11.嘘つきと狼
☆
夜が明けつつある。
シータは薄い紺色の空の中を滑空していた。鳥達がバタバタと、暗い中なのに飛んでいる。
ライアの行き先を示すかのように一直線に並ぶその様は、この異常事態を端的にシータに示していた。
「ライア、もう着いたかな」
「分からない。ーーベリィ。とにかく急いでくれ」
「これが全速力なんだよね〜」
シータは肩にいるフチに呼びかける。
彼はすんなり返事をしたが、切羽詰まった様子で考え込み続けているようだった。おそらく子供達の安否で頭が一杯になっている。ベリィの能天気な返事も無視だ。
だが、シータはフチの心配を気遣う質でも、そんな気分でもなかったので、気づいた事実に憤り、責め立てることにした。
「ていうかお前、知ってただろ!」
「……」
「ローリアンの悪趣味野郎が、子供も好きだってこと!」
「うん」
シータは白目になった。
シータが動けない可能性を論じて作戦を立てたのは彼だ。聡いフチが、明確な理由もなくそんなことをする訳がなかった。
「お前かエイリのどちらかが呼ばれるんだと思っていたが、両方とまでは考えられなかった。……俺のミスだ」
「お前、別の反省しろよ!」
「……話したらお前がエイリを置いて逃げ出す可能性があると思った。だから言わなかったんだ」
「……」
つまりこの男は、最初からシータのことなど全然、信頼などしていなかったのだ。
シータは眉間に皺を寄せた。ベリィが「まあまあ」と言いながら皺を伸ばしてくるのを、頭を振って振り払う。
ベリィはこの男に甘いのだ。
「あとな! あれもだ!」
肩を怒らせたシータに、フチが溜め息をつく音がする。
だがめげない。こういうところで挫けないのは、シータの生来の負けん気が影響していた。
「お前、あの毒針、エイリに渡してなかっただろ!」
「……」
ローリアンの屋敷に忍び込む前日に渡されたフチお手製の毒針は、まだシータの礼服の中にしまったままである。シータがそれを使うことを思いつかなかったのは単に気が動転しすぎたからだが、エイリはそうではなかったはずだ。わざわざ燭台を振り回すことなんかしなくても、簡単にローリアンの意識を奪えるものが手元にあるならば、あのエイリはそれを迷わずに使うように思えた。
だが、使わなかった。つまり。
「俺に嘘ついたな……」
エイリに近寄らせないための、フチの牽制だったのである。きっと彼は、簡単にエイリに人殺しなどさせる気はない。
先ほどの2人の様子を見て、その信頼の厚さに、シータは落ち込みかけていた。
フチは今度は肯定しなかった。代わりに怒気が発せられる。
「なぜ分かった」
「えっ?」
「またエイリに手を出したな」
「え、いや」
墓穴を掘ったシータに、ベリィがまた頭を抱えた。
「見下げた奴だ」
「……」
「……だが、それがエイリには良かったのかもな」
フチは急に声から力を抜いた。
シータは目を瞬いて、フチの言葉を待つ。
「エイリは多少、お前を信頼しているように見えたし、結果的に無事にネックレスを奪えたみたいだしな……。それについては、感謝しているし、信頼しようと思う」
「……」
耳に響く低音は心地よい。フチの言葉は騎士という職業柄からか、飾り気がなくまっすぐだった。
シータは唇を尖らせた。年齢よりずっと、フチが大人びて感じて悔しかった。
……勝てないなあ、何もかも。
拗ねそうになっているシータだが、ふと、彼の誤ったアドバイスを思い出して突っつけることに喜んだ。
「エイリが酒に弱いってやつ、間違ってるだろ」
「?」
「めちゃくちゃ強いだろ!」
匂いだけで酔いそうなワインをぱかぱか呷っていたエイリは、今思うと男嫌いの彼女なりの景気付けだったのかもしれない。酔わないとやってられるか的な。顔色も挙動も何も変えなかったということは、多分彼女の限界はまだまだ遠かったはずだ。
「え? ……」
「?」
珍しくフチは本気で困惑したようだったが、肩の上にいるのでよく分からない。
ベリィが「あら〜」とか言いながらふらふらと寄っていったが、すぐに頬を痛そうに抑えながら離れていった。
しばしの沈黙と咳払いの後、不意にフチは尋ねてきた。
「メルンって、エイリとお前の共通の知人か?」
「え、お前、知らないの?」
「……」
「エイリから聞いたんだよ! シナン王の近衛騎士で、エイリの恩人だったんだって」
「ふうん」
それきりフチは黙り込み、シータも、今度はフチが全く会話をする気が無くなったのを感じ取ったので、空を飛ぶのに集中した。
夜明けの光が差し込む中で、黒く見える流れの淵に、小さな集落が見えてきた。
ゴス村は、西にニオウ川があり、周りに多くの畑を構える質素な村だった。家々は簡素な造りで、あまり手入れもされているように見えない。村の中を通る道は草が生い茂り、荒れた様子を感じさせた。
嫌な予感がする。
長年の経験から、住居が荒れている村や街の人々は心も荒みやすく、横暴になりがちだとシータは分かっていた。
「着いた。ライアはどこだ?」
上空から見ると、早朝の空気にしんと静まり返って誰もいないように見える。しかし段々と高度を下げていくと、村人たちが談笑しながら、村の広場に歩いていくのが見える。
そして、金切り声も。
「シータ。あっちだ」
フチの鋭い声に指摘される前に、シータは声の出所に滑空していた。
村の広場の一角に人だかりができていて、その中心でライアが泣きながら怒鳴っている。背後の井戸に誰も触れさせないように、大きく両手を広げながら。
「飲んで! 飲んでいいよ!」
シータはゾッとした。
人だかりの誰も彼もが、にやにやと笑いながら、あるいは怒りを浮かべながら、ライアを見つめていたからだ。
「まーた始まったよ」
「いい加減にしてちょうだい。朝飯を用意しなきゃならないんだから!」
「またなの?」
村人たちはライアに冷たかった。そしてライアは普段の様子とは違い、焦ったようにただ飲んではいけない、と操り人形のように繰り返すだけだ。
そのうち苛立った村人の1人が、泣きわめくライアに近寄り、頰を張った。パンと乾いた音がする。
倒れこんだライアを、村人は顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「いい加減にしろよ! お前のせいで、俺たちがどれだけ苦労したと思ってんだ!」
予想外の展開にシータは焦り、思わず、フチが止めるのも聞かず、ライアと彼らの間に飛んで入った。
「ひい!」
急に飛んで現れた少年に、村人達は悲鳴をあげて後ずさる。
シータはライアを庇い、村人達に呼びかけた。
「やめろ! 井戸の水を飲んじゃダメだってライアは言ってんだ! 井戸に薬が入ってる! ローリアンはあんた達を殺す気なんだ」
「……」
彼らは互いに顔を見合わせ……溜め息をついた。
「ライア。また子供を騙したのかい」
「最低だな、そのうちまたローリアンの手先が取り立てに来るぞ……」
「な、」
シータは目を丸くした。話がまるで通じない。
「きゃっ!」
「!?」
背後のライアから悲鳴が聞こえ、シータは慌てて振り返った。
ライアの額から血が流れている。膝元に石が転がっていた。
「でてけ!」
痩せた子供が顔を真っ赤にして身構えている。
シータはこの状況が信じられず、言葉を失ってライアに駆け寄った。
「いたっ!」
「でてけ! 手先め! お前が来るとローリアンが怒るんだ! 2度と来るな!」
「金持ちの子供を騙して言うことを聞かせようったってそうはいかないよ。どうせ井戸の水まで取り立てていくつもりだろう!」
「でてけ!」
だめだ。こいつら、意思疎通が出来ない。
過去に何があったか分からない。だが、ゴス村の人々のローリアンへの怨恨は深く、それ故にライアのことまで疎んじ、迫害するしかできないのだ。彼らの身なりはよく見ればボロボロで、苦しい生活をしていることが見て取れた。そしてそれは、合理的な判断と平和的な解決を遠ざける一因となる。
「いっ!?」
「余所者は出て行け!」
若い男達に引っ張られ、シータは四肢をバタバタと動かした。だが複数人の力には敵わず、あっという間にライアと井戸から引き離されてしまう。
「ライア!」
「やめないで! やめないで!」
暴れるシータを疎ましく思ったのか、男達は次々にシータに蹴りを入れ始めた。常軌を逸した行いに、シータはまた、強く思った。
俺が大人なら、みんな話を聞いてくれたのかな、と。
「がっ……」
「いやああああ!」
鼻につま先が入り、シータは仰け反って地面に倒れた。痛みより先に、ライアの凄まじい悲鳴が響き渡って、地面が揺れた。
「……!」
空に飛ぶ大量の鳥が鳴き、畑の向こうの森の中から獣の唸り声が聞こえる。
村人達は顔を見合わせて、一瞬、怯えたように辺りを見回した。
「まただよ……」
子供が泣き出し、母に縋り付く。妻の不安そうな様子を見た夫達は、安心させるように笑い、妙案があると手を打った。
「実際に飲めばいいじゃないか。毒が入ってるか確かめようぜ」
「あいつの妹を連れてこい。すぐ近くにいるだろう」
「それがいい。姉の始末は妹が責任を持って取るべきだ」
おい、嘘だろ。
動けないシータの前で、あっという間にライアは取り抑えられ、井戸から水が汲み上げられた。同時に人の輪の中からボロボロの布切れをまとった女の子が、引っ立てられるように中心へと吐き出された。
ライアの妹ーーアリアだ。
彼女はガタガタと震えながら、汲み上げられた水を見て首を横に振り続けている。
「飲めよ。どうせ何もないんだ」
「ローリアンの手下の子供に取り入って、俺たちより良いモンを普段から食ってんだろ? こんな寂れた井戸の水なんか飲みたくないってよ」
「腹の立つ奴だ」
「ーーやめろ!」
シータは鼻を抑えて、邪魔をする男達の脚の間を抜け、アリアの方へ駆け出した。
フチが、いつのまにか水を持った村人の肩の上にいる。腰元の針を抜き、今まさに彼の肩へ突き立てたように見えた、その時だった。
「やめないでえええええ!!!」
ライアの大絶叫。
一拍置いてから、上空の鳥達が一斉に広場に向かって突っ込んできた。
「キャーッ!」
砂塵と鳥の羽根が舞い、村人達は逃げ惑う。
ぶつかって転げたシータは、口元を覆って膝をついた。何が起こったか理解する前に顔を上げ、目にする。
ライアが水を手で掬い、空を仰ぐようにしてそれを飲み干した。
「ライア!」
なんてことを。
シータは呼吸も忘れてライアに駆け寄ったが、彼女はあっという間に地面に倒れ伏した。
村人達も、息を忘れたようにライアを振り返った。
「……」
なんだ、何もないじゃないか……と誰かが言ったのと引き換えのように。
「ぐっぎっ」
ライアの痩せた身体が不気味に痙攣した。
「ーーお姉ちゃん!!」
アリアの叫びが空を切り裂き、村人達は顔を見合わせてから、その場から悲鳴をあげながら逃げ出した。
シータは言葉も出ないままその光景を見て、更なる周囲の変化に総毛立った。
「……!」
鳥が、一斉にゴス村から飛び立っている。まるでライアの異変を周囲に知らせるように、八方に甲高い声をあげながら。
そして一部の鳥達は、まるで狂ったように再び、ライアの周りと村人達に向かって羽根を散らしながら突っ込んできた。
「うわっ!?」
「シータ!」
ベリィの声が聞こえた瞬間、シータは大きな塊に弾き飛ばされた。
「ヴゥゥアアア!」
ライアの狼だ。怒り狂ったように唸り、遠吠えを繰り返しながら、狼は逃げた村人達に次々に襲いかかり始めた。
「まずいよ、シータ!」
心臓が早鐘を打つ。悲鳴がこだまするなかで、シータは思わず狂う獣の首に追い縋っていた。何回も喧嘩をするうちに、お互いの考えがなんとなく読めるようになっている。
「止まれ!」
「ヴゥゥアアア!!」
「!」
「……シータ!」
再び弾き飛ばされ、シータは愕然とした。
狼の目にはもはや何も映っていない。怒りに燃え、吊り上がった口元から血がポタポタと流れ落ちた。
……何も出来ない。
シータを純然たる事実が襲う。自分は、一体、何をしていたのだろう。
震えながらライアの元に戻ろうと、身体を起こして振り返ったシータは、数秒、動きを止めた。
「……るじ……ぐない……生かしで……」
バタバタと痙攣するライアの四肢。黒目がぐるんと上を向き、口元からは泡がこぼれ落ちる。
そしてそんな彼女の首元に、フチが刺していた針を今まさに抜かんとしていた。
ライアの喉がヒューヒューと音を立てる。上を向いていた彼女が目を細め、その目尻から涙が流れ落ちて地面に染み込む頃には、すでにライアは事切れていた。




