9.嗤う水中の男
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目を覚ましたのは、フチが一番最初だった。
「あ! フチさん!」
ガタガタ震えたルルが、顔を真っ青にしながら近づけてくる。
フチはダリアの枕元で気絶をするように眠りに落ちていたらしい。そこから目を覚ますまで、3時間程度経過していたとのこと。
ダリアの頭の中で過ごした時間は、もっとずっと長かったような気がしたから、驚く。まあ、夢の中だからなんでもアリか、とフチは1人納得することにした。
「よ、よ、よ、よかったあ〜、私もう、皆さんが死んでしまったらどうしようって!」
「し、心配かけたようですまない」
ルルの涙を頭にどんぴしゃで浴び、びしょ濡れになったフチは慌てて身体を起こした。
エイリとカイはベッドの横の椅子を繋げた上で、深い眠りに未だに囚われているようであった。
彼らが目を覚ます前に、やることがある。
フチは顔を引き締めて腰元の剣を引き抜いた。
「フチさん?」
「ルル嬢。申し訳ないが、ナーシルを呼んできてくれないか。おそらくダリアは……もうすぐ起きる」
カイは眠りが深くしばらく経っても目を覚まさないので、ナーシルが気を遣って別の部屋に運ばせた。
エイリはしばし経ってから身体を起こしたが、その頃にはもう、屋敷中の人間が部屋に集まったかのようにダリアのベッドの周りにはたくさんの人が押しかけていた。皆そわそわと落ち着きなく、この屋敷の女主人の安否を確かめている。
ナーシルは青ざめた顔でダリアの手を掴んでいたが、急に慌てたようにその手を握り直した。
ダリアに、ある変化が起きている。
「……ダリア……!」
フチはエイリの手の平の上で、ダリアの変化をゆっくりと見ていた。
少しずつ、しかし本来の何倍もの速さで、ダリアは老いていった。肌のハリは失われ、髪の毛は細くなり、艶やかな頬は窪んでいく。
「おお……!」
ナーシルは感激とも絶望ともつかぬ声をあげ、皆は固唾を呑んでその様を見守った。世にも奇妙な光景だった。
やがて、ダリアの瞼がゆっくりと開く。
「……!」
わっと歓声があがった。皆顔を見合わせながら、あるいは手を叩きながら、ダリアの目覚めを祝福した。
「うるさい!」
水を差すのが主人のナーシルである。
ダリアは横目にそんな夫を眺めて、涙をぽろぽろとこぼした。
「あー、助かった」
ナーシルはしばらく人払いをしていたが、フチ達を呼び出して言葉少なに礼をした。
「ダリアが、お前たちのおかげで起きられたと、礼をしたいと言うのでな……だが、今日は安静にした方が良いとのことなので、どうだ、一泊していけば良い。明日の朝ダリアに会って欲しい」
夕刻だが、ルルもエイリも疲労困憊という様子である。気疲れしてしまったのだろう。
フチは頷いた。
「世話になる」
「……たまには、ウチの土地で採れた物を余所者に食べてもらうのも悪くはない」
ナーシルは背を向けてパイプを深く吸い込んだ。
背中が大分小さく見えて、つかえがおりたようにフチには思えた。
夕餉には質素ながらも温かい物が振舞われ、フチはエイリに呆れられながらも、しっかり普通の人間1人分を完食した。ルルは興味深いと言いながら羊皮紙にフチの様子を書き殴っている。
ナーシルは既に、3人が料理に手を付けるのを見届けてからさっさとダリアの部屋に引き上げていた。
「カイさん、起きませんね」
「ちょっと様子を見に行きたいんだが、ルル嬢、部屋まで連れて行ってくれないか? その後は何とかする」
ルルは承諾し、エイリを心配そうにちらっと見た。
エイリはデザートの果物をつつきながらうとうとしている。長い睫毛がしぱしぱして、いかにも眠そうだった。
「聞いてたか?」
「うん……聞いてた……ルルさん、」
急にエイリに名前を呼ばれたルルは驚いた。
「な、なんでしょう」
「さっき……私たちが眠っている間……屋敷の人たちに……説得してくれてたって……」
ルルは瞬きをしながら頷いた。
そうなのだ。急に眠り始めた3人を屋敷の人々は訝しがり、中には追い出そうとした人もあったらしい。ダリアの状況が変わりそうなことを、いち早く察知していたのは、他でもないルルだった。
「ありがとう、……助かりましたわ」
「……いいえ、いえ、私は医師として何にも出来ませんでした。エイリさんとフチさんがいてくれてよかった」
「うん……よかった。ね、フチ」
「ああ」
本当に。
フチが労わりの意味を込めて、今にも眠りそうなエイリの手を優しく叩くと、彼女はぶつぶつと呟いた。
「ナーシルが……ダリアさんが目を覚ましたとき……泣いてて……よかった……」
「……」
それを最後にエイリの首がカクンと傾いた。
フチは不思議な感慨が胸に湧き上がるように感じる。
エイリにとって、ナーシルとダリアのような存在がいることは、少なくない驚きがあったのではないかと、フチは考える。人嫌いのエイリに、彼らのような2人はきっと良い影響をもたらすに違いない。
「エイリさんは、なんだか柔らかい雰囲気になりましたね」
ルルがそう言い、何故かフチは嬉しくなった。
エイリはルルを信頼したらしく、フチがルルの肩に乗るのを止めなかった。というか意識があるのも怪しそうな様子だったが、ふらふらしながらあてがわれた部屋に入って行った。
「ルル嬢も、部屋まで俺を運んでくれたら、すぐに引き上げてもらっていいぞ。おそらく俺の手持ちの気付け薬で目を覚ますはずだ。……疲れているのに申し訳ない」
ルルは申し訳なさそうに承諾した。彼女も昨夜から一睡もしていないので、そろそろ眠気が限界なのだろう。
だが、研究者としての興味はやはり尽きることはなく、フチ達が気を失っている間、何があったのかを事細かに聞いてきた。
廊下を歩きながら、ルルは呟き続けている。既に月は天高く、青白い光が辺りを満たしていた。
「おそらく……ダリアさんは、シフォア人だったのでしょう」
フチも相槌を打った。なんとなく察してはいた。
歳を取らない人間は、通常、存在しえない。それはまさにフチやカイ、そして元シナンの騎士であるシータに共通した『通常起こりえない変化』である。
「『歳を取らない』、『眠ったまま目覚めない』……私の考えた前提通り、シフォア人の変化は2つです」
「だが俺は小さくなっただけで、他の変化は見当たらない……おかしい、と言いたいのだろう」
フチはちょっとビビりながら言う。またルルを暴走状態にしてしまったら困るからだ。
だが、ルルが気になったのは別のことのようである。
「……何故、ダリアさんは通常に戻ったのでしょう」
ダリアは時間を取り戻すように急速に老い、そして目覚めた。そのきっかけは、一体なんなのだろう。
フチがある可能性に思い当たる中、カイの眠る部屋にたどり着いたので、フチはルルに礼を言って部屋に通してもらった。
「……」
ルルが去ったあと、しんと静まる室内には、誰もいないのではないかと思えるほど静寂が満ち満ちていた。
カイは1人、ベッドに横たわっている。
フチはそれにゆっくりと近づき、マントに隠していた小型のハサミを抜き取った。
フチは考える。
ダリアの変化は歳を取らず、目覚めないこと。
ダリアを目覚めさせるために、ナーシルは様々な人間に彼女を見てもらったこと。
ダリアの頭の中に入ったのはフチ達が初めてということ。
……これらの事を考えると、ダリアの目覚めのきっかけは、おそらくエイリと俺ではない。
「……目覚めていたか?」
フチはカイの枕元に近づいた。
カイは目だけを盛んに動かし、動かない四肢に戸惑っているようだった。額に冷や汗が浮かんでいる。
「起きる前に色々と仕込ませてもらった。……今からお前に質問をする。肯定なら瞳を上に、否定なら下に動かせ」
フチの声は水面のように静かである。淡々とした口調で、持ったハサミをマスクの紐にそっと沿わせた。
「!」
「答えない、もしくは嘘をついたと分かった場合、紐を切る。分かると思うが、水が漏れ、手足も動かないお前は、呼吸が出来ず死ぬ」
うろうろするカイの瞳に、フチが映っている。ゾッとするほど無表情で冷たい雰囲気は、エイリには決して見せないフチの一面だった。
「お前は、俺たちをダリアの頭の中に永遠に閉じ込めるつもりで、失敗したのか。……是か非か、答えろ」