2.グリンズ・レディ
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フチは最近どうしようもなくイライラしている。原因はいくつもあって、調子に乗ったシータがわりと本気でうざったいことであったり、屋敷の上を飛んでいく鳥や中に潜んでいるネズミが喋りまくっていて、その内容が下らないことであったり、ソルの口が悪すぎることであったり。
とにかくフチは寝不足も手伝って、最近ルルの手伝いの時に彼女を人知れずに怯えさせていたらしい。気遣うように尋ねてきた。
「か、身体の調子はどうですか? あ、痣は見た目だけのものなのでしょうか」
「……ああ」
こぽこぽと湧き立つ小さな硝子容器の前で、フチはその中を覗き見ながら頷いた。
ルルの研究室は雑多で、最初の頃はよく、フチは崩れ落ちた資料やら器具に挟まれて身動きができなくなった。ルルは大いに反省して、フチのスペースだけちゃんと確保してくれている。
そのフチ用のスペースで、フチはルルの研究の手伝いと、ついでに自分用の研究もいくつか進めている。
「痛みも痒みも何もないが、見た目はどうにも治らない。……普通の痣なら落ちる薬も使ってみたがダメだな」
「そうですか。……原因は、ライアさん……シフォア人の殺害の可能性が高いですね。……すみません」
「いや……気にしないでくれ。……今更彼女の偉大さに驚いている。動物たちの喧しさときたら堪らないんだ……気を使わせて申し訳ない」
「いいえ……あ、ああー」
「失敗か? あ、……ああー」
ルルが外出を提案してくれたことも、フチの機嫌が悪いことが理由の一つだったことが何となく察せられて、フチは申し訳ないと思っていた。
申し訳ないと思いつつ、目の前の試薬の変化に集中しているので会話は茫洋とした感じになり、それはルルにも当てはまる。研究者同士、わりと大事な話が流されて行くように交わされる。
「シフォア人を殺害すると、……その力の片方だけが、殺害した者に移行する……新しい仮説を立てます……」
「その代わりに……痣だな」
「何か他に変化はありますか?」
「……」
フチは黙り込んだ。ルルはしばし経ってからちらっとフチを見たが、目の前のどろっとした液体が泡を噴いたので、慌てて研究に目を戻した。
現時点でルルに言うことはない。彼女の研究が進まなくなるのは承知の上で、フチは彼女よりシフォア人について深く理解し、矛盾に行き詰まっているところだった。
ルルに連れられて、フチとエイリ、それにシータは、屋敷からすぐ近くの栄えた街にやって来ていた。
エイリはもうほとんど全快といってもいいような状態で、ルルおすすめのケーキ屋にわくわくしている。
「綺麗な街だね」
「ズールの街は観光地なんですよ。向こうに石の建物が見えませんか?あれはマカドニア建国以前からある歴史的な建造物で、その奥のノイ砦と合わせて、マカドニアの歴史を知ることができる数少ない土地なんです」
「へええ〜」
フチ達の前には、古いが綺麗な石畳の街が広がっている。華やかな店が多く並び、人々も活気づいていた。
ルルに貸してもらったというドレスを着たエイリはつば広の帽子を被っていて、フチはそれがとても気に入った。何せ見晴らしが良く歩き回れるスペースがある。あとフチは最近の寝不足もたたってエイリの襟元だとすぐ寝てしまうので、別の場所にいるのは逆に都合が良かった。
フチだって見たことのない街を見て回るのは実は楽しみだったのである。
「エイリさん、おすすめのケーキ屋さんはあっちですよ」
「バターケーキはあるかなあ」
目を輝かせたエイリは、ついてきたシータを見て憮然とした顔つきになった。
「なんで」
端的かつ結構酷な質問に、シータはしかめっ面をしている。
「俺もケーキ食べるとこだったんだよ。……なんだよ! いいだろ、別についてったって!」
「……」
ルルがまあまあと取りなした。彼女は意外とシータに甘い。最初に屋敷でシータがシフォア人と知ってから、例のマッド状態になったルルに追われているシータを見たが、どうも彼女はそのあとやりすぎたらしく、シータに引け目があるのである。
「男の人が一人いるだけで大分違いますから。私もお願いしたんですよ」
「そうなの……」
「そうだよ。ほら行くぞ」
「あ、シータさん、道が違います」
「……相変わらずエスコートが下手」
「うるさいぞ」
『……おいおいおい。あのオス盛ってんぞ。いいのかてめえ』
フチは盛大に溜め息をついた。
頭上から派手な音をさせながら、白い鳥が降りてきてエイリの帽子のつば、フチの隣に留まった。目下、フチの苛立ちの原因の一つである鳥、ソルである。
エイリはびっくりしてつばを押さえたが、ソルだと分かると鞄からニンジンを取り出した。エイリは実はこの鳥が気に入っていて、報酬のニンジンをフチに頼まれずとも自分であげるのが日課になりつつある。
「やっ、ソル。今日のニンジンだよ」
『色気付いてどうしたっての? 番でも見つけに行くのか?』
ソルが話していることが分かるのはフチだけである。ソルはそれを承知で、全方向を煽る質の悪い鳥であった。この鳥を雇ったのは他でもないフチであるが、それを後悔する日も少なくない。
ルルとシータに断って、フチ達は街の広間の噴水で一時休憩をすることにした。
「ねえ、フチ」
「うん?」
エイリはすごい勢いで持ったニンジンを突くソルを眺めていた。
シータとルルは、ちょっと離れたところで珍しい芸人の動きに釣られて、興味深そうにそれを観ている。
「フチはソルと話せるんだよね。今も」
「うん」
『ニンジンうめええええ!』
「ニンジンうめええええ!」
「!?」
「……って言ってる。基本的にくだらないことばっかり言ってるぞ。こいつらは」
「似てるの、それ? ソルってそんな感じなの? なんかヤダ……」
いい陽気で、流れる時間も穏やかだ。フチはエイリの腕に腰掛けて、いつものように考え込んでいた。
ゴス村でライアに手をかけた直後、脳内に響いてきた声のことを、フチは最近ずっと考えている。
……よくもおれの生き餌を殺してくれたな。汚れた欲望のために力を使うとは口惜しい……。
初めて聞く、地の底から響いてくるような恐ろしい男の声で、同時に激怒の色を含んでいた。
フチは思わず反論したが、その声はろくに取り合ってくれず、理解できないことを言い残した。その直後に直後にフチは気絶したらしい。あまり状況については思い出せないのが歯痒い。
……理由などどうだっていい、くだらぬ。貴様の一部を奪っていくぞ。全く、全く割に合わん……。気に狂って死ぬがいい。
思い出しても嫌な気分になる。実際フチの大切なものは何も無くなっていないし、フチはおかしくなって死んでもいない。だがどうにも、フチの妄想と片付けるには唐突で、やけにはっきりと頭の中に焼き付いていた。だからルルはおろか、エイリにもこのことは相談していない。いたずらに不安にさせたくはなかった。
……俺の一部……大事なものを奪っていく、か。
いずれその意味が分かるのかもしれないと思うと、フチは憂鬱だった。
「フチ、フチ、ケーキ、いっぱい種類食べたくない?」
「……うん? うん、食べたいな」
はっと気づけばエイリの明るい顔が目前にある。ソルは満腹でその辺りを飛び回り始めていた。
フチが首を傾げると、エイリは花が咲いたように微笑んだ。
「じゃあ、半分こしよう!」
「……半分か」
「え、身体の比例で割ってもいいの?」
「そっちじゃない。好きの度合いで……ケーキにかける愛情の度合いで決めるべきだと考える。俺は100はあるぞ」
「屁理屈言わないの。あとそれもう半分こじゃないから」
失いたくないからこんなに憂鬱なのだと思い当たって、フチは笑うエイリを眩しく見上げた。
非常に美味なケーキ屋をエイリもシータも気に入った。フチはもちろん3個完食するほど気に入った。
テーブルについてお茶を飲みながら、ルルが時間が余ったからどこかに行こうかと提案して来た。
「珍しい薬草を使っているお店があるんですよ。フチさんは興味がないですか?」
フチはふむ、思案する。正直に言うとかなり興味がある。フチの使う毒や薬は、最近使う機会が多かったのでストックが切れて来ている。抽出はルルの研究室の道具を使わせて貰えばいいし、良い機会だ。
「私は本屋に行きたいな」
フチはびっくりして急に言い出したエイリを見上げた。エイリが本を読むイメージが全く湧かない。
フチの失礼な思考を読んだのか、エイリはフチを指で突っついてくる。
「いててて! え、エイリ、ごめんって。……どんな本を読むんだ?」
「内緒」
「……」
「じゃあ俺も本屋についてくよ。フチとルルさんは行ってこいよ。広場で待ち合わせにしたら良い」
シータの提案にルルが賛同し、フチとエイリは納得いかないまま、まあこんなことで揉めるのは本意でないのでそこで一旦解散することにした。
去り際にシータの肩に乗って、フチは忠告することにした。よもや街中でエイリに手を出すようなことしないと思っているが、乗り上げた肩がエイリと比べてあまりにも大きいので、やっぱり警戒する。
「シータ、分かると思うがソルを監視につけておくからな。エイリに下手なことをすれば新しく作る毒の実験台にしてやる」
シータは歯を剥いた。この男は見た目ばかりは大人なのに、仕草がいまだに少年である。
「こえーよ! しないからそれほんとやめろ!」
「ふん」
「というか、」
鼻を鳴らしたフチは多少溜飲が下がったものの、続けられたシータの言葉に閉口した。
「お前は何なんだよ! 何でそんなこと言ってくるんだ?」
「は……?」
「言っとくけどな、俺はエイリに殴られるのは別に全然良いけど、フチにこうやって邪魔されるのは納得がいかない! お前はエイリのことなんて何とも思ってないんだろ。あと一緒にいられる奴でもないだろ!」
「……」
「筋違いだって言ってんだよ」
身体を大きな手でがっと掴まれ、おろおろしているルルの手の平に落とされる。
シータは肩を怒らせて踵を返した。さらに、エイリが彼を待たずにさっさと先に行っているのを見つけて、大きな歩幅で走り出した。
「エイリ、あっちだ!」
「は? 違うから。あっちだから」
「……」
「方向音痴」
「うるさい」
エイリがフチに向かって手を振るのに、フチは見えないフリをしてしまった。並んで歩く彼らは、綺麗な淑女と不慣れな騎士にしか見えなかったからだ。
フチはルルを促し、彼らに背を向けて店へと向かうことにした。
帰りの道中、エイリにどんな本を買ったのか聞いても、彼女はなぜか教えてくれなかった。
ちょっと落ち込むフチをソルが汚い口調で煽ってくるので、フチはこいつを薬の実験台にしてやろうかと割と本気で考えた。
屋敷の前で異変が起きているのにシータが気づいたのは、そんな最中である。
「ん? あれ誰だ?」
「……」
セイリーン家の大きな屋敷は庭も広く、屋敷の門から玄関まではかなりの距離がある。
その門の前で、困り果てている屋敷の使用人と黒い制服の騎士が揉めているのが見えた。
見覚えのある背中に、フチの心臓がドクンと音を立てる。
「ーージィリア!」
黒い制服を着た短い黒髪の女性が勢いよく振り返り、ホッとしたように表情を緩めた。
彼女の名はジィリア・テスタナンク。イースの騎士でフチの同僚だった。フチと同じく前王カミルから『王のお墨付き』と呼ばれ、特別な地位にいた女性騎士だ。
なぜ、たった一人でこんなところに。
「フチ! ……やっぱりフチじゃない! よかった!」
シータが姿勢を低くしたのを見て、フチは慌ててジィリアを止める。
フチ以外の3人は、その真っ黒い制服の物々しさにかなり警戒をしているようだった。特にエイリは過剰なほど身を固め、肩口のフチを彼女から遠ざけるように大きく身を引いた。
無理もないとフチは思う。本来ならば、イースの騎士がこんなところに気軽にいて良いはずはないのだ。
それに。
「何の用だ?」
厳しく言ったフチに立ち止まり、ジィリアは眉尻を下げて俯いた。心なしか痩せたような。気丈だった雰囲気も弱々しいものに変わっており、苦労したのだということが伺えた。一体、フチが国を出てからイースの王宮で何があったのだろう。
「話があって、ここまで探して来たの。……ここでは誰が聞いているか分からないから、どこか人のないところで話したい」
「……そんなヘタクソな罠に引っかかると思うのですか? フチが? だとしたらおめでたい頭ですこと」
エイリが白熱した怒りを声に含みながら強い口調で言った。相当に怒っているのが分かる。
意外にも、ジィリアはエイリを見据えて、頷いて頭を抱える。その通りだとでもいうように。
「分かっております。……素直に話を聞いてもらえないことぐらい。だが、どうしても話をしたいのです。フチに危害を加えないことはイースの騎士としての矜持を懸けて、ここに誓います」
「では、屋敷の一室をお貸しいたしましょう」
「ルル嬢?」
フチはぎょっとした。隣にいるルルは、ジィリアにビビりながら「さあ早く」と残りの面々を急かした。
「だめだ、ルル嬢。分かっていると思うが、これはイース国に関することだ。マカドニアの貴女を巻き込むわけにはいかない」
「で、でも、こうやって屋敷の前にいて変な噂を立てられる方が迷惑です」
「……確かに。フチ、俺も同席するから部屋を借りた方がいいよ。あの女1人なら何かあったら俺が抑えるし」
「……お前も信用ならないんだ。俺は」
元シナンの騎士であるシータにイースの内情を漏らすことは、フチには強い拒否感があった。
シータは再び肩を怒らせて、顔を真っ赤にした。
「いい加減にしろよ! 俺が今シナンに戻って何ができると思ってんだよ! あとな、今俺以外に国が関係ない奴がどこにいんだよ」
「……」
フチは困ってしまってしばらく考え込んだけれど、結局その案が一番良い方法だとしか結論できなくて、ルルに頭を下げることにした。
「フチ、私も一緒にいても良い?」
「もちろんだ。この状況で俺に関することなんて、十中八九エイリが関わってくるんだから。……」
載せられたエイリの手の平が汗で濡れている。なのに冷たく震えていて、フチは彼女を見上げて驚いた。
「エイリ?」
エイリの顔が、初めて見るほどに青ざめている。何かに怯えているように。
「ありがとう。……行こう」
しかし問いかける間もなく、エイリはフチを緊張しっぱなしの肩に乗せ、そのまま歩き出した。
ジィリアはシータとエイリの同席を渋々と承諾し、長く息を吐いた。
ーーいったい何が。
常に推測を立てる性格のフチだが、今回ばかりはまるで予想もつかない。気を引き締めて、勢いよく息を吐いた。




