1.廃屋敷で待つ子供
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フチとエイリは、馬車が停泊しない小さな村に到着した。次のナイオは大きな街であり、そこまで行くのにはもう日が暮れている。ということで次の日の昼に到着できるよう、2人はこの村で宿を取ることにした。
小さな村だから宿も一軒しかなく、しかも普段は1階の飲み屋で切り盛りしているような、小さな宿だった。
エイリは目を瞬かせながらあちこちを見て回っている。彼女は多分、目に入るもの全てが新鮮で仕方がないのだろう。
フチも自然と口角を上げていた。
「お酒ですか?」
しかし、ならこれはどうだろうと勧めた酒に、エイリは難色を示した。
フチとエイリは宿の下の飲み屋のカウンターにいて、今まさに夕食を頼もうとしているところである。気っ風の良さそうな女主人と常連らしき農夫たちは、珍しい2人に興味津々といった様子だった。
「うん。嫌か?」
「い、嫌というか……」
エイリは指を弄った。快活な彼女には珍しい仕草である。
「あの、お酒って、抱くとか抱かれるとかの前に飲むものでしょう?」
「……いや」
フチは目を丸くした。
ああ、おそらく。
エイリがいたのはそういう世界だったのだろう。寵姫という存在にとって、例えば仲間と語らいたいから酒を飲んで楽しむといったことは、ありえないものだったのだ。
イースの王政には寵姫というものがなかったので、フチはいまいち、エイリの身の上にぴんと来ていないものがあった。今更、彼女がシナンの城の中でどういった生活をしてきたか思い馳せて、フチは胸が痛くなった。
「普通に飲むものだぞ。周りも皆机に載ってるだろう」
「ほんとですわね」
「俺が選んでもいいか?」
「……ええ、お願いしますわ」
フチは酒瓶の間をちょこちょこと移動しながら注文し、女主人は目を回しながら付き合ってくれた。その間も、エイリは楽しそうにこちらを眺めている。
フチは実は、エイリの視線が常に自分を向いていることを知っている。
エイリはフチが好きだ。
フチはそれが、精神的に不安定になったエイリの無意識の自衛からきたものだと推測していた。フチの仕えるべき王から手篭めにされかけ、護衛の騎士であるエダから命を狙われた不遇なエイリ。きっと、誰かを頼りにしなければ折れてしまう状況だったのだろう。
だから利害の一致して、かつエイリの身体を好き勝手にすることもない特殊なフチに対して、必要以上に心を寄せている。自分を守るために。
そう思っていた。
「美味しいですわ! 泡が!」
「お嬢さん、初めて? これはね、ナイオエールって言ってこの地方でしか飲めないお酒なんだよ」
「そうなのですね」
だが、なんとなく、最近フチはエイリがそんなにやわな女性ではないんじゃないかと考えている。彼女は幸せな夢に浸ることもなく、ネドに辿り着くという強い目的を持って、フチを救い出してくれた。
だとすれば。
フチは自分が自意識過剰なのではないかと、こればかりは思わざるを得ない。
エイリはおそらく、たぶんほんとうに、人としてフチを。
「フチはお酒、強いんですの?」
「あんまり……」
女主人の作る料理は美味しいが、けっこう味が濃い。
もともとあんまり酒に強くないフチは、考え込みながらパカパカとエールを呷っていた。小さなカップでだが。
気づけばけっこう、酔いが回っている。
「エイリは……エイリもあんまり強くなさそうだな」
「うふふ」
フチは空になった酒瓶に背中をつけて、足を投げ出して座り込んでいた。
エイリはそれににっこりと反応した。目元が赤い。
元の顔がいいだけに、あまり人の容貌の美醜に頓着がないフチでさえ、思わずくらくらするような表情だった。
「フチは、意外とお行儀が悪いですわね」
「あー、そうかもな。よく怒られた、騎士の同期に」
騎士の仲間であるアンリとジィリアのことを話すと、エイリは相槌を打ちながら聞いている。実はあまり自分のことを話す気質ではないフチは、ちょっと戸惑っていた。
「……今も、イースの王宮で頑張っていると思うんだが、2人とも」
「きっとフチのことを信じて、落ち込んでいると思いますわ」
「そうだといいな」
うーん、なんか違うぞ。
フチは考え込む。
フチはエイリにいろいろと打ち明けてもらいたくて、酒を飲もうなんて提案をしたのだ。自分ばっかり喋っていても目論見違いだ。……気分はいいけども。
それからもエイリは酒を飲みながら、フチの身の上を軽い感じで聞いていた。
フチが話したくないところには決して触れない気遣いに、フチは内心でほっとする。
「フチは自分の身体を不便と思ったことはありませんか?」
「あるけど、わりとどうにかなると思ってる」
「ほー……」
かなり酔いが回ってきたらしい。
エイリの姿勢がどんどん傾いていく。ふにゃふにゃになった表情は、ちょっとあざとすぎないかとフチは心配になった。
「いいなあ。努力して、いろいろと不便なことを解決してきたんでしょ。すごいね」
「……」
なんだこいつ褒め上戸か、とフチは思いながらもちょっと胸が温かくなった。
と、同時に眠くなってくる。
いや、エイリに聞きたいことを聞かなかければ。
「……あー、エイリ……」
「?」
「エイリはネドに行ったら、何かやりたいことはあるのか?」
フチが聞きたいのはこれだった。
エイリはネドに行ってから、何を目的に生きるのだろう。貴族の娘だから、同じような地位の男と結婚して、子供を産み育てるのかもしれないし、そうではないかもしれない。
フチには想像出来なかった。
恐らくフチが、エイリをネドまで護衛して……その後、自分がどうすれば良いか、まるで想像がつかないが故に。
フチはずっと考えている。
自分はこの先、誰のために生きていけば良いのだろう、と。
「うふふ」
エイリは笑いながらカウンターに突っ伏した。多分もうすぐで眠りに落ちる兆候だと思い、フチはならば自分が寝てはいかん、と頭を振った。
「私ね、楽しいの」
潤んだ目でエイリが言った。ぼーっとした声音で。
「今が一番、楽しいの。いろいろなところに行けて、いろいろなものを食べて……」
「……」
「フチが一緒だから楽しいよ」
フチは目を瞬いた。
エイリは優しい口調なのに、追い詰めるような視線でフチを見ていた。
含まれた熱に、思わず喉が鳴った。
「ほんとは、このままずーっとネドに着かなければいいのに……って、思ってる……」
「……」
「それが、やりたいこと……」
というのは嘘で、とかぶつぶつ言いながら、エイリの瞼が完全に落ちた。
フチは一瞬で酔いが覚めた。
「お嬢さん、寝ちゃったの?」
酔っ払い達を叱りつけていた女主人がカウンターに戻ってきて、フチに聞く。
フチは久しぶりにかなり狼狽えて、急いで立ち上がって酒をこぼして慌ててしまった。
「ああ、寝たみたい。……ご主人、お願いなんだが」
「?」
「こいつを部屋まで運んで欲しいんだが。……って、酔っ払いじゃなくて、貴女に!」
「……あ、ああ。うちの酔っ払い達も見境ないわけじゃないんだけど……。分かった、分かったよ」
女主人はにやにやしながらエプロンで手を拭いた。
フチは混乱しながらエイリの指からグラスをひっぺがした。
どうしよう。
フチの頭はさっきからそればかりだ。
自意識過剰なんかじゃない。事実だ。
どうしよう。
エイリは本当に、俺を好きだ。




