昼の海
「加藤! おい、起きろ!」
辻の声に加藤は目を開けた。その瞬間、自分を覗き込む辻の顔と、明るい光が目に飛び込んできた。その光が月のものでないことはすぐに判った。
それが太陽の光だと判ると、加藤は勢いよく体を起こした。
「急に起きると体によくない」
辻がいるのとは反対側から男の声がした。そちらを見やると、クジラ岩を背に若い男がいた。
歳は自分達より年上だろう。高校生くらいだろうか。短く刈られた黒い髪に日焼けした肌。きなりのシャツにベージュのズボン。何だか古臭い格好をしている。テレビで見た戦時中の人みたいだ。
「大丈夫か?」
男に訊かれ、加藤は頷いた。
「この人が俺達を助けてくれたんだ」
と辻が言った。
見れば男の服は濡れている。自分達を助けるために海に入ったのがまだ乾いていないのだろう。男が自分達をクジラ岩の脇に引き上げてくれたようだ。
「助けてくれて、ありがとうございました」
加藤が例を言うと、男は微笑んだ。
「この岩場周辺は潮の流れが速いからね。落ちると危険だよ」
男は穏やかな口調で言った。辻から事情を聞いたのか、二人が海に落ちたと判っているようだ。
「俺も小さい頃、この辺でよく遊んだんだ。岩場から海に落ちて溺れかかったこともあった。友達が助けてくれて助かったんだけどね」
男は二人を見てこう訊いた。
「君達、見ない顔だけど、この辺の子?」
二人は首を振った。
「俺達、東京から」
サマーキャンプでここへ来たと言いかけると、男の思いがけない言葉に遮られた。
「疎開してきたのか?」
ソカイ──聞き慣れぬ言葉に、二人は一瞬意味が解らなかった。
「…ソカイって、あれだよな? 戦時中に都会の子どもが田舎に逃げてくるっていう」
「ああ。でも、何でそんなこと…」
この人は言うんだろう? という疑問が加藤にも辻にもあった。加藤と辻が小声でささやき合っているのを男は不思議そうに見ていた。
「違うのか?」
男の更なる問いに二人は顔を見合わせた。
「…や、疎開っていうか、俺達、単に学校行事で来てるだけだし」
辻が冷めた声で言い、それに加藤が続ける。
「そうそう。そこの宿泊所に…」
海辺の宿泊所にキャンプで泊まっているだけだと説明しようとして、加藤は宿泊所を指差した。
…はずだった。
加藤の言葉と動きが止まった。そこにあるはずの宿泊所がないのである。
「…何で…?」
思わず加藤の口から疑問の言葉が漏れた。不審に思った辻が加藤に問う。
「どうしたんだよ?」
「あれ…」
加藤は宿泊所があったはずの、否、あるはずの場所を指差した。そちらに視線を向けて辻も声を失う。
えもいわれぬ不安が加藤を襲った。
「どうかしたのか?」
心配そうに二人を見やる男に目を向け、男の背後に広がる街並みを確認すると、加藤の不安は大きくなっていった。
宿泊所があるはずの場所には何もなく。
街並みも昨日見たものとは違う。
加藤は立ち上がってクジラ岩の尾に回った。その後を辻が追う。
クジラ岩の尾に、そこにあるはずのものを見出せずに加藤と辻は呆然とした。さっき自分達がつけたはずの印がないのだ。キモダメシの時に他のペアや自分達が描いたものがない。
「やっぱり…」
加藤は呟いた。
よく考えれば、こんなに明るくなるまで自分達がキモダメシから戻らなければ、仲間達が探しに来るはずである。今の太陽はどう考えても朝のものではない。昼の太陽だ。となれば、教師達が探しにきていてもおかしくない。それに、流された場所と引き上げられた場所が近すぎる。太陽がこんなに明るくなるほど流されたのなら、もっと遠くまで流されていたはずだ。
「…ねえ、今日、何日だっけ?」
加藤は男に訊いた。
「7月15日だよ」
日付は変わっていないようだ。キモダメシに行った日の午後か。しかし、それでは矛盾が多い。
「…変なこと訊くけど」
不安を誘う状況に、加藤は核心に触れる質問をした。
「今って、いつ?」
「え?」
加藤の奇妙な質問に男は首を傾げた。
「いつって、昭和何年かってこと?」
『昭和』。その言葉が出た時点で加藤の不安は確信へと変わった。
「そう。昭和何年?」
男は加藤の質問の意図が解らない様子だったが、質問には答えてくれた。
「昭和二十年だよ」
───不安は確信から事実へ変わり、更なる不安を呼び起こした。
「…昭和二十年…」
辻が呟く。
昭和20年7月15日───終戦を一ヵ月後に控えていた。
「…辻、俺達、タイムスリップしたみたいだ」
加藤の声に辻は無言で頷いた。