自民党憲法改正案が通過した2025年の近未来 8.緊急事態宣言
午前四時。まだ夜が明ける前、律子達の住んでいる南島に大きな爆発音が聞こえた。その音で優香は目が覚めた。
「なんだかすごく大きな音がしたわね。誰か本土から花火でも買ってきたのかしら」
その位の発想しか思い浮かばなかった。その位、何も無い静かな島である。しかしよく考えてみると、この島で花火で遊ぼうと考えるのは自分達くらいなものである。他の住民はほとんど高齢者なのだから。
「ちょっと何が起こったか様子を見てくる」
着替えて外に出て、車を出す頃には隣の家の人も起き出して外へ出ていた。島の連絡船の船長で、今日は船を島の港に止めて島の自宅に帰っていた。
「よかったら一緒に様子を見てきましょう」
音のする方向、港へ向かうと、そこにはあるはずの物が消えていた。
島と本土を結ぶ連絡船の姿が無い。見えるのは船の焼け跡、爆発して散らばった残骸だった。
「タバコの火の不始末かしら」
「おかしいな。私が船を繋いで家に帰る時にはちゃんと火の点検もしていたのに。これじゃあ、しばらく船は出せない」
一緒に見にいった連絡船の船長も焼け跡を見ながらつぶやいた。
「とりあえず朝ごはんを作らなきゃ。戻りましょう」
「海上保安庁には私の方から連絡しておくから。じきに代わりの船を用意してくれるでしょう。それまではちょっと不自由だろうけれど」
連絡船は壊れてしまったが、もともと台風や悪天候で何日も船が出ないのはよくあることだった。島の住民はみんな不自由さに慣れていた。
それでも小さい島の事件にもかかわらず、船が爆発したことは全国向けの朝のトップニュースとして扱われていた。そのせいだろう。東京に住んでいる友達のメリーからメールがあった。
「そっちで爆発があったみたいだけれど大丈夫? 」
「うん、全然大丈夫。そっちは変わりない? 」
「変わりないわ。ただ、ケンがまだ会社から帰ってきていないの」
「大変な会社なのね。身体に気をつけて」
優香はブログにも無事な様子を書いた。
”爆発で連絡船が壊れました。でも他は被害が無くて大丈夫です。壊れた船の木材で焼き芋しています”
壊れた船の写真、たき火で焼き芋を焼いている様子を写真に撮って載せた。
いつもの朝のドラマを見ようとテレビを付けた。するとテレビでは臨時ニュースが流れていた。
「少し前、沖縄県の島で大規模爆発が起きました。これは外国からの武力攻撃の可能性も考えられます。これによりカベ総理は緊急事態宣言をしました。これにより衆議院の解散は延期。カベ総理は臨時政府を作りました。国民の皆さんは政府の指示に従って行動してください」
「あら、どこかで被害があったのね。それは大変だわ」
ところがその後の写真には、自分の撮った連絡船の壊れた写真、そして焼き芋をしている写真が出ている。
「今、被災地では食べ物が無くて壊れた船の木材でたき火をして芋を焼いて食べています。この災害を乗り切るには、国民の結束が必要です」
続いてカベ総理の声明があった。
『緊急事態のため、衆議院の解散はしばらく延期します。しかし攻撃を受けた南島も直ちに国防軍が向かい防衛します。国民の皆様は安心して生活してください。今、企業の業績はどんどん良くなって株価も上がっています。景気回復まであと少しです。国民の皆さんは景気を良くするために、どんどん買い物をしましょう』
そこでいきなりテレビが切れた。今度は電波障害かもしれない。
「やれやれ、島はこういう不便さがある。その間にブログの下書きをしておこう。今回は非常事態宣言ね」
新憲法第九十八条 内閣総理大臣は、我が国に対する外国からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
その頃政府官邸ではカベ総理、ツガ官房長官、ミスターXが総理執務室でニュースを確認していた。
「総理、ミスターXのお蔭で何とか間に合いましたね。クーデターは失敗し、もう衆議院の任期満了でダメかと思いましたよ。景気はちっとも良くならず、今選挙をすれば共産党に負けるところだった」
ミスターXは今日は珍しく背広にネクタイ姿だった。
「夜明け前の真っ暗な海で誰にも気づかれずに船を爆破するのはなかなか難しい作業でした。でも私の直属の部隊はよく訓練されていますから。我々はあの南スーダンの戦火の中でPKO活動をしてきた仲間です。その結束力は、普通の平和な場所の会社での比ではありません。ひとつ間違えると命を失う、その緊張の中を経験した後の部隊の結束力は強力です。彼らは私の命令ならば、どんな事でも素早く理由も聞かずに行動できる兵士達です」
カベ総理は満足そうにフンと笑った。
「なるほど、戦争状態は人間の心の状態も変えるのか。都合の良い副作用も生まれたものだ。あと、国営放送で他の映像は流すな。今の臨時政府の間に、共産党議員は政府転覆罪で違法組織に指定してしまえ。それから週刊文春は発行禁止だ。新憲法第21条の2を適用しよう」
新憲法第二十一条2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
「暑いですね。ちょっとコーヒーでも持ってきましょう。総理もどうぞ」
ツガ官房長官は自分から席を立って、給水室へ行き、コーヒーを二つ持って帰ってきた。
カベ総理はコーヒーと一緒に薬びんからカプセルを2粒取り出して飲んだ。飲み込むのをツガ官房長官はしっかり見届けた。
「いつもの安定剤だ。いよいよ念願の国会議事堂に私の銅像が立つと思うとドキドキしてくるものだ」
ツガ官房長官は気づかれないようにフンと鼻で笑った。これだけのことをやって、その最終目的が国会議事堂の銅像か。
「ちょっと控室で休む。次の法案は国会議事堂に私の銅像を建てることかな」
カベ総理が隣の控室に入る。するとその扉の前をミスターXが素早く封鎖した。
「誰だ、私を部屋に閉じ込めてどうする。私は内閣総理大臣だ」
ミスターXの声は相変わらず無機質である。
「官邸と国会周辺は全部我々軍部が包囲しました。もうこの中は、私の息のかかった人間ばかりです。あの部屋の電話は今は通じません。携帯はすでにここに隠しておきました」
「ご苦労。今度は君が国防大臣、私が総理だ。その前に軍の退職願いは出してきただろうね」
「はい、ぬかりなく。新憲法第66条の2 内閣総理大臣及びすべての国務大臣は、現役の軍人であってはならない。今は現役の軍人でなくなりました。なので国政にかかわることができます。そして今までの国防軍の部下は、まだ私の命令でいくらでも動きます」
ミスターXは扉を封鎖された部屋を振り返って見た。
「薬が効くのを見届けなくて大丈夫ですか」
「時間が無い。どうせ部屋から出られないのだから、このままにしておけばじきに薬が効いて、総理は死ぬだろう。全くやり過ぎだったのだよ。独裁過ぎて。あれだけの数の議員がいたのに、同じ自由党の中で自分のお気に入りしか大臣にしなかった。その不満が押えられなくなっていたのだよ。もっとも独裁を抑えるには、さらに強い独裁が必要だが」
その日、メリーの家では優香にメールした後もケンはなかなか家に帰ってこない。テレビではツガ官房長官が声明文を読みあげていた。
『カベ総理は体調不良で指揮をとることができません。憲法70条の2 内閣総理大臣が欠けたとき、その他これに準ずる場合として法律で定めるときは、内閣総理大臣があらかじめ指定した国務大臣が、臨時に、その職務を行う。そこで私が総理代行となります。新たにミスターXを国防大臣として任命します』
その日ケンが家に帰ったのは大変遅く、夕方6時を過ぎたころの時間であった。
「おかえりなさい、ケン。遅かったのね。南島で事件があって非常事態宣言まで出たから心配していたの。身体は大丈夫。昨日はごめんなさい。今日はちゃんとウィンナーを用意したから」
「うん、でももうお弁当はいらないよ。会社にはもう行きたくない。こんなに働いても残業もつけられず、給料も上がらない。そして。それ以上言えないけれど、もう疲れたよ。会社を辞める。その代わりに何もいらない。何も欲しくない。ただ思いっきり寝たい。寝たまま目が覚めないでいたら、どんなに良いだろう」
ケンは部屋に入ると、背広を着かえることもしないでベッドに向かった。ポケットをさぐると薬のビンが入っていた。そういえば安定剤をもらっていたのだった。思い出してそこからカプセルを取り出し、2粒飲み込んだ。
「憲法70条の2 内閣総理大臣に何かあった場合は、あらかじめ指定してあった国務大臣がその代わりを務める」
「憲法66条の2 現役の軍人であってはいけない」
テレビニュースを見ながら、翔太は今日の出来事をいつものように新憲法にあてはめていた。
総理代行となったツガ新総理は、次の記者会見での声明文の原稿を取り出してチェックした。
『総理代行のツガです。ただいま、長年の同盟国であるアメリカ合衆国からの要請により、ISに国防軍を派遣することになりました。なお、今は緊急事態のため国会の召集を待たずに閣議決定により決定とします。国民の皆様は国を守るため、一層の協力をお願いします』
「これでいいか」
総理官邸執務室にエチゴ商事の黒井部長から電話が入った。
「官房長官。いや、今は総理。ありがとうございます。新憲法9条の3を実行していただいていただけるのですね。これで軍事物資の産業は伸びる一方です。経済も回復しますよ」
チェックした原稿を畳むと、ツガ新総理は机の下から虎目屋の菓子袋を取り出し、その重さを確かめた。
「3パーセントじゃ安すぎたかな。国防軍の兵士、何人分かの命も含まれている訳だし。まあ、他に薬の代金もあるから・・・」




