第3話:少女と、罪の男Ⅲ
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テュットはいつもと変わらぬように努めて、以前と同じ調子で過ごしていた。
食事の後に獣の歯を磨き、毛繕いをし、眠るときはそこへ身を埋める。
四本目の蝋燭を灯した翌日、テュットは卓を掃除した。
今まで唯一の明かりである蝋燭を据えるためだけに存在していたもので、それは随分と粗末な作りをしていた。
祈りの蝋燭を立てているのだから、せめて少しだけでも綺麗にしよう。
そう思って湖にワンピースの裾を少し浸して、雑巾代わりに拭っていた。
途中、見落としていたものに気付いた。
卓に引き出しがついている。
板に穴を空けただけの取っ手を引くと、箱の中で何かが転がる音がした。
不思議そうに首をかしげ、そっと中を確かめる。
「これ、あなたの?……」
獣へそれを差し出して問う。
一本の古びた祈祷の蝋燭だった。
男は心中で首をかしげて、次の瞬間思い出す。
それはこの牢へ入れられた時に与えられた数少ないもののうちの一つ。
だけど祈りを捨てた男は蝋燭に火を灯さなかった。
まだ人の姿の頃、引き出しに放り込んだまますっかり忘れていたのだ。
必要なんてなかったから、思い出しもしなかった。
少女は声無き獣の返事を待たず、
「点けてあげる」
とマッチをすった。
古い蝋燭は不思議と湿気っておらずに火を宿す。
今日は卓の上に照明用の他に二本も明かりがついていた。
牢獄をこれまでにないほど明かりが照らす。
そうは言っても外の太陽の光には全く及びつかない。
あかく輝く少女の五本目の蝋燭。
残りはあと二本。
テュットは真摯な眼差しを光へ向ける。
獣も倣って、炎を見た。
自らに与えられた祈りの蝋燭。
獣は素直な気持ちでそれを見つめた。
テュットへの感謝を祈りに変えた。
かつて親しかった誰かへ祈りを捧げた。
そして過去に奪ってきた全てのものへ、詫びる思いを込めた。
せめて安らかであるように。
許してもらえなくとも、それだけを望んだ。
祈りが届きますように。
獣は閉じていた目を開く。
瞬く小さなともし火。
彼は、その火の中に人の姿を見た。
驚き息を飲む。
咄嗟に少女を見るがテュットは気付かないようで、自身の蝋燭に視線を注いでいる。
改めて再び火の中へ目をやると、よりはっきりとした姿が浮かび上がっていた。
それは男の姿をしていた。見覚えのある格好だった。
黒い外套に鉄の飾り。
裁きを下すものを象ったブローチ。
そう、彼を知っている。
『罪人よ』
男の姿が語りかけた。どこからともなく響く低い囁き。
彼はかつて獣を獣たらしめる罰を与えた獄吏だった。
男の罪の結果を見て「人に非ず」と言った彼。
そうして男から人の姿を取り上げた断罪者。
『お前が過ちを認め悔いたとき、わたしは現れる』
記憶を遡る。
この国が国となる前、町であったときよりも昔。
ひとつの小さな村だった。男の暮らした村だった。
そこで男は罪を犯したのだ。
男が投獄されてから、村が国になるだけの時が流れていた。
『おまえが真に罪を悔い、心改めるのならばこの刑を終わりにしよう』
「でも」
男は言葉を返す。
そして、それができたことに驚いた。
実際は口を動かしていない。
一時、昔の姿を取り戻したように錯覚した。
罪人としてとらわれたあの過去の姿に立ち戻り、かつての獄吏と対峙している。
実際にあるのは古びた蝋燭と大きな醜い獣の姿だ。
不可解で捕らえようの無い獄吏の声を、現実感を失った感覚器官がを捕らえる。
『許しを与えるのは傷ついた人々だ。そして彼らは許そうと言う』
「それでは、獄吏さま、しかし今更、私は……」
『お前に人の姿と言葉を返そう』
「!」
男は驚き、次に喜び震えた。
しかし、獄吏が続けた言葉に、歓喜の熱を冷まされた。
『それには条件が必要になる』
「条件?」
『お前はかつて大勢の者を傷つけ死に追いやり、他者から奪った。
命。人。愛する者、信じる者、頼り、支え。
お前が罪を贖い人の心を思い出したと言うのなら。
お前は愛する者へ想いを伝え、受け入れられなければならない』
「想いを、伝える?」
この獣の身体、
この異形の姿。
奪うことしか出来ない手、
害すことしか出来ない口。
親愛を示すことなど、できるわけがない。
『罪を忘れるな。しかし、愛されてはならないことはないのだ』
言葉はあくまで固く、冷静に伝えられる。
蝋燭が費え、夢が覚めるように、闇が訪れた。
今見た幻を信じられない思いで反芻する。
想いを伝える、そのようなことができるだろうか。
それに今更人の姿に戻ったところで、何が出来るというのか。
この罪を終わらせることの意味が、もう分からない。
しかし同時に抗いがたい欲求が生まれる。
人の姿を取り戻し、言葉を思い出し、少女と話をしたい。
人の肌で少女に触れたい。
同じ形をした手を重ねたい。
たった一度でも良い。
少女と会いたい。
この異形の獣の身体で、どう伝えればいいのだろう。
拒絶の恐怖に怯えた。
少女が来るまで何も恐れるものは無いはずだった。
今は何よりも少女を失うことが怖い。