな、エイリの好きな賢そうな緑の瞳が真正面にある。実際はそれが普通なのだけど。
「嫌か? ……でも、今まで肩に載せてくれてたんだし、少しくらい礼をさせてくれてもいいと思う。……だめか?」
うわああああ!
これはやばい、とエイリはくらくらした。普通の男の人だ。苦手なのにフチだ。どうすればいいのか分からない。
「午前中はルルの手伝いをしてたんだが、午後はやることがなくて……昼、一緒に食べよう。中庭にあるガゼボならいい気分転換になるかも」
「あ、うん、あの」
「うん?」
「フチは怪我は平気なの? あと、私! 重いかも! 無理しない方がいいかも!」
フチは憮然として、その場でエイリを少しだけ揺らした。そして何故か、急に得意げに顎を上げてから笑う。
そのあまりにも無防備な仕草に、エイリの頭の中でドーンと太鼓が鳴らされた。
「怪我は全然大丈夫だし、エイリは小さくて軽い。大きくなって良かった。これでどこでも連れていける」
「……」
エイリは言葉も出ない。
こんなに胸の音がやかましいのは、フチが大きくなったからだけではないと思った。
フチはてきぱき準備をして、エイリには胃に優しいメニューと、自分には3人前の食事と本を用意して、中庭の池を見下ろせるガゼボに腰を下ろした。机を挟んで向かいで停止しているエイリを、不思議そうに眺めている。
「食べないのか?」
エイリは目をぱちぱちしてから、慌ててスープに手をつけた。
アマンテスの屋敷は、エイリ達が今までいたルルの屋敷より数段広く、豪奢であった。フチ曰く、ルルの父親であるセイリーン家当主が、マカドニアの国賓等も自治区に招けるように、ということで建てた屋敷らしい。アマンテス自体の気候はマカドニアの中でもさらに穏やかで交通の便が良く、活気ある街である、とのこと。
「人も多いだろう」
言われてみれば中庭に面した廊下にはしょっちゅう人が行き来している。招待された人間も何人かいるらしく、使用人達と違って悠々と辺りを闊歩していた。
「なんだかルルには迷惑ばっかりかけちゃって……申し訳ない」
「そうだな。研究の手伝いだけで充分と言ってくれてはいるが」
ぺろっと昼食を平らげたフチは、池ではなくエイリを見ている。
食事の最中も彼はずっとエイリを見つめていて、気にしないように努めるのが大変だった。
「あー、エイリ」
「?」
「渡したいものがあるんだった」
思いついたように言ってフチが差し出してきたのは、メルンの笛だった。
「……」
エイリとフチの間に、初めて重い沈黙が落ちた。
フチが、ガクだけではなく彼に操られた人間達をジィリア以外殺害したことを、エイリはシータから聞いていた。シータは正直に、フチが怖いと話をしてくれた。エイリはと言えば、何を思えば良いか分からなかった。
ただ一つ、心配をして胸を痛めた。
「ありがとう……」
「……」
「ね、フチ」
フチは返事をせず、急に目線を下げた。
それでも、エイリは話を止める気にはならなかった。
「ガクの力を手に入れたんだよね?」
「……うん」
「記憶は……? 大丈夫なの? 辛くない?」
フチは目を丸くしてから、歯切れ悪く口を開いた。
「……あんまり、何が思い出せないのかも分からないけど。俺は多分、大丈夫」
エイリはずっと心配だった。
ライアを手に掛けたと同時に記憶を失ったのならば、ガクを殺害した場合も同じように、フチは記憶を失う可能性がある。
それはとても苦しいことだとエイリは思う。
記憶は、その人を形成する大切な要素だ。エイリだってメルンの記憶があったから、今のエイリがある。それを急に失うなんて、エイリには耐えられる自信がない。
「ほんとに平気? あの、私ね、フチ」
「……」
「私と会った時からのフチのことなら何でも話すからね。何か、フチの昔を思い出すきっかけになるかもしれない」
それ以上にきっと、フチが辛いのは、エイリには我慢ならない。
エイリはフォークで小さな野菜を突っつきながら、何かフチが昔話をしてなかっただろうかと、焦って考え込んだ。
そうだ、確か一緒にお酒を飲んだ時、色々話を聞いた覚えがある……と、ばっと顔を上げて、エイリは息を呑んだ。
「……」
フチは頬杖をついて、笑いそうなのに泣きそうな、困ったような顔でエイリを眺めていた。
「やっぱりエイリだ」
「……え」
「俺ばっかりのエイリ」
フォークを取り落としたエイリを、フチは逃がしてくれなかった。
視線に捕まったと思ったのは初めてだった。
「お前が生きていてくれて良かった。……お前が死んだと思ったとき、世界が死んだと思った」
「……」
「もう二度とあんな真似はして欲しくないし、させない」
エイリは息を吐くのまで止めて、ぴくりとも動けない。
フチは固まってしまったエイリに気づいて、ふっと笑ってからベンチから腰を上げた。
「替えのフォークをもらってくる」
「……」
「どこにも行くなよ」
そう言ってフチは長い足でさっさと行ってしまった。
立ち去ったフチのベンチに置いてあった本は2冊あって、施設経営についての本と子供の教育についての本だった。前者が難しめで、後者が簡単そうな。
私の、やりたい、孤児院の……。
エイリの頭の中に、読みやすい本を読む彼女の隣で、経営について勉強するフチが思い浮かんで、エイリはもうだめだった。
「わあああああ……」
男の人だ。長い足も丈夫な腕も広い胸も、どうしようもなく。
あんなに嫌悪した男性という生き物なのに、それがフチだと思うと、少し怖いような気がするだけで、嫌だと思わなかった。
それに。
今日のフチはずっとエイリを見ていた。今まで、エイリはずっとフチを見ていて、目が合うと逸らしがちなのは彼の方だったのに、今日は逆だった。今のフチと目が合うと、そのまま捕まると思うような強い目だった。
「……」
怖いとも思う。今までのフチとは違うとも思う。
でもエイリの好きな落ち着いた声も、てきぱきしているところも、間違いなくフチだ。
「好き……」
エイリは机に突っ伏した。
ルルにフチが怖いように思うとか言ってみたり、男の人だからとかごちゃごちゃ考えていた自分は、馬鹿みたいだ。
会って話せばこんなにも好きだと思った。しかもそれをフチは知っていて、それでもなお、一緒にいようとしてくれている。
もー、好き! どうしよう! 好き! かっこいい! すごい好き! 好き!
結局、こうなる訳だった。
エイリは真っ赤になった頬を戻ってきたフチに心配された。そして縮こまりながら昼食を食べて、本を読みながら眠くなり、頭をふらふらさせていた。
聞いたことのない声が中庭に降ってきたのは、その時だった。
「うふふ。仲のよろしいことで」
フチは急に立ち上がり、エイリは意識を覚醒させる。
風が出てきた中庭で、大きな柱の陰から青年がひょっこりと顔を出した。
「やあ!」
「……」
にこにこしながら出てきたのはイースの黒い制服を着た、痩せた小柄な男性だった。
フチがしばらくしてから、エイリをかばうように立っていた位置から退いて、首を傾げた。
「……アンリ?」
「そう、僕だよ!」
真っ白な頭に分厚い眼鏡を額まで押し上げて、大きな黒目の下には濃いクマが出来ている。
不健康そうな人……。
エイリはそう思ってから、閃いた。アンリという名前には覚えがある。確かフチの同期のイースの騎士で、今は……。
アンリは全身で喜びを表現するように跳ねながらパタパタ走ってきて、そのまま転んで池に突っ込んだ。
「わー!」
「アンリ! おい!」
フチが慌てて池から彼を救い出すと、アンリはどろどろのびしょびしょになりながら、そのままフチにしがみついた。
「フチ、会いたかったよ! ほんとに会いたかった!」
「……アンリ」
「友よ! ふぐ!」
ぎゅーっと抱きしめられたフチが、突然アンリの顔を掴んで引き離した。背中から怒りのオーラが出ていて、エイリはびっくりすると同時に納得した。
「なんでお前がここにいる……」
「ふぐぐ!」
そう。彼は、イースの次期国王になる噂のアンリ・サンクルートだった。
フチはそんな彼がイースから遠く離れたマカドニアにいることに困惑し、怒っているのだ。
フチから逃げ出したアンリは、特にフチに対して怒っている様子もなく、くしゃみをしながら犬のように頭を振った。飛び散る水滴に、フチは腕を組んで舌打ちをする。
「一介の騎士ならまだしも、自分の立場が分かっているのか。……アンリ」
「フチ、良い男になっちゃったね。こーんな小ちゃかったのに。ほんとに」
「聞いてるか?」
「うふふ、もちろん!」
アンリは改めて、と言いながら咳払いして、ビシッと指でピースサインを形作った。
「来ちゃった!」
フチは慣れているらしい。
「見れば分かるが」
「王様になるのは辞めた」
「は?」
だが、流石に驚いたのかぽかんと口を開ける。
アンリはもう一回くしゃみをしてから、油断しているフチに再度、飛びかかって抱き着いた。
「アンリ!」
「だからさ、素直に喜んでよ。もう二度と会えないと思ってた。……嬉しいよ」
「……アンリ」
エイリは目を瞬いて、フチと、彼の友人を顧みた。
親友の再会をただ祝う気にはなれない。何か大きな事件が起こるような気がして、エイリは胸を押さえて、ただ不安を呑み下した。