8.キッシングプロキシィ
◇
エイリは目を覚まして、見慣れない顔立ちの男が顔を覗き込んでいるのに気づいた。思わず、勢いよく顔を上げる。
「ぎゃっ!」
「……!」
図らずもヘッドバットを決め、エイリは痛みに悶えて、床で寝返りを打った。
至近距離でエイリを心配していたらしいカイは、膝をついて涙をぽろぽろこぼしながら、黒板を見せてくる。
『いたい』
「そんなの見れば分かりますわ……」
エイリはどうも、カイには優しくなれなかった。カイに、というより、フチ以外の男性全般に。
まだここはポッツの屋敷のようだった。ただし見慣れない廊下である。相変わらず磨き込まれた壁や床は、まだここが現実の世界ではないことを示していた。
フチは?
キョロキョロと辺りを見回すエイリに、カイが肩を叩いてくる。
あっち、と指さされた場所に、フチはいた。
廊下に備えられた机の上。載った金色のラッパのような装置の手前で、歩きながら考え込んでいる。
「フチ!」
「あ、エイリ。起きたか」
フチは顔を上げて、ほっとしたように破顔した。
エイリはその仕草にどきっとする。さっきのことは、エイリの頭の中だけで起こったことなのだろうか。
「フチ、あの……」
「さっきはありがとう。お前のおかげで目が覚めたみたいだ」
「……」
「お、覚えがないか?迎えにきてくれただろう」
ちょっと焦って見上げてくるフチに、エイリは急いで首を振った。やっぱり、2人で夢を見ていたようだ。
改めて考えるとなんだか壮絶な体験だった。
『急に2人とも寝たから、びっくりした』
カイは、それは驚いたことだろう。急に2人とも意識を失って、いくら声をかけても目を覚まさなかったのだという。
「お前が現れるまで、夢だとも気づかなかった。……エイリはよく分かったな」
エイリは必死でフチを探し回って、勘だけを頼りにフチに辿り着いた。彼はそれまで、石造りの小さな教会の中で、ずっと頭を抱えて座り込んでいたように見えた。
自分でも、よく見つけられたと思う。
エイリは言い淀んだ。フチの意志を叶えるために目を覚ましたとは、到底本人の前では言い出せなかった。
「だ、伊達に悲劇のヒロインぶってはおりませんのよ。余裕でしたわ余裕」
ツンと顎を上げてから下を盗み見る。
フチはいたずらっぽく微笑んでいて、目が合った。まるでぜんぶ知ってるぞ、と言いたげな蠱惑的なその表情に、エイリは急に恥ずかしくなった。
『フチ、何か分かったの?』
カイが首を傾げている。
フチはああ、と答えたものの眉間に皺を寄せた。
「エイリ、ちょっと相談なんだが……」
「?」
顔を近づけるように言われ、エイリは金色のラッパのような装置に、耳をぐっと寄せた。
「なんだかここを回すと音が聞こえてくるんだ。誰かの声みたいな。中に人はいないから、声だけを溜め込んでいるんだと思う」
フチは装置の下部についていたレバーを身体で押したり引いたりぶら下がったりしながら、くるくると回し始めた。
カイがビシッと黒板を出している。
『非効率』
「おい、うるさいぞ。ナメるな」
エイリは眉をひそめた。ラッパの中から、男の声がする。
「……頼む……どうしても目を覚ましてほしいんだ……私はもう……長くない」
ところどころに雑音が混じって聞きにくいが、ナーシルの声のようだ。
「……治らんだと! まじめに診たのか? このヤブ医者が! とっとと消えろ!」
「家に返すだと? 笑わせる。彼女の家族はとっくにこの世を去っている。身寄りもいない」
「……ほんとに美しい子ね、あなたは。でも、今を大切にしなさい。老いとは、恐ろしいものなのだから……」
「跡継ぎなどいらん。女を連れてくるのはやめろ! 迷惑だ!」
様々な声がとめどなく流れてきて、その不可思議さに、エイリは混乱した。
「ナーシルの声と、誰か知らない人間の声で間違いないと思うんだが、合っているか?」
「そうだと思いますわ。一体、何の話をしているのかしら」
「断片的な会話なんだと思う。ダリアの中に強く残っている……」
そこで急にカイがバシバシと背中を叩いてきて、エイリは咳き込んだ。
「何ですの!?」
カイはぷるぷる震えながら、廊下の隅を指差した。
「!」
あの女の子が、隅にうずくまって身体を震わせていた。
……いや、あれを女の子と呼んでいいものか。
「フ、フチ。あのおばあさんというか、女の子というか、い、いるよ」
「おばあさん? ……」
フチは首を傾げて考え込んでいる。
彼のわりとどこでも構わずに考え込む癖に、エイリはちょっと嫌気がさしそうになった。
「……!」
女の子はゆっくりと、ふらつきながら立ち上がった。
カイは顔を真っ青にして、エイリを後方に引っ張って逃げ出そうとしている。エイリもフチを手に乗るように促したが、彼は首を振った。
「エイリ、お願いなんだが」
瞳に力がある。
エイリは目を丸くして、女の子とフチを交互に見た。
「おおお」
不気味な声が、再び女の子から聞こえてきた。カイは涙目でエイリの腰を掴んで逃げ出そうと暴れている。
ちょっとこれ、まずいんじゃ……!
「あの子から逃げないでくれ」
「え!?」
「頼む、信じてくれ」
そうフチが言ったところで、女の子が勢いよく振り返った。振り乱したバサバサの髪の中で、歪んだ皺だらけの顔が苦悶に歪んでいる。
「ねえええ」
エイリは失神しそうになった。
が、踏ん張って耐えた。フチがエイリの手の平に、握りしめた手を置いていたから。
「があああ」
「……!」
思わず目を瞑った。
「……い、お、ね、がい」
あれ?
何も起こらない。エイリは目を開けた。
目の前には、小さな老婆が肩をすぼめ、さめざめと涙をこぼしていた。
フチが老婆に向かって手を伸ばした。
「やっぱり、貴女がダリアだったんだな。初めまして」
「……!」
その瞬間、ぽんっと景色が弾けた。老婆も廊下も消え去り、エイリ達の前には、可愛らしい天蓋付きのベッドだけが現れていた。
「……」
どういう、ことだろう。
エイリは訳がわからない。でも、訳がわからない事がありすぎて、いい加減慣れてしまった部分もある。ゆっくりと、フチを伴ってそのベッドに近づいた。
「多分、あの中にダリアがいる」
フチの言葉通り、ベッドの中には現実と同じように静かに眠るダリアがいた。彫刻のように美しい横顔は、相変わらずピクリとも動く気配はない。
「……どういうことですの?」
「多分……」
フチがゆっくりと言う。話すことで、自分の中の考えを確かにしていくように。
「ダリアは……『歳をとらない』ことが望みだったのではないかと思う。……『眠ったまま起きない』ではなく」
「……」
「ダリアの中には、ナーシルの言葉が溢れている。彼はダリアの美しさについて、よく言及しているように見えた」
ナーシルとの生活をダリアがどう思っていたかはともかく、彼女の中にいるナーシルは、ダリアの美しさを彼女の唯一の価値だとでも言いたげだった。
「幼少期の環境などもあるかと思うが……彼女は祖父母と暮らしていた。より、老いることの不憫さを痛感していたと思う。老いが自分の価値である美しさを奪うということも、きっとよく分かっていた」
「自分が歳を取ったら、ナーシルに見放されると思ったのですね」
「ああ。そしてなんの結果かその願いは叶ったが……」
同時に、目覚めなくなったと。
フチはエイリを見上げた。
「あの老婆とも少女ともつかないダリアは、ダリアの思うダリア自身なんじゃないかと、思っている」
「……そうだったのでしょうね。でも、お願いって、一体なんなのでしょうか」
お願い、と言い残して消えた恐ろしい姿のダリアは、エイリ達に一体何を叶えて欲しかったのだろう。
「……」
そこでどこからか、頭に響く声がした。
「ダリア……いい加減目を覚ませ。この……哀れな女め」
ナーシルの声だ。涙声で語られるそれは、出所が全く分からなかった。
フチも聞こえているらしい。
「不器用な男だ。目覚めないダリアに何回も話しかけている。金のラッパのような置物にも入っていただろう?」
「ああ……あれは、この声が」
フチは急にエイリに背を向けた。
「思うに、男なら誰でも分かるんだが」
「?」
「女性の容姿を褒めるのは、最上級の口説き文句と思いがちな節があるんだ。男は」
エイリはよく分からない。
フチは咳払いした。
「ナーシルはずっとダリアを愛している。というかそもそも、いつ起きるか分からない妻を50年間も、後妻も持たずによく待っていたものだ。跡継ぎが必要なはずなのに」
「……」
「……それをダリアは眠りについてから思い知ったんじゃないか? だから、ダリアのお願いとは……」
ーー目を、覚まさせて。
ダリアの声が聞こえたような気がして、エイリははっとした。
ダリアの目尻から、幾筋もの涙が流れている。
『僕も聞こえた。目覚めさせてあげなくちゃ』
カイがひょこっと出てきた。
だが、方法が分からない。医者が手を尽くしてきた以上のことが、エイリ達に出来るのだろうか。
「あー、……心当たりはあるんだが」
「?」
フチの声のトーンが急に変わった。
なぜかカイもしきりに頷いている。
『女の子は、王子様からのキスで目が覚めるよ』
「はっ?」
エイリは口をパクパクした。脈絡がなさすぎてびっくりだ。
『というわけで、よろしくフチ』
「やっぱりか」
「え!?」
溜め息をついたフチは、眉間を揉んでいる。エイリはえ!?ともう一回言いながら挙動不審になった。
「き、キスするの!? フチが!? ダリアに!?」
「仕方ないだろう」
『僕マスク外せない』
あわあわとするエイリを、フチが見つめてくる。
「ここから出るにはダリアの願いを叶えるしかないと思う。この状況で、口付けが出来るのは俺だけだ……仕方ないだろう」
「……」
そんなひどい、とエイリは思ったが、何も言い返せない。
フチはエイリの手の平からひょいと天蓋の向こうに飛び降りた。
「フチ……」
気づけば、天蓋の向こうには、すらりとした背の高い青年が立っていた。
エイリはまさか、と目を見開く。
イースの騎士隊の制服に、艶のある黒髪。普通の大きさになったフチが、カーテンの向こうで立っている。
「なんで……?」
『夢だよ。夢だから何でもアリ』
嘘でしょ、と口に出せないエイリの前で、フチはベッドの向こうに回り込んで跪いた。びっくりするくらい明るい緑の瞳。間違いようもなく、フチだ。
フチは特にもったいつけることもなく、すっとダリアに顔を寄せた。唇同士が触れ合う。
「!」
なぜか、目が合った。瞬きもしないで数秒。
……私を見てる?
そう自覚した瞬間、頭の中でドカーンと爆発が起きて、エイリはこの上なく真っ赤になった。
……何で人にキスしながらこっちを見てんの!?
「……おはようございます、ダリア・ポッツ」
目を回し掛けたエイリを尻目に、事態は急展開していた。
ダリアがゆっくりと目を覚まして、微笑んでいた。
「……おはようございます。素敵なナイトさま」
「フチです。目が覚めてよかった」
フチは簡単に挨拶をして立ち上がった。
ダリアは首だけをこちらに傾けて、エイリとカイに微笑みかける。
「あなた方が、ここへ来てくれて良かった」
カイに『←エイリ カイ→』と板で一緒に自己紹介され、エイリははっとして気を取り直した。
いつのまにか天蓋は取り払われ、この空間には、ダリアのベッドしか存在していない。
「ダリア、さん。……貴女は……」
ダリアは頷いた。
「お願いです。……私の願いを叶えてください。貴方達が一緒に願ってくれれば、きっと叶う気がするの……」
ナーシルの声がする。目覚めてほしいと、何度も何度も懇願する声が響いてくる。
ダリアは再び涙をこぼした。
「最初は……このままでもいいかなと、思っていました。ナーシルは私の容姿にしか価値を見出していないと、思っていたから。でも……」
「……」
「毎日、毎日私の枕元で話しかけてくるんです、あの人。ごめん、ごめんって。私のせいで君の時間を奪ってしまった、と……」
ナーシルは、本当に不器用な男だったらしい。
愛していると一言、告げればよかっただけなのに。何故それが出来ないのか、女性であり、男性を理解できないエイリには分からない。
「それからずーっと、ずーっと願ってきました。歳をとって、例えナーシルに見放されてもいいから、泣くあの人だけは見たくないと。でも、ダメでした。地獄のような年月でした」
「……ここへ来たのは、俺たちが初めてということですか?」
いつのまにかフチの声が耳元で聞こえて、エイリはけっこううろたえた。
相変わらず心臓に悪い。肩に乗っているということは、元の大きさに戻ったということだろう。
ダリアは頷いた。
「ええ。こうやって目を覚ましたのは初めてです」
ダリアはゆっくりと起き上がり、ベッドから降りようと縁に腰をかけたが、上手くいかずにその場で転げた。
「ちょっと!」
「……お願い……」
堪らず駆けつけたエイリの腕を、ダリアは掴む。信じられないくらい強い力だった。
「私はどれだけ老いてもいいです。お願いだから、最後に、ナーシルに会わせてください。彼はもう、病で、長くない……」
「……」
「謝って、私を妻にしてくれてありがとうと、伝えたいの……!」
ダリアの目から流れ落ちる涙に、エイリは憧憬を感じた。
……私も、きっと、そう思う。好きな人に会いたいと思う。
自分が例え、今の自分でなくなってしまったとしても。
「……?」
空気がぼやけた。光るひらひらとした塊が、ダリアの目尻からこぼれ落ちた途端。目の前のダリアの輪郭も溶ける。
エイリは訪れた変化をきっといいものだと信じて、目を閉じた。




