煙管の男
◯
待っていても出会いはないが、私の場合、待っていなくとも出会いはなかった。周りにオナゴがいないのである。出会おうにも、出会う対象がいないのだ。
私は、地方から越してきて関東圏の大学へ通っている大学一年生である。高校時代、「青春」という言葉の定義を忘れてしまうほど愛だ恋だと疎遠であった私でも、大学へ入学すれば、薔薇色のキャンパスライフが送れると確信していた。しかし、現実は甘くなかった。私の周囲に生存する霊長類は悲しいかな、オスばかりなのである。そもそも、理系の学部を受験し、ラーメン評論部などという謎のクラブに入部してしまった時点で、私の大学生活から女ッ気が消えるのは必然だったのかもしれない。
私は現実を、はち切れるほどに呪った。
ふと、部屋の正面に貼られた家系ラーメンのポスターが目に入る。入会するクラブを決めかねていた私の自宅にやって来ては、ラーメン評論部部長が半ば強引に貼っていった忌まわしきポスターだ。他人からの誘いを断る事を「恥ずべき悪徳」と定義づけている私は、部長からの猛烈な誘いを断ることができなかった。そうして私は、存在意義すら甚だ不明である糞クラブ、ラーメン評論部に入部せざるを得なくなってしまったのである。
全く以って忌々しい。
私は溜息を吐いてから、卓上のノートパソコンに目をやった。今週実施した実験のレポートを作成しなければならないのだ。提出期限は明日十時。現在時刻二〇時。率直に言って、かなりシンドイ状況である。果たして提出は間に合うのだろうか。私はラーメンポスターを仏壇に見立て、南無南無と合掌した。私は現在、藁はおろか、麺にも縋りたい思いなのである。
◯
もっとも悪名高い悪魔は、おそらく「睡魔」という奴だろう。一夜漬けでレポートを仕上げた勤勉な学生に容赦なく取り憑き、その集中力と気力を奪っていく。
睡魔のこのような習性はおそらく、その邪悪な心に起因しているのだろう。舐めるなよ、お前など七時間睡眠を続けていれば、私の敵ではない。私はそんなことを考えながら睡魔と格闘し、禿げ頭の教授の話を、右から左へ受け流していた。
黒板の薄く汚い字を書きとろうとしたところで、終了を告げる鐘が鳴った。それを見計らったかのように、講堂の学生がそろそろと筆記用具を片付け、出て行く。私もそれに続いて、ノートとシャープペンシルを鞄に突っ込んだ。
講堂を出ると、腹が鳴った。徹夜でレポートを仕上げた故、朝の私は食欲が湧かず、ろくな朝食をとることができなかったのだ。そして時刻は一二時三分。私は昼食をとることにした。
◯
上質な昼食をとることが、すなわち上質な生活に繋がると信じていた。したがって、私はコンビニや学食の美味くも不味くもない食事によって昼食を終了させることを「恥ずべき悪徳」であると定義づけている。
私は昼食を、美味い料理店で済ませることに決めているのだ。
今日はどこで昼食をとろうかと思案しながら大学周辺の商店街をぶらついていると、行きつけの中華料理店の隣に、風情のある喫茶店が佇んでいるのを見つけた。
私は毎日のようにこの商店街に繰り出している故、この商店街に関しては世界的権威たる自覚があったが、このような喫茶店は記憶にない。商店街に新しい店ができたにも関わらずそれを認知していないとは、世界的権威の名が廃る。
私はふうと息を吐いてから、再度その喫茶店を見た。木を基調としたクラシカルな外観で、どこか歴史を感じさせる。やはりこんな喫茶店は記憶にない。私は喫茶店のドアに手をかけ、それをそっと開けた。
◯
からんからんと音が鳴り、つんとカビのにおいがした。天井の電球はオレンジがかっていて店内は薄暗いが、それが演出なのか、電球を変え忘れているのかは判断しかねる。私はとりあえずと、入り口付近の四人がけの席に座った。外観と内観のイメージがここまで一致する店も珍しい。
壁に貼ってある手書きのメニュー表を眺めていると、還暦過ぎと思しき狐目の男性が水を持ってやって来た。それを無言で置き、「注文は?」と小さな声を出すので、「アイスコーヒー」と注文を告げると、彼はまたしても無言でメモを取り、カウンターへ戻って行った。
注文を終えると、私は手持ち無沙汰になってしまった。そこで何か暇を潰せるものはないかと店内を見回していると、カウンター横の本棚に漫画雑誌が置いてあるのに気がつく。私は、わざわざ立ち上がってそれを取りに行くことを億劫に感じたが、暇を持て余して昼の貴重な時間を終えるのは「恥ずべき悪徳」であると感じたため、取りに行くことにした。私はヨッコラセと立ち上がる。
本棚へ向かい、漫画雑誌に手をかけたところで、「漫画好きなんだ?」と声が聞こえた。馴れ馴れしいのはどこのどいつだと憤慨していると、「ほら、そこの君」と再び馴れ馴れしい声がした。私が声の方へ振り向くと、二〇代半ばくらいの男が座って紅茶を嗜んでいた。
「まあそう睨むなよ。天上天下唯我独尊。一期一会。初めて会った人間にも、睨まず敬意を示すべきだと思うぜ、俺は」
私は男を見て、ここは現代日本であることを再度確かめたくも思った。男は藍色の着物を羽織り、煙管で煙草を蒸していたのだ。現代日本には似つかわしくない、古めかしい出で立ちである。私はしばし無言で、その男を見つめてしまった。
「なんだよ、間抜けな顔して。俺の格好が変か? お前からしたら違和感あるだろうが、俺にとってはこれが普通なんだよ」
男は、弾むような軽い口調で言い、ふうと煙を吐いた。その仕草にはどこか色気のようなものがあり、私はそこで嫉妬心を抱いてしまう。色男に嫉妬心を抱いてしまうのは、私の悪い癖である。
「マスター、こいつのコーヒー、俺の机に持ってくれ。こいつが、俺と飲みたいって言ってんだ」
男が手を挙げ、大きな声を出した。カウンターでコーヒーを挽いていた狐目の男性がそれに頷く。私は驚き、つい「は!」と漏らしてしまう。
「おい、いきなりなんてことを!」
「まあ、せっかくこんな辺鄙な所で出会ったんだ。一緒に上質な昼を楽しもうや」
「私は一人でコーヒーを嗜みたいのだ。お前のようなどこの馬の骨とも知らぬ奴とは、一緒にコーヒーを飲めん」
怪しさと妖しさを兼ね備えるこの初対面の男を、私はどうも信用できなかった。
「ほう、そいつは残念だな。それじゃあ、俺がお前のぶんのコーヒーを奢ると言ったらどうする?」
「奢る? それはそのままの意味でか?」
「そうだ。悪くないだろ?」
私は他の多くの学生と同様に、金欠の身であった。働けど働けどその金は、生活費、授業料、上質な昼食代に消えてしまうのである。
「なんなら、ナポリタンを奢ってやっても良い。ここのナポリタンは、頰が落ちるくらいうめえぞ?」
男がそう言った瞬間に私は、中太麺に絡む甘酸っぱいケチャップを想った。次いで、芳醇なベーコンのコクと、まだ歯応えの残るピーマン、玉ねぎの甘さが去来する。そこで私の口内に、唾液が溢れた。うまいナポリタンには、人を幸せにする力がある。私はそのことを思い出したのだ。
「お前は、素晴らしい人間だ」
人間、欲望には勝てない。とりわけ食欲には、抗うことはできないだろう。私はお言葉に甘えることにした。実のところ、ラーメンよりもパスタの方が好きなのである。
◯
「なかなかの食いっぷりじゃねえか」
空になった皿を見てから、男は驚いたようにそう漏らした。私はものの数分で、ナポリタンを平らげたのである。期待通りの素晴らしきナポリタンであった。満足した私は、持参していたティッシュで口を拭う。
「ご馳走になった。大いに感謝する」
「礼には及ばねえよ。そういう約束だからな」
男は言ってから、ふうと煙を吐いた。彼の持つ煙管には斑点状の錆があり、そこに年季が感じられた。
「ところでお前、大学生か?」
男は一口紅茶を含み、頬杖をついてから、煙管を回し、私を指す。
「そうだ」
「この辺に住んでるのか?」
「そうだな。アパートで下宿している」
「ふーん。バイトとかしてんの?」
「している。ここからほど近いレストランでな」
「へえ、なるほどね」
男がそこまで聞いて再度紅茶を飲んだところで、私は自らが相当な数の個人情報を流出させたことに気がつく。つい十数分前に会ったばかりの人間にここまで大量の個人情報を渡してしまうとは、自らの危機管理能力の低さを唾棄せざるを得ない。全く以って不覚である。
「おい、私の個人情報ばかり収集して、お前は何も言わないのか」
「ん? 俺か? 俺には人に喋るほどの個人情報はねえよ?」
「そんなはずはない。人間は皆、一定以上の個人情報を保有しているはずだ」
「そういうもんか? 俺の個人情報ね……」
男は呟くように言ってから、顎に手を当てる。そうして煙管をくるくると回し、しばらく間を置いてから、男は再び煙管で私を指した。
「そうだ。お前には、俺の特技を披露してやろう」
「特技? それはなんだ?」
「聞いて驚くなよ? 俺は、魔法が使えるんだ。それを生かした特技さ」
「は?」
男がそんな突拍子もないことを言うので、私は訝る。
「お前、私を馬鹿にしているのか?」
「そんなんじゃねえよ。今から見せてやるから、ちょっと待ってな」
男はそう言ってから、カップの横にあるティースプーンをつまんだ。
「これからこのスプーンを、お前の好きな物に変えてやるよ。なんでも良いから好きな物を言ってみろ」
男が得意げにそう言うので、その高い鼻をへし折ってやりたい気分になった。私は頭を振り絞り、ティースプーンから絶対に発現し得ない物を思案する。頓智すら聞かせようもない、完膚なきまでの物を、だ。
「よし、良いだろう。そのティースプーンを、縄文土器に変えてみろ」
「縄文土器? 弥生土器じゃなくて、縄文土器で良いんだな?」
「そうだ、縄文土器だ。断じて弥生土器などではない」
私がそう忠告すると、ふうと煙を吐き、男は薄ら笑いを浮かべる。縄文土器という年に一度言うか言わないかも怪しい物体の名が挙がっても、男は大した自信であった。
「ふん、ずる賢い大学生が考えそうな手だな」
「なんだと?」
「余裕だよ。まさに朝飯前だ」
「それならやってみろ。成功したら、お前の魔法とやらを信じてやる」
私がそう啖呵を切ると、男はまたも不敵な笑みを浮かべた。そうしてくるくると回してから煙管を置き、ぱちんと指を鳴らす。すると次の瞬間、緑色の煙が現れ、あたりを覆った。私はそれを吸い込み、思わず咳き込んでしまう。
煙が晴れると、私は驚きのあまり、言葉を失った。男の発言は完全なブラフであると信じて疑わなかったが、まさに現実のものとなってしまったのだ。
「こ、これはどういうことだ?」
「な? 朝飯前って言ったろ?」
私の目の前に、宣言通り縄文土器が現れたのだ。本物か否かを確かめるために触れると、ザラザラとした土を焼いたような質感があり、また、その最大のアイデンティティである、縄の模様もしっかり刻まれていた。私は思わず息を呑んでしまう。
「触ってみても、本物だろ?」
「実物を触ったことがないが、おそらくそうなのだろう」
「だろ? それにしてもお前、わかりやすく驚いたな。おもしれえ」
唖然とする私を見ながら、男はにやりと笑っていた。
「ティースプーンが縄文土器に変わるのを目の前で見せられて、驚かない奴がいるか」
「だよなあ。これで、俺が魔法使いだって、信じざるを得なくなったろ?」
男の満足げな表情は憎たらしいが、この現実は受け止めざるを得ない。彼は私の言った通り、ティースプーンを縄文土器に変えて見せたのだ。
私は不満に思いつつ、小さく頷いてやる。
「よし、お前が俺の魔法を信じたところで、次は占いをやってやる。何か占ってほしいことはあるか?」
「今度は占いか」
「俺の占いはよく当たるぜ。さあ、何運を占ってほしい?」
男は言いながら指を鳴らし、今度は縄文土器を水晶玉に変化させた。私が急なことで呆気に取られていると、男は「じゃあ恋愛運で良いか」と言い、水晶玉に手をかけた。そしてしばらくの間の後、男は私の方を見てにやりと笑う。
「お前、恋人いないだろ?」
「お、おい、なぜわかったのだ!」
「そんなん見りゃわかるよ。お前はそういう顔をしてる」
「人を顔で判断するな!」
「でも、実際いないんだろ?」
「まあ、そうだが……」
男のからかいに、何も言い返せない自分が情けなかった。とはいえ、私に恋人がいないことには、理由があるのだ。私は少し落ち着こうと、コーヒーを一口含む。
「しかし、出会いがないのだから仕方がないだろう。私の周りには、オナゴがいないのだ」
「そうなのか。まあでも安心しろ。お前には近いうちに、運命の出会いがあるはずだ」
「運命の出会いだと⁉」
私は驚きのあまり、コーヒーを吹き出しそうになる。これまでろくな出会いもなかった私からしてみれば、「運命の出会い」という言葉には、十二分の魅力が感じられた。私は落ち着くべくコーヒーカップを持とうとするが、手が震えて持てない。私はとりあえずと男を見つめた。
「詳しく聞かせてくれ! 私はどこで、どんな女性に出会うというのだ!」
「そうだな。まずその女は、お前のバイト先にやって来る。やって来て、そうだな、ナポリタンを注文する」
男は言い、机に置いていた煙管を手に取ってくるりと回した。
「私の働く店のメニューにナポリタンはないのだが」
「あ? そうなの?」
男はそう言った時に少しだけ、目を見開いた。私は「運命の出会い」の詳細を知りたくてたまらないので、先を促す。
「おい、その女性は何を注文するのだ?」
「そうだな、そいつは、ミートソーススパゲッティを注文する。そして、喫煙席を希望するはずだ」
「なるほど、ミートソーススパゲッティに喫煙席か」
私は男の言ったことを忘れぬよう、心の中で「ミートソース、喫煙席」と何度も繰り返した。私は学部生屈指の鳥頭として知られているが、今こそその汚名を返上する時だろう。
「そんでその女は、お前の趣味ど真ん中の容姿をしている。お前はどんな女が好みなんだ?」
「私は、黒髪の清楚な女性が好みだ」
私がそう言ってから、自らの顔面に熱を感じたことは言うまでもない。好みの女性を人に言ったことはなかったが、ここまで恥ずかしいことだとは思わなかった。
「なるほど、清楚系か。そいつは良い」
「うるさい。人の趣味をとやかく言うな」
「そんな、とやかく言うつもりはねえよ。良いじゃねえか、清楚系」
男はそう言いながらも、笑いを堪え切れないといった様子であった。私はそこで、「人の趣味を笑うな」と反駁してやりたい気分であったが、恥じらいと期待感が混じり合った不思議な感情が胸中でメリーゴーランドの如く渦巻いており、それどころではなかった。
「まあとにかく、お前は近いうちに運命の人に出会う。そのチャンスを逃したら、次はないと思え」
男は煙管をくるくると回転させてから私を指差した。先程から度々この仕草をしているため、これが彼の癖なのかもしれない。その仕草を気障であると感じしつつも、私は固く、男に向けてこう誓った。
「絶対に好機は逃さぬ。私はこの出会いを、二〇年間待ち望んでいたのだ」
◯
本日のアルバイトは別方向に身が入り、本来の業務に身が入らなかった。「運命の出会い」を是が非でもモノにしなければならない私は、入店した黒髪の女性客をじろじろと睥睨したり、ミートソーススパゲッティのオーダーが入ると手の震えが止まらなくなったりと、惨憺たる働きぶりであった。
私はレジスターを前に、がっくりと項垂れる。まったく、何をやっているというのだ。
「おいあんた、今日はどうしたんだよ」
レジスターの前にて溜息を吐く私にそう問いかけたのは、同僚の女、通称「オスカルばり」であった。男より男らしいその言動から、私が人知れずそう命名した至上屈指の女傑は、私の難敵として幾度となく立ちはだかり、その快適な労働を完膚なきまでに妨害していた。
「私がどうしようがお前には関係ないだろう。構わないでくれ」
「関係なかねえんだよ、このオタンコナス! あんたのケツを拭くのは、あたしら他のバイトなんだからね!」
私の肩に弾丸のようなパンチを浴びせ、オスカルばりは声を荒げた。彼女の言うことがごもっともであるから、私の心には悔悟の念が込み上げてくる。
「その節は、本当に申し訳ない……」
「本当だよ、まったくもう。それで、何があったんだよ?」
「それを聞いても得はしないと思うが」
「いいから、何があったか早く言え!」
オスカルばりの棘のある口調と鋭い切れ目にやられ、私は抵抗の意志を失う。項垂れていた視線を上げ、私は昼間の出来事を想起した。
「近いうち、私はここで『運命の出会い』をするらしいのだ。そう思うと緊張してしまい、仕事が手につかないのだ」
「はあ? あんた何言ってんの?」
オスカルばりが眉間にしわを寄せた。
「昼間出会った不思議な男に言われたのだ」
「なんだそりゃ? あんたアホなの?」
オスカルばりはあからさまに表情をひしゃげさせ、全く理解できないといった様子である。
「何故信じているかを問われると困るが、『運命の出会い』という言葉の響きにやられたのだ。信じてみたくもなる」
「何言ってんだよ! 相変わらず気持ち悪い奴だな、あんたは」
オスカルばりはそう吐き捨てて、キッチンへ戻っていった。どうやら彼女は、私に罵詈雑言を浴びせたかっただけのようである。
私は小さく溜息を吐き、意味もなくレジスターの周りを拭いてみる。
◯
一通りレジスターを拭き終わると、私の視線横、店のドアがゆっくりと開いた。接客しなければとそちらを向くと、その瞬間、心臓が激しく鼓動するのを感じた。
ドアを開けて入店して来た客が、まさに私の理想とする容姿の女性であったのだ。私はカウンターから飛び出し、その清楚で可憐な女性に近づく。これが男の言った「運命の出会い」かもしれない、と私は大いに期待した。
「い、いらっしゃいませ。お客様何名様ですか?」
私が声を裏返しながらそう尋ねると、女性は人差し指を一本立てた。桃色のブラウスがよく似合っている。その姿は、至近距離でもなお可憐であった。
私は弾む胸の鼓動を抑え、「煙草はお吸いになりますか?」と尋ねる。すると、彼女は小さく頷いた。私は唾を飲んでから、喫煙席まで案内する。
席に着くと、彼女はちょこんと控えめに座った。そこで私が、「ご注文お決まりになりましたらお声かけください」と言うと、彼女はとんとんと机を叩いて私を呼び止め、卓上のメニュー表を開いては、ぺらぺらとめくり出した。そしてパスタのページで手を止めると、彼女はミートソーススパゲッティの写真を指差し、小さな声で「これください」と囁いた。私の心臓はそれによって、さらに激しく鼓動する。理想的な容姿の女性が喫煙席に座り、ミートソーススパゲッティを注文したのだ。これは男の言っていた、「運命の出会い」に違いない。
私は気持ちを落ちつけようと、小さく息を吐く。
「かしこまりました。お冷はセルフサービスとなります」
私は彼女にそう告げ、注文を伝えるためにキッチンへ向かう。「ミートソース一丁」と言った声が、本日一番の大きさであったのは言うまでもない。
注文を伝え終わり、次の客を捌くためにカウンターを出ようとすると、オスカルばりが私の肩をそっと叩き、にやりと笑った。私が訝しんでいると、「楽しそうじゃねえか」と冷やかすので、私は余計なお世話だ、と一蹴してやりたい気持ちになる。
そんなオスカルばりをよそに客を捌きながら、彼女の座る喫煙席をちらりと覗くと、紙タバコを指で回そうとして、机に落としていた。その仕草すら、楚々として赴きがある。
◯
何か仕掛けるのなら会計の時であろうと思案していた。彼女とごく近い距離で話すことが可能であり、かつ、帰り間際ということもあるため、爪痕を残すには都合が良い。やはり会計の時が最適と考えて間違いはないだろう。
それでは、何を話すべきか。やはり、他愛もない話題を振るべきであろう。大前提として私と彼女は、赤の他人である。そのため当然ながら、いきなり馴れ馴れしく話すことは大いに不自然であり、彼女に不快感を与えることになりかねない。したがって私には、「今夜の月は綺麗ですね」とか、「僕の家で育てている土筆がびんびんなんですよ」とか、当たり障りのない話題を振ることが求められる。
私は頭の中の引き出しをすべて開け、記憶を洪水の如くぶちまけた。これらを総動員し、彼女を唸らせるような他愛もない話題を組み立てるのだ。
そうこうしているうち、彼女が伝票を持って、私のいるレジスターにやってきた。そうしてそれをぽんと置き、財布を取り出す。私は他愛もない話題を頭の中に思い浮かべ、レジスターに値段を打ち込む。
「四三〇円です」
値段を打ち終え、代金を告げる。すると彼女は、何か言いたげに伝票を指差した。私がその仕草のままに伝票を確認すると、彼女は小さな声で「裏」と囁いた。私はそれを聞き、伝票を裏返すと、伝票の裏には「これから会いませんか?? 場所は中華料理屋さんの横の喫茶店で」と顔に似合わぬ逞しい字で綴られている。訳がわからず目線を上げると、彼女は頰を赤らめて頷いていた。私はそこで、「え」と思わず漏らしてしまう。すると彼女は、もう一度控えめに頷いた。
有頂天というべきかもしれない。私から声をかけずとも、彼女は私のことを認識していたのだ。二〇年間待ち望んでいた悲願が、今まさに動き出そうとしている。
私は満面の笑みを作り、親指を立てる。こんなに事がうまく運んで良いものかとも思ったが、ひとまず今は、胸の高鳴りを噛み締めていたかった。
彼女が四三〇円をちょうど支払い、手を振って店内を出て行く。私はそれに手を振り返してから、そっとガッツポーズをした。それを見ていたのか、キッチンのオスカルばりがにやりと笑っている。目が合うと彼女は私の方にやって来て、「楽しそうじゃねえか」と冷やかすので、私は満面の笑みにて、「余計なお世話だ」と一蹴してやった。
◯
夜の商店街を一人、駆けていく。アルバイトを終え、私は彼女との待ち合わせ場所へ急ぐ。冬空は寒いが、恋の熱を冷ますほどの寒さではない故、私にとってなんら問題でない。むしろコートを脱ぎ去ってしまいたいくらい、私の心はふつふつと燃えていた。
中華料理店探しながら、トントン拍子とはまさにこのことかもしれない、と考えていた。私はこれまで、女性と恋仲に至ったことがなかった。それは単純に、周囲に愛すべきオナゴがいなかったという要因もあるが、それよりも、私のアプローチが功を奏さなかったことが大きかったと考えられる。
私はかねてより、宥和的かつ淑やかなアプローチを心がけてきた。それは私が、強行的かつ横暴なアプローチによって女性を悩ませることを「恥ずべき悪徳」であると定義づけてきたためである。しかし現実は厳しく、私の宥和的かつ淑やかなアプローチによって女性が振り向くことはなかった。したがって私は、恋仲に至るチャンスを得ることすらできなかったのだ。
だが、今は違う。強行的かつ横暴なアプローチによらずとも、私の元へ恋仲に至り得る好機が舞い込んできたのである。これを逃すわけにはいかない。
そうして中華料理店を見つけ、立ち止まると、そのすぐ横、風情ある喫茶店にて、彼女がちょこんと佇んでいた。
桃色のブラウスを羽織り、長い黒髪をなびかせている。先程は一杯一杯で気がつかなかったが、彼女の目元には泣きぼくろがあり、それがその美貌をより際立たせているようにも思えた。
私は彼女と目を合わせてから、ゆっくりと歩みを進める。夜空にかかる三日月が、私のことを後押ししている気さえした。今こそ、二〇年の悲願を果たすべき時である。
こうして私は、彼女と手を触れられる距離まで接近する。そうして一つ息を吐いてから、私は彼女に話しかけた。
「こんばんは、今夜は月が綺麗ですね」
その言葉と共に、私の心臓はばくんと大きく跳ねた。人間第一印象が大切であるから、初めは慎重かつ大胆にいかなくてはならない。私は彼女の様子を伺う。そうして私たちは、ゆっくりと見つめ合った。
しばらくの間の後、彼女はなぜか、堰を切ったように笑いだした。その声は野太く、彼女の可憐な容姿とは全く不釣り合いである。私は訳がわからず、思わず首を傾げてしまう。こんなはずではない、と現実を疑いたくも思った。
「こんばんは。お前、本当に面白い奴ですね!」
彼女は笑いながら、弾むような口調でそう言った。私はそれを聞き、瞬時に嫌な予感を覚える。聞き覚えのある声なのだ。それも、つい数時間前にちょうど同じ場所で聞いた声。私に「運命の出会い」を示唆した、あの声なのである。私は頭を抱えた。
「……そういうことだったのか」
「まったく、お前は本当に単純な奴だな。こんなに簡単に、恋が成就するわけがないだろう?」
その声とともに彼女は、ポケットから斑点状の錆がある煙管を取り出した。そうしてそれをくるりと回してから、指をぱちんと鳴らすと、あたりは一瞬にして、緑色の煙に包まれた。私はそれに咳き込む。そして煙がはけ、気がついた時には彼女の姿はなく、その代わりに、昼間喫茶店で出会った、煙管の男が佇んでいたのであった。
「残念、清楚系女子は俺でした。今夜も相変わらず月が綺麗だな、童貞君よ」
◯
涙を堪えるので精一杯であった。
純情を弄ばれた怒りと、恋が一瞬で終了してしまった悲しみで、感情が心中にて大渋滞を引き起こしている。拳に力を込めなければ、男を殴ってしまうような気がした。私は気持ちを噛み殺し、男を睨みつける。
「お前、謀ったな……悪魔め……」
「ああ、謀ったさ。すまなかったな、無垢な少年の純情を弄んで」
男は謝罪の言葉を述べながらも、薄ら笑いを浮かべていた。私はそれを見て、一層拳を握る力を強める。
「ただ、今回の件に関しては、お前にも非はあるぜ?名も知らぬ怪しい男に個人情報をべらべら喋り、清楚系女子とのうますぎる話に、疑いもせず乗ったんだからな」
男は言ってから、再び煙管を回した。
「だからといって、こんなのはあんまりではないか」
「そんなに言うなら見抜けば良かったんだよ。昼間見せたはずだぜ? 俺は、物を別の物に変えることができる。それは当然、自分の体に対しても同じことができるってことをな」
男は言い、煙管にライターで火をつけた。そうしてふうと煙を吹き、こちらを見る。そのしたり顔に、私の怒りは積もっていく。
「お前は、私に恋人がいないことを知っていながら弄んだ。お前のやったことは、道義的、倫理的観念に反する」
「それがどうしたっていうんだよ。むしろお前は、俺に感謝すべきだぜ?」
「それはどういうことだ」
「努力をしなければ、成功は掴めない。楽をして成功を掴もうとすると、バチが当たる。そのことをお前は、俺のおかげで身をもって学べただろ?」
男がそう言った時、私は既にその拳を掲げていた。自らの悪行を正当化するだけでは飽き足らず、被害者へ恩に着させようとする彼の姿勢は、甚だ認容できるものではない。私の拳は、脊髄反射的に男を殴りにかかっていた。
それに気がついた男は、一瞬不敵な笑みを浮かべた。私がそれにさらに怒りを募らせると、次の瞬間、彼が指を鳴らそうとしているのに気がつく。そしてその数秒後には、ぱちんという小気味よい音と共に緑色の煙が渦巻き、彼の姿はいつのまにか見えなくなってしまった。私は再度咳き込む。
煙がはけてから、私は男の姿を探すためにあたりを見回す。しかしあたりに、男の姿はない。
それでも諦めずに男を探していると、中華料理店のけばけばしい赤い看板の上に、茶色い縄文土器がぷかぷかと浮かんでいた。
◯
目覚まし時計の音で叩き起こされ、目を擦ってのびをする。
窓からは朝日が差し込み、卓上のコップに入ったビールを、キラキラと輝かせていた。
私はベッドから起き上がり、とりあえずと歯を磨く。食欲は湧かないので、朝食は抜くことにした。ここ最近、あまり朝食を取れていない故、栄養バランスが心配である。栄養失調になるまいか、と淡い不安がよぎるほどである。
私はそんな不安を胸に服を着替えてから、戸締りをして大学へ向かった。
◯
商店街を歩きながら、昨晩のアレは何だったのだろうかと思案していた。煙と共に消えていったあの男、煙管の男は、非現実的な方法によって私を弄んだ。しかし最後まで、あのような現実離れした魔法をどういった原理で使いこなしているのか、どういった目的で私を弄んだのかは、わからなかった。
それにつけても、彼の扮したあの女性は見事な美貌であった。背中にかかるくらいまで伸びた艶のある黒髪に、凛とした顔立ち。まさに私の理想とする、清楚な女性の風貌であった。本物のあの女性は、今もどこかに存在しているのだろうか。実際に会ったこともないし、名前もわからないが、私はあの清楚な女性に思いを馳せた。
私はふと、中華料理店の前で足を止めた。しかしその横には、あるはずの喫茶店がぽっかりとなくなっており、私はどこか物悲しさを感じざるを得なかった。
朝の澄んだ風が、肌に冷たい。
◯
大学の講義を終え、私は例の如く、レジスターの前に立っていた。本日は客の入りが芳しくなく、私たちアルバイトは暇を持て余していた。そうしてレジスターの周りを意味もなく拭いていると、オスカルばりが欠伸をしてから、私の横に立った。
「暇だな」
「そうだな」
オスカルばりはもう一度大きく欠伸をする。その様子に、私を苦しめんとする女傑の威厳は感じられなかった。
「こんな時こそ、昨日の彼女のような、美しい女性がやって来れば良いのだがな」
「は? 美しい女性?」
「いや、昨日この店に美しい女性がやって来て、私が『楽しそう』にしていただろ?」
「は? あたしそんなの知らないけど」
私の説明を受けてもオスカルばりは首を傾げている。
「お前も見ていたはずだ。そして、『楽しそうじゃねえか』と私をからかってきた」
「だから、あたしはそんなの知らないって。あんたそれ、幻でも見てたんじゃないの?」
ここまで言っても、オスカルばりは昨日のことを思い出すどころか、幻と言い出す始末であった。その様子を見るに、私をからかっているわけではなく、本気でわからないようであった。彼女は眉を寄せ、首を傾げている。
「まあ、どうでも良いや。じゃあ、あたし行くわ。暇だから、つまみ食いでもしてくる」
オスカルばりは手を振ってから、キッチンへ戻っていった。私は手を振り返し、再度レジスターの周りを拭く。
私はふと、昨日の一連の出来事は本当に幻か何かだったのではないかと思案した。冷静にならずとも、昨晩煙管の男がなした数々の悪行は、現実で起こしようもない魔訶不思議なものばかりであった。そして、その舞台の一つとなった喫茶店はきれいさっぱりなくなっており、私が清楚系女子に浮かれていたのを見てからかっていたオスカルばりは、そのことを覚えていない。やはり、昨日の一件は幻の類だったのかもしれない。
そう思うとともに、私はどこか物悲しい気持ちになってしまった。彼女を見た時のあのトキメキもすべて幻だったと思うと、胸に喪失感が襲ってくるのだ。私は一体いつになれば、煙管の男のいう「運命の出会い」を果たすことができるのだろうか。そしていつになれば、また昨晩のように、恋のトキメキを感じることができるのだろうか。それはきっと、神のみぞ知るのだろう。
そんなことを考えながらぼんやりとレジスターを拭いていると、私の視線横、店のドアがゆっくりと開いた。接客しなければとそちらを向くと、そこには、桃色のブラウスを羽織った長い黒髪の美しい女性が、にこりと微笑んで立っていた。その目元には泣きぼくろがあり、それがその女性の美しさを際立たせていた。
私はそれを見て小さく息を吐いてから「いらっしゃいませ」と言う。そうしてその清楚な女性のもとへ、ゆっくりと歩みを進めていった。