表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/9

第4話:荒野の獣Ⅱ



 荒野の不毛の大地を裸足で踏んで、少女は俯いている。

 少女の顔を覆う手に獣は鼻を寄せた。

 手はやせっぽちで冷え切っている。その冷たさに獣の胸が痛んだ。


「ごめんなさい。わたし、そういうつもりで言ったんじゃないの。

 ごめんなさい。わたし、逃げたかったんじゃないの。

 ごめんなさい。あなたにこんなことさせて。

 ごめんなさい。ごめんなさい」


 獣は戸惑う。

 少女の涙に動揺した。


 自らの起こした行動がテュットを喜ばせないと知っていた。

 それでも強いて、生きてくれるほうが良いと思う。


 それなのにこんなに悲しそうなテュットの顔を見たのは初めてで、それが男の心を烈しくかき乱した。

 テュットの悲しむのが、何よりも悔しかった。


 涙を止める方法を何に代えても知りたくて少女の薄い手を舐める。

 顔を上げて少女は獣の鼻を撫でた。


「あなたは、優しい。

 ありがとう。

 その優しさがわたしは嬉しい。

 それだけで充分だよ。

 わたしはもう、充分慰められたよ」


 月の明かりの下、少女の姿は無残だった。

 綺麗だったはずの髪は艶を失い、肌は垢に汚れている。

 やせ細って肩には骨が浮いていた。

 人は彼女を見て顔を顰めるだろう。

 無様なものだと指差すだろう。


 誰かそれに気付くだろうか。

 少女の瞳のあかるいことを。

 罪無き光を宿したことを。


 そこに獣の姿が映っていた。


 醜く歪んだ異形の姿。

 人は獣を見て恐怖を覚えるだろう。

 災厄だとすら思うだろう。


 誰かそれに気付くだろうか。

 彼の瞳の年老いたことを。

 その奥に寂しさの潜むことを。


 そこに少女の姿が映っていた。


 まっすぐに、毅然と立ってそこに居た。


 少女は泣き止み、微笑んだ。


 獣の鼻に手を伸ばす。

 獣は応えて頭を下げる。

 彼の顔を抱いて、少女は言った。


「お願い。町へ戻りたいの。

 わたしが居なくては、お父さんが捕まっちゃう。

 子がその責任を果たせない場合、親が負う。国の決まりよ。

 わたし、帰るね。

 ごめんなさい。

 町まで連れて行って欲しいの。お願い」


 獣はくんと鼻を鳴らす。

 少女は湿ったそこへ口付けた。


「大好きよ。あなたのこと。忘れないでね」


 真っ白に微笑んで、それが夜の中いっとう眩しくて。

 獣は目を閉じた。

 目を閉じても尚見えていた。きっと二度と消えはしない。


 どんなに暗いところに居ても、きっとそれは明るいのだと思う。

 どんなに寒いところに居ても、きっとそれは暖かいのだと思う。


 溢れ出る気持ちが身体の中で暴れまわる。


 たまらず、獣はひとつ吼え声を上げた。


 静かな夜の他何も無い荒野にそれは、幾重にも幾重にも響いて広がった。

 テュットのことが、好きだった。そう伝えられたらいいと思った。



 少女を町へ帰し、しかし獣は牢へ戻らなかった。

 国を出て、林の隔てた向こうの荒野で、じっと座って耳を澄ませていた。


 やがて鐘の鳴るのが聞こえた。

 それが処刑の知らせだった。


 獣のよく利く耳をもってしても、少女の最期は分からなかった。

 奇跡が起きて、助かっただろうか。

 父親が直前に娘を庇っただろうか。

 それとも。


 最後まで、獣には分からなかった。


 獣は吼えて、吼えて、吼えた。

 喉が涸れても、痛んでも。焼け付いて血を噴いても。

 吼えて、吼えて、吼え続けた。

 喉から音は出なくなる。それでもずっと、吼えていた。

 そうしていつしか息絶えた。



 やがて獣は荒野の地で骨になった。

 異形の形をした骨が、そこに野ざらしになっていた。


 不毛の地に訪れるものはない。

 彼の死を悼むものもない。


 不毛の荒野に雨が注ぐ。

 慰めのように、まったく無関係のように、雨が降り続ける。

 どこからか風に運ばれて訪れた種がいつしか根を下ろす。


 不毛の荒地に芽が開く。

 花が咲いて、やがて枯れて実を結ぶ。

 花に誘われ虫が来る。虫が運んで種が広がる。

 果実を求めて小さな生き物が、それを求めてさらに大きな獣が集まった。

 小さなことを積み重ね、いつしか大きくなっていく。


 罪の獣の骨が形を留めていられなくなった。

 その上を歩く獣があった。獣たちは森に暮らしていた。


 荒野は今や森だった。

 罪の獣の成れの果て。

 大きな森ができていた。


 何年も、何十年も、あるいはもっと長い年月。

 国が滅びた地の上に再び国が築かれるほどの時の流れの果て。

 その果てに、森になって、そして尚。


 罪の獣はどこかに居た。


 牢獄に繋がれた時間と等しい永い時の中、一人で、しかし、独りではなかった。

 鼓動を失った獣は、しかし他の多くの鼓動の聞こえる場所に居た。

 土の下に。根の先に。虫の中に。空の鳥に。木の幹に。森に息衝く全ての内に。


 どこかに居て、覚えていた。


 少女のことを忘れなかった。

 少女の声を、体温を。

 触れ合ったことも、何もかも。


 次にめぐり合えたときに、必ず思いを伝えるために。


 男は、少女を待っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ