第4話:荒野の獣Ⅱ
*
荒野の不毛の大地を裸足で踏んで、少女は俯いている。
少女の顔を覆う手に獣は鼻を寄せた。
手はやせっぽちで冷え切っている。その冷たさに獣の胸が痛んだ。
「ごめんなさい。わたし、そういうつもりで言ったんじゃないの。
ごめんなさい。わたし、逃げたかったんじゃないの。
ごめんなさい。あなたにこんなことさせて。
ごめんなさい。ごめんなさい」
獣は戸惑う。
少女の涙に動揺した。
自らの起こした行動がテュットを喜ばせないと知っていた。
それでも強いて、生きてくれるほうが良いと思う。
それなのにこんなに悲しそうなテュットの顔を見たのは初めてで、それが男の心を烈しくかき乱した。
テュットの悲しむのが、何よりも悔しかった。
涙を止める方法を何に代えても知りたくて少女の薄い手を舐める。
顔を上げて少女は獣の鼻を撫でた。
「あなたは、優しい。
ありがとう。
その優しさがわたしは嬉しい。
それだけで充分だよ。
わたしはもう、充分慰められたよ」
月の明かりの下、少女の姿は無残だった。
綺麗だったはずの髪は艶を失い、肌は垢に汚れている。
やせ細って肩には骨が浮いていた。
人は彼女を見て顔を顰めるだろう。
無様なものだと指差すだろう。
誰かそれに気付くだろうか。
少女の瞳のあかるいことを。
罪無き光を宿したことを。
そこに獣の姿が映っていた。
醜く歪んだ異形の姿。
人は獣を見て恐怖を覚えるだろう。
災厄だとすら思うだろう。
誰かそれに気付くだろうか。
彼の瞳の年老いたことを。
その奥に寂しさの潜むことを。
そこに少女の姿が映っていた。
まっすぐに、毅然と立ってそこに居た。
少女は泣き止み、微笑んだ。
獣の鼻に手を伸ばす。
獣は応えて頭を下げる。
彼の顔を抱いて、少女は言った。
「お願い。町へ戻りたいの。
わたしが居なくては、お父さんが捕まっちゃう。
子がその責任を果たせない場合、親が負う。国の決まりよ。
わたし、帰るね。
ごめんなさい。
町まで連れて行って欲しいの。お願い」
獣はくんと鼻を鳴らす。
少女は湿ったそこへ口付けた。
「大好きよ。あなたのこと。忘れないでね」
真っ白に微笑んで、それが夜の中いっとう眩しくて。
獣は目を閉じた。
目を閉じても尚見えていた。きっと二度と消えはしない。
どんなに暗いところに居ても、きっとそれは明るいのだと思う。
どんなに寒いところに居ても、きっとそれは暖かいのだと思う。
溢れ出る気持ちが身体の中で暴れまわる。
たまらず、獣はひとつ吼え声を上げた。
静かな夜の他何も無い荒野にそれは、幾重にも幾重にも響いて広がった。
テュットのことが、好きだった。そう伝えられたらいいと思った。
*
少女を町へ帰し、しかし獣は牢へ戻らなかった。
国を出て、林の隔てた向こうの荒野で、じっと座って耳を澄ませていた。
やがて鐘の鳴るのが聞こえた。
それが処刑の知らせだった。
獣のよく利く耳をもってしても、少女の最期は分からなかった。
奇跡が起きて、助かっただろうか。
父親が直前に娘を庇っただろうか。
それとも。
最後まで、獣には分からなかった。
獣は吼えて、吼えて、吼えた。
喉が涸れても、痛んでも。焼け付いて血を噴いても。
吼えて、吼えて、吼え続けた。
喉から音は出なくなる。それでもずっと、吼えていた。
そうしていつしか息絶えた。
*
やがて獣は荒野の地で骨になった。
異形の形をした骨が、そこに野ざらしになっていた。
不毛の地に訪れるものはない。
彼の死を悼むものもない。
不毛の荒野に雨が注ぐ。
慰めのように、まったく無関係のように、雨が降り続ける。
どこからか風に運ばれて訪れた種がいつしか根を下ろす。
不毛の荒地に芽が開く。
花が咲いて、やがて枯れて実を結ぶ。
花に誘われ虫が来る。虫が運んで種が広がる。
果実を求めて小さな生き物が、それを求めてさらに大きな獣が集まった。
小さなことを積み重ね、いつしか大きくなっていく。
罪の獣の骨が形を留めていられなくなった。
その上を歩く獣があった。獣たちは森に暮らしていた。
荒野は今や森だった。
罪の獣の成れの果て。
大きな森ができていた。
何年も、何十年も、あるいはもっと長い年月。
国が滅びた地の上に再び国が築かれるほどの時の流れの果て。
その果てに、森になって、そして尚。
罪の獣はどこかに居た。
牢獄に繋がれた時間と等しい永い時の中、一人で、しかし、独りではなかった。
鼓動を失った獣は、しかし他の多くの鼓動の聞こえる場所に居た。
土の下に。根の先に。虫の中に。空の鳥に。木の幹に。森に息衝く全ての内に。
どこかに居て、覚えていた。
少女のことを忘れなかった。
少女の声を、体温を。
触れ合ったことも、何もかも。
次にめぐり合えたときに、必ず思いを伝えるために。
男は、少女を待っていた。