4.空の上のイカれた淑女
◆
どういうことだ?とフチが思った瞬間、エイリの身体がガクンと揺れた。
「こちらへ!」
気づけばエイリの首元に押し込められている。柔らかい髪の甘い匂いの中、フチはくらくらと目を回した。
飛んでいる。
灰色の空の中、唐突にエイリと少年は浮かんでいた。理解出来ない状況に、フチは頭が痛むのを感じ、抱え込んだ。
「やっぱり、天使騎士、貴方でしたのね」
エイリは少年を抱きしめたまま、ニコニコと微笑んでいる。
悲鳴に近いような木の軋む音が聞こえ、フチはエイリの肩から身を乗り出した。真下の船が大量の煙と共に、今まさに川面に飲み込まれようとしているところだった。
「……」
エイリと少年はぐんぐんと高度を上げ、ライヌ川を遥か下に見下ろすような場所に浮遊している。ちょうど、先程降ってきた崖と、ほぼ同じ高さに位置していた。
何が何だかわからない。
フチは頭を抱えたまま、ゆっくりとエイリに呼びかけた。
「エイリ様」
「はい」
「どういうことか……説明していただきたい」
エイリはフチが風で吹き飛ばないように、優しく手で掴んで眼前に持ってきた。
「はい、この方の力ですわ」
エイリの胸の手前にいる少年は、ブスッとした表情で腕を組んでいる。
そして、唐突に、聞いたことのない口調で喋り始めた。
「イースの卑怯者に渡してやる情報なんか、何もない。俺は王の寵姫たちを連れ戻しに来ただけだ。何でこんなところでこんなことに巻き込まれているのか……理解出来ない」
「……」
およそ少年と思えない喋り口調を、声変わりを迎えていない高い声で喋る彼は、どう見ても異常であった。
そして、先程までのあの無邪気な少年らしさは消え果て、苛立ちを募らせている様子に、フチは愕然とした。
「少年……?」
「少年じゃない! 俺は今年で23歳になる! 正真正銘、シナンの騎士だ!」
「……」
「はい、そうなんです。この方の名はシータ。敗戦国シナンの、特別部隊の騎士隊長さんでしたの」
フチはぽかんと口を開けた。平常、滅多に取り乱すことのないフチだが、こればかりは仕方ないと言えよう。
そんなフチに気づいているのかいないのか、ふわふわと空中に漂ったまま、エイリは笑顔で言い放った。
「シータは空を飛べて、年を取らないんですの! だから天使騎士と呼ばれていたのです」
「……一つ、確認したいのですが」
「?」
エイリは愛嬌たっぷりに首を傾げる。
「シナン人というのはみな空を飛べるものなのですか?」
そんな訳あるかと、眼前の少年が舌打ちついでにフチを罵った。
先の戦争でイースとシナンは苛烈な戦いを繰り広げたが、フチは天使騎士という気取った名前や、空を飛べる少年が騎士として存在しているなど聞いたことがなかった。どうやら、フチと同じく、秘密裏に暗躍する役目だったらしい。
その天使騎士……シータは嫌そうに、自らの姓と目的をこう名乗った。
「シータ・シーカーシニア。シナンの崩御した王の寵姫達を連れ戻す役目に就いて、ここに訪れていた」
意識を半分失いかけていたフチだが、その言葉にぴんと雰囲気を尖らせる。
「誰の命だ?」
まさかもう、シナンの中で次代の王が担ぎ上げられているのか。それならば、イースの騎士であるフチはそれを放っておくことはできない。
「はっ、誰がお前なんかに教えるか!」
吐き捨てたシータの上で、溜め息をついたのはエイリだった。
「元宰相スバルでしょう。……あの方も諦めが悪いですわね」
「エイリ様!」
シータが歯をむき出しにして怒鳴ったが、エイリはどこ吹く風である。
「おそらく、寵姫の中には、私のように周辺諸国の貴族や王族がいます。大方、そのような方たちを人質にして、有利な外交を図ろうとしているのでしょう。……やり方が下手くそと思います。第一無茶ですわ。寵姫の中で正常に機能しているのは、私くらいのものでしょう」
「エイリ様! 喋りすぎだ、いくらなんでも……」
エイリとシータの話しぶりから、フチは今回の粗方を理解した。
「つまりお前は、シナンの宰相スバルの命を受け、エイリ様をシナンに連れ戻すために……亡命を装って俺たちと船に乗り込んだというわけか」
「……」
「船着場で会った時はびっくりしましたわ。そして使える、と思いました」
エイリがにこやかに告げた。
その下でシータが頭を振る。こちらもこちらで、かなり精神が参っているように見えた。
「まさかエイリ様に顔が割れているとは気づいていなかった。この俺としたことが一生の不覚だ……」
シータはずっとエイリをさらうタイミングを見計らっていたが、度重なる不測の事態に対応できず、最後にはエイリの言うがまま、この状況になっていたということらしい。
だが、そもそもの話。フチは恐る恐る、唇に手を当てたまま二人に告げた。
「あー、二人は知らないのだな」
「?」
「シナン王の側近だった宰相スバルだが、すでに今朝、反逆の意思ありとしてイースに捕らえられた」
「……」
「今頃、おそらく、イースの王宮の地下にぶち込まれている。……シータ、貴様の受けた命は……意味をなさない」
鉛より重い沈黙が、漂う3人の中に満ちていった。
「あ、シータ、マカドニア側に着いたわ。降ろしてくださいませ」
エイリの言葉に、フチははっと眼下を覗き込んだ。ライヌ川を越えて、緑あふれる小高い丘が広がっていた。ここはもう、マカドニアの領地だ。
だが、3人はそのままするすると水平に進んでいく。
「……ふふふ」
シータの身体が、不穏に揺れていた。
「……ふ、ふ、ふ。あーはっは!」
「シータ?」
フチは顔色を変えて、エイリの手袋にしがみついた。予感は的中し、次の瞬間、凄まじい勢いで3人は滑空を始める。
「シータ!?」
「信じない!」
シータが血走った目で怒鳴り散らした。
「絶対に信じないぞ、イースの卑怯者が! そんな嘘で逃げようなんて、馬鹿らしい!」
「……いや、嘘じゃないぞ……あとで確かめればすぐ分かるだろ」
「黙れ! その口車には乗らない! エイリ様は、このままシナンに連れて行く!」
「!」
こいつ、とフチは眉間に皺を寄せた。
間違いなくこの少年の意思一つで、3人は空中を移動している。今シナンに連れて行かれれば、混乱の中、大変なことになるに違いない。
「止まれ!」
「はっ! 誰がお前の言うことなんか聞くか!」
再度吐き捨てるように言ったシータの首に、銀色のナイフがかざされた。
「止まりなさい。シータ」
「……エイリ様?」
シータはぎくっと身体を強張らせ、空中で緩やかに停止した。
エイリは笑みを貼り付けたまま、抱きしめたシータの首にナイフを突き出している。
「な、なんの冗談……」
「降ろしてくださいませ」
フチはびっくりして固まった。この女、いつのまにこんな物を。
「エイリ様! なんてことを! お、俺を殺せばこのまま下に墜落します! 死にますよ……!」
「まあ、それもいいでしょう。元から貴方がいなければ船上で死んでいた命ですわ」
「なっ……!」
エイリの口元がひくついている。
フチはようやく、エイリの本性を垣間見た気がした。
「降ろせと言っております。私はシナンなど……あんな人を人と思わないような国などに戻りたくありませんわ」
「でも、……ぐっ!」
「早くしろ! お前の命ぐらいすぐに断てるのが分からないの!?」
シータの首に赤い筋が入る。血が一筋、空中に落ちて見えなくなった。
「……」
フチは改めて、強く思った。……この女、頭のネジが外れている、と。
「エイリ様!」
シータは丘の側の森の中で、木に縛り付けられて猛抗議をしている。
エイリはぶつぶつと何事かを呟きながら、ドレスを叩いて皺を伸ばしていた。
「道沿いに縛りましたから、しばらくすれば誰かが側を通りすぎるでしょう。その人に助けを求めなさいな」
「なんてことを……!」
ギリギリと歯ぎしりをするシータに向かって、エイリは鼻を鳴らす。随分と遠慮のない仕草である。
「もうシナンはなくなったのです。私の寵姫という立場も消えました。貴方と私は、もはやなんの関係もありませんのよ」
「くっそ、この……タダで済むと思うなよ……」
「フチ、貴方はこれで良くって?」
急に話しかけられ、フチはエイリの肩の上で顔を上げた。今の今まで、実はこれまでのことを頭の中で整理していたので、全く構っていなかった。
「え、あ、まあ……いいんじゃないですか」
「お前、適当な!」
「気持ちとしては、このままこいつはイースの王宮に突き出したいですが……その瞬間に俺も貴女も一緒に捕まるでしょう。無駄に殺しもしない方が良い。目立ちすぎる」
ちょっと大人しくなったシータを見やり、エイリは「妥当なとこですわね」と首を傾けた。
「では、改めて。行きましょうか、フチ!」
「お、おい、待て!」
焦った様子で、少年にしか見えないシナンの騎士が声をかけてくる。
「待ってくれ、待って……、待って、おい待てええええ!」
「……何ですの? うるさいですわ」
エイリは面倒臭そうに振り向いた。
シータは俯いて、絞り出すように単語を吐き出す。色素の薄い首筋が、はっきりと紅潮し、苦しそうに見えた。
「……俺は……どうしたら……仕えるべき国を失った、俺は……」
「……」
フチは、自分とシータが似た境遇であるということに思い当たった。二人とも、仕えるべき国に裏切られ、または失い、自分の存在意義が消し飛びそうな状況にいる。
「知らないですわそんなの」
そんなフチの胸中は露知らず、エイリはあっさり言い、シータを背にして道を歩き始めた。
「……」
あまりにも変わりすぎた状況に、フチはしばらく頭を抱えていた。
エイリはすたすたと丘を下る道を行き、小さな森の中を歩いている。いつのまにか雲の隙間から日が差し、風が穏やかにエイリの髪を揺らしていた。
彼女の肩の上は、柔らかく華奢で、どこか不安定である。
「エイリ様」
「何でしょう。あ、道が間違っていますか?」
「いえ。……何故、俺を生かしておくのですか」
唐突な質問に、エイリはぴたりと立ち止まった。
「俺は、貴方の尊厳を踏みにじった王の騎士です。エダと同じ立場です。今回の混乱とともに、俺を殺すこともできたはず。……何より、俺と行くメリットがない」
「……」
「本音で答えてほしい」
ややあって、エイリは再びフチを眼前に引っ張り出した。
愛らしい笑顔に、フチはぐっと身構える。
「貴方は騎士でしょう? 私を護衛する。だから……」
「そういうんじゃない!」
短いフチの怒声に、エイリは目を丸くした。
「お前は、イースの人間もシナンの人間も殺すことにためらいがない。城の中しか知らないお姫様に、そんなことが簡単に出来るはずがない」
フチは考える。
エイリは、イース人にもシナン人にも悪意を募らせているように見える。殺すことに厭いがなく、誰も信用していない……つまり、生来からの人嫌いだ。
彼女をそう育てたのは、恐らく環境だ。
「お前の過去を俺は知らないが、先程の件から、シナンで……そしてイースで、相当の仕打ちをされたのだと見える」
「……」
「その経験は人間を簡単には変えられない。そして、そこまでの理由を覆して俺といる理由が、俺には分からない。……何故、俺を連れて行く」
エイリはゆっくりと目をそらした。そして何故か、頬を染めて下を見やる。
「だって……貴方、可哀想なんだもん」
「……は?」
フチは目を丸くした。
「私、今まで、自分が一番可哀想な子だって思ってきたの。生まれ故郷も家族も小さい頃になくなって、知らない人たちの中で、性教育ばっかり教えられて。大事な人もいなくなってしまった。貴方の言うとおり、私は周りの誰もが嫌い」
「……」
「……でも、貴方の方が可哀想。そんな身体で、王様にも裏切られて、仲間にも殺されそうになって」
まさかの返答にフチは言葉を失い……次第に怒りを感じた。この女は、フチのことを何にも知らずにただ同情しているだけなのである。
「お前、ふざけるなよ……」
「で、でもね、あのね! 怒らないで聞いて!」
エイリはますます赤くなった。
フチは理解できないエイリの対応に苛立ちを募らせる。
「でも、貴方は自分を可哀想と思ってないでしょ? あと騎士としての誇りをちゃんと持っているでしょ?」
「何が言いたい!」
「好き!」
は?とフチは固まった。
エイリはぎゅっと目をつむったまま、焦って言葉を積んでいく。
「かっこいい! 尊敬してる! ……あと声が好き! 好き!」
2人の狭い隙間を通り過ぎた風は、優しく森の木々をざわめかせ、消えていく。
フチはゆっくりと脱力し、そして、ドン引きした。
「……」
そんなフチを見て、エイリは次第に涙目になりながら、ドレスをぎゅっと握りしめた。
「だから、これで理由になるでしょ! 貴方の目的を叶えたいの! だから、私の護衛を任せるの!」
「……」
「べ、別に貴方と添い遂げたいなんて言ってない! ただ、貴方の力になりたいだけ……なの。だからそんな目で見ないでよお」
言葉尻を滲ませて、ついにエイリは泣き出した。子供みたいに。
……この女は。
フチはほとほと困り果て、仕方なく背伸びをし、マントを掴んで自分の顔ほどの大きさの雫を受け止めた。
「わ、分かった。分かったから泣き止め。泣き止んだら、……行くぞ、一緒に」