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白烏

作者: ししゃも

日常と現実、とは何なのであろうか。最近、俺はよくそんな事を考えている。

 ああ、別に俺は哲学者とかではないんだ。ただ、日常を過ごしていて、なんとなく違和感を覚える時があるんだ。


 朝起きてご飯を食べて顔を洗い歯を磨き、着替えて鞄を持って外に出る。曜日によっては日々の生活で溜まったゴミを持って、ゴミ捨て場に立ち寄った後で大学へ。そこで適当に講義を受けて友達と喋り家に帰って寝る。

 一人暮らしを始めてから二ヶ月。それが俺のライフスタイルとなっていた。


 ……明確な不満があるわけではないんだ。平和に生きて日々を過ごす、これはとても幸せな事だと思う。でも、何かもやもやした割り切れないものを感じるんだ。毎日同じ事の繰り返し、五通りの授業の並びを繰り返して、それを乗り越えたら二日の休み。適当にテレビを見たりゲームをしたりして、時に友達と遊びに行ったりして気が付いたら日曜の夜。それで、また一週間が始まる。


 自分は何を楽しみとして生きているのか。何をやっていてもしっくり来ない。友人と出かける、ゲームをする、それをやっている時はとても楽しい気分になる。でも、それが終わった後で虚しい気分になるんだ。自分が本当にやりたかったのはこんな事だったのか? 自分は何を楽しみに生きているんだ? わからない。かといって勉強やバイトに目を向けてみてもそれは何も変わらなかった。

 日常とはこうやって謎の不満足を感じながら過ぎていくものなのか?


 そしてもう一つの疑問、現実って何なのだろう?

 目の前に広がる世界、これはきっと現実。ゲームの中の剣と魔法の世界。これはきっと非現実。

 それはこの世界を分割する絶対的な壁で、朝起きたら魔法が使えるようになって魔王が暴れていた、なんて事にはならないはずだ。だって魔法の存在なんてありえないのだから。血まみれで苦しそうに壁にもたれかかっている謎の男に遭遇しちゃって、世界の命運を握るアイテムを押し付けられて謎の組織に命を狙われる、なんて展開もファンタジーほどではないけど非現実、の範疇だと思う。今の俺が見ている世界、平穏で変わらない日常。それから外れたものは、たとえ現実に起こりうる可能性があるものでも非現実扱いとされてしまう。

 これが現実、というものだろう。でも、ファンタジー世界の住人からすれば、目の前のドラゴンとか魔法が現実で、高層ビルが立ち並び、鉄の塊が大挙してガチガチに舗装された道を走り回る光景は非現実のそれにしか思えないだろう。


 結局は、その人の生きる世界と見えているもの次第で同じものでも分かれるのだ。……じゃあ、もう少し違って、同じこの世界に生きている人間でも、俺と同じものを見ているけど、俺とは違うものを認識している人間、そんなものはいるのだろうか。俺の視界に見える赤がある人には俺にとっての青に見えていて、俺にとっての青はその人にとっての赤、なんて事はあるのだろうか。俺が感じているこの不満足は、他人と見えている世界が違うからなのか? いや、流石にそれはありえないか。


 そんな事をぼんやりと考えながら、俺は今日も変わり映えのしないこの世界を生きていく。

 少し暑さを感じ、部屋の窓を開ける。すると、待っていましたと言わんばかりに青々とした葉を一杯に抱えた枝が一本、部屋の中に侵入してきた。

 まったく、木を植える場所を考えて欲しいものだ。

 家を出てアパートの階段を降りたところで今日がゴミの日だった事を思い出した。小さく舌打ちをして、部屋に戻ってゴミ袋を回収。集積所に向かう。


 集積所の様子を見て、そうだよな、生ゴミの日はやっぱりアイツらがいるよな、と俺は一つ溜息をついた。そこには、山積みになった白いゴミ袋とそれを漁る六匹の烏がいたのだ。もちろん、烏除けのネットが置いていない、というわけではない。賢いもので、わざわざそれの中に置かれていたゴミを外に引っ張り出していたのだ。


 この烏たちはここのゴミ集積所の常連で、生ゴミの日には必ずと言っていいほど現れて食糧を漁っている。もうすっかりと居付いてしまったようで追い払ってもすぐに戻ってくるので地元の皆さんも諦め気味でこの黒いお客さん達を放置している。


 烏にもアルビノがある。そんな話をふと思い出した。

 全身が真っ白な烏。そんなものがいるのだろうか。この世のものとは思えないな。

 ……もしそれを実際に見る事ができたのならば、現実に遭遇できる非現実、それに出会えたならば、俺のこの閉塞感も少しは変わるのだろうか。


 烏達は考え込む俺に、顔を向け煽り立てるような耳障りな鳴き声を放ってくる。

 俺はそんな烏達を追い払うようにゴミ袋を奴らのいる地点へと放り投げ、そのまま踵を返して振り返らずに大学に向かう道へと歩みを進めた。背中にカーカーと何やら不満げな鳴き声が投げかけられるのを感じたが、それを無視して道を急ぐ。


 日常と現実、とは何なのか。もう一度、その問いが頭の中を駆け巡る。答えは当然出ない。現実離れした事でも何か体験すれば俺のこの停滞した暗い思考も何か変わるだろうか。いや、変わるはずもないしそもそもこの現代社会で現実離れした事なんて――

 そこまで考えて、俺の思考は停止した。考え事に夢中で前が見えていなかった。赤信号を堂々と無視して道路を横断していた。視界の端に映るのは、必死にブレーキを踏むが明らかに間に合わない、という速度の軽トラック。ああ、代わり映えしない日常最高。即座に手のひらを返したそんな事を思いながら、それに振り向く間もなく俺の体は宙を舞い、意識は遥か彼方へと吹き飛んだ。




 目の前は真っ暗だった。ただ単に目が開けられないだけだが。ぼんやりしていて交通事故なんて、我ながらくだらないと思う。辺りは驚くほど静かで、何の音もない。俺の聴覚が喪われたのでなければ、恐らくここは病室、またはもう死んだと思われて死体安置所にでも置かれているのだろう。


 ……まだ瞼が重たくて中々目が開けられない。それからしばらく、といっても俺の体感時間が長いだけで実際は数秒なのだろうけど、とにかくしばらくしてなんとか目を開ける事ができた。


 薄目を開けるとそこに広がっていたのは滲む視界。最初に飛び込んできたのは、赤い空だった。朧げにしか認識できないけど、窓のようなものの外に赤色の広大な空間が広がっている。夕焼けだろうか。という事は、どうやら俺は夕方まで眠ってしまっていたようだ。


「目が覚めたようですね」


 今日の分の講義の資料をどうしようか、などと我ながら事故にあった身とは思えない事を考えていると、誰かの声が聞こえた。それは寝かされている俺のすぐ近くから聞こえてきたようで、俺は頭だけを声のする方向へと向ける。


「ああ、無理しなくていいからゆっくり休みなさい」


 優しい口調で俺へと声をかけるその人は、病院の先生らしかった。ぼんやりとした視界の中で、白衣を着ているという事がなんとかわかる。再び俺は頭を窓から見える夕焼けへと向ける。

 その窓の外へと目線を移す過程で、俺は自分の左腕を、正確には左腕にはめた腕時計を見てしまった。その時計は短針が十を過ぎたあたりを、長針が七を指し示している。まだ思考も安定していないが、違和感を覚えた。何かがおかしい。十時三十五分。午前か? 午後か? ……いや、どちらでもいい。どちらでもおかしい。


 午前だろうと午後だろうと、この時間に夕焼けなんて見えるはずがないのだから。……時計が壊れてしまっているみたいだ。

 あれだけの事故だったんだ、俺は奇跡的に助かったけど、持ち物まではそうはいかなかったようだ。仕方ない、と残念に思いつつも助かっただけ幸運だ、自分に言い聞かせ、部屋の時計で時間を確認する事にする。


 部屋の壁にある時計、その時計は短針が十を過ぎたあたりを、長針が七を指し示している。ん? 腕時計と同じ……?

 その事に気が付いた俺の肌は総毛立ち、うすら寒い感覚が全身を襲った。瞬間的に意識が覚醒し、視界もそれに合わせてはっきりと目の前の世界を映し出す。


 その夕焼けに見える何かをはっきりと視認した時、俺は自分の目を疑った。なぜならそれは、赤色系の長波長光線が散乱されて太陽の沈む方向の空が赤く染まる現象、『夕焼け』などではなく。

 空そのものが赤色になっていたのだから。さらに、夕焼けによる影響かと思っていた黒い雲はそれが元々の色からして真っ黒だという事を認識させられる。そして、紫色の太陽は天で燦々と輝いていた。


「どうかしましたか?」


 底冷えし、震える全身をなんとか押さえながら俺はその声のする方向、先生へと体を向ける。

 にこりと俺に笑いかけてくる先生。中年で眼鏡をかけた痩せ型の、見る人に安心感を与える男性だった。ほっとした様子で俺を見るその顔は……真っ青に染まっていた。


 悲鳴すら出せなかった。真っ青。それは、顔面蒼白だとか血の気が失せたとかそんな表現ではない。本当に、人間の顔が真っ青なのだ。

 青色の頬を自分で触り、青色のショックで気が付かなかったが真っ白になっている瞳で俺を見つめる先生。白目の部分は瞳の色とは逆に真っ黒に染まっていた。なんだこれは。何が起こっている。この世界はどうかしている。いいや、どうかなったのは……俺、なのか?


 頭がフル回転し、次々と今の状況に対する疑問が生み出される。しかし、答えなんて何も出やしない。ただ一つわかったのは、俺がこれまで生きてきた世界は、どこかへと行ってしまったという事だった。


「君はトラックに轢かれたのですよ、でももう意識を取り戻せるなんて、丈夫ですね」


 先生は俺を不安にさせまいとしているのか明るい声色で語っている。俺が激しく動揺しているのは、伝わっているだろうか。本音を言えば、今すぐにでも絶叫してこの部屋を飛び出したかった。意識を他のものに向けてみれば、活けてある花は真緑色にその存在をアピールしていた。……確か、スカビオサとかいう名前の花だっただろうか。昔図鑑で見たことがある。こんな色ではなかったはずだ。色々なものがおかしくなっている。


「どうかしましたか、そんなに物珍しそうに辺りを眺めて」


 どうやら、先生にとってはこの状況はごく普通の、日常の一部であるようだった。赤色の空、紫色の太陽、真緑の花。そして、青色の肌の人間。それのどれにも先生は異常を感じていない。


「あの……」


 弱弱しい、掠れている声で先生に話しかける。話を聞こうとするそぶりを見せる先生。


「先生、今の空は何色ですか?」


 それを聞いて、先生は首を傾げながらも生真面目な様子で答えた。


「青ですが、それがどうかしましたか?」


 先生に、今の俺の状態を説明した。先生の顔も、途中で先生に質問をしにきた看護婦さんの顔も、全て青色に見えている事。他にも、様々なものが普通じゃない状態で映っている事。

 先生はそれを聞き、考え込んでいた。


 そのすぐ後に、俺は精密検査を受ける事になった。薬品の臭いが充満している病院からは普通なら早く出たいところだけど、今の非現実的、非日常的な状況を考えれば、そんな事を言っている余裕なんて全く無い。検査室への道で、様々なものを見た。病院の内装、その多くはまだ元の現実であろう白色を保っていた。だけど、待合室の観葉植物、順番を待つ人々、テレビに映っている南極か北極か、氷山が崩れる光景。それらのいくつかが、元の色とはかけ離れたものへと姿を変えていた。世界の色が狂ってきている。俺はその事実に驚愕して何も言えなかった。何か物理的な問題があるわけでもない。空が真っ赤になっていようとそれはそう見えているだけ、で実際に世界が滅びる前兆とかではない。仮に植物が毒々しい紫色に見えたからといって、別に触ったら死ぬとかいうわけでもないだろう。ただ、見た目がおかしいだけなのだ。そう、それは外見だけの問題。

 

 ……吐き気が止まらなかった。急にこれまで見えていた全てが変わってしまう、それだけで形容しがたい負の感情に精神が蝕まれる。

 数分歩いたのち検査室に辿り着き、仰々しい機械の数々とご対面。

 幸運な事に、それらの機械を初めて見た俺はその色が現実のものか俺に見えている捻じ曲がった世界の色か判断できなかった。何となく安らかな気持ちで数十分の検査を受け、近くの小部屋で結果を待った。先生や看護婦さんが一緒にいてくれる、と言っていたが俺は青の顔をした人間が一緒にいるとどうしてもそちらを見てしまいそうで、申し訳なかったが断った。


 何もする事がなく、時間が過ぎる。でも、この白一色の殺風景な小部屋は、俺を心から安心させてくれた。


「結果が出ました」


 入口のドアが開き、先生が顔を出す。その顔はやっぱり青色で、俺は目を背けたい気持ちを必死にこらえた。

 そこから、検査結果の説明が始まった。難しい専門用語が混じる中で何とか俺に理解できたのは、今の俺の状況は事故の際に脳に負った数カ所の傷が原因らしい、という事だった。だけど、特定の物の色が全く別に見える、などという症状は前例が無く、治す方法はわからない、との事だ。


 これが体の異常なら、患部を見れば症状は簡単にわかる。精神疾患ならば、これまでの前例と照らし合わせればどこが原因で何がおかしくなっているのかわかっただろう。でも、俺の場合は絶望的だった。

 まず前例の無い症状。これだけでももうダメな雰囲気が漂っている。さらに、それは精神面への症状。視覚そのものがおかしくなっているのではない。眼は目の前の情報を正確に感知し、その情報を脳に送る。しかし、その脳の認識が壊れてしまっているのだ。そして、その異常は俺が感じているという主観的な感覚としてしか存在していない。

 この症状を解き明かすにはどうすればいいのか。世界中のものを一つ一つ見て色がどのように元と変わっているのか説明でもすればいいのか? いいや、その光景は俺にしか見えていないものだ。色だって俺は専門家じゃない、赤とか青とかそんな漠然とした表現しかできない。これでは正確なデータなんて採れるはずがないだろう。いや、どんな色に詳しい人間でも自分が見えている色を正確に表現、なんてできないはずだ。


 結論は、慣れないと思うがこのまま日常生活に戻るしかない、だった。残念ながら、今の医学ではこれを治す方法は存在しないらしい。治すも何も俺が初めての事例なんだし、脳の傷だから易々といじくるわけにもいかないのだろう。念の為さらに検査を続ける、との事で、俺はその後二週間ほど入院する事になったのだった。


 ……まあ、わかっていたことではあるが、その二週間で何の進展も無し。

 そんなわけで、俺の現実は少しおかしな事になってしまった。解決策は無く、そのまま帰宅するしかない。先生は慰めてくれたが、どうしようもない現状に絶望すら湧かない。定期的に通院するように、と言われたけどそれを約束できる自信は全くなかった。


 病院は意外とアパートから近く、徒歩で三十分の距離しかなかった。

 普段通っている病院はアパートのすぐ近くにあったため、存在は知っていたが行く事はしなかった大きな病院だった。

 所々おかしくなっている世界をできる限り見ないようにしつつアパートへの道を急ぐ。ぼんやりしていたら、車に轢かれそうになってしまった。ダメだ、これではまた事故に遭ってしまう。最低限は周りを気にした方がいいな、と意識を新たに、再び歩き始める。

 家に帰ったものの、何もかもにやる気が起こらない。

 これからどうすればいいんだ、そんな不安に襲われる。


 何もかもが嫌になって磨りガラスの窓を開ける。涼しい風だ。そして、アパートの駐車場にある樹が枝を一本俺の部屋に伸ばし、風で揺られてまるで飼い主に甘えてくる子犬のように俺の頬をくすぐる。頬を撫でるその無数の葉は、紛れもない緑色だった。

 大丈夫だ、まだ俺のいた世界は残っている。負けない。


 寝る、食事、を繰り返し、なんとか翌日の朝に辿り着く。空は朝っぱらから相変わらず赤く、アパートの錆びついたパイプは真っ青だ。そんな異常を極力見ないようにしつつ、俺は大学への道を歩いていく。途中で例のゴミ集積所を通りがかった。サイケデリックな色合いになっている回収され損なった生ゴミの欠片に吐き気を覚える。そして、この世のものとは思えない六匹の白い烏が、あざ笑うかのように鳴きながら俺に目を向けていた。




「このように意識のハードプロブレムというのは――」


 教壇でモニターに資料を表示しながら話す教授の言葉を、俺はぼんやりと聞いていた。俺が以前現実がどうとか考えていたのは、そういう事を考えたがる多感なお年頃だから、という理由ではなく、このような哲学や心理学に関する講義があるからなのである。


 朝起きたら全て元通り、なんて幻想は無残に打ち砕かれ、俺は意気消沈しながら大学に辿り着き、今現在講義を受けている。

 隣に座る友人に今の俺の状態を話してはみたのだが、イメージが湧かないのか、首をかしげていた。大変そうだな、とは言ってくれたが。


 もうどうしようもない、慣れるしかない。何か問題があるわけじゃないんだ、空は赤いもの。人間とは青い肌の生き物。それが常識、そう考えればいいじゃないか、と俺は無理やり自分を納得させようとする。


「これを代表する思考実験にはマリーの部屋、コウモリであるとはどのようなことか、などがあり――」


 講義の内容はあまり頭に入ってこなかった。自分の耳は正常なはずだ。でも、言葉が中々頭に入ってこない。単語と単語が意味のある文として連結されない。そんな気持ち悪い感覚。ついに視界だけじゃなくてこっちもおかしくなったか、と底冷えするような感覚に襲われる。


「この言葉を一言で言ってしまえば、感じ、なのです。例えば空の青色の感じ、友達と喧嘩した時のイライラした感じ、みたいなね」


 教授の言葉ではっと意識がそちらに向く。それは、今俺が陥っている状態に関係がありそうな内容だったからだ。それと同時に、教授の話している言葉がはっきりと理解できた事に気づき、先ほどのおかしい感覚は自分がただぼんやりとしていただけなのか、と安心できた。


 教授の話は続いていく。感じ、とは何なのか。それに関して、長々と説明がなされていく。俺の今の状態に関するヒントがそこにはあるような気がしたが、残念ながら主観的な感覚、というものに関して様々な例を交えた話、というだけで解決方法なんてものはかすりもしなかった。


 しかし『人によって見えている世界は違うかもしれない、でも、それを認識して実際に確認する術はない』という言葉は、俺が考えていた内容そのもので、一旦忘れ去っていたその考えを俺の中に甦らせる。

 誰かの見ている赤は俺にとっての青で、俺の見ている赤は誰かにとっての青。それはどちらも正しくて、間違っちゃいない。誰かにとってはそいつにとっての赤が青で青が赤な俺の視界は非現実のそれで、俺にとっては俺にとっての赤が青で青が赤なそいつの視界は非現実のそれ。どちらが正しい正常な世界なのか?


 講義の内容を聞いていて、俺はそんな事を考えていた。あの病院の先生は今の空の色は青、と答えていた。でも本当は、俺と同じで俺にとっての赤色に見えていたのではないのか? 先生は生まれつきそんな風に見えていて、俺は後天的にそうなっただけ。だから色の名前と実際のものの認識にずれがある、それだけの話じゃないのか? それは先生に限らず人類一般の見え方で、元々おかしかったのは俺の方なんじゃないのか? そんな意味の無い問いが俺の頭の中を巡る。


「では最後に、これを見てください。630~760mmの波長が際立っている光が網膜に入ると見える色です。これを赤、といいますね?」


 教室のモニターには、四角形の色付けされた図が表示されていた。それに対し学生はそれぞれの反応を見せている。頷くもの、馬鹿らしい、当たり前じゃないか、と帰り支度を始めるもの。

 ……俺に見えていたのは、当然のように青色だった。





「大丈夫か?」


 一日の講義が終わり、夕焼けが空を染めている。真っ青に。

 友人が話しかけてくる。そう、俺の現状をいまいち理解できなかったアイツだ。

 俺は申し訳ないと思いつつもそれに答える気力もなく、早歩きでその場を後にした。


 ゴミ集積所では、相変わらず白い烏が俺の事を見つめていた。

 それから数日は特に何もおかしな事は無かった。まあ俺の世界はほとんどおかしいのだけど、もうそれは当たり前になっていて今更わざわざ言及する事もないだろう。


 ただ、一つだけ違ってきた事と、理解できた事がある。前者は、俺の視界に広がる世界の色は少しづつ変化していっている、という事だ。いや、悪化と言った方がいいのだろうか。日が経つにつれて、これまで正常に見えていたものが次々とおかしな色に変わっていっているのだ。


 これまでは正常な色のものと異常な色のものが半々、といった感じだったのに、徐々にそれが浸食されている気がするのだ。事実、大学の講義でモニターに表示される資料はこれまで普通だったのに今は背景が真っ黒でその上に白文字が浮かび上がっている、という感じになってしまっていた。


 後者。色のおかしな変化には例外はあるが法則性が存在しているという事だ。青が赤に、赤が青に。法則性なんて偉そうに言えるようなものでもない単純な話だけど、色の変化にはある程度の決まりがあるようだった。肌色が青色に見える、というのはよくわからなかったけど、変化前の色が同じなら変化後の色も同じに見える、というのが多くに当てはまった。

 人間に関しては肌色が青色、というよくわからない変化だったし、たまに青以外の肌をした人間を見かけたのでよくわからなかった。もしかして肌の色が違ったらまた別の色になる、とかなのだろうか。


 少しだけど、このおかしい世界を生きる助けになるかもしれない。見た目がおかしいのは変わらないが、どんな色に変化しているのかある程度の予想が付くのであれば俺がこの状態になってから初めて見る変色したものへのショックは少なくなるかもしれないからだ。


 そこまで考えて、俺は溜息をつく。もう俺の中にこの現状を脱してやろう、なんて考えは無くなってしまっていた。この世界にどう適応するか、そういった考えにすっかり移行してしまっている。

 しょうがないじゃないか。治療法もわかっていないんだから、そんな未知のものに医者でもなんでもない俺が何かできるわけがないじゃないか。

 もういい、俺は頑張った。元の世界は諦めよう。

 これからは、無理に元通りに戻す事をしないで、この世界に適応する事を考えよう。大丈夫だ、何とかなる。

 嫌だ。現実に戻りたい。そんな悲痛な叫び。俺はそれを突っぱねた。

 目を閉じているとまたその嘆きが聞こえてきそうで、俺は布団から起き上がる。

 集積所の白い烏は、俺を無視してゴミを啄んでいた。


 友人との昼ご飯。俺はカレーライスを頼んで、それをトレーに入れて席に持っていく。友人は購買のパンを齧っていた。……ドブの中の汚泥のような色のものを。あれは元々は何色だったのかな、とふと考えてしまう。普通に考えればパンの色なんだろうけど、ものによってはパンそのものも味付けで色が変わっているものが存在する。ちょっとだけ気になったけれど、わざわざ聞くのも妙な話だと思って、俺は黙って灰色のカレーライスを口に運んだ。


 その後の講義では、目が痛くなってしまった。講義内容が表示されている教室前のモニターは極彩色によって何が何だかわからなくなっていたのだ。もうちらっと見るだけで吐きそうになるようなサイケデリックな配色でまともに見る事ができなかったけど、きっと先生が頑張って制作したパワーポイントで、他の人にはちょっとやりすぎだとは思うけどカラフル、くらいの色にしか見えていないのだろう。こんな抗議は受けていられない。寝る。


 放課後、夕焼けの空は紺色に近い深い青になっていた。あれ? ふと気づく。 俺が事故に遭った初日の夕焼けの空はあんな色だっただろうか。

 思い出せない。道端を見ると、暗褐色の雑草が生い茂っている。虫に食われたのか病気なのか枯れて穴が開いている部分は灰色になっていた。

 ……俺がおかしくなった後の世界は、本当にこんな色だったか?


 悪寒が背中を走り、俺は慌てて花屋に向かった。そこには、元を知っている身からすれば、気持ち悪くてたまらない不気味な色の花の数々。俺は、必死に記憶を手繰って悪い意味で色とりどりの花の中から一輪を探し出し、店員さんに声をかける。


「すみません、これってスカビオサ……ですか?」

「はい、そうですよ」


 贈り物ですか、と声をかけてくる店員さんを無視して、俺は逃げ出すように店を後にした。だって、その花は俺の心を映しているかのような灰色だったのだから。

 見捨てられた。狂った世界からも。俺の目に映る狂った世界すら一定ではなく、だんだんと変化していく。一度変わったならそれで終わり。そんな救いさえ、俺にはないようだった。もしかしたら、病室に飾ってあった緑色のスカビオサとは別の品種で別の色だったのかもしれない。そんな淡い希望すら、俺は考える事ができなかった。


 嫌だ、やっぱり元の世界を取り戻したい。心が泣き叫び、俺はそれを必死で押しとどめようとする。何を言っているんだ。昨日決心したばかりじゃないか。この狂った、いや、新しい世界に適応すると。

 ……でも、裏切られたじゃないか。俺の頭の中で議論が始まる。どちらが優勢かって? そんな事、初めからわかっていたじゃないか。


「いやだ、おれの、おれのせかいはこんなものじゃ」


 俺は初めから、こんな世界なんて認めていないんだ。現状を受け入れるしかないと言い訳をし続けてきただけなんだから。

 これまで我慢し続けてきた全てが崩れ、泣き叫びながら家に向かって全力で走る。当然、周囲の人間は怪訝そうな目を向けてくるが、そんなものに構っていられるほど余裕はなかった。


 嫌だ、返してくれ、帰してくれ。俺の世界を、俺の世界に、かえしてくれ。周りの人間はそんな俺の叫びを聞いても、何を言っているのかはさっぱりなんだろうな。だってあいつらの目には、あいつらにとっての正しい世界が広がっているのだから。

 正常から異常へと、異常から異常へと移り変わっていく世界が、俺を追い詰めるかのような感覚を覚えた。振り向けば、あらゆるものが現在進行形で変色していっている気がする。だから、俺は前を向き続けた。


 六羽の白い烏が俺の頭上を輪になって飛び回り、わめきたて、鳴き騒ぐ。何故なのか、俺にはこいつらが俺を祝福しているかのように思えた。だが、その意味を考えたりこいつらの相手をしたりやれるほど冷静にはなれなかった。

 アパートの自室にドアを突き破る勢いで入り、俺はまるで小さい子どもが母親に縋るような、きっと周囲から見ていても哀れに思えるくらい無様な姿で、部屋の磨りガラスの窓に手をかける。ごめんな、浮気しちゃってたよ。こんな頭のおかしい世界が俺の世界なわけがないよな、やっぱり俺がいるべきは、これまで俺がずっと生きてきて、いつも周りを包んでくれていた、そんな当たり前の日常の優しい世界だ。


 窓を開ける。涼しい風だ。そして、アパートの駐車場にある樹が枝を一本俺の部屋に伸ばし、風で揺られてまるで飼い主に甘えてくる子犬のように俺の頬をくすぐる。

 優しく、俺を慈しむかのように頬を撫でるその無数の葉は、紛れもない黒褐色だった。




 目が覚めると、そこは病院だった。そう、俺が交通事故を起こした時と同じ、あの病院だ。

 真っ黒な、きっと元は白であろう壁に囲まれた小さな部屋だ。ベッド以外の何もない殺風景なそこは、俺に不安な気持ちを抱かせた。


 あれから俺は、ショックで倒れてしまっていたのだろうか。

 狂った世界、正常な世界。どちらからも拒絶されてしまった。

 でも、俺はこの世界で生きていく事ができる。改めて考えればおかしいのは視界だけだ。

 数十秒だったか、数分だったか、数時間だったか。時間の感覚がおかしくなっているようでわからなかったが、ともかく少しして部屋の唯一の入口が開かれ、一人の男性が姿を見せた。そう、あの先生だ。先生は静かな表情で俺を見ている。そんな先生に、俺は自分の思っているありったけのものをぶつけた。俺の世界を返してほしい。治療法は見つからないのか。海外などで事例を探したりはしてくれないのか。あまりに必死な俺の様子に、先生は困惑した様子。なんだ? 何故そんな表情をしている?


 はっきりと言えばいいじゃないか、もうどうしようもないと、諦めろと。その思考から、もう自分はヤケになっているのだと不思議と冷静に考察できた。ヤケになっている? それとも、冷静? 相反する二つが同時に存在しているという不思議な感情。それにすら、何も考えられなかった。いや、今はそれを考える必要は無い。


 そして、先生は困ったような表情で、わめきちらす俺の疑問、それの答えを言い放ったのだ。


「縺励¥陦ィ遉コ縺 �%縺ィ?」


 その、疑問形である事だけはなんとか伝わる異星の言語のような何かを耳にしながら、俺はぼんやりと確信していた。


 ああ、俺は、もう――




 これは、何かの罰なのだろうか。一体、私が何をしたのだろうか。

 何もしなかったはずだ。確かに、小さな不道徳なら何度かあっただろう。だが、それはこれほどの罰を与えられるものだったのだろうか。


 いや、自分の与えられた日常に疑問を持ったのが間違いだったというのか。だが、その報いとはこれほどのものなのか。交通事故で生き残った、と希望を与えて。狂った世界を見せつけて絶望させて。まだ元の世界は残っている、と希望を残して。苦しんだ末にその希望に縋ろうとした途端にそれを奪って。

 ……神よ、貴方は何がしたい? こんなどこにでもいる人間のどこにでもある人生を奪い取ってどうしたい?

 笑いものにしているのか? それはあまりにも残酷ではないか。

 私に何か罪があるのならば、いっそのこと殺してくれればよかったではないか。

 何故、このような仕打ちをするのか? 答えは、いくら考えても出てこなかった。


 あれから、先生に意思疎通を試みた。他人の言葉は全て私の耳から脳に入る段階で理解できない何かの音に書き換えられる。私が話しかけた時の先生の様子からして、逆もまた然り。筆談も不可能だった。先生が書いた日本語と思われる文字列はそれが塊の文章として認識できず、意味がわからない。

 自分が書いたものは、脳内ではきちんとした文章を書いているつもりなのに完成したのは謎の別言語のような何かになってしまう。流石にジェスチャーまでに世界は干渉してこなかったので、それだけが私と他人の繋がりを保つ手段となっていた。手話でも学べばいいのかもしれないが、それを学ぶための手段が存在しない。外界から私の脳内に入ってくる情報は全ておかしな何かに変換されてしまうのだから。


 自分は狂っている、のだろうか。それすらもよくわからない。

 だが、こんな世界から解放されるのなら、それも悪くない。

 日常の、現実の何もかもを奪われた。それでも私は必死に生きようと努力している。

 なんと無駄な事なのだろうか。

 そんな事を思って、私は先生との会話のさ中、床に崩れ落ちた。






 それからの時間は穏やかに過ぎていった。

 私に与えられたのは、外界を覗く事のできる窓が一つある一人用の小さな病室。

 私は、現実の世界に生きながら現実から切り離されてしまった。

 外を歩いている私は、周りから見ればこの世界を普通に生きるただの人間だろう。だが、私の世界はすでに捻じ曲がり、変わり尽くしてしまっている。

 他者との意思疎通の手段もほとんど存在しない。私の事を説明されれば私にわかる形でコミュニケーションをとってくれるのだろうが、その説明を私自身は行う事ができない。


 文字、映像、音声。外界から得られるほとんどの情報は、目の前にありながら正しく認識できないのだ。逆もまた同じ。……いや、何が正しいかなんて……

 滑稽だ、と私は病室のベッドで横になりながらもほとんど動かない唇をなんとか動かし、せめてもの抵抗とばかりに笑う。

 症状は悪化していき、意識の中だけだったそれは現実の体にも影響を与え始めていた。今の私はほとんど体を動かす事ができない。


 もう終わりが近い。そんな予感が強くなってきた。最近では、思考さえもままならなくなっている。最後には、空を見ていたい。そう考え、首を動かして窓の外を見る。真っ赤な空だ。今は昼間なのか。時間の感覚さえも不明瞭な私にとって時刻を判断できるのは、この空だけだ。

 真っ赤な空。あれから私の非日常の全てが始まって、そして今終わろうとしている。考え方によっては悪くない終わりではないか。


 ふと、もう機能を喪失しかけている耳に、何かの羽ばたくような音が聞こえてきた。その音の主を私は半ば反射的に視界に捉え、そして、思考が止まる。


 スローモーションのように遅く時が流れていく私の視界を、窓の外の世界を、一羽の黒い烏が悠然と飛んでいるではないか。


 閉じかけていた視界を最後に残った力で見開き、その光景をまじまじと眺める。黒く艶やかな羽。吸い込まれるかのような感覚を覚える瞳。雄々しく空を切り裂く翼。かつては汚らわしいと思っていたその全てが、遙か彼方に失った何かを一気に逆再生させて思い出させる。

 手を伸ばしてそれを掴もうとする。自分にはまだこんな力が残っていたのか、そんな疑問はもうどうでもよかった。虚しく空を切り力なく落ちる腕。でも、それでも何かが取り戻せたような気がして。

 全身の力を使い果たしたのか閉じていく意識と視界。

 その暗闇に、ずっと昔から変わらない睡りに就く前の穏やかな黒に覆われていく世界に満足感を覚えながら、私は自分の世界を手放した。



――――――



 暖かい夏の日。照り付ける太陽の光は世界を照らし出し、青々とした木々はその存在を誇るように生を謳歌する。


 それを太陽と共に見守るのは、どこまでも青く、澄み渡るような空と風任せに泳ぐ真っ白な雲。

 そんな穏やかな現実の一かけらを映す日常の空を、この世のものとは思えないような真っ白な烏が一羽、小さな病室を一瞥し、そして彼方へと飛び去った。


 観覧ありがとうございました。

 この話を読んで何か感じていただけたものがあればとても嬉しく思います。

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