13.
「エイリが生きてる……?」
怪訝な顔をしたフチの表情が何らかの変化を示す前に、シータは素早くフチから距離を取った。殺気を感じたからだ。
「……」
嘘を言うなと聞こえた気がした。無表情のフチの全身から、ざわざわと怒気が溢れている。
震える足を押さえつけるように、シータはフチに向き直った。恐ろしくてたまらない。こんなに恐ろしい人間に出会ったことがなかった。シータなど何の迷いもなく殺すような、今のフチはそんな気がした。
ーーでも!
シータは負けてたまるかと思った。エイリの遺体を目にして死にたくなったのは、フチだけじゃないのだ。
「嘘なんか言うかよ! 馬鹿野郎! 誰が嘘なんか、言うかよ!」
「……」
「早く帰れ! お前に何かあったら、エイリがどんな顔するのか分からないのかよ! ふざけんな!」
声が掠れて、おまけに涙が出て止まらない。最悪だ。でもここで叫んでおかないと、この男に負けてしまうと思った。
「……」
フチは耳を押さえた。続けてすっと細められた目が、そこで初めてシータから逸らされた。
「そうか……」
どうやら、シータの説明にひとまず納得してくれたらしい。
よかった、伝わった……。
気を抜いたシータの前で、ドンッと言う音がした。
「……?」
ガクの喉元に剣が突き刺さっている。一瞬の隙に、フチが背を向けていた。
ガクの顔はただ驚きの表情を浮かべていた。
フチが剣を抜くと、噴水のように首元から血が吹き出した。
反動でガクの身体はぐらぐらと揺れて、結局その場で前のめりで倒れた。バシャ、と水音がする。
シータは玩具のようになったガクを、言葉もなく眺めていた。
「……帰る……」
そう呟いて血塗れの剣をその場で放り投げたフチを見て、この男は冗談じゃなく気が狂っていると、シータは思った。
フチにとって、殺した人間のほとんどが操られていたということは、もはや関係なかったのだろう。皆殺しにすることは決定事項で、その通り、この男はたった数時間で砦にいる全員を一人で殺してしまった。笛の音で操られないように、自身で何回も鼓膜を潰しながら。
「!」
そこで、小窓から差し込んでいた月明かりが何かに遮られ、シータはびくっと身体を揺らした。
小窓に外側から肘をついて、1人の男がこちらを眺めている。深い海のような髪の色に、見たことのない顔立ち。それを半分覆い隠すように、大きなマスクを口元に嵌めていた。
「誰だ……!?」
ここは5階で、そもそも外に足場なんかなかったはず。シータは突如現れた不気味な男に、思わず弓をつがえた。
男はにっこりと目を細め、人差し指をくるくると宙で回した。呼応したのはガクの死体の下にあった、血の水溜りである。
「!」
赤黒い血は一人でに空中に漂い始め、やがて文字を紡ぎ出した。
凄惨な状況にシータは後ずさる。どう見てもこの男はやばいと、本能が警鐘を鳴らした。
『また殺したの? フチ。相変わらずイカれてるね。もう君の記憶は穴だらけで使い物にならないだろう』
「……」
知り合いだろうか。
男とフチを見比べたシータに対して、フチは無表情である。
ただその右手がささやかに動いて、腰元に伸びたのをシータは横目で確認した。間違いなくフチはこの男に何かを仕掛けようとしている。
……なら、こいつは敵だ。
シータはぐっと弓を引き絞った。
『やめときなよ。当たらないし、意味ないよ』
「……そんなの、やってみなきゃ分からないだろ!」
ギシ、と音を立てた弓を止めたのはフチだった。
静かに目の前に挙げられた手に、シータは憮然としながらも腕から力を抜いた。
「……カイ、お前が仕掛けたことか」
フチの平坦な声が、背中を向けたフチから聞こえてきた。
カイと呼ばれた男は目を細めたまま頷く。
『そうだよ。いろいろ大変だったよ。その辺の悪党達を用意したり、大砲盗ませたり。エイリに所縁のある人間はほとんどいなかったからさ。見つけ出したと思って"笛吹き"のストーリアを殺させたらもー、失敗したよ』
空中に浮かんだ文字に、シータは目を剥いた。
『忘れてたよ。ストーリアを殺した人間は、普通はぶっ壊れてまともに機能しないんだった。そいつはエイリを絶望させるには弱すぎた。頭も身体も』
「何、言ってんだよお前……」
シータは自分の声のかすれ具合にびっくりした。目の前が何を言っているのか分からない。ただどうしようもなく、人を道具のように言うこの男が冷酷だということだけを理解した。
「……何故エイリを絶望させる必要があった」
フチの静かな問いかけに、カイは三日月のように目を細めた。
『君は、エイリのためなら何でもやると決めただろう。つまり僕はエイリの心を手に入れれば、君をどうにだって出来るわけだ』
「……俺が……狙いか」
『そうだよ。前にも言っただろう? 君は僕の大切なものを奪った。返してもらわなきゃ』
「……」
フチは眉根に皺を寄せた。言っている内容の半分は理解できないが、この男はエイリを利用したいらしい。
ふざけんな、と思う前にフチの背中から、再びどろりとした殺気が降りてきたような気がした。
その果てしない悪寒に震えて、シータは再び弓を構える腕に力を込める。
「違う」
フチのはっきりした声に、カイは初めて笑う以外の反応を見せてきた。
「違う。お前の欲しいものを、もう俺は持っていない。なんで分からない?」
カイは押し黙ったまま何も言わない。全くの無表情で、能面のように何の感情も見出せなかった。
フチは言葉を畳み掛けると思いきや、急に身体全体から力を抜いた。
「……シータ」
「えっ?」
思わぬタイミングで振り返ってきたフチの目は、シータの身体を支配した。
ーー動け!!!
視線の強さに圧倒されてシータは反射的に腕を離した。
弓がたわみ、矢羽が空気を切り裂いた。
「!」
カイは勢い良く矢をかわし、フチは腰元から長い物を引き抜いた。そのままそれを口元に持っていくと同時に、ひゅっと息を吸い込んだ音がした。
「ーー!」
メルンの笛だと思った瞬間に、鋭い高い音が砦に響き渡った。奏でるわけでもなく、ただ耳に届かせるための強引な笛の音。
まさか、とシータが思った時にはもう、カイは小窓から身体を無理矢理這い出して、部屋の中に転がり落ちた。
フチに、身体の自由を奪われたのだ。フチはついに、ガクの力をも手に入れたのである。
茫洋とした目で、カイは人形のように起き上がってその場で跪いた。
気づけばフチが、拾った剣を構えて後方に引いている。
シータは何も出来ず、驚愕に口を開けたままその光景を見ているだけだった。
「ーー!」
血に固まった剣が音よりも速く突き出された。その切っ先は、正確にカイの喉元を狙い定めている。
「!?」
ーーしかし、フチの剣がカイの触れる前に、カイの身体が空気に滲んで溶けて消えた。
シータはぎょっとして、小窓の方を仰ぎ見る。
初めて彼が現れたのと全く同じ方法で、カイが小窓の外から肘をついてこちらを覗き込んでいた。
『相変わらずイカれてるね、フチ。……ってこの台詞、何回目だっけ?』
「な、なんなんだ、お前……」
「……」
フチが苛立ったようにビュッと剣を振った。
ガクの乾いていない血が辺りに飛び散り、カイは首を竦めて窓枠から身体を離した。
『怖いよー。本気で殺されそうだから逃げることにするよ』
「ーーおい!待てよ!」
シータは焦ってその場で弓をつがえた。
カイはそれが無駄だと言わんばかりに、ウィンクをしてからローブを払った。深い色の布の塊が、渦を巻くようにその場で回転する。
逃げる気か!?
どうすんだ、とフチを振り返った瞬間、シータは呆気にとられてしまった。
フチはカイの方向を眺めながら、見慣れた仕草で考え込んでいる。見たことのないほど険しい顔で。
「……」
カイのローブはあっという間に小さくなって、最後は空中で点になって消えてしまった。
それでもフチは、相変わらず、カイのいた小窓を眺めながら唇に手を当てている。
その手がぶるぶると震えているのを見て、ああ、とシータは理解した。
怒りでどうにかなりそうなんだ。
カイという男と、エイリが傷つけられる理不尽な状況と、それでもカイを殺せない自分。腹の底に濁流のように溢れ出した感情に呑み込まれないように、フチは今まさに、必死にたくさんのことを考えている。
小さかった頃と何も変わらない仕草は、むしろこの状況においては、彼が自分を無理矢理にでも保つためなのではないかと、シータは思ってしまった。
「フチ?」
「……うん?」
恐る恐る声をかけると、フチは顔を上げて、シータを見てからふっと、止めていた呼吸を再開した。
「……帰るぞ、フチ」
「……」
「エイリが目を覚ましたら、お前がいないと慌てるだろ、たぶん」
シータの声が聞こえるようになったのか、フチは目を逸らしながら頷いて、歩き出したシータの後ろについてきた。
シータはいろいろなことが起こりすぎて混乱している。ただ後ろの男が、本当に今まで接してきたフチという男なのか、シータには未だに測れない。それだけははっきりとしていた。
御者は怯えながら馬を繰り、日の出の仄明かりの中、ルルの屋敷に到着した。朝の静けさの中で、降り立ったフチがぐらりと身体を揺らす。
「おい、しっかりしろよ」
慌てて肩を支えたシータより、フチは背が高かった。鍛えられたしなやかな筋肉は、恐らく傷だらけに違いない。
シータは下唇を噛んだ。
「ほんとは立ってられないくらいだろ、お前。……馬鹿かよ」
フチはぼそっと呟いた。
「……しよう」
「あ?」
「エイリが俺を分からなかったらどうしよう」
はあ?と首を傾げたシータの隣で、フチはみるみるうちに俯いてしまった。
シータは呆れて言葉も出ない。
「馬鹿かよ」
「……」
「ほんと馬鹿お前」
「……」
あのエイリがお前を分かんないわけあるかよ、とは言いたくなくて、シータはひたすらにフチを罵倒した。言い返さないフチを半ば引きずるようにして、ルルの屋敷の門を鳴らす。
がしゃん!と屋敷の扉から勢いよく飛び出してきたのは、ルルではなくエイリだった。
「エイリ!?」
エイリが死の淵から舞い戻ってから、まだ数時間と経っていないはずだ。間違いなく、動けるような身体ではない。
それを証拠に、ルルが悲鳴を上げながらエイリを追って、後から飛び出してきた。
「エイリさん! ダメです! なんてこと!」
ルルもエイリも血だらけだった。
シータは青くなった。恐らく両方ともエイリの血のはずだ。
ルルは手術が終わったばかりのエイリが、呼び鈴を聞きつけて慌てて飛び出したのだと、悲鳴を上げながら説明してくれる。
「……」
当のエイリは、そんな騒ぎも気にもとめず、腕を抑えながらフチを目に留めて、次の瞬間には顔をくしゃくしゃに歪めていた。
「ごめんなさい!!」
滝のように涙を流しながら、エイリはその場でわんわんと泣き始めた。子供のように。
「ごめんなさい、フチ……。わ、私が、勝手なこと、したから! ごめんなさい!」
「……」
「あ、貴方の前でし、死んじゃうようなことして……心配かけて、ごめんなさい!」
「……」
「うわああああ」
それを見て、フチがのろのろと歩き出した。
シータはもう、2人に近寄ることができなかった。どうしようもなく胸が絞られるように痛んで、涙が出た。
「ごめんなざい……」
見上げて泣くエイリの目の前で、フチは何も言わないまま、ただ全身の緊張を弛緩させた。
張り詰めた空気が和らいで、ルルが頬を抑えてから安堵の笑みを浮かべる。
シータもただ良かったと心から思った。
フチが無事だからエイリは生のままの感情をさらけ出して、こうやって泣くことができる。
悔しいけど、シータにはどう頑張っても出来ないことだった。
「……」
フチは自分の肩ほどしかないエイリを見つめてから、結局何も言わないまま、よろけて彼女の肩に倒れこんだ。
「えっ!?」
エイリの身体は当然のように踏ん張りがきかず、そのまま2人揃ってもつれるように地面に転びかける。
ルルがまた悲鳴を上げたが、倒れたはずのフチが寸前で地面に片膝をつけ、エイリを抱きとめた。
「……」
ほっとしたシータが、しばらく経っても動きのない2人に近寄ると。
フチもエイリも、その場で気絶していた。
「……もう!」
ルルが怒ったように言ってから吹き出して、その後泣き出した。
シータも同じように笑ってから泣いて、朝焼けの空の下、しばしその場から動くことが出来なかった。




