6.鬼飼いとロバ
☆
シータは、シナンの城でエイリを初めて見つけた時、騎士になりたての10歳だった。外見の年齢は相変わらず8歳程度で止まってはいたが。
エイリについての感想は、なんて子供なんだとびっくりした思い出がある。
まだその時エイリは6歳で、それこそ子供か少女かも分からないような、そんな幼さでシナン王に養子として引き取られたのである。そして養子とは名ばかりで、それはただ単にあまりにも幼い子供を愛妾という地位に置くのは外聞が悪すぎる、というだけのものであるということは周知の事実で、それはもちろんシータも知っていた。
……かわいそうだなあ。あんなに可愛い子なのに。おっさんの相手で一生を終えるとは。
シータはエイリに親近感を持っていた。空を飛べる力を手に入れ、国のためにと望まれて半ば強制的に仕えることになったはいいものの、大人ばかりの城の中で子供ゆえに降りかかる理不尽に、シータは時に耐えがたいほど辛くなる時があった。そんなときに遠くからでもエイリを見つけると、あっちも大変だよなあ、と思えて踏ん張れたのである。
シータは人形のようなエイリの成長を、少しずつ気にかけていた。城の中ではほとんど見かけることがなかったが、偵察等で上空を飛んでいるときに、中庭でぼーっと座り込んでいるエイリを見かけることが、本当にたまにあった。
見るたびに大人になる彼女が、羨ましかったかもしれない。成長出来ない自分とは違ったから。
だが、エイリが12歳を過ぎる頃、彼女はぱたりと中庭に姿を見せなくなった。
その少し前の頃からイースやネド、その他周辺諸国との軋轢が多発して、城の中では緊張や喧騒が交互に訪れ、シータも敵地偵察等で忙しくなった。
そして城内では、あれだけいばり散らしていた寵姫たちが1人、2人と姿を消していくことが噂になっていた。
エイリはどこかに行ってしまったんだろうと、シータは納得した。
厳しい状況の中で、たくさんの寵姫を抱えることは難しいと、シナン王は判断したのだろう。想像に難くない。行き先は元の自分の国か、それとも別の国か。
それもシータには分からないことだった。
だからこそ、隣国のイースとの戦争の中でシナン王が崩御し、宰相スバルから受けた密命に、シータは衝撃を受けた。
エイリはずっとシナンにいた。イースに招待されてから、祖国に戻ると。
宰相スバルは他にわずかに残っていた寵姫も奪ってこいと言ったが、シータは真っ先にエイリを迎えに行くことにした。気になったからだ。
どんな成長をしただろう。大人になれない自分と違って。
今だからこそ言えるが、多分、シータは愚かにも期待していたのである。15年近く過ごしたシナンは、エイリにとってもはや祖国だ、イースやネドなどより、よっぽどシナンに戻りたいに違いない、自分はそれを叶えるために、エイリを迎えにいくのだと。
全くもって、全然ちがった。
エイリはシナンになど戻る気はさらさらなかったし、美しい女性になっていたけど相当に苛烈だった。というかイカれていた。自分の想像とは180度、全然、ちがった。
でも。
エイリはシータのことを知っていた。覚えていた。間違いなく、利用するためだけど。それでも。
抱きしめられてライヌ川の上空で飛んだとき、たしかにエイリの身体の温かさを思い知って、シータは泣きたくなった。彼女にずっと会いたかったのだと、愚かにも、そのときに初めて思い知った。
「じゃ、行ってきますわ」
ローリアンの屋敷で夜会が開催される当日。
昼過ぎに、シータとエイリはライア達の屋敷を出発することになった。
馬車はグローアとトルクが乗っていたもので、馬はライアが手配した、立派な2頭の番である。毛並みがキラキラと昼の日差しを帯びて輝き、それだけでも高級な馬車に見えて、姉弟がはしゃいでいる。
この馬たちは、御者はなくてもライアの言う通りに走ってくれるらしい。目立たないところで降りる作戦である。
「き、気軽にしてください!」
「気をつけてくださいと、ライアは言っています」
「……貴方達に言われるのも、なんだか変な話ですわね」
エイリは曖昧に首を傾げ、肩口からイースの元騎士であるフチを引っ張り出した。彼はエイリの手の平の上で、腕を組んでエイリを見上げている。
「……気をつけろ、本当に」
「もちろん!」
エイリはぱっと微笑んだ。花が咲いたように周囲が明るくなって、全員が相好を崩した。
「……フチ、こっちに来ないでください」
「フチさん、ライアが貴方を呼んでいます。ーーエイリさん、シータさん。貴方達が帰るまで、フチさんは安全にこちらでお預かりします」
「監禁しとくの間違いだろう」
フチの小言にこの4日間で慣れたのか、トルクは特に顔色を変えることもなく、シータとエイリに向き直った。
「ローリアンの屋敷の中にも、ライアの息のかかった動物達がいます。決して、不審な動きなど見せぬよう、お願いいたします」
シータは鼻を鳴らした。
子供達が圧倒的に優位な状況にあり、従うしかないのは分かっている。だが巻き込んだ分際で何を偉そうに、とシータは思わざるを得ない。夜会教育だって物覚えが悪いと何度嫌味を言われてブチ切れたか。ライアの狼とは拳で語り合うくらいにまでなってしまった。
「では、お気をつけて! よろしくお願いしますなの!」
「行ってきまーす!」
姉弟とライアに見送られ、馬車は出発した。
ベリィが窓から出たり入ったりしながら、後ろに手を振って挨拶をしている。
狭い馬車の目の前で、ドレス姿のエイリが、険しい顔をしながら羊皮紙に書き留めた文章を頭に入れている。
「……」
ど、どうしよう。
シータは混乱した。トルクの礼服を着た背中に冷や汗をかいている。
狭い馬車の中、エイリと2人っきり。
ライアの屋敷ではずっとあのいけ好かない騎士がエイリに張り付いていたから、シータはろくにエイリと2人きりで話す機会がなかった。やっと訪れた機会は唐突で、頭の良くないシータはこれを全然予想していなかった。
「え、エイリ」
「……シータ」
「!?」
急にエイリが羊皮紙から目を上げて見つめてきたので、シータは飛び上がった。
「な、なんだよ」
「グローアとトルクの村……ゴス村は、えーと、ローリアンの屋敷のある街から何って川沿いでしたっけ?」
「あ、えっと、多分、ニオウ川って言ってたぞ」
「それだ」
エイリはぱちんと指を鳴らして、ぶつぶつ言いながら再び目を落とした。
シータは拍子抜けする。
「……真面目だなあ」
「必死なのですわ」
必死、とシータは反芻した。たしかに、エイリは必死で夜会での必要な知識を頭に叩き込んでいるように見えたし、今日は身なりにも必死に気を使っているのを見かけた。丁寧に化粧を施された顔は、今日の夜会の招待客の中でもきっと一番綺麗だと、シータは予想する。
それだけ必死なんだ。ライアのもとに捕まっているフチが、無事に解放されるために。
「エイリは、フチに惚れてるのか?」
ぽっと出た質問をそのまま口にしたら、ベリィがいきなり笑い始めた。
「直球だな〜! ちょっと我慢しときなよ、キミは!」
「だ、だって」
「なんで貴方に教えなきゃいけないんですの」
険しい顔をしたエイリに、シータは焦る。
「ふ、フチは、もともとイースの騎士だろ! エイリを殺そうとした国の騎士じゃないかよ。そんなに必死に助ける意味あるか?」
「ありますの! 私には」
「やっぱり惚れてるじゃないか!」
シータが言い返すと、エイリはちょっと頬を染めて睨んでくる。
その表情に、シータは頭を殴られたような衝撃を受けた気がした。なぜか幼いはずの腰にもきた。
「だからなんだっていうわけ?」
頭がぐるぐる回って頬が熱い。
言い切ったのはシータのくせに、肯定されると混乱した。
「や、やめとけよ!」
「は?」
あちゃあ、とベリィが小さく額に手を当てた。
シータはそれでも止められない。
「あ、あいつ、頭おかしいだろ! イカれてるよ」
「……」
事実、シータはフチを頭のおかしい人間だと思っているし、それに足る理由もちゃんとある。
昨夜、シータの寝所にフチが訪れた。訪れたというか、月明かりでグローアから借りた本を読んでいたシータの部屋の窓際から、いつのまにか侵入していたのである。
『うわっ!』
『話があるんだが』
心臓が口から飛び出るほど驚いたシータに前置きも何もなく、フチはマントに隠れた背中から、袋のついた棘のようなものをいくつか取り出した。窓際に丁寧に並べている。
『フチだ!わーい!』
きゃっとハートマークを飛ばしながら近寄るベリィを冷たくいなしながら、フチは急に棘の説明を始めた。
……曰く、どうやら、フチお手製の毒針らしい。
『肘の内側みたいな皮膚の薄いところに突き刺してから、袋を指で握り潰せ。針の中の管から、袋に入っている毒液が注入されて、刺された人間は死ぬ』
『お前なんだよ……こえーよ……』
シータはドン引きして本を閉じた。急に現れたかと思いきや何の説明をしてくるのだ、こいつは。
『お前にやる』
『いらねーよ……』
フチは思いっきり馬鹿にした顔をしながら、まさに『馬鹿か?』と聞いてきた。一気にボルテージが上がるシータである。
『なんだと……!』
『エイリを守るんじゃないのか』
『……』
『夜会に持っていけ。礼服の内側にでもしまっておけば、見張り役の目にもとまらないだろう』
シータは目を瞬いた。
『ローリアンとかいう奴に、使えっていうのかよ』
『他に何がある』
『……お前は、その、明日、そんなにやばいことがあると思ってるのか?』
ここ数日一緒に過ごしただけだが、この男が飛び抜けて聡明なのはシータも分かった。常に考え込んでいると思いきや、いつのまにか会話の主導権を握っていたり、作戦の大部分を計画していたり。
だから、フチが警戒しているなら、シータも倣って警戒すべきであると、シータは思ったのである。
フチは数秒してから肩をすくめた。
『分からん。だが俺はエイリを失うわけにはいかないから。保険だ、保険。あとお前にも保険をかけにきた』
『?』
首を傾げたシータに、フチが笑う。
『これと同じのを、エイリにも渡してある』
『……なっ!』
『エイリには、失神する毒だと嘘をついた』
あっけらかんと言うフチに背筋が冷たくなった。
こいつ、まさか。
『エイリに下手な真似をするなよ。死ぬぞ』
『……』
おかしい。目の前にいるのは親指ほどの大きさの小さな男であるはずなのに、シータはその場所から少しも動けなくなってしまった。だが生来の負けず嫌いから、声を絞り出すようにして反抗した。
『……お前、エイリを人殺しにする気かよ。最低だな……!』
フチは眉根を寄せて口元を引き上げた。まるで、シータが悪趣味な冗談を言ったような反応だった。
『それはお前次第だろう』
「……」
エイリは目を細めて、シータと対峙したまま何も言わない。
昨夜のことに思いを巡らせていたシータは、その沈黙にぐっと身体を強張らせた。畳み掛けるように、声を荒げる。どうしても納得できなかった。
「そ、それに、あいつ、あの身体じゃないか! エイリとずっと一緒にいることなんて出来ないだろ!」
「別に、フチと添い遂げたいなんて思ってませんわ」
「じゃあ何でそこまでするんだよ! あいつはきっと、」
シータは一瞬、言葉を詰まらせた。
「あいつは、エイリの事なんか何とも思ってないだろ! いくらエイリが慣れてるからって……じゃなきゃ、夜会になんか行かせないはずだろ!」
エイリが静かに立ち上がった、と思った瞬間。
「ひっ!」
ベリィが悲鳴をあげた。馬車が揺れて、馬が鳴く声がする。
シータの顔のすぐ横に、エイリのヒールが突き刺さっていた。ドレスの裾がさらさらと滑り落ちて、華奢な白い脚がまっすぐに目の前から伸びているのが見えた。