12.
「フチさん……? あ、ああ……!」
後方から悲鳴と崩れ落ちる音がして、シータは振り向いた。
見ると遺跡の入り口に、ルルと幾人かの使用人がいて、皆悲鳴をこらえるように口元に手を当てている。
先頭のルルは顔を真っ青にして、がたがたと震えながら無表情のシータを見つめ返した。
「……エイリさんから、屋敷の余った食材を欲しいと言われていて、何かおかしな感じがして、探していたんです……」
ルル自体は巻き込めないが、フチは何人でもいいから協力者が欲しいと言っていた。それでデジデリ遺跡周辺の動物に報酬として食物をあげるから手伝えと、フチは契約を結んだのである。彼は数多の動物の中から特に頼りになりそうな動物に呼びかけた。
……結果は、逆効果だったのだけど。
シータはエイリの遺体と共に、ルルの屋敷に戻っていた。
正直、短いはずの道程はあまり覚えていない。唯一覚えていることといえばエイリの遺体を運ぶとき、フチがふらっと立ち上がってそのままどこかへ消えたことだ。ルルの心配の声にも、何ら反応を示さずに。
背の高いシルエットは月明かりの下で妙に儚く、どこかへ消えていきそうにシータには見えた。
まあでも、どうでもいいか。
シータは再びそう思い、エイリの遺体を載せた台のそばで座り込んでいた。
白い布が体に被せられたエイリは眠っているようで、いつかまた再び呑気に目を覚ますのではないかと思っている。起きた時に1人では混乱するだろうから、シータはすぐそばにいるのだ。
「……シータさん」
地下室を貸してくれたルルが、泣き腫らした目で扉を開けて部屋に訪れた。
シータは返事をする気にならず、ただエイリを眺めていた。何も考える気にならなかった。
エイリが死んだ。そんなの信じられるか。
考えることを脳が拒否している。人が死ぬのは何回も見てきたが、ここまで虚無感を覚えたことなど未だかつてなかった。
自分は本当にエイリが好きなのだと、改めて強く思うことしか、シータには出来なかった。
ルルがシータの隣に座り込んだ。
「フチさんは……おそらく、ガクさんという方を追ってノイ砦に向かいました」
復讐に行ったのだと思った。
「何故フチさんの身体が普通の人間と同じ大きさに戻ったか、全く分かりませんが……急激な環境の変化に彼の身体がついていけるとは思いません。心配です」
「……」
「フチさんまでいなくなってしまったら、私……!」
泣き出したルルの声が聞こえたのか、使用人たちが心配そうに部屋にやってきた。血が染みたエイリのシーツを替えてくれるらしい。
シータはそれをぼーっと見ながら、思ったことをそのまま吐き出した。
「いなくなるんじゃないかな……」
「……」
「エイリがいなくなったら、フチは生きる目的がなくなると思うから……」
ルルが嗚咽した。
『頼む、エイリを守ってくれないか。お前しか頼りにならないんだ』
そう言って、あれだけシータのことを嫌っていたあの男は、深々と真正面からシータに頭を下げてきた。ずいぶん調子が良いと嫌味を言ったシータに対して、一切に余計なことを言わずに、ただ信じていると言い切ってまで、フチは頼み込んできたのである。
『惚れてんのかよ』
そんなにエイリが大事なのかよ、とシータは付け足した。どうにも彼の真っ直ぐな感情が気に入らなかった。
フチは意外な速さで首を振った。
『いや』
『じゃあなんだよ』
『……生きる目的』
『……キモいな』
本当にそう思った。この実利が一番なドライな男が、まさかそんな青臭いことを言うとは思わなかったからだ。
フチはしばらく黙り込んでから、『そんなにキモいか』という旨を自信なさげに聞いてきた。どうにも調子が狂うと思いながら、シータは彼の頼みを渋々承諾した。
『分かったけど、お前、これが終わったら言うこと1つ聞けよ』
『やだ』
『は?』
『どうせエイリを1日貸せとかそんなことだろう。だめだ』
全て分かっている小賢しいフチに、シータは歯軋りした。
フチはややあってから気が抜けたように居直して、一言『ありがとう』とだけ言った。相当気を張っていたのだろう、シータ相手に。
その様子に、シータは本当に、フチはエイリを失いたくないのだろうと思った。
そんなエイリが死んだのだ。フチの生きる目的はなくなった。
「……エイリさん……!」
ルルが顔を覆って泣き出した。彼女の指の隙間から、きらきらと涙がこぼれ落ちて床に落ちた。
シータは何故か分からないが、やっとそこで涙が出てきた。エイリの死という事実が、実感を伴ってシータを侵食した。
「……」
その時だった。
ばき、という音がエイリの乗った台から突然聞こえてきた。
「ひっ!?」
シーツを替え終わった使用人が尻餅をついた。
シータは異変に、こぼれそうになった涙が引っ込んだ。ルルも息を飲んでエイリを見つめている。
ばき、ぐちゅ、ばき。
信じられないほど気味の悪い音だった。音に合わせて、シーツを被せられたエイリの身体が不気味に盛り上がった。
「ひいいいっ!」
使用人はシーツを取り落として、一目散に部屋の外へ逃げ出した。代わりの他の使用人が部屋を覗き込むも、異様な光景に叫び声を上げて皆逃げていく。
「……!?」
シータもルルも、エイリの様子に釘付けになった。
エイリの身体は白いシーツの下で、不可思議に盛り上がってはへこんでを繰り返している。まるで誰かが、見えない腕でエイリの身体を強引に元のかたちに戻そうとしているかのように。
「……なんてこと……」
ルルがこれ以上ないほど蒼白な顔で頭を抱えている。
シータも半ばパニックになり、悲鳴を出さないように口を押さえるのが精一杯だった。
この音は、では、彼女の内臓と骨が組み立てられていく音なのか。
「そんな……まさか……!」
ばきん!と大きな音を立てて、最後に大きくエイリの身体が揺れた。振動に上に乗っていたシーツがずり落ちる。
そこにあったのはエイリの白い肌だった。大きくえぐれていた腰には、血に濡れることもなく新しい肌が現れていた。
曲がった腕だけはそのままに、致命傷だけを誰かが強引に直したように、エイリの身体は元に戻されていた。
「……」
そして、血の気のなかった顔色も、見る見るうちに血色良く変化した。頬に張りが戻り、薔薇色に染まっていく。
「嘘……」
シータとルルは我先にとエイリの元へと駆け寄った。
信じられなかった。でも信じたいような、正反対の気持ちがぐちゃぐちゃに入り乱れる。
でも、これだけは確かだった。
「エイリ……!」
また目を開けてくれたら、もう何もいらないと思った。
「……」
重たかったエイリのまぶたがぴくりと動いた。
シータの願いが通じたのか、元からそういう仕組みになっていたのか。
シータにはもう、どちらでもよかった。現れた空色の瞳に、シータは初めて、ただただ嬉しくて涙をこぼした。
「……」
シータは御者に連れられて、ズールの町の端にある森の中を馬に乗って走っていた。後ろには幾人かの使用人達が、顔を蒼白にしてついてきている。
目指すは北の、ノイ砦である。
エイリは一度目を開けたきり、何も言葉を発さずに再び目を閉じた。ただし今度は深い呼吸に胸元が膨らんでいた。
ルルは慌てて治療を開始した。エイリを寝台に細心の注意を払って移動させた後、手術をすると言ってシータに告げた。
『エイリさんは絶対に一命を取り留めさせますし、私にはそれが出来ます。シータさんは、フチさんを連れ戻してきてください。……一刻も早く。彼がノイ砦にいるならば、彼こそが本当に危険です。突然変わった身体に、数多くの操られた人間たちに、不慣れな砦という特殊な土地。……危険です』
多くを語らないルルに『くれぐれも気をつけて』と見送られ、シータは屋敷を飛び出した。
シータも嫌な予感に冷や汗が止まらない。親指ほどの大きさだった男が、普通の人間の感覚に慣れるのには、通常かなりの時間を要するはずだ。おまけに向こうには何十人もの操られた男と、人や、動物までもを操れるガクがいる。1人で立ち向かうなんて、そもそも土台無理な話なのだ。
エイリは死んではいなかったのに、フチが死んだらどうする。目覚めた彼女が、フチがいない事実を知った時にどれだけ悲しむか、想像に難くない。
そんなエイリをシータは絶対に見たくなかった。
ーー馬鹿野郎!
絶対に無事でいろよと、心の中でフチを強く罵倒しながら、シータは唇を噛み締めた。
ノイ砦は峠を越えた崖の縁にそびえ立っている、背の高い建物である。昔、マカドニアの建国される前にここを国境として隣国と争った国がかつて建設した、古い石造りの砦だった。屋上付近からは、矢を射るためか小さな窓がいくつも開いている。それ以外には一切中の様子を窺い知ることはできない。
「……!」
シータはぶるっと身を震わせた。あまりにも砦が静かだったからだ。ここに何十人もの人間が潜んでいるなんて、到底信じられなかった。
その様子に、大人数で最初から侵入はしない方が良い、何かあれば突入します、と色のない顔で使用人達は返答した。シータとしても彼らに無理をさせる気はなかったから、弓をつがえて息を吸い込んで入り口に立った。
思えばこの弓も、フチが提案したものだった。お前は目が良いし、身体も柔らかいからきっと上手く扱えると。
クソが!
マジで死んでるなよ、とシータは深く息を吸い込んで足を踏み出した。
1階には誰もいない。おかしいと異変に顔を歪めたシータが上階に上がると、真っ暗な空間に嫌な匂いが充満している。
「……!?」
何か柔らかいものを踏んだと思ったら、倒れた男だった。既に事切れている。
シータはゾッとした。眉間を鋭利な何かで一突きされている。それ以外に外傷が一切見られない。
「……フチ?」
不安になって情けない声が出た。当然のように返ってこない返事に、シータは喉を鳴らしてあたりを見回した。
暗闇に素早く順応したシータの目は、辺りに同じような死体がごろごろ転がっていることを見つけてしまった。死体の中で立っているのは、この場においてはシータだけである。
「フチ! おい!」
シータは堪らず駆け出した。何回も転んだ。3階も4階も死体だらけだった。変わったところといえば、床に血の水溜まりが出来て、死体の損傷が激しくなっていることだった。
まるで、急所を一人一人狙うのが面倒になって、手当たり次第に武器を振るって殺したように。
これをやったのは、フチなのだろうか。
シータは悪寒に足が震えた。とにかく早くフチを止めなければ彼がどこか遠くに行ってしまう気がした。
「フチ!」
5階は小窓から光が差し込んでいて、月明かりの中で、シータはやっとフチを見つけることができた。
彼はこちらに背を向けた状態で、膝をついたガクの首元にまさに剣を突きつけている最中だった。
追い詰められたガクは、涙をぼろぼろとこぼしながらフチを見上げている。
「フチ!!!」
シータの再度の絶叫にも、フチは反応を示さなかった。
ガクがフチの背中越しに視線を伸ばして、それに気づいたのかフチがようやく振り返った。
「……」
その異様な様相に、シータは言葉を失った。
フチは全身から血を滴らせている。誰の血かも分からない。黒い制服も赤いマントも、はっきり見えないが血に濡れてべったりと身体に張り付いていた。
そして明るいはずの緑の瞳は、見たことがないほど暗い闇を湛えてこちらを凝視している。
「フチ……?」
喉を震わせたシータを何でもないと思ったのか、フチはまたガクに向き直った。ガクが悲鳴を短く悲鳴を上げる。
「やめろ!」
シータは思わず駆け出して、そのままフチに突っ込んだ。
こうでもしないとこの男はきっと止まらないだろうと思ったからだ。倒れ込んだ勢いのまま、自分より背の高いフチの肩を掴む。
「エイリは生きてる! 生きてるんだよ、フチ!」
だから早く帰って来いよ、という続きは出なかった。
フチはシータの声が聞こえていない。
両耳から血が何条も流れ出ている。自分で鼓膜を潰したのだと気づいて、シータは全身に震えが走った。
目の前の男がシータの唇の動きを読んで顔色を変えたことも、不気味に見えた。
こいつは一体、誰になってしまったのか。それとももとからこうだったのか。
シータの知っているフチは、もはやどこにもいなかった。