5.迷える世界の騎士
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エイリ。お前は、……死にたいと思うほど嫌な環境にいたんだな。でもそれをしなかった……死ねない理由って、一体何なんだ?
問いかけを実際に彼女に問いかけたのか、分からない。
フチは気づいたら見慣れない場所に来ていた。
壁の見えない空間に、桃色や黄色の華やかな色合いの花や花びらが浮かんでいる。床にはリボン、菓子などの女子が喜びそうなものがあちこちに散らばっていた。
そしてその中に、背を向けて倒れているエイリがいる。
「エイリ!」
フチは焦って彼女の方向に駆け出したが、小さな身体では一向に彼女に近づくことができない。苛立ったところで、後ろからひょいと身体を摘まれた。
「カイ!?」
やあ、とでも言いたげにカイが目を細めて微笑んだ。
そのままエイリのそばに運んでくれる。
「エイリ! 大丈夫か!?」
「ううーー」
唸ったエイリにほっと胸をなでおろした。
カイはエイリが起きるのを手伝いながら、首を傾げている。
「俺たち3人だけか?」
3人はしばし、キョロキョロした。見覚えのない空間なのは、エイリもカイも共通らしい。
フチは落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせながら2人に言葉を投げかける。
「俺たち……ナーシルに頼まれて、ダリアの部屋にいたはずなんだが……」
『僕もそう』
カイが黒板に素早く書きつけた。エイリはぼーっとしたまま頷いた。
ここはどこだ?
馬鹿みたいな状況に、またしても陥った。
だが、ここはどこだと考えていても、それでは事態は解決しないと、フチは頭では理解している……頭では。
「ん?」
エイリが目を細めている。
その視線の先には、いつのまにか小さな子供が1人、うずくまっていた。
「ふん、ふん、ふーん」
鼻歌を歌っている子供は、ぼろぼろの服を着て、金髪もバサバサだ。かろうじて女の子だと判別できる。何かの絵を、床に描いているらしい。
「ねえ、貴方……」
エイリが近寄ると、女の子はキャッと悲鳴をあげて、背を向けたまま駆け出し、しばらくしてから立ち止まった。
フチは床に描かれている絵に目を止め、まじまじと見つめてしまった。
……本当に子供の絵か?
そこには、眠る女性にキスをする男性が描かれていた。2人とも被っている王冠の宝石まで詳細に書き込んであり、子供の落書きとは思えない。
フチはなんだか不気味さを覚えた。背を向けたままの女の子に近寄っていくエイリの背中に、声をかける。
「エイリ、……」
女の子が髪を振り乱して振り返った。
「!」
皺だらけの鬼のような形相。土気色の乾ききった唇。濁った黒目。
あまりにもアンバランスなその顔が、エイリに向かってぐわっと口を開けた。
「ぎゃあああああっ!」
「エイリ!」
エイリは飛び上がって逃げてくる。
カイは我先に後方に逃げており、その先には何故か、ポッツの屋敷が出現していた。
「おおお」
「いやあああああっ!」
不気味な声に、エイリは半狂乱になって、それでも床のフチを拾い上げて駆け出した。
カイはバタバタしながら屋敷の扉を開け、早く!と言いたげにこちらを振り返ってくる。
「ねええがあああ」
エイリが屋敷に逃げ込んだ瞬間、カイが力任せに扉を閉めた。
隙間から、駆けてきた女の子が一瞬だけ見えた。
「……はあっ! ……はあっ!」
腰を折って息をするエイリは、ぎゅっとフチを握っている。手のひらが冷たいのに濡れている。
フチも今見た光景に、心臓が早鐘のように鳴ってやまない。
一体、なんなんだ!
フチはあまりにも訳の分からない事態に叫びだしたくなった。
「フチ、大丈夫?」
「……ああ、大丈夫。ここはどこなんだろうな」
カイがとんとん、とエイリの肩を叩く。
『ポッツさんのお屋敷。でも綺麗?』
「……本当だな……」
妙な感覚だ。
さっき通ってきた木の廊下だが、ささくれだってもいないし、塗料でぴかぴかに磨かれている。そして何より、壁の手前で威嚇する男たちは、1人もいなかった。屋敷全体が不気味に静まり返っていた。
『声がする』
急に、カイは片手で耳を抑えた。
黒板に書かれた字に、エイリは眉をひそめて、私には聞こえない、と首を振る。
カイはこっち、とフチとエイリを屋敷の奥に連れ出した。フチは本音を言うと、こんな意味の分からない場所の奥地など全く足を踏み入れたくはなかったが、エイリはそうは思わなかったようだ。フチを肩に乗せて、険しい顔でカイについていく。
しばらく廊下を歩き、ある扉の前で、カイは手招きをした。この扉は、確か、ナーシルがフチ達を出迎えた部屋に当たるはずだ。
「わ、私ですか?」
扉の中から女性の声が聞こえ、エイリがびくっと肩を跳ねあげた。フチも反動で飛び上がった。
「わ、私は、ただの機織りなのですけど……」
「構わない」
カイがゆっくり扉を開けた。
何でそんなことをするのか理解出来ないフチは苛立って、カイの背中を睨みつける。
その背中の向こうの隙間から、明るい光が漏れていた。
「え!? こんなお金、受け取れません……」
「祖父母に育てられたと聞いている。受け取って、楽をさせてやればいい。金に困っているんだろ」
ブロンドの長い髪の後ろ姿に、フチは息を飲んだ。
ダリアだ。
ダリアと思われる女性の後ろ姿の向こうには、パイプを加えた気難しそうな若い青年が椅子に座り、大量の金貨を面倒臭そうに眺めていた。
「若いナーシルに見えますわ」
エイリが小さな声で言い、フチは気が遠くなりそうだった。間違いない、これが決定打だ。
この世界は、現実のものじゃない。
ここに来る直前の状況から考えて、ダリアに関係した、現実世界にはないどこかだ。今見ている光景は、十中八九、ダリアの記憶に違いない。
「……な、何故私なのか、分かりません。貧乏ですし、学もありません、身体も丈夫ではないですし」
焦ったように言うダリアに、ナーシルは鼻を鳴らした。
「君は美しい。それだけだ」
「えっ」
ダリアは驚いて身を固めた。
それを最後に、部屋の輪郭がぼやける。
「!」
一瞬で、部屋の様相が変わっていた。
いつのまにか、ダリアは綺麗な空色のドレスを着て、鏡の前で自分の姿を確認している。影になっていて顔は見えない。
「似合いますか?」
「悪くないな」
若いままのナーシルもいて、相変わらずパイプをくゆらせながら、つまらなさそうにダリアを眺めていた。
「ナーシルさまは、私に似合う色は何色だと思いますか?」
「さあ……何色でも、……どうでもいいよ」
また、場面が変わる。
今度はまた、ダリアは扉に背を向けていた。
その前にはやはりナーシルがいたが、彼の顔には激しい怒りの感情が浮かんでいた。
「庭師のオットーだな」
「……違います」
「誑かしたのか? それとも向こうからか?」
「違います……」
ダリアの背中が震えている。ナーシルは頬を紅潮させながら、バン!と手前の机に手を叩きつけた。
「何が違うんだ! 内密に手紙などやり取りしやがって。私がいない間に……」
「ちが、」
「……まあ、いい。君は美しい。そこにいるだけで役に立つんだから。次はないと思えよ」
ナーシルは頭を振って溜め息をついた。また、姿がぼやけていく。
フチは一連の流れに、混乱しつつも引き込まれていた。過去のナーシルとダリアのやり取り。これは、恐らく。
そこで急に、ダリアがくるりとこちらを振り向いた。まるで最初から、フチ達が覗いていることなど知っていたかのように。
「……!」
だがその顔は、真っ黒の絵の具で塗りつぶされたかのように、何も見えない漆黒だ。
その暗闇から、平板な、感情のない声が響いてきた。
「一緒にいましょうここで」
ゾッとした。
フチは思わずエイリと離れないように、彼女の襟元にしがみつく。
「ずっと一緒にいましょうここで」
暗闇が眼前いっぱいに広がった。




