12.
ウゥオーーーー。
狼の遠吠えが悲しく、狂おしく明け方の空に響き渡った。
シータはそれにはっとして、ふらつきながらライアのもとに膝をつく。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん」
アリアが、すでに動かないライアの身体を揺らしていた。
そしてフチは、剣を持つ手を下に垂らしたまま、虚ろな様子でシータを見上げた。
「質の悪い毒だ。混ざり物が多いせいで解毒も出来ず、苦しみだけが長く続いた。もっと強い毒で、早く死なせてやるしか出来なかった」
こんな時でも、この男の声ははっきりとして聞きやすい。
シータは思わず、頭を地面にこすりつけた。涙が堪えられない。
「何にも……出来なかった……」
シータは自分を大馬鹿野郎だと思った。子供の身体も、機転の利かなさも、行動力の無さも。どれか1つでもあれば、ライアは死ぬことはなかったかもしれないのに。
「フチ?」
ベリィが高い声で叫んだ。
顔を上げたシータは目を剥いた。
「……?」
フチが頭と胸に手を当てながら、見たことのない顔で地面に膝をついている。剣も取り落としている。目が血走り、誰も見ていないのに、瞳が左右に激しく揺れていた。
「フチ!?」
様子のおかしいフチにベリィが慌てている。
フチはそれに答えることもなく、ぶつぶつとうわごとのように呟いた。まるで誰かがここにいるかのように。
「違う、そうじゃない。殺したのは俺だが、欲しがったからじゃない……」
あのフチが、狂乱しかけている。
焦ったシータも大声を出した。
「フチ! しっかりしろ!」
「……」
駆け寄ったベリィに倒れかかるように、フチはフッと目を閉じ、意識を失った。
「どうしたんだ!?」
「……」
ベリィはフチを支えながら、そっとシータを見上げた。長年の付き合いから、こういうときにはこの小さな相棒は、何かを隠していると知っている。
隠し事なんか、してる場合じゃないだろ!
シータが怒鳴ろうと口を開けた瞬間だった。
再び大きく地面が揺れた。
シータは心臓が鷲掴みされたような気分になる。
ざわざわと揺れる森の中、朝日が眩しい空の中。大きな灰色の塊が、ものすごい勢いでこちらを目指して移動してきているのだ。
直感で、シータは思った。
あれは、ライアを……友人を殺された怒りに、我を忘れた獣達だ。何百、何千という獣達の集団が、怒りに狂いながらこちらに迫ってきている。
「フチ! シータ!」
軽い蹄の音に、シータは泣きながら振り返った。
広場の入り口から、馬に乗ったエイリが現れた。血だらけのドレスに、痛ましい肩の包帯、長さの揃わない血塗れの髪。
異様な出で立ちだったが、シータは確かめることも出来ず、ただただエイリを見上げる。
「……」
エイリは蒼白な顔をさらに蒼白にして、一目で状況を把握したようだった。素早く馬から降り、ライアの身体に駆け寄った。
「エイリ!」
「逃げよう」
エイリはフチを襟元に押し込み、ライアを抱きかかえて立ち上がった。
シータは頷き、四つん這いになったまま動かないアリアの身体を引っ張り起こす。
アリアは呆然としたまま、シータに従うだけだ。
ここにいては危ない。怒りに燃える獣達には人間の事情など到底理解できず、ただただそこにいる人間を傷つけようと、襲いかかってくるに違いない。早く逃げなければ。
「え!?」
しかし、エイリの乗ってきた馬は恐れをなし、素早くその場から逃げていた。
あっという間に、獣達が目前に迫っている。
「飛んで!」
エイリの鋭い声に、シータは思わずアリアを抱きかかえて空へと急浮上した。地響きが身体を揺らし、唸り声とベリィの悲鳴がシータの頭の中を叩く。
「エイリ!」
ゴス村の家を破壊し、畑を踏み荒らし、獣達は走り去った。もはやライアの身体を通り越して、彼らはどこへ向かうのだろう。
エイリは地面に這い蹲り、一瞬で泥だらけになった顔を苦悶に歪めた。獣達に踏まれ、蹴られた彼女の身体はぼろぼろだった。真下のアリアと襟元のフチは無事だろうが、彼女は身を呈して庇ったせいで、あちこちから出血している。
「エイリ、エイリ!」
「……っ」
「シータ、まだ来るよ! 足の遅い動物達が、遅れてやって来る!」
ベリィの声も遮り、シータはエイリのそばに駆けつけた。
だめだ、と思った。
シータが一緒に飛ばすことが出来るのは、人だったら1人で限界。アリアで手一杯だ。
「エイリ、立てるか? ……」
エイリはよろよろと地面に肘をついた。
まずい、まずい!
身体の震えがやまない。また獣達がやって来る。
今度はもう、きっと、エイリの細い身体は耐えられない。
「エイリ、ごめん、ごめん!」
シータは彼女の背中を抱きしめた。
エイリと会ってから、何度目か分からない願いを、シータは喉が潰れるくらいの声量で叫んだ。
「悔しい! エイリ、ごめん、俺が大人なら、みんな抱きしめて走れるのに!」
「……」
「空なんて、飛べなくていいから、大人になって!」
……あんたを守りたいんだって!
「……シータが、」
「……!」
「シータが大人だったら」
腰に回った手が、ぐっと握られた。
シータはぼろぼろ泣きながら、振り返ったエイリの顔を見上げる。
彼女は困ったように笑っていた。
「すぐ泣くのも治るのかな……」
「……エイリ」
「行って、シータ。アリアがいる」
手が剥がされる。
シータが絶望した瞬間、耳元でベリィが囁いた。不気味なほど静かな、切ない声音だった。
「あーあ、願っちゃった」
「……?」
変化は一瞬だった。
「!」
シータは自分の身体が音を立てて拡張していくのを感じた。関節がばきばきと膨らみ、筋肉が伸びていく。視界が高くなり、エイリの背中を覆うように抱きしめているのは、間違いなくシータだった。
「え、」
シータは一瞬だけ驚いた。知らない男の手の平が目の前にあるが、自分の意志で動いている。
間違いなく、シータは大人になったのだ。一瞬で。
「……!」
「し、シータ? え?」
シータは素早く行動を開始した。
「エイリ! 背中に掴まれ!」
混乱しているエイリに背中を向け、アリアとライアをそれぞれ片腕で担ぎ上げた。力の抜けたライアの身体は重かったが、シータはそれを軽々と担ぎ上げた。3人分の女の子の体重など、今のシータには何も脅威ではなかったのだ。
あんなに出来なかったことが出来るようになったのに、シータの頭は妙に冷静で、転ばないように地面を見ながら、川の方へ駆け出した。逃げるとしたらあそこしかないと、偵察に育てられた勘が言う。
そしてシータの本能はすでに理解していた。もう、自分がこの大空に浮かぶことはない、と。
「シータ!」
背中でエイリが叫び声をあげた。
アリアがびくっと身体を揺らし、森の方を見て唖然としている。
ーー来た!
それは野生の熊の集団だった。
両手両足を地面につけ、地面を大きく揺らしながらこちらに走ってくる、何十頭もの黒い塊。目は剣呑に輝き、口元がめくり上がって凶暴な牙が覗いていた。
川に飛び込むしかない。逃げられる保証はないが、何もしなければ死ぬだけだ。
「エイリさん!?」
その時。川沿いの森の道の中から、巨大な馬車が現れた。先頭を引っ張る馬が甲高く嘶いては、前足を高くあげて暴れまわっている。
その後ろの馬車の窓から、グローアとトルクが驚愕している顔が見えた。
「馬鹿!」
シータは走りながら怒鳴った。
なんで来たんだ、早く引き返せ、巻き込まれるぞ。
言葉が、続かない。
「フチ!!」
シータはつんのめるようにして足を止めた。背中から、エイリの体温が消えている。
「フチ、どこ行くの!?」
白い羽根が舞い狂い、エイリは何故か、その中で獣の方に向かって走り出したところだった。
その先には白い鳥が急旋回し、獣達の前に躍り出たところである。
「……!」
シータは理解が出来なかった。
白い鳥の背に乗ったフチが、熊達からシータ達を守るように立ちはだかっている。
そして怒り狂っていたはずだった黒い獣達は、砂埃をたてながら、その場から動かなくなった。目線だけは剣呑に、小さな騎士を睨みつけている。
「あいつ何してんだ……!」
「シータ!」
駆け寄ろうとしたシータを、ベリィが止めた。睨みつけたシータの眉間の皺を、再び「まあまあ」と言いながら伸ばしてくる。
「ベリィ!」
「大丈夫なんだって。フチはきっと上手くやるよ。不本意だろうけど、ライアの力を手に入れてしまったんだから」
「……?」
ライアの力?
はっとして仰ぎ見たシータの前方で、熊達が唸りながら後ずさった。
「……」
そしてそのまま、踵を返して森の方へ戻っていく。
「……」
「フチ!」
白い鳥は、よく見ればローリアンの屋敷でもフチを背中に乗せていた。その鳥は空中で高度を変えないまま、ゆっくりと後ろで見ていたエイリに近寄っていく。
エイリはそれが待てないように、肩を抑えながら鳥に駆け寄った。
「フチ? フチ、大丈夫?」
白い鳥の背中から、小さな黒い騎士がふらりと落ちた。
エイリはそれを両手で受け、胸に抱えて俯いた。
グローアとトルクが馬車から降り、泣きながら近寄ってきた。2人とも状況がよく飲み込めておらず、混乱していた。
「……シータさんなの?」
「アリア! 無事でよかったです! ライアも! ……ライア?」
アリアが糸が切れたようにシータの腕の中で泣き始めた。シータが彼女とライアを地面に降ろすと、すぐにライアの遺体に縋り付いた。
そこで、見たことのない灰色の髪の女性が視界に滑り込んできて、ライアが息をしていないことに気付いて顔を蒼白にした。
姉弟は何があったのかを素早く悟り、アリアを両脇から抱きしめて涙をぼろぼろとこぼしている。
あまりにも悲しい光景に、シータはかける言葉も見つからない。代わりに。
「……ベリィ」
隣に浮かぶ親友に、静かに問いかけた。
「フチは……動物と話せるようになったのか? ……ライアに、最後に手を掛けたから」
ベリィの返事はなかった。それが、何よりの肯定だった。
獣達に破壊された村はもう、跡形も残っていない。恐ろしいほどの静かな朝がそこにはあって、シータ達の状況とは裏腹に、眩しい太陽が森から顔を覗かせた。狼の遠吠えが再び哀しく聞こえた気がするが、定かではなかった。




