7.
シータは目だけを盛んに動かし、片脚を大きく上げたエイリを見上げる。
「うっさいですわ。次に言ったら殺します」
なんだよ、とシータは言いたくなった。
「大体、夜会慣れしてるだなんて、寵姫という立場を私に強いてきたシナンの人間がよくも言えますわね」
「……うるさい」
「何にも知らないくせに」
シータはエイリの足首を掴んだ。
エイリが眉根を寄せて脚を降ろそうとしたので、それに乗じて、シータは掴んだ手をそのまま引いた。
エイリを馬車の椅子に転がせる。衝撃に、馬車が再び揺れた。
「ちょっと!」
そのまま彼女の頭の横に手をついて、太ももに乗り上げた。
わああ、とベリィが手で自分の顔を隠すが、知ったことか。
最近、どうにも我慢がならないことが、シータにはある。
「知らない知らないって当たり前だろ! 俺は何にも知らないんだから!」
「……」
「エイリがシナンで何があったかなんて知らないし、俺にはどうしようもないだろ! そんなの汲めるわけないだろ! ……」
エイリが目を丸くした。
シータはまた、混乱でくらくらし始めた。ついでにやらかしたことに気づいて泣きそうになる。
……やばい、俺、毒針で死ぬかも。
だが、どうしても、それこそ死ぬ可能性があったって、シータはエイリに伝えたかった。
「……だから、教えてくれればいいだろ! 教えてくれれば、俺、協力するし……気をつけるし、だから、頼ればいいだろ」
「……」
「……何でそんなに、あいつしか頼れないみたいなことになってんだよ」
シータはここ数日、エイリをずっと見ていた。
エイリは子供達に特に理不尽に接することもなかったけれど、不自然なほど、子供と距離を置いているように見えた。そして不意に何回も、小さなフチを目で縋るように追っていた。
シータは気づいた。彼女はきっと、シータ以外にも、誰にも等しく心が開けないのだ。それは周囲にも伝わって、エイリは、シータやあのフチよりも屋敷の中で孤立しているように、シータには見えた。
エイリは自分から、誰も頼れない状況を作り出しているのだ。
「……」
エイリはふっと目線を下にやってから、物憂げに溜め息をついた。
シータはと言えば、エイリから離れるのに馬車の床に転がり落ちて、起き上がれなかった。半分泣いていた。
「それはまあ……そうかもしれない」
エイリがぼそっと言って、シータはぱっと顔を上げた。
エイリは無表情だった。わりと快活にくるくる表情を変えるはずの彼女が。
「シナンの近衛騎士のメルンって人、知ってる」
疑問符をつけないエイリの硬い口調に、シータは首を振った。
シナンでのシータの役割は、空を飛べるという特性を活かした仕事ばかりで、それはほとんど城の中での活躍の場がなかった。シナン王の側近達である近衛騎士とは、当然のように関わりはない。
「もう、はっきりとは覚えてないんだけど……私、シナンに引き取られてから、知らない人たちばかりの中、閉じこもって勉強するのに嫌気がさして、反抗してばっかりだったの。それで、見兼ねてお世話役になったのが、メルンっていう近衛騎士の女の人」
「……」
「メルンは良い人だった。私はメルンが大好きになって、彼女も私に親切にしてくれたと思う」
エイリは、シナンでの過去を教えてくれているのだ。
シータは尻餅をついたまま、彼女の抑揚のない口調で語られる内容に聞き入った。
「でも、私はメルンを殺したの」
「えっ」
唐突な単語にシータは口を開けた。
「実際にメルンを殺したのはシナン王だけど……」
エイリは馬車の椅子の上で膝を抱えた。
シータは口を挟むことが出来ず、ただじっと動かないまま、エイリの挙動を見つめている。
「シナン王は男で、彼は男だからメルンを殺した。……私は、だから、男なんか、シナンなんか大嫌い」
「エイリ」
どういうことだ?
シータは混乱した。シナン王は物静かな男で、イースとの戦争の中、段々とやつれていく姿をよく覚えていたが、それだけだ。一体エイリと、メルンという近衛騎士に何があったのだろう。
だが、シータは聞けなかった。どれほどエイリがそれを語るのに辛いのか、シータには測れなかったからだ。
ややあって、エイリは鼻をずびずびやりながら顔を上げた。なんだか急に和らいだ空気に、シータはまたもや混乱する。
「というわけ」
「えっ?」
「だから私はシナンとか、男とか、嫌いなの。……でも多分、貴方は知ったこっちゃないわ、ってことだよね」
エイリは1人で言って1人で頷きながら納得している。
「それはたしかにそうだと、私が貴方ならそう思う。あと私が貴方ならこんな面倒くさそうな人は放っておくと思う」
「……えっ、あ?」
エイリは急にシータに目を合わせてきた。
……えっこれ俺、なんか試されてないか?
つまりエイリは多分おそらく、シータがなぜ自分に構うのか聞いている。
シータは頭の中が爆発したと思った。冗談抜きで。
ガタンと馬車が揺れて、それから止まる。
「着いたよ〜」
おい、嘘だろ。
ベリィの不自然なほど明るい声に、エイリは顔を上げた。呆然としているシータを放っておいて、手鏡で乱れた化粧や髪を直してから、先ほどまでの様子などまるでなかったように、エイリは長く息を吐いた。
「よし! 行きましょうか」
「……」
「……シータ、いつまで座ってんの」
「わっ」
馬車の扉が開くと同時に、腕を強めに引っ張られた。子供の身体は簡単に起き上がって、エイリと一緒に馬車を降りている。
「え、エイリ!」
「なに」
夜空の中、月明かりの小道で振り返ったエイリの表情は暗く、シータにはよく見えない。
でも、ここで何か言わなければ言わないという急な焦りに飲まれて、でも何にも言うことが出来ず。
再び歩き出したエイリを、結局シータはバタバタと追いかけた。
マカドニアの地方の経済事情などシータは知らなかったが、どうしてなかなか、潤沢のように見える。
ローリアンの屋敷のある街は名前をユクと言って、かなり栄えている部類の街に見えた。街灯の数が多く、出歩く人間の身なりも小綺麗である。
艶やかに見える街並みの奥、一層絢爛な屋敷があって、それが街一番の資本家であるローリアンの屋敷だ。
シータがエスコートにちょっと手間取ったくらいで、エイリとシータは驚くほど順調にローリアンの屋敷に入り込んだ。
というかエイリが笑えば、門番だろうが使用人だろうが何でも許してくれるんじゃないかと思う状況であった。
「す、すげー!」
「ふん」
思わず素で褒めたシータに、エイリは鼻を鳴らした。
ローリアンの屋敷は玄関もホールも相当に大きく、赤い絨毯がシャンデリアの光に照らされて、シナンの王城と張るくらいに豪華に見えた。どんだけ金持ちだよ、とシータは不貞腐れる気持ちになりかける。
「若い女性ばっかりですわね」
「子供もいる。トルクだけじゃなかったんだな、招待された子供は」
夜会とは話に聞くだけだったシータは、こんなものかとキョロキョロした。
紳士淑女が腹に一計を抱えながら談笑しているのを想像していたが、子供がちょこちょこと動き回っているせいで、思っていたよりずっと和やかな、言ってしまえばアットホームな雰囲気である。
ローリアンはまだ姿を現していない。
しばらく待機、ということでシータはエイリの隣で相変わらず辺りを見回していた。見慣れない場所に来たときには、まずどこに何があるのか把握しなければ気が済まない。特に出口と窓は真っ先に頭に入れる。そしてどこに誰がいるか。
でも気が散りまくっているシータは余計なことばっかり目に入って一人で焦っていた。
綺麗に着飾った女性は多いが、間違いなくエイリが一番綺麗で可愛いとシータは思った。おそらくきっと、ローリアンの目に止まるだろう。
エイリにとって、きっとそれは喜ばしいことではないのだろうけど。
途中、可愛い子ね、と声をかけてきたご令嬢たちに戸惑っているうちに、エイリが壁際でワインを飲んでいるのを見かけて、シータは慌てた。
「あ、だめだろ!」
「何でよ」
「エイリは酒に弱いって、……フチが」
ライアの屋敷でトルクが立てた作戦はいくつかある。
事前にライアが偵察で屋敷に忍び込ませた動物達によると、ネックレスがありそうなのは屋敷の地下室の金庫か、ローリアンの自室であるとのこと。
一番確率が高そうなのはエイリがローリアンのお気に入りになって、自室で隙を見つけてネックレスを奪うか、その隙にシータが地下室に忍び込むか。地下室だった場合、使用人の目を奪うために、シータ達は一手間入れなければならない。
『シャンデリアか何か落とすか? 俺なら飛べるし』
『いや、』
否定したのはフチだった。顎に手を当てて考え込んでいた。
『騒ぎを起こすのはライアの動物にやらせた方が良い。シータが機能しない可能性を考えて』
機能しない可能性ってなんだよ、と聞いたシータに、含みを持たせてフチは笑った。
シータは未だにその理由がよくわからない。
というわけで、エイリだってネックレスを奪い取る必要性が出てくるわけだ。酔っ払っていては話にならない。
というかシータは、フチに口酸っぱくエイリに酒を飲ませるなと言いつけられていたのである。
「ふうん」
エイリはしばらく考え込んでから、ちょっと悪戯っぽく微笑んだ。ドキッとしたシータを尻目に、グラスを傾けて飲み干しておかわりする。
「おい! こら! だめだろ!」
「自分が飲めないからって妬まないでよ」
「ちげーよ!」
ぎゃんぎゃん騒ぎ出したシータは、相当に子供っぽい弟に見えていたのだろう。周囲から微笑ましい視線を送られて反省した。
しかし。
「? ……」
シータは周囲の観察に優れている。それは長年の偵察による経験からもあるし、生まれた環境からによるものもある。とにかく彼は、違和感にぴんと背筋を伸ばし、目だけを動かして周囲の様子をよく測った。
「……」
全員ではないが、周囲の人間が何人か、好奇とも嘲笑ともつかぬ笑みを浮かべながら、シータとエイリを眺めていた。それは微笑ましい視線の中で、特に異質に思えた。
……なんだ?
エイリと自分におかしなことなど何もないはずだ。まさか何かがきっかけで、自分達の偽装がバレているのだろうか。
「エイリ」
シータはエイリの手を引っ張った。目立たない壁際に一旦回避しよう。良くない予感がする。
だが、エイリは動かない。空色の目が、獲物を見つけたようにギラギラと輝いている。
「あれだよ、シータ」
「……ローリアン」
その視線の先に、礼服を着た平凡な四十過ぎの男性がいた。ホールでワインを受け取って、階段を上っている。張り出た2階から全体を見下ろす様子は、お世辞にもやり手らしいとは言えない、あまりにも凡庸な男だった。
そしてライアの形見を奪い取ったり、金と引き換えに淑女を抱くような男には見えず、かえってそれが不気味に感じた。
ローリアンは見た目通り平凡で、記憶に残らない挨拶をした。
だが、周囲の女性達の面持ちがやや緊張したことを、シータは敏感に感じ取る。やはり彼女達は、自分の家のためにローリアンに取り入る気で、この夜会に来ているのだ。
挨拶を済ませてローリアンが再びホールに降りてくると、一部の女性達は分かりづらくローリアンに近づき始めた。多分彼女らが資金提供に必死な家の者で、それ以外が別に必要としていない家の者、ということだろう。
「シータ、別行動ね」
「え!? 何で!?」
シータは仰天した。そんなの作戦になかった。
姉弟の設定でローリアンに挨拶をしに行く予定だったはずなのに。
「貴方、気づいてないの?」
「?」
「あっ、ローリアンが行っちゃう。じゃあ、あとよろしくね!」
「えっ!」
言い捨てて、エイリは人混みに突っ込んで行ってしまった。
シータはぶすくれて、壁際で1人、時間を潰すことにした。ローリアンだけはしっかり視界に入れたまま。
「シータ」
礼服のポケットの中から、ベリィが顔を出して溜め息をついた。
「キミ、本当に不器用で見てられないよ」
先刻の馬車の中でのことを責めているらしい。
「好きな人の好きな人を否定するって一番悪手じゃない。そりゃ、エイリも怒るよ」
「……」
「おまけにやめろって言ったのに襲いかかるし。キミ、子供じゃなかったら普通に手を出すのが早すぎて嫌われるタイプだよ」
「……」
「なんか言ってよ」
シータは俯いた。そんなの自分が一番分かっているからだ。
「嫌われたかなあ、俺」
「もともと嫌われてるでしょ」
「……」
ベリィは基本的にシータの行動にこんな風に説教をしてきることは、まずない。後からからかわれるくらいで。
それほど今回のシータはやっちまったということで、さらにシータは落ち込んだ。
さすがの落ち込みように、ベリィも気づいたらしい。まあまあと言いながらフォローを入れてくる。
「まあでも、口も利いてくれないってことにはならなくて良かったじゃない。まだ挽回のチャンスはあると思うよ、ボクは。それに何だかんだ昔の話もしてくれたじゃない」
「でも今だって、多分俺が足手まといだから1人で行っちゃったんだと思う……」
「うーん、なんか、そんな感じじゃなかったけどね」
そこで、シータはまたも違和感に顔を上げた。
さっきと同じ視線。加えて、ヒソヒソと呟く声。
あれが、……ニオウの。
なんと哀れな。我々も気をつけねば……。
「ベリィ」
「嫌な感じだね」
シータはさっと辺りを見渡し、ベリィは再びポケットの中に引っ込んた。
フチなら、あの聡明な男なら、何かこの状況で思いつくかもしれない。だがシータは分からないし、考えてもきっと答えは出ない。だから動いて、エイリと共有するしかない。
シータは動き出した。子供らしく、姉を探す幼い弟のように。
この状況、何かが変だ。おそらく自分達が想像した以外のことがとっくに起きて、蠢き始めている。
「わっ!」
急に何かがぶつかってきた。
シータは慌てて謝るが、相手も慌てて謝罪を重ねてくる。そして急に、顎を掴まれて上を向かされた。
「やっぱり!」
ローリアンだ。
シータは目を剥いた。
「愛らしく、無垢で純真な弟君だ。お姉さんとはまた違った魅力がある」
そう鷹揚に喋り出したローリアンの後ろで、エイリが蒼白な顔をしながら、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
シータは反射的に跳んで後ろに下がった。
「子供は身軽でいいねえ」
背筋がぞわぞわする。
ローリアンは笑みを貼り付けて、見上げるシータの耳元でシータだけに聞こえるよう、腰を折って呟いた。
「いいね、いいね。君たち、僕の部屋へおいで。……たまには、姉弟で慰み合うのを見るのもまた一興だ」




